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2015年8月20日 (木)

表象主義の「外在論の魔法」のトリック<クオリア再考13>

Gilbertharman_2Nobuharayukihiro
ギルバート・ハーマンや信原幸弘などの表象主義(志向説)の問題は、「外在論の魔法(というか思い込み)」によって何の後ろ楯がなくてもそのものを固定的に指示できるとしてしまっていることにあると、僕は考えている。その点を考察してみる。前節では表象主義について僕の考察を述べたが、どうも論点が整理できておらず何が言いたいかはっきりしないようなレポートになってしまったので再度まとめ直したい。

 

語の、ウィトゲンシュタインの言語分析的な意味

「命題はただいかにあるかを語り得るだけで、それが何であるかを語ることはできない。」(「論理哲学論考」3.221)

このウィトゲンシュタインの言が正しいなら、たとえば「眼前が赤い」という命題は、世界において眼前が赤いか否かという二者択一の状況を想定した場合にそのどちらかに判別できるという分析可能性を提示しただけのもので、「赤い」とは何者かということを提示することはできないということになる。
だから、そうすると、すべての命題は、(真理分析の可能性としての)他命題との関係性のみが意味であることになってしまう。
「論考」の言語世界が「つるつるした氷の上」の理論でしかなかったことをウィトゲンシュタインは自己批判して、語の意味を言語ゲームの中での働きと見ることによって、命題を現実世界の「ざらざらした大地」へ還そうと提案した。そして、この言語ゲーム説によって、命題を現実世界に位置付けることができ、ゲーム内での仕事内容が命題の意味だと考えられるようになった。
それでも結局、言語ゲーム説においても、「言語とは、或る対象を他の対象と比較してグループ分けし、グループ分けの規則を設定することによって分析するだけの、世界理解の方法」としてしまうことには違いないのだ。

だから、ウィトゲンシュタインの考えによると前期の立場でも後期の立場でも、やはり「命題の指示しているものが何であるか」という現実世界の「本当の内容」を語ることはできないとするものなのだ。「眼前が赤い」という命題に対して、他の赤いものと比較して、赤いという範疇に入れるのが妥当かどうかを考えることはできるが、比較などで分かることではなくそのもの自体の性質として赤いということが表現できないということになってしまう。
つまり、
「赤いクオリア」なんていう表現がナンセンスになってしまうのだ。

おおよそ全ての科学分析や物理学においては、この、ウィトゲンシュタインの分析的な言語のみがあれば用は足りる。心理学においてさえも機能主義を貫いていれば、物理学と心は何の問題もなく結び付けられる。

ところが、クオリアの問題を問おうとすると 途端に解決不能に陥ってしまう。
クオリアには機能がないのだから物理的実体として捉えることは原理的にできない。そして、クオリアは、(ウィトゲンシュタインの分析的言語が語り得ないとした)「何であるか」を語ろうとするものだから、言語ゲームにきちんと乗せることができない。
言語分析の立場からすると、クオリアは語ることも考えることもできないはずのものなのだ。

そこで、クオリアが語れないような言語体系などダメだということで、分析的言語や機能主義が考え直されるようになった。
ところが、、クオリアを認めようとする新しいアイデア達はこのウィトゲンシュタインの言す語体系を乗り越えねばならないので、どこかで必ずウィトゲンシュタインが認めなかった無理を容認せねばならないことになる。

 

表象主義の二つの無理

表象主義の場合、 その無理というのは、外在主義の立場を取ることと、他者とのクオリアの一致という前提の導入することである。

外在主義のどこが無理なのか
言語ゲームの考え方からいうと、語の意味は、対象の事実の性質をグループ分けするための規則こそが本質となるようなものでなければならない。対象を名指すための人為的なルールこそが語の意味なのであるから、言語ゲーム説は内在主義の一部に分類できることになる。
一方、外在主義では、語の意味は対象そのものを名指し得る。「赤」という語は、他の色と比べてどうだということを示すだけでなく、「赤のクオリア」そのものを名指して意味を立ててしまえるのが外在主義。
「ニクソン」という語は、どういう人物をニクソンと呼ぶかの指標を表現するのでなく、「本当のニクソンその人」を直接名指すことができるのが外在主義。
「私」という語は、どういう人物を私と呼ぶかの指標を表すのでなく、「本当の私その人」を直接名指すことができて、その「私」という語が何をもって本当の私とするかという問いの答えを元々内含している、とするのだ。

しかし、物質転送機でコピーされて火星に出現した私と、地球にそのまま残った私のどちらが本当の私なのかという問いの答えを、その問いが問われる前から「私」という語が持ち合わせているとするのは、無理があるように思われる。

このように見てみると、表象主義が外在主義を採るためには二つの点で無理を乗り越えなければならないことが分かる。
つまり、一点目は、(「クオリア」などの)本来、他のものとの同一性など一切持ち得ないはずで、「そのもの自体が何であるかという問いへの答え」を持ち得ないはずの語が、その答えを持ってしまってい るとする点である。
そして、もう一点は、その語が何を指し何を同一とするかということをいつでも同じように測リ得る絶対的な基準が、世界の側に存在しているとしなければならない点だ。

この二点は元来、別々の問題ではあるが、それぞれが互いに絡み合って必然的にこんがらがってしまっている。どうしてそうなってしまうのかというと、「そのもの自体が何であるかという問いへの答え」を語に持たせて、それを語ろうとするには、他のものとの同一性など一切問えないはずのその問いを、複数の時点で共有させなければならなくなるからだ。だから、その「答え」を共有している対象同士が同一であるとするものが複数の時点で存在することになり、世界の側にその同一性基準が存在しているとしてしまわなければならないのだ。そして、「そのもの自体が何であるかという問いへの答え」としての「クオリア」を語り得る語とするためには、必然的に同一人物におけるクオリアの同一性が保証されなければならないことになる。
だから、外在主義をとった場合に同じ人物のクオリアが時間によって異なったり跳ね踊ったりすることはあり得ないとしなければならないのだ。

 

 

 

複数主体のクオリアの一致

 

さらに、表象主義は、複数主体のクオリアが一致するという前提まで導入している。 クオリアを自分一人に固有のものとするのではなく、人間という自然科学的対象の生物種が持つものとして考えるためには、複数の人物でもクオリアが共有されるとしなければならないからだ。 人間という自然科学的対象の生物種が持つものとして考えるためには、複数の人物でもクオリアが共有されるとしなければならないからだ。 そして、このとき、人間の色覚に異常がなければ個体によってクオリアが異なったり反転したりゾンビになったりすることはあり得ないとせねばならないことになる。

そのようにクオリアを捉えるためには、人間が知覚するクオリアの性質と世界の側の物的対象が持つ性質が一致していなければならないとし、さらに、それを人間の作り出した性質とするのではなく、世界の側の対象自体が持っている性質としなくてはならないと、表象主義は説く。たとえば、色でさえ第一性質になるというのだ。ロックは、空間的長さや時間的長さなどの「延長」は人間が観察しなくても物質自体が持っている性質だから第一性質だと言って良いが、「色」は人間が観察して初めて生まれる性質だから第二性質としなければならないとした。さらに、カントは、時間空間でさえ観察者が当てはめた形式で物自体が持っている性質ではないとした。ところが、表象主義はその世界把握の伝統を完全に逆行させて、「色」でさえ世界の側が持っている性質で、第一性質だとするのだ。

かなり無茶ではあるが、表象主義はこの無茶をすることによってクオリアを語り得るものにすることができたと豪語する。しかし、本当にこれで、クオリアを語り得たとして良いのだろうか。

 

矛盾したクオリアはクオリアを意味し得るか

もともと「クオリア」という語でもって語りたかったのは、「そのもの自体が何であるかという問いへの答え」だったはずだ。しかし、表象主義は、そのクオリアを語り得るものにするために、本来他のものとの同一性などが問えないはずの、その問いの答えを求めるという、つまり、複数の時点や複数の主体においての同一性があるものとするという、矛盾を犯さねばならない状況に陥ってしまっているのではないか。

その矛盾を呑み込んだ先でクオリアを語れたことにすると思い込んで、それを信じることができるという人は、表象主義のクオリアをありがたがることもできるのだろう。
しかし、矛盾はやはり矛盾だ。矛盾によって語ったクオリアからは必然的に「そのもの自体が何であるかという問いへの答え」としてのクオリアという側面は抜け落ちて、「それがいかにあるかという次元の答え」でしかないものを、「クオリア」と呼ぶことにしただけの話なのではないだろうか。
表象主義が見せたことは人々の目を欺くトリックマジックにすぎないのではないか、というのが僕の疑いだ。
皆さんはどうかんがえるだろうか。

 

 

この点について、永井均は「そのもの自体が何であるか」という視点と「それがいかにあるか」という視点を弁証法的に積み重ねることによって乗り越えられるのじゃないかという論を立てているので、次節ではそれについて考えてみる。

一般的に「表象主義」は「志向説」とも呼ばれ、本節ではその主流の外在論の立場について考えてみた。しかし、同じく志向性によって心の哲学に取り組んでいるサールは内在論者だ。志向性を説いているからと言って一概に外在主義だとは言えない。サールについてもその考えを検討できれば良いと思う。でも、まずは永井を。

つづく

クオリア再考

★大阪哲学同好会へのおさそい★

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コメント

横山さん
(どのみちクオリアを語るんですから語り続けましょう)
クオリアという概念を説明する仕方の中に、「ここに赤いリンゴがある時、このリンゴの鮮やかな赤さの感じが自分と他人とで同じであるという証拠はどこにもない。これがクオリア問題である。」という形の説明があります。極めて単純化した形のものですが、この概念で間違えてないとすれば、クオリアとは自他の感覚の同一性にまつわる解決不能な問題(問題の解決不能性)だということになります。この意味では、この解決不能性は誰にも理解・共有される、そしてその限りでクオリアは存在すると言えます。リンゴの色の話から始めることが多いので、クオリアは色覚の問題かと勘違いしそうですが、自他の感覚の同一性を起源にした問題というわけですから、クオリアは五感全部にわたって共通する問題です。‥この唐辛子の辛味は自他で同じ証拠はない、あのオペラ歌手のソプラノの声音は自他で同じ証拠はない、あのキンモクセイのかぐわしさは自他で同じ証拠はない、この奥歯の親知らずの痛さは自他で同じ証拠はない‥、という具合に何でも言うことが出来ます。原理的に確かめる術がないわけですから。さらに言えば、感覚から生まれた言葉のニュアンスも自他で同じという証拠はないでしょうし、そもそも人間の認識というものも言葉は同じであっても自他で厳密に同じという証拠はないでしょう。仮にクローン人間同士であっても個々の感覚・認識は異なるでしょう。それはすべて「個性」ということに収斂される話です。そして、「個性」による差異を容認しながら、意図するものが概ね通じるのであれば何ら問題ではなく、それで人間社会は成り立っていると言っていいのでしょう。
そうなると、クオリアという20世紀の新概念は、これまで見出されなかった新種の問題認識を装っていますが、実はそうではなく(前にも言いました)古くから存在した難問の同じ系譜のものと言えそうな気がします。西洋哲学で言えば、ゼノンのパラドクス~デカルトの心身二元論~心身問題~現代の心の哲学(クオリアを含む)‥‥これらはみな質的に同種の問題(問題としてはボタンの掛け違え)ではなかろうかということです。
‥‥しかしながら、何故か人間(哲学者?)には、好んで“蝿取り壺”に入りたがる性向が具わっているようですね。

平戸皆空さん、コメントありがとうございます。

>そしてその限りでクオリアは存在すると言えます

平戸さんはクオリアの存在には否定的なお考えだと思っていたので、かなり共感してコメントを読んでいたのですが、僕の理解不足でしょうか。
上のように仰るのは、「クオリア」が有意味な存在として他者や過去未来の自己と共有できる言葉づかいだとお考えだと理解していいですか。

クオリアは新概念を装って、今時点で(一部の)世界を跋扈しているようですが、
私はこれは一時期の現象に過ぎないだろうと思います。決して肯定的にこの存
在を評価する気持ちはありません。私のスタンスは、物好きな哲学素人としてク
オリア論議に少し隅っこから口出ししているという態のものです。
「語り得ぬことについては、沈黙しなければならない」を忠実に実践すれば、そも
そもクオリア論議には目もくれないのが筋でしょうが、それだと面白みがないので
、その限りで議論対象と認めざるを得ないのでああいう言い方になったのです。
誤解を生む言い方で申し訳ありませんでした。
全然違うたぐいの例え話ですが、「団塊世代」(私も入りますが)という言葉が日本
で30年以上も猛威をふるってきたのが、ようやく“死語”になりそうでホッとしてます。
堺屋太一の悪意の込められた当て付け造語だったのですが、これが文字通り一
世風靡しました。しかし残るだけの価値のない言葉は自然消滅するだけです。
クオリアが団塊世代のような猛威を振るっている言葉となっているかどうかは分か
りませんが、やがては死語になるものだろうという感じが強くするのです。

平戸さん、
僕の思いにぴったりのコメントを頂けてとてもうれしいです。
でも、心の哲学に携わる多くの人々は、クオリアが矛盾だとしてもなお認めなければならないと考えているようです。
心の哲学まとめwikiというサイトでは管理人さんが

「やはりクオリアは非論理的であり、矛盾したものである。しかし、非論理性がクオリアの本質だとして、それが結論であるとするわけにはいかない。世の中には論理的でない矛盾したものがある、というのは言葉の上では簡単であるが、そのような諦念は哲学には有害である。」

としています。僕も、この考えを覆そうとしてそちらの掲示板に書き込みをしたのですが、全く理解されず、逆に理解不足だとされてしまいました。
平戸さんは、クオリアの無意味性と不要とを説く方法があると思われますか。

横山さん
クオリアにまつわる代表的な議論をもう少し知りたいですね。日本人のだけでも。
今の私のクオリアの知識はは、アウトラインのイメージだけで、これでは正直、
外野のヤジの域を出ませんから。永井哲学では何と言っているのですか?

平戸さん、
そうですね。少し時間がかかりますが、クオリアに関する議論とそれに対する僕の考えを、ブログ記事本文の方で記していきます。永井やその他も書いていきますから、それをまってください。

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