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2015年8月18日 (火)

表象主義の志向的クオリアが語り得ることと語り得ないこと<クオリア再考12>

表象理論による志向的クオリア

クオリアに関する僕の考えは、「非機能的クオリアなんてナンセンス。機能のない対象が語れたり思考できたりするはずがない」というものだ。機能のないものに関する命題があったとしても、その命題はその真偽を検証する機能をもたないのだから真偽を測ることも断定することもできないだけでなく、それが何を意味するものなのかということさえ確かめる方法がなく、意味を持つことができないものでしかないはずなのだ。・・・なんて言うほどはっきりとクオリアの否定している人は少ないかもしれないが、クオリアを胡散臭いと感じている人は結構多い。
そんな中で、表象理論とか志向説などと呼ばれる考え方は、物理的な世界解釈とクオリアを結びつけることができるとして、一定の評価をうけている・・・らしい。
今日はその表象理論による志向的クオリアについて考えてみる。

意味を持つことができないはずの「クオリア」をどうやって物理世界と結び付けられるようになるのか、それは「クオリア」を機能的なものとして扱うという裏技を使うのだ。

「意識的経験に備わるクオリアは、その経験の志向的特徴である。」(信原幸弘「意識の哲学」p102)

「クオリアにかんする志向説:クオリアとは意識経験そのものの性質ではなく、意識経験の志向的対象の性質である」(鈴木貴之「ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう」p64)

「表象理論とは、クオリアとは志向性を持った表象であると解釈した上で、心とは表象の処理装置であると考える立場である。」(心の哲学wiki)

とするようなクオリアを表象主義は編み出した。ここに新しく考えられたクオリアは志向性をもち機能をもつものというのだから、チャーマーズの言う「機能のないクオリア」とはまったく別物である。本ブログでは、チャーマーズのクオリアと区別するために「志向的クオリア」と呼ぶことにする。
本節では、この「志向的クオリア」の意味を確かめて、それから、その妥当性を検討していきたい。

 

表象、知覚、内在的特徴、志向的特徴、志向的クオリア

まず、「表象」と「知覚」の意味について。「表象」とは、一般に何かの像によって何かを表すこと。「知覚」は、まだ意味を生じさせていない段階の世界データそのもの。たとえば、

Photo」という画像を見て意識に入力されたそのままのデータが「知覚」であるのに対し、「赤いトマト」という言葉は、その言葉が像となって赤いトマトそのものを表している。
Photo_2」なる知覚を「Photo_3」という表象として捉えることによって、「赤いトマトそのもの」を表している、というわけである。
そして、表象をそのようなものと考えたうえで、その「表象」に関する特徴性質を二つに分けて考える。一つは、表象それ自体に備わる特徴で「表象の内在的特徴」と呼ばれる。もう一つは、表象によって表されるものに備わる特徴で「志向的特徴」と呼ばれる。比喩を使って言うなら、白黒テレビの画像の無彩色さがその画像の「内在的特徴」で、そこに映っているトマト自体の赤さがその画像の「志向的特徴」である。

さて、次に、「志向的クオリア」とはどういうものなのかということを考えよう。本来、クオリアは意識への現れであり、意識に現れるというその一点がクオリアの本質でなければならないものだ。だから、知覚に現れる「現れ」そのものの特徴、つまり「内在的特徴」こそが、クオリアの特徴のはずである。しかし、「志向的クオリア」のアイデアはそこを敢えて、クオリアの特徴を志向的特徴として捉えようと考えるのである。さっきの比喩で考えると、白黒テレビの画面を見ているときにその白黒を「クオリア」だとはせずに、トマトが実際に持っている赤色をクオリアとして捉えようというのだろうか。否、そんな考え方としてしまうと、クオリアの意味から考えてもおかしい。だから、表象説が言っているのはこの比喩とは少し違っている。正しくは、こんな感じの比喩になる。
白黒テレビの画面に赤いトマトが映っているのが見えているなら、その見えている白黒の色がトマトの赤の現象そのものだとするのだ。つまり、志向的特徴が内在的特徴に一致するという前提を挿入してしまうのだ。

そうすると、今見えているこのトマトの色がトマトそのものの色として考えてよいことになる。トマトの赤色のクオリアはトマトの赤色そのものだと考えるのだから、私と妻が同一のトマトを見ているときに、私に見えているトマトの赤色のクオリアと、妻に見えているトマトの赤色のクオリアは同じだと考えられることになる。それゆえ、この考えを採用すると、妻や他者の誰かがゾンビだったり、クオリアが逆転していたりすることは、定義的にあり得ないことなる。また、今見えているトマトの赤色のクオリアと5分前に見ていたトマトの赤色のクオリアは同じだと考えられることになるので、クオリアが跳ね踊ることもあり得ないことになる。

ただし、もちろん、色覚に異常のある場合はこの限りではないと、信原も言っている。網膜や視神経や脳の色覚の認知機能に差があれば見え方に差があるのは、常識的にありそうな話である。色覚に異常があればクオリアが異なることはありうるということだから、視覚機能に差があれば、当然、クオリアも変わると考えて良いだろう。つまり、志向的クオリアの主張は、視覚機能が等しい場合に、二人の見ている対象が同一であるならば二人のクオリアは等しくなるという主張だと考えて良いだろう。

現れの呪縛と経験の数的同一

しかし、クオリアという特段にプライベートなはずのものを、そのように他者と共有できると考えてしまって良いのだろうか。この疑いを信原は「現れの呪縛」と呼んで、乗り越えるべき障壁だと捉えている。

「クオリアを例化された性質とみなすなら、われわれは物心二元論に導かれることになろう。したがって物的一元論に希望を託そうとするなら、われわれはクオリアを経験の志向的特徴とみなす道を選ばなければならない。この道にとって最大の障壁は現れの呪縛である。クオリアは意識への現れである以上どうしても例化された性質でなければならないように思われる。」(信原「意識の哲学」p125)

クオリアは、この瞬間の私だけに例化されたもののはずだ…という思いは僕にはとても強い。しかし、信原はそれを誤った思い込みだとしている。たしかに、クオリアがこの瞬間の私だけに例化されたものでなくても良いのなら、クオリアは語り得るものになるだろうし、クオリアを科学的に分析することもでき、ハードプレブレムは消えてしまうだろう。万々歳だ。

そんなにうまい話があるのだろうか。もう一度整理して考えてみよう。
表象は何かの対象を表すという作用なのだから、それは必ず意味の生じさせるはずだ。そして、その「意味が生じる」ということは、もともと意味を持ってなかったはずの知覚内容を真偽判定できるものとするということでなければならない。その「真偽判定できる」とは、真偽判定するための規則がありその規則に従ってグループ分けをすることができる性質をもつということである。つまり、表象があるということは、そこに何らかの汎化のあることが保障されなければならない。
そう考えると、表象される性質は今の私だけに特化され例化された性質ではあり得ないことになる。

でも、普通に考えると、私は今見ている赤いトマトの知覚経験は、この瞬間に特化例化されたものである。したがって、知覚経験は表象そのものではあり得ないはずだ。同じ理由で、クオリアは志向的ではあり得ない。

それなのに、信原ら表象主義派は、知覚経験が知覚経験でありながら同時に表象であり得るとし、そして、クオリアは内在的特徴ではなく志向的特徴をもつとする。
なぜそのような捉え方ができるのかという点について、信原は次のように言う。

「クオリアが例化された性質だとすれば、クオリアは意識的な経験が生じるたびごとに例化されることになるから、太郎の意識に現れる緑のクオリアは当然、花子の意識に現れる緑のクオリアと数的に異なることになる。したがってそれらが数的に同じだとすれば、それらは例化された緑ではありえない。クオリアの共有を認めれば、クオリアを例化された性質とする見方も少しは和らぐように思われる。クオリアは意識への現れである以上、例化された性質でなければならないという現れの呪縛は確かに根強い。しかし、クオリアが複数の意識に共通して現れうることを考えれば、たとえクオリアが意識への現れであるとしてもクオリアはやはり経験の志向的特徴だとみなすべきであろうと思われるのである。」(同p135)

結局、私と妻が同じ視覚機能を備えていて、同一のものを見ているのなら、その経験は数的に同一なのだから、私と妻のクオリアが共有され得るとするアイデアである。この一点を認めれば、「現れの呪縛」から解かれることができると言うのだ。確かに、その呪縛から逃れられればすばらしいだろうが、そんなやり方で本当に可能なのか。そんなうまい話があるのか。僕は、やはり、その説明では説得力に欠けるし、眉唾なアイデアだと考えねばならないと思っている。

志向的クオリアがダメなわけ

表象主義がクオリアを語り得るものにするためのトリックは、「知覚経験が知覚経験でありながら同時に表象でもあり得ることにする」「クオリアは内在的特徴ではなく、志向性特徴をもつ」という前提の導入であった。しかし、これは無理な欲張りなのではないか。
この今の私の知覚に特化例化した内容を、この今とは別の時間やこの私とは別の人との他の知覚と、この今のこの私の知覚の同一性を保障するというのは、「例化」的内容を「汎化」的に捉えようする捉え方だと言えるだろう。知覚が表象でもあり、クオリアが志向的特徴だとするのは、結局、その二項対立を同時に認めさせようとしているもので、矛盾したものを無理やり結びつけた無茶なのではないか。これをゴリ押ししても、一方に注目するときにはもう一方については目をつむらざるを得ないという状況に陥ってしまうほかないのだ。クオリアについて、その内容を汎化したものと見なしてしまうのなら、その例化された内容はそれと同時に抜け落ちてしまわざるを得ないのではないか。クオリアを語り得るものにしようとするなら、「この私」が「今」「ここ」に見えている「ここ」に限った「この」ありありとした、言葉にできないこの感じは、抜け落とさざるを得ないのだ。

だから、ゾンビやクオリア反転や跳ね踊るクオリアのアイデアを論理的に可能にするような、チャーマーズの意識への問題意識は、表象的クオリアからはすっぽりと外されてしまうのだ。
これは、「メアリーが獲得したクオリアはいかなるクオリアか」のページで示したような、テレビのメタファでみると考えやすいかもしれない。

Tva_2今の現象画面

Tv昨日の現象画面

Tv_2今の現象と昨日の記憶を比較するための画面。
画面内に映っている志向対象の色を画面の発色そのものだとするとは、どこまで効力のある定義なのか。

まず、私たちが何かを真偽あるものとして語るためには、必ず某かの基準と照らし合わせて、それと同じだとか違うとか多いとか少ないとかを比較する必要がある。何の基準もなくそのもののみで意味は発生させられない。だから、クオリアを比較する場面について検討してみよう。
今私に見えている赤のクオリアをそれが発色されているテレビ画面でもって比喩する。このとき、それと、昨日見た赤のクオリアが発色されていたテレビ画面を比較して同じだとか違うとかと言うのは、われわれ人間には不可能だ。ここにあるクオリアとここにないクオリアを比べることは原理的に不可能だからだ。この二つを比べるには、昨日のクオリアをそのまま比べようとするのではなく、それを記憶として今現象させて、ここにあるクオリアとしてから比べるのでなくては、できないのだ。今のテレビ画面Aと昨日のテレビ画面Bをそのまま直接比べるわけにはいかないので、それを比べるにはさらにそれを映し込む大きな画面Cを用意してそのCの画面の中で発色しているAとBを比べねばならない。
たしかに、C画面を用意すると、A画面とB画面を比較することは可能になって、Aの赤クオリアとBの赤クオリアが同じだとか違うとかを語ることができるようになる。このメタファではAやBの発色が色クオリアの志向的特徴を表している。AとBが同じだとか違うとかを語ることにたしかに意味はあるのだが、その語りに、AやBのそれぞれのそのもの自体の色が何者であるかが示されることはない。そのもの自体の色という特徴はCに依存しているからだ。
ところが、Cの色は決して語られることがない。それを語り得るようにするには、C画面を他の某かの基準と比較して同じだとか違うとかを語ることになるはずだが、Cはその定義からして、比較の基準にする相手がないのだ。もし無理にでもCを比較できるようにするなら、C自身と他の何かの基準を一緒に映し込む、さらに新しい外枠のD画面を用意しなければならなくなる。しかし、そんなことをしたとしても、Cの「志向的特徴」が語られるようになるだけで、Cの色そのものの内在的特徴は逃げていってしまう。

「命題はただものがいかにあるかを語り得るだけで、それが何であるかを語ることはできない」(ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」3.221

そう、ウィトゲンシュタインが言ったように、クオリアが何であるかを捉えることなど土台無理な話なのだ。クオリアは、どうやったって真偽をもって語り得るものではないのだ。無理をして語ろうとしても、今朝の朝日新聞の記事の真偽を確かめるのに今朝の朝日新聞を買ってくることしかできないようなタイプの真偽しか持ち合わせておらず、もともと真理値の無いようなものでしかないのだ。

おそらく、表象主義は、「志向的特徴」にそのクオリアの発色自体があるのだから、内在的特徴を追う必要などないのだと主張するだろう。そんな、真理値の無いナンセンスな「内在的特徴」など追う必要がないと言っているのだから、ウィトゲンシュタインの言い分にも合致していると言う人もいるかもしれない。
もしかするとその通り、或る意味で合致している部分があるのかもしれない。しかし、やはり、表象主義は間違っている。
それは、クオリアを「志向的」なものとして捉えることで、私が感じているこの感じそのものまでを、志向的クオリアのもとに語り得るとしているところだ。クオリアなんてものは語り得ないこと、例化されたそのもの独自の現象的意識を相手にすることができないってことにきちんと対峙していないからこそ、「志向的クオリア」なんていうわけのわからない用語でお茶を濁してしまっているのではないか。「クオリア」なんてものはナンセンスでしかないのに、「クオリア」ということばをそのまま用いて、それを語り得るとしてしまったところが根本的に間違っていると、僕は思う。

皆さんはどう思われるだろうか。

つづく

クオリア再考

★大阪哲学同好会へのおさそい★

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コメント

「クオリア」を特定のものごととして言葉で指示することができないとしたら、
ひたすら例え話で、外堀を埋めるやりかたで(当てずっぽうかも知れません
が)追い込んでみたらどうでしょうか。
私が考えたのは例えばこんなことです。‥‥人間は年をとると(私もそうで
すが)、人との会話で言いたい言葉が思い出せなくなり、「アレ」とか「アノ」
とかの代名詞(代用語)を頻繁に使うようになります。話し相手が同年代な
らやはり言葉が出て来ず「ん、なに?ええ、アレか、うん、アレなあ‥」とい
う具合に応じて、特定のものごとを指す言葉が出ないまま、会話が進みそ
れでおさまるのです。ただこの場合は、ものごとを指す直接の言葉が忘れ
られただけで、「アレ」で示されるものごと自体のイメージは二人で共有され
ているので話が通じるのです。そうして話しているうちに言葉を思い出して
「あ!◯◯だよ」、「お、それそれ!◯◯だ、ワハハ!」となったりもするので
す。
‥‥そこで、「クオリア」に「アレ」を当てはめたらどうなるでしょうか。ただ、
ものごとを指す言葉を忘れたのではなく(指すものごとの具体的イメージは
ないわけですから)、ただただ漠然と「アレ」と言うだけなのです。「志向的ク
オリア」という言い方があるならば、「アレ」は適度に志向性を帯びた言葉で
すから例えとしてピッタリのような気もします。
ところが、「アレ」と言ったところで「アレ」に対応するものごとがない、いわば
中身のない言葉ということになります。そうなるとそれは、純粋の音、声(う
めき声?)と同じでしょう。もっと言えば「アレ」でなく、「アゲ」でも「ゲレ」でも
「アゲ」でも何でもいいということになります。しかし、私がある時どこかで「ア
レ」と言ったところで、私以外の誰かが「アレ」を理解するでしょうか。理解す
るはずがありません。理解する対象(内容)がない音に過ぎませんから、相
手の反応は「?」あるいは「無視」のいずれかでしょう。相手に共有されるど
ころか、数分(数秒?)で忘れられてしまうのではないでしょうか。
「クオリア」論議とはそのようなものと感じます。
これでは少しヒド過ぎるでしょうか?

「クオリア」は何を意味しているのか誰も知らないのに、知っているようなつもりになって議論しているだけではないかということですね。

こんにちは。雨の休日はすっかり独今論者とカップ麺ライフです。

さて「横山さんのご意見」と「志向的クオリアのアイデア」の真ん中な考え方を持ったのですが、ちょっとご説明させて頂いてもよろしいでしょうか?お手すきの折に採点してくださいませ。

ザックリ言うと【1】【2】の考え方です。

【1】横山さんに反対(>_知覚が表象でもあり、クオリアが志向的特徴だ
…としつつもそれらは二項対立にならない!

【2】横山さんに賛成(^o^)丿
>他者の誰かがゾンビだったり、クオリアが逆転していたりすることは、定義的に
…あり得る!

なんのこっちゃですよね。【1】と【2】それぞれご説明させて頂きます。


・・・


まず【1】からいきます。なんで二項対立にならないかというと、

>志向的特徴が内在的特徴に一致する
とは考えずに、
志向的特徴の中にいくつかの内在的特徴がある
と考えるんです。


トマトの例をお借りするとこうです。

>私と妻が同一のトマトを見ているときに、私に見えているトマトの赤色のクオリアと、妻に見えているトマトの赤色のクオリアは同じだ

とは考えずに、

私と妻が同一のトマトを見ているときに、私に見えているトマトの赤色のクオリアと、妻に見えているトマトの赤色のクオリアは違うが、しかしいずれのクオリアも、トマトが「私と妻にそう感じさせる特徴」を持っている

と考えるんです。(妻ってなんだかすみません。奥様で。笑)

要は、横山さんのクオリアも、奥様のクオリアも、いずれも「トマトがお二人にそういう内在的クオリアを感じさせるという特徴を持っている」という解釈をしてしまうんです。


こう解釈すると、表象的クオリアでありながら、そのクオリアは志向的特徴でもあるよねっていう風に【1】の考え方ができるかなって思ったんです。


・・・


さて、お次は【2】です。なんでゾンビが定義的に存在しうるかというと、

またまたトマトの例をお借りすると、

>私と妻が同一のトマトを見ているときに、私に見えているトマトの赤色のクオリアと、妻に見えているトマトの赤色のクオリアは同じだと考えられることになる。それゆえ、この考えを採用すると、妻や他者の誰かがゾンビだったり、クオリアが逆転していたりすることは、定義的にあり得ないことなる。

とは考えずに

私と妻が同一のトマトを見ているときに、私に見えているトマトの赤色のクオリアと、妻に見えているトマトの赤色のクオリアは"違う"と考えることができる。なぜなら【1】に書いたように、複数の者の表象的クオリアを、それぞれの者にそう感じさせる特徴をトマトが持っていると考えることができるから。それゆえゾンビはいるかもしれない。怖いよー!

と考えるんです。(奥様たびたびすみません。笑)


・・・


以上が、【1】が横山さんに(大変僭越ながら)反対で、【2】が賛成。という真ん中な考え方のご説明でした。


ただ…
【1】を肯定しても、それでゾンビがいない証明ができるわけじゃないですから、「じゃ、志向性クオリアの考え方ってなんの役に立つの?」って感じなんですけどね。笑

SHIROさん、コメントありがとうございます。

まず最初にあやまります。すみません。上の記事本文の考察をいま読み返すと、自分自身で異論があります。どれが横山の意見か分かりにくくてややこしい話になりそうです。
どこに異論があるかというと、「視覚機能が等しい場合に二人の見ている対象が同一であるならば二人のクオリアは等しくなるという志向的クオリアの主張は、積極的に認められて良い」と、今は考えているという点です。
時間論を考察しているうちに僕の反実在論は一周してしまって、「ここに開闢している〈これ〉は私の志向的クオリアであるとともに、世界そのものに到達しているものだと考えても良い」と考えるようになってしまいました。だって、現実世界は〈これ〉以外にないからです。そのため、〈これ〉以外のクオリアの存在を想定することはひどいナンセンスであり、そのナンセンス性とはひどい勘違いでしかないものに意味を見出してしまっているだけの妄想だと言い切って良いと考えるようになってしまったからです。

それで、上の本文とは意見が変わって、
そのため、SHIROさんが言われる【1】が今では賛同できて、
【2】には賛同できなくなってしまったのです。

ただし、【1】に賛同できると言っても、
「私と妻が同一のトマトを見ているときに、私に見えているトマトの赤色のクオリアと、妻に見えているトマトの赤色のクオリアは違うが、しかしいずれのクオリアも、トマトが「私と妻にそう感じさせる特徴」を持っている」
とも思えません。
今の僕の考えでは、こうです。
「妻のクオリアの「実在」とは、ある意味で、想定でしかありえないのだから、私と妻が同一のトマトを見ているときに、私に見えているトマトの赤色のクオリアと、妻に見えているトマトの赤色のクオリアは違うとすることには意味がない。それは同じとしないと私と他者は世界に到達できなくなってしまうことになる。そんな想定をしても意味がない。」

「他者の誰かがゾンビだったり、クオリアが逆転していたりすることは、定義的に
…あり得る!」については、
他のいろいろなページでもういろいろ書いていますが、やっぱりそのようなゾンビや逆転が想定できるような「クオリア」は非機能的なクオリアを指示してしまうことになるので、そのようなものが「ある」とか「ない」とか「同じ」とか「違う」とかを言うことができるはずがない、と考えています。

P.S. 言わずもがなかもしれませんが、私と妻のクオリアが一致すると言っても、それは物理的反応が同一である場合にはクオリアが一致するという意味で、物理的に差異があればもちろん見え方は異なります。

>妻に見えているトマトの赤色のクオリアは違うとすることには意味がない。それは同じとしないと私と他者は世界に到達できなくなってしまうことになる。そんな想定をしても意味がない。

へぇぇ!ま、まったくわからーん!大変興味深いです!!引き続き読み進めてまいります!楽しみな一里塚をドドンと置いてくださってありがとうございます。

あ。すみません、一個だけ、、クオリアの「機能」って、なんでしょうか?教えてくださいませ。再考の9回目あたりから出てきたような気がしますが、あれよあれよという間に当然の表現になっている様子で、ちょっと理解力の低い私は置いてけぼりなのです。笑

SHIROさん、
いい加減というか不器用な表現しかできていませんので、伝わりにくい文章なのに、ていねいに読んでもらえてとてもうれしいです。ありがとうございます。
大感謝です。
↑のコメントも、中途半端な物言いでまったく伝わりようがない説明でしかないように思います。いま、この秋からフッサールを読んでいるのですが、彼の現象学はなかなか捨てたものではないと思い直しています。それで、クオリアの志向説にもずいぶん親近感を抱くようになってきました。もう少し考察をまとめられるようになったら、↑のコメントで述べたことについてもレポートにまとめて記事に挙げたいと考えていますので、良ければまた読んでください。

さて、「クオリアの機能」ですが、
その言葉遣いは僕の勝手な創作です。
チャーマーズの自然主義的二元論<心は実在するか12>http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-f7eb.html
のページで最初に挙げて、チャーマーズが意識の一面を形容した「機能」という言葉を使ったものです。
その「機能」について、僕は「クオリアが機能を持つということ」を「クオリアが心理学的である」ということであり、「行動に因果関係をつけ、行動を説明付けるもの」だととらえています。これで伝われば良いのですが。

トマトのくだり、やっとわかりました。無内包クオリアや、非機能的クオリアは、言語で表現できないんですね。

これって、イデアとほぼ一緒ですよね。私の想像するりんごと横山さんの想像するりんごは違う。でも違うことに意味はない。しかしそれでも、想像するりんごはやっぱり違うわけです。さらにそれでも尚、違うことに意味はないわけですね。笑

ただ、ここで言う「意味」というのは、「機能」を指しているのだと思うので、「非機能的クオリアは機能がない」ということですね。そしてそれが限界の表現なのですね。

このブログ、超おもしろいです。

SHIROさん、こんばんは、コメントありがとうございます。
「イデア」って僕はよく意味が分かっていないんですが、そういう意味で語られることもあるみたいですね。
ブログを面白いと言ってもらえてうれしいです。

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