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2015年8月 9日 (日)

外在主義の考える「クオリア」と「ゾンビ批判」<クオリア再考10>

クオリアの意味を再考しよう

多くの哲学者たちがいろいろな想定でいろいろな種類のクオリアを語っている。彼らはいずれも「現象的意識の質」のことをクオリアだと言ってはいるのだが、その内容を詳しく見ていくと、どれもまったく違うものを好き勝手に「クオリア」だとしているのが分かる。
チャーマーズやサールなどの内在主義者によれば、クオリア欠如ゾンビはその存在を思惟することが可能で、ゾンビが存在しないことは必然だとは限らない。一方、クリプキや前期パトナムなどの外在主義者によれば、ゾンビの存在は概念的に不可能で、ゾンビは必然的に存在できないものである。また、その内在主義者同士の中でも、チャーマーズは自分でクオリアの変化に気づくことはあり得ないとしているのに対し、サールは自分自身でならクオリアの変化に気づき得なければならないとしている。ある人はクオリアには一切機能がないのだからクオリアと脳状態とを因果的に関連付けられるわけがないとし、ある人はそれが可能であるだけでなく現実的に関連付いているとする。
そこで、今回はそれぞれのクオリアを比較して、クオリアの意味を再考してみたい。
でも、それぞれの哲学者たちがどのようなにクオリアを定義しているかだけを取り出して比較してみても、その違いは分かりにくい。だから、様々な場面でクオリアがどう働くかの具体的状況が書かれている部分に注目し比較するのが、適切な比較になると思う。

 

外在主義によるクオリア論とゾンビ批判論

そこで本節ではまず、外在主義と内在主義のクオリア観に注目し、それぞれのクオリアがどんなふうに捉えられているかを見ていくことにしよう。

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信原幸弘「意識の哲学」は外在主義のクオリア観をとても分かりやすく解説してくれている。信原によると、クオリアは物的なものと結びつき得る概念であり、ゾンビは概念的に存在不可能であるらしい。
このことを説明するのに外在主義者たちはよく「水的物質」と「H2O」の比喩を用いる。信原もそれに倣って「水」の話をする。こんな話だ。

「たとえば、水がその日常的性質、すなわち透明であり、100℃で沸騰し、飲むことができ、等々の性質によって定義されたとしよう。そしてこれらの水の日常的性質を「水的性質」と呼ぶ」(信原「意識の哲学」p92)


このとき、このように水を水的性質によって定義したとしても「H2Oである」ということもその本質的な性質になりうる、と信原は言う。その理由について信原は「水を水的性質によって定義する」とはいかなることかという点について、整理して考えながら説明している。


① 「水を水的性質によって定義する」ということは、水的性質をもつ物質はすべて同じ種類であり、それをもたない物質は異なる種類だと考えられるという想定のもとでなされる。
② つまり、「水を水的性質によって定義する」ということは、周囲の物質の中から水的性質をもつものを「水サンプル」として取り出し、「その水サンプルと同種の物質を水だとする」として定義される、ということだとするのだ。
③ それゆえ、双子地球に水的性質をもつ物質があったとして、その化学式がH2OではなくXYZであるような物質だった場合、それは水的性質を持っていても水ではないことになるのだ。


われわれは、現実の世界において言葉を使うほかはないのだから、その現実の世界によって、語の意味は決定づけられてしまう。だから、現実の世界において水がH2Oであるのなら、われわれの「水」は本質的にH2Oになってしまうのだ。

では、この考察をクオリアに当てはめて考えてみよう。
「クオリアは意識に現れる限りだけの存在である」ということが定義だけによって決められ得るという考えは、クオリアの定義にかんする誤った理解に基づいた誤解である。クオリアを意識に現れるという面から定義したとしても、クオリアが意識に現れないような本質を持つ可能性も十分にあるのだ。そして、クオリアがそのような本質を持つなら、クオリアが物的なものと結びつきをもつことが本質的性質であるかもしれないのである。つまり、クオリアが現象的意識だけから得られる概念だとしても、それが本質的に物的なものとの結びつきをもつことができる可能性はあるのだ。

 

この外在論的考察に対する異論を信原は予想し、さらにそれに対して反論している。その予想された異論とはこんなものである。
水を単に「水的性質が本質である」と定義するのではなく、「水的性質のみが本質で、それ以外は本質を持たない」と定義すればいいんじゃないか、という異論だ。そして、それに対する信原の反論はこうだ。

「意識に現れるかぎりでの存在としての定義されたクオリアを、「皮相クオリア」とよぶことにしよう。皮相クオリアは、たしかに物的なものと本質的な結びつきをもたない。しかし、われわれの意識にじっさいに現れるのは、そのような皮相クオリアであろうか。それは物的なものと本質的な結びつきをもつ可能性のあるものではなかろうか。たしかに経験的な探求の結果、われわれの意識に現れるものが意識に現れないような本質をいっさいもたず、意識に現れるかぎりでの存在での存在にすぎないことが判明するかもしれない。しかし、そうではなく、それは意識に現れないような本質をもつものであることが判明するかもしれない。そうなれば、それは皮相クオリアではないということになろう。」(信原「意識の哲学」p95)


「皮相クオリア」ってのは、「意識として現れることだけが本質であるようなクオリア」なのだ。たとえば、「意識に現れる」ということ以外に「脳状態と因果関係がある」などということが本質的な性質なのであれば、「意識として現れることだけが本質である」とは言えなくなるので、それは皮相クオリアではないというのである。
そして、この現実世界のクオリアが「皮相クオリア」であるか否かを考える。もし、この世界のクオリアが「皮相クオリア」であるならば、皮相クオリアが存在する可能世界と皮相クオリアだけを欠いたゾンビが存在する可能世界はあり得る、とは言える。しかし、このことから、「いつでもゾンビの存在する可能性が許される」と言えるかといえば、そうとは限らない。それは、この世界のクオリアが「皮相クオリア」だった場合だけに限定して許されるのである。
もしこの世界のクオリアが「皮相クオリア」でないならば、ゾンビは想定可能でさえないのだ。どうしてそうなるのかと言うと、この現実世界のクオリアが「皮相クオリア」でないならば、思惟的仮想空間の中で皮相クオリアが存在する可能世界と、それだけが無いゾンビの可能世界とを空想し得たとしても、それらの世界の住人とわれわれの世界の住人は物的に同じあり方ではあり得ないからだ。そして、だから、クオリアは物的なものと関わりを持ち得るものとして考えることが可能なのだ、…と信原は言う。

このことを、水のメタファでもって考えてみよう。
水的性質だけを本質とし、それ以外の本質を持たない物質を「水的物質」とする。そうすると、水は「水的物質」ではなくなってしまうのだ。なぜなら、この現実世界で水はH2Oであるという本質的性質を持っているのだから、水的物質の「水的性質以外の本質を持たない」という定義から外れてしまうのだ。
ならば、仮に、現実の世界での水が本質的にH2Oだというわけでなく、水が「水的物質」だったとするなら、どうか。そのときには、水的物質のある可能世界Pとその可能世界から水的物質だけが欠損した可能世界Qなるものがあり得るのかもしれない。(しかし、水的性質だけが本質であるような「水的物質」が某かの物的存在でありながら、本質的性質となるような化学式を持たないというようなものが存在しえるのかという疑問は残る。実際にはそんなものはあり得ないだろうと思われる。ただし、ここでは仮にそれが可能だとして話を進めることはできるので、そうしている。)
しかし、仮にそのような可能世界PとQ が可能だったとしても、そのようなPやQの世界にわたしたちの世界の「水的性質」をもった物質があったとしても、それは私たちの世界の「水」と物理構成的に同じものではあり得ないのだ。

このような考えでもって、外在論者はクオリアが物的な作用を持ち得ないとは限らないとし、ゾンビが概念的にあり得ないとする。

 

外在論者のクオリア観をまとめると


彼らの説明の主旨をまとめるとこうなる。
 

1. 「AをBとして定義する」とは、現実世界のなかにBの性質をもったものが一つの同じ種として存在するということを前提とすることであり、その前提の上でBの性質をもったものを標準的なサンプルとして取り出したときにそのサンプルと合致するものを、Aという名を冠する集合の一要素とするということである。
 

2. 「クオリア」を「現象的な意識の質」と定義するということは、現実世界の中に「現象的な意識の質」なるものが一つの同じ種として存在することを前提として、現実の「現象的な意識の質」の標準サンプルと合致するものを「クオリア」と呼ぶことにする、ということである。
 

3. 現実の標準サンプルに合致するような存在の集合が「クオリア」なのだから、「クオリア」の集合を調べてみると「現象的意識に現れるもの」という性質以外に機能的な性質など本質的な性質が存在する可能性は否定できない。
 

4. 現実世界において定義した「クオリア」という言葉は現実世界のクオリアが標準サンプルになるので現実のクオリアは必ず物的作用が関連してしまう可能性から逃れられない。だから、それがあったりなかったりしても物的にはまったく同一であるような可能世界を考えようとする場合には別の「クオリア」を用意しなければならない。つまり、現実世界で定義した「クオリア」について言えば、ゾンビは語の意義的にあり得ない。

 

 

どうだろう、ちゃんとした説明に見えるだろうか。僕には眉唾の論理トリックにしか思えないし、それほど説得力のある論にはなっていないと思える。でも、この考えを真剣に正しいと信じている人は意外とたくさんいる。だから、こんな考えでも結構説得力があるのだろう。
それでも、もちろんこれで納得しない人もたくさんいる。次節ではチャーマーズの反論を見ることにしよう。

 

つづく

クオリア再考

★大阪哲学同好会へのおさそい★

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