フォト
無料ブログはココログ

« 立川談志「六尺棒」まくらより<クオリア再考15> | トップページ | 永井の累進構造説は無内包を語り得るか<クオリア再考17> »

2015年8月30日 (日)

0次内包・マイナス内包・無内包<クオリア再考16>

前々説で、永井均の0次内包について考察した。それに対して永井本人から、「0次内包は無内包との対比で論じられるべき」だという指摘をいただいた。(別に、永井がこのブログの読者だというわけではない。mixiでの個人的やりとりをこのブログに挙げる許可を得ようとした際に教えていただけたと言うだけの話だ。でもありがたい。)この「無内包」というのは0次内包を検討するために入不二基義が提案したとても素敵な意識分析のアイデアで、これによって0次内包の問題はずいぶん整理され、永井の意図がはっきりしたものになったと言えると思う。今回は、この無内包と0次内包の関係について考える。

 
0次内包はチャーマーズのクオリアじゃない

まず、0次内包ってのは何だったのか思い出してみよう。
「酸っぱさの例でいえば、梅干しや夏みかんを食べたときに酸っぱそうな顔をするとき感じているとされるものを、酸っぱさの「第1次内包」と呼びます。第1の逆襲をへて、何も酸っぱいものを食べていなくても、なぜだか酸っぱく感じられることが可能になった段階の酸っぱさの感覚そのものを、酸っぱさの「第0次内包」と呼びます」(永井「なぜ意識は実在しないのか」p13)
外面に振る舞いが何も現れなかったり、これまでのパターンとはまったく違うような振る舞いをしているのに、内面では酸っぱいとわかるような感覚があるとき、この感覚を指すものを0次内包と言い、その0次内包がさす感覚の質がクオリアだとするものだった。

しかし、よく考えると、このような説明で説明される「当初の意味での0次内包」は、チャーマーズの考えた「クオリア」とは別のものだ。何故なら、チャーマーズのクオリアは、完全に機能をもたないもので、そのクオリアが逆転を繰り返したとしても自分では気づけないとするものだった。
ところが、永井の「当初の意味での0次内包」はそれが反転したとすると自分で気づけてしまうはずだ。以前に感覚した酸っぱさのイメージと比較して同じだと判別できる感覚を、酸っぱさの0次内包だとすると言うのだから、その意味で、「反転した酸っぱさの0次内包」というものは、以前に感覚した酸っぱさのイメージと比較して逆転してしまっている感覚イメージのことであるはずだ。だから、当然、昨日の酸っぱさと違っていることに気づくことになる。
チャーマーズのいう「クオリア」は、クオリアが反転していたとしても、昨日感覚した酸っぱいイメージと、今感覚している酸っぱいイメージの違いに気づけない。だから、例えば、クオリアが反転するときにその「記憶ごと」反転するような反転状況だと理解すれば良いのかもしれない。記憶という判断の基準ごと変わってしまうのだから、基準と比較してその差異によって意味づけすることにはならず、差異を用いずに今の感覚そのもの自体を名指そうとしたものがチャーマーズのいうクオリアなのだ。

 
当初の0次内包は機能主義でも還元できる

これに対して、永井の「当初の意味での0次内包」はしょせん、記憶という基準と照らし合わせて意味づけするようなものでしかなく、差異によって意味づけするものでしかないものだと言える。
だから、「当初の意味での0次内包」はある意味で、機能主義の方法でも十分に説明できてしまうようなものでしかないとも言える。
つまり、「以前に感覚した酸っぱいイメージと何故だか同じものだと判断できてしまう何らかの機能がある」という話にしてしまえると考えられるのだ。その機能は、物理的な機能ではないかもしれず、脳や身体にはまったく物理的な反応は表れていないのに、しかし、何故かそれが同じ感覚だと判断できてしまうというのだ。そして、その判断できてしまうその機能をブラックボックスに入れ込んでしまってブラックボックスが某かの機能を果たしていると解釈してしまうならば、まさしく、ブラックボックス機能主義になってしまうではないか。
これは、だから、「当初の意味での0次内包」によってクオリアを示そうとしたとしてもそれは、しょせん「機能的なクオリア」とでも呼ぶようなものでしかないものを必ず含んでいることになるはずなのだ。
だから、永井が本当に主張したかったはずの独在論的なクオリアは、「当初の意味での0次内包」ではきちんと表すことはできない。

 
無内包・マイナス内包

そこで、「無内包」の考え方がこの混乱をうまく整理してくれる。
入不二によると無内包は0次内包より「いっそう自立的な水準」での0次内包だとし、また、「独在性の<私>・最上段の「これ」」であると言う。
「「真に第0次内包…」を「私/他者」という対立軸で読むのではなくて、「感覚の場面/独在性の場面」という私の内の対立軸(認識/存在という軸である)のもとで読む」(「<私>の哲学を哲学する」入不二の部p71)
としたときの、独在性の場面においての世界のあり方への視点なのだ。

例えば、「私」を0次内包として記述するために「事実としてなぜかそいつの目から世界が見える唯一の物」とする言い方があるだろう。ところが、その言い方は必ず他者でも言い得る次元のものになってしまうので、そのままでは、事実ここに存在するこの私の独在性を正しく言い表すことができない。そこで、「私」に「この私」と「この」という2字を付加えたとしても、その「この私」は、やはりただちに「そのこの私」(という他者にでも言えるもの)に成り下がってしまう。「私」という語は「1次内包」や「当初の意味での0次内包」にしがみついていては、真の独在性や真の0次内包を指し示すことはできないのだ。

「真に第0次内包であるためには、それらすべてに「この」をつけなければなりませんが、その「この」は外部から「その」として指し返されることのない「この」です。つまり、真に第0次的な表現などありえません。それは言葉よりも手前にあるので、そもそも言葉で語られることと、そりが合わないのです。」(永井「なぜ意識は実在しないのか」p146)

この、言葉の手前にあって語られ得ない、独在性の観点で見たときの(もはや語の意味ではないような)語の意味を「真の0次内包」と言い、「無内包」と分類するのだ。
入不二によると「0次内包」は、「当初の意味での0次内包」と「マイナス内包」と「無内包」の3つに腑分けできる。
「マイナス内包」とは、「概念自体から自立・逸脱」の水準で考えられたクオリアであり、「記述することはできなくとも存在するはずの感じ(クオリア)」(「<私>の哲学を哲学する」入不二の部p73)のことである。それ自体の変化に気づけないし語れないような、そして、今のこの感覚自体を名指そうとしたという意味で、チャーマーズの説く「クオリア」のことだと言っても良いと思う。
そうすると、つまり、「0次内包」は、「他と比較して語り得て、ブラックボックス機能主義に還元できるような、当初の意味での0次内包」と、「語り得ないチャーマーズのクオリアとしての、マイナス内包」と、「独在性の視点で、言語の手前で言語を支える、無内包」との混合物だったと言えるのである。
永井は、独在性の視点こそがクオリア問題を解決するための本質だとしているのだから、0次内包のうちの無内包こそが考えるべき問題の中心であったのだろう。

そして、この、語り得ない「無内包」と「マイナス内包」が、語り得る「当初の意味での0次内包」や「1次内包」などとが、重なり合って累進構造を成すことになる。あるいは、世界が世界であるために、また、言語が有意味な言語であるために、重なり合っているのだとすべきなのかもしれない。0次内包が分析分類されることによって累進構造は複雑にはなるが、累進構造によって独在的クオリアが語り得るようになる、というのが永井のクオリア論であることには、変わりない。

永井も入不二も無内包はそのものだけでは語り得ないと考えている。ただし、永井はそれでも累進構造によって語り得るものになると考えている。
さて、この「無内包」はいったいどこまで語り得ないのか、どこから語り得るのか、語り得ないとすれば何故語り得ないのか、語り得るとすればどのように語り得るのか。
次節で考える。

つづく

クオリア再考

★大阪哲学同好会へのおさそい★

« 立川談志「六尺棒」まくらより<クオリア再考15> | トップページ | 永井の累進構造説は無内包を語り得るか<クオリア再考17> »

コメント

横山さん
(論考途中ですが、ここでの感想を)
梅干しの酸っぱさの例えで言えば、第1次内包とは、梅干しを実際に食べた時の「酸っぱい」という味覚のことで、第0次内包とは、梅干しを食べないけれど口の中が酸っぱいと感じること、これは横山さんの仰るように味覚の記憶のことです。梅干しを思い浮かべれば唾液が出る、あの感覚のことですから誰でも理解できます。
 しかし、この第1次内包と独立した(つまり記憶ではない)感覚そのものがクオリアだと言われてもピンときません。それは、例えばひどい2日酔で吐き気をもよおす時は口が酸っぱいと感じ、そして実際に吐いたりします。だがそれは、「吐き気」のことであってクオリアと呼ぶような「何かあるもの」でもなく、単なる体調異変の「気分」のことでしょう。
では永井氏や入不二氏の言う、「言葉の手前にあって語られ得ない、独在性の観点で見たときの(もはや語の意味ではないような)語の意味のことを<真の0次内包=無内包>として、それがクオリアのことだ」とされても、やはりピンときません。その独在性の観点とは、「感覚の場面/独在性の場面という私の内の対立軸(認識/存在という軸である)のもとで読む」としたときの、独在性の場面においての世界のあり方への視点である、と言われてもなおさらピンときません。これは、そもそも語られ得ないとするものを、場面、軸といった抽象的用語によって周辺から語るやりかたで捕捉しようとする“矛盾”なのですから当然です(私には素朴に矛盾と感じられるということで、居直りの積もりではありません)。
 また、「記述することはできなくとも存在するはずの感じ(クオリア)=マイナス内包:これがチャーマーズのクオリアということなら、これも同列のものでやはりピンとこないと言う以外なさそうです。‥‥‥一体「語り得ないもの」に言葉をどう累積させれば有意味な「語り得るもの」に変換するというのでしょうか。

平戸さん、コメントありがたいです。
でも、ちょっと違います。

>第1次内包とは、梅干しを実際に食べた時の「酸っぱい」という味覚のこと

ではなく、外的に表れる振る舞いによって判断される酸っぱさのことです。

>第0次内包とは、・・・横山さんの仰るように味覚の記憶のこと

ではなく、振る舞いに表れない内的感覚によって判断される酸っぱさのことです。

マイナス内包は、基準と比較されないので語られ得ない感覚そのものの感じで、これがチャーマーズの言う「クオリア」にあたります。
無内包は、独在性によって言語の手前で感覚の存在を支えるものです。
永井はこれが累進構造によって語られ得ると言ってます。

次節では、永井がなぜ累進構造によって語り得るようになると考えたのかの点について、もう少しきちんと解説できるようにチャレンジしてみますね。
でも、僕はその考えに対して否定的に考えています。そもそもデカルトの「コギト」さえ、語り得ないことを語れていると勘違いでしかないと僕は考えているのですが、次節ではその点についても、ちゃんと伝わるような言い方ができるように頑張ります。

第1次内包とは、個人Aの外的に表れる振る舞いを個人Bが見て判断する(想像する)酸っぱさ(感覚)、ということですか?
0次内包も無内包も個人Bの立場の感覚ということですか?
そうすると、いずれも想像に基づく感覚の共有の次元での議論ということですか?

平戸さん、

>第1次内包とは、個人Aの外的に表れる振る舞いを個人Bが見て判断する(想像する)酸っぱさ(感覚)、ということですか?

そういってもいいかもしれません。もうすこし付け加えていいなら、個人AとBが確認しあえる外的な判断基準で表す言葉の意味です。

>0次内包も無内包も個人Bの立場の感覚ということですか?

0次内包はそれでいいと思います。他者と確認しあうことのない、個人的な内的基準で表す言葉の意味だと言えると思います。
でも、無内包はちがいます。B個人という世界内の存在者の言葉ではなく、開闢者という世界の外の、もはや個人ではないような主体の視点だと思います。

師匠 ご無沙汰しております。久しぶりに質問してみます。お願いします。

第2次内包:物
第1次内包:言語
第0次内包:心
として、第1次内包の上に、第2次内包と第0次内包が載っているとして、
だけど、第0次内包のなかに、記述可能だが、機能していない部分があって、
それを、師匠はナンセンスだと主張されている、でよかったっでしょうか?

永井さんは、マイナス内包に否定的だそうですが、マイナス内包も無内包も
ナンセンスという意味では同じだし、クオリアについての無内包をマイナス
内包と分類してるように思えますが、それくらいの区別と考えていいですか?
師匠は、マイナス内包の区別をどう思われますか?

taatooさん、
久しぶりですね。お元気でしたか。

>第2次内包:物>第1次内包:言語>第0次内包:心>として、第1次内包の上に、第2次内包と第0次内包が載っているとして、

というのがどういう感じのまとめなのかちょっと分かりません。そんな感じなのかもしれませんがよく分かりません。
第2次内包が物理的法則に則った内包で、1次内包が日常生活でのやりとりによってルールづけられた内包で、0次内包が個人的な感覚によってルールづけられた内包だと僕は考えています。

>第0次内包のなかに、記述可能だが、機能していない部分があって、それを、師匠はナンセンスだと主張されている、でよかったっでしょうか?

マイナス内包と無内包という機能していない部分があって、それをナンセンスだと考えているというのはそのとおりです。しかし、それが記述可能だというのは微妙です。その記述自体をどう考えるかという点に関しては記述可能だと思いますが、その外延がどんなだという記述文を有意味にすることは無理だと思います。

マイナス内包と無内包の区別については、マイナス内包がチャーマーズの言うクオリアに相当し、無内包はそれを支えている<私>だと思います。本ブログの「「生の原質」だけを切り出すことの虚しさ」のページで紹介した「生の原質」がマイナス内包で、「無内包の現実」が無内包だと考えています。そちらもご覧ください。
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/20-c64f.html

いつも、ありがとうございます。

物理法則(2次)も個人的感覚(0次)も、言語ゲーム(1次)をベースにしているというような単純なまとめです。それに対して、無内包やマイナス内包は、言語ゲーム(1次)をベースにしていません。

今思ったのですが、個人的感覚(0次)の中に、言語ゲーム(1次)をベースにしていない部分(「質感のあるいわゆる現象的意識」かつ「非機能的な現象的意識」の部分)があるのではなくて、そもそもその部分は、言語ゲーム(1次)上にないということなんですよね、きっと。

としたら、「質感のある、かつ非機能的」内包は、無内包?、マイナス内包?、それとも別の内包?また、そもそも、非言語ゲーム上の内包を、分類する必要性はあるのでしょうか?というような質問でした。


taatooさん、

そもそも、非言語ゲーム上の内包を、分類する必要性はあるのでしょうか?

必要性があるかないかはわかりませんが、「アブラカダブラ」と「緑はあるいはである」が違う種類のナンセンスとして分類することはできると思います。どちらもその真偽を決定させるような言語ゲームを構成することはできませんが、なぜそれができないのかを考えたり分析したりすることまでできないわけではないと思います。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/548679/62187706

この記事へのトラックバック一覧です: 0次内包・マイナス内包・無内包<クオリア再考16>:

« 立川談志「六尺棒」まくらより<クオリア再考15> | トップページ | 永井の累進構造説は無内包を語り得るか<クオリア再考17> »