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2015年6月28日 (日)

ハイデガーの〈存在〉も永井の〈私〉もチャーマーズの「クオリア」も語り得ないよね

永井均「〈私〉が存在することの意味」(ちくまプリマー新書「考える方法」)を読んだ。半分同意できて、半分同意できない。

そこでは、ハイデガーが「死こそが最も自己固有のものである」と主張したことを紹介し、それを解説してこう語っている。
「たとえ自分が愛する人が死んだとしても、それで世界が終ったりはしません。これに対して、自分の「死」は、そこですべてが終わってしまいます。舞台そのものが無くなってしまうのです。愛する人の死は、私という舞台の上で起きる大事件にすぎません。映画で言うとスクリーンの中での大事件にすぎません。自分の死の場合は、スクリーンそのものが消滅するのです。だから、「死」は、他の「落命」とぜんぜん種類の違う出来事なのです。そういうぜんぜん種類の違うことが「死」において起こるから、「死」において無くなるものが何であるか、ということを考えることによって、初めて〈存在〉ということの本当の意味が理解できるようになるのです。」

そしてさらに、次のように言っている。

「〈私〉や〈今〉が言語で表現できなかったように、ここで問題にしている〈存在〉も、言語では表現できません。言語は舞台の上の、あるいはスクリーンの中の、出来事しか表現できないからです。」

この、スクリーンそのものの存在としての、「最も自己固有」の〈存在〉が言葉で表現できないというこの論点には、僕は大賛成だ。表現できないだけじゃなくてナンセンスにしかならないと僕は考えている。
この、ハイデガーの〈存在〉も、永井均の〈私〉や〈今〉も、チャーマーズの「クオリア」も、私的言語でしかなくナンセンスであるがゆえに語りえないものだと思う。ここが同意できる半分。

しかし、そういう、語りえないとする立場をとるのなら、映画のメタファでいうところの「スクリーン」があると言うことが語りえないのだから、「自分の死の場合は、スクリーンそのものが消滅するのです。」というのは明らかに言い過ぎだし、「そういうぜんぜん種類の違うことが「死」において起こる」というのも言い過ぎのはずだ。そういう超越的な「死」は起こったり起こらなかったりするとさえ言えないはずだからだ。
だから、「〈存在〉ということの本当の意味が理解できる」なんて言うのは、まったく宗教的な思い込みとしか思えない。ここが残りの同意できない半分だ。

思いつきの言々

★大阪哲学同好会へのおさそい★

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コメント

こんばんは。
小説は、死を表現するし、マラルメやリルケの詩は存在を表現します。
ドゥルーズは、ヴィットゲンシュタインを哲学の殺害者として批判していますが、
私はこれには賛成です。カスパー・ハウザーは私的言語を自ら作り出し、
喋っていましたし、周囲の人々とコミュニケーションを取れていました。
ハイデッガーの存在という視点を我々は理解できます。語りえないことでは
ないと思います。

呼偽人さん、お久し振りです。お元気でしたか。
「私的言語」はここでは、原理的にその意味を他者と共有できない語であり、それゆえに自分でも意味が分からないという語を想定しています。
カウパーハウザーを僕は知りませんが、その私的言語はぼくが言っているものとは別物だと思います。
永井も、僕がいう意味での語り得なさを、〈存在〉に嗅ぎとったのだと思います。

師匠、おはようございます。また思い付きで、恐縮ですが、どうでしょうか。

① 偽装された無:電灯が灯っていないこと
② ほんとうの無:電灯がないこと
③ 外部の無:電灯の有無を考える可能世界の外部がないこと
④ 可能世界自体の無:可能世界がないこと

という、入不二さんの「無」の分類が面白かったので、対比的に「有」を分類してみました。

「有」:taatooの分類
①テレビ上に映像が有る。
①’映像は無いが、テレビは有る。
②テレビは無いが、日常世界は有る。
③テレビは無いが、「テレビ」という言葉は有る。
④言葉は無いが、全く何も無いというわけではない。

AI搭載のテレビでテレビ上の映像を自覚できるテレビ型ロボットを想定しています。

クオリア=映像
私=画面
今=静止画
スクリーン=テレビ

と当てはめてみると、「存在」が、どのレベルの「有」なのか、が、人のよって、話によって、違うような気がします。

taatooさん、こんにちは。
コメントありがとうございます。無のレベル分けに対して有のレベル分けとは、面白いことを考えましたね。
でも、taatooさんの「有の分析」の5段階がよくわからなかったです。
入不二の「無の4段階」は、命題「灯が点いている」について、それぞれ、
1は命題の真偽、
2は命題の有意味性の有無、
3は命題を規則づける正当な根拠が命題の外部にあるかないかの有無、
4は、可能世界という、思考を可能にする枠組み自体の有無、
を意味しているのだと思いますが、taatooさんの5段階と入不二の4段階との対応がどうなっているかが、わからなかったです。
入不二の直接対応してるわけではないのですかね。
それとも、1234の番号はそれぞれ対応しているのですか。

師匠、おはようございます。いつも、ありがとうございます。やっぱり、基礎論なんですね。

「有」の場合、「有」から始まるので、最初の一行が多くなるということで、直接対応しているどころか、分類枠としてはそのまんまのようです。恥ずかしながら、③の訂正を含めて、再度まとめてみますと、

「有」:taatooの分類
0:テレビ上に映像が有る。(電灯が灯っている)
1:映像は無いが、テレビは有る。(電灯が灯っていない)
2:テレビは無いが、日常世界は有る。(電灯そのものがない)
3:日常世界は無いが、「テレビ」という言葉は有る。(可能世界の外部がない)
4:言葉は無いが、全く何も無いというわけではない。(可能世界そのものがない)

もともと、永井さんの「スクリーン」というメタファーを「AI搭載テレビ」にして、永井さんの用語を当てはめて考えていたら、「存在」って「有」るってことだよね、て思ったわけです。

taatooさん、

ちょっと違うのではないかと思う部分があります。
入不二の無の4段階は言語的に「ない」という発言についての考察で、永井の「スクリーン」は言語の前段になるような「存在」についての考察です。この2者の区分について、入不二はこの4段階の4番目に対応する存在を「生の原質」とし、永井のスクリーンに対応する存在を「無内包の現実」として区別しています。
taatooさんの5区分はこの2者が両方混じっているように思います。だから、単純なそのまんまの分類枠ではないような感じがします。

taatooさん、こんにちは。

もし、入不二の4段階に無内包を加えて5段階にして、そのままテレビ映像のメタファーで表現するのなら、たとえば、次のようになると思います。

①、テレビ映像の内容を記述している命題「りんごがある」の〈有る〉
②、テレビ映像の内容を記述しているわけではない可能世界りんごがある」について、りんごがあるかどうかはわからないが、「りんごがある」とはどういう意味なのかがはっきりして「いる」、の〈有る〉
③、「リンゴがある」の意味が明確になっているとはかぎらないが、その意味を明確にできるような根拠がテレビ映像のなかにある、の〈有る〉
④、テレビ映像を記述する命題がないが、映像はある、の〈有る〉
〈無内包としての⑤〉、映像はないが、テレビはある、の〈有る〉

永井のメタファーでいうと、「スクリーン」はハイデガーが論じた「存在」をあらわしていますので、それを言い換えた「テレビ」も同じくかなり根本的な存在のメタファーになるように思います。そうなのであれば、「テレビがないが日常世界はある」などとその外の存在を想定してしまうのはまずいように思いました。僕の勘違いでしょうか。

師匠、ありがとうございます。

入不二さんの分類は、そんなふうなんですね。私は、「電灯」というメタファーが、面白かったので、ちょっと、がっかりです。

それから、「可能世界」の定義ですね。なんかしっくりわからないので、できれば、ご教示をお願いしたいです。私の5分類では、「可能世界」を、強引に「言語のよって開かれた世界」のようなイメージで考えました。

「スクリーン」=「テレビ」は、永井さんの用語に当てはめてみただけなので、仮です。「スクリーン」≠「テレビ」でないと確かに矛盾です。私の理解でも、無内包は、最後です。私の5分類は、入不二さんとも永井さんとも別ものということで、私オリジナルとします。

taatooさん、
すみません。変なタイプをしたみたいです。

②、テレビ映像の内容を記述しているわけではないような命題「りんごがある」について、りんごがあるかどうかはわからないが、「りんごがある」とはどういう意味なのかがはっきりして「いる」、の〈有る〉

と打ちたかったのです。スマホが勝手に予測して打ち込んでたのを気づかずにそのままにしていました。

了解です。ありがとうございました。

5を考えました。

5:全く何もないが、「全く何もない」という分類枠はある。(無内包)

taatooさん、

「「全く何もない」という分類枠はある」は、無内包ではないと思います。

上の分類で、①は表現の内容、②③は言語の形式についての有無を問題にしていて、ここまでが言語の問題になります。④⑤は言語以前の問題で、④は言語以前の世界の内容、⑤は言語以前の、世界と主体が分離する前の「存在」とさえ言えない存在を問題にしているものだと、僕は理解しています。
「分類枠」というのは「全く何もない」という〈言語表現〉を形成するための基礎になるものの有無を問題にするレベルの話ではないでしょうか。
だとしたら、「分類枠」は無内包の⑤ではなく、②か③のレベルなような気がします。

「分類枠はある」は無内包の主体が「分類枠」を想定しているというレベルの話になってしまっていて、それは既に無内包自体のレベルの話ではなくなってしまっています。

もっとも、無内包のレベルの話ができるのかっていう問題はありますし、実際、無内包そのものを語ることができないという事実はあります。しかし、無内包をモデル化して、比喩として語ることはできます。そして、「分類枠」は無内包をモデル化して語ろうとしたものではなく、言語形式の基礎という別の問題を語ろうとしてしまった、のではないかと疑ったわけです。

でも、言語の外のことを比喩として語れる、と僕は言っているわけですが、何を語れるというのでしょうね。僕の方が、どうも変なことを言っているのかもしれません。

師匠、ありがとうございます。わかります。いや、わかってないかもしれません。

④⑤は、言語以前なんですね。④が、マイナス内包で、⑤が、無内包って感じでしょうか。ということは、可能世界って、言語以前の話なんですね。前にも言いましたが、可能世界のことを、言語によって開かれた世界って勝手に考えるのは、おかしいでしょうか。

私の「分類枠」は、師匠の『〈無内包としての⑤〉、映像はないが、テレビはある、の〈有る〉』の「テレビ」に対応させています。だから、カテゴリーのような言語形式の話ではありません。あくまでも⑤のレベルを考えています。

永井さんの<私>や「スクリーン」は、『「全く何もない」という分類枠』に、対応するんじゃないかと思うので、師匠は、双方ともナンセンスと考えられているということですよね。

懲りずに、6を考えました。

6:「全く何も無い」という分類枠は無いが、「全く何もない」という比喩としての分類枠は 
  有る。(ほんとうの無内包)

taatooさん、
ごめんなさい。僕が間違っていました。せっかくくりかえし「可能世界」に関してコメントくださっていたのに、自分の勘違いに気づいていませんでした。すみません。

間違いは、
>④、テレビ映像を記述する命題がないが、映像はある、の〈有る〉
>〈無内包としての⑤〉、映像はないが、テレビはある、の〈有る〉
の部分です。
正しくは
「④、テレビ映像を記述する命題がないが、命題を作り出す言語はある、の〈有る〉」
でした。⑤に関しては〈有る〉は分かりません。

どう間違っていたかというと、①②③はちゃんと、
① 偽装された無:電灯が灯っていないこと
② ほんとうの無:電灯がないこと
③ 外部の無:電灯の有無を考える可能世界の外部がないこと
の「無」に対する「有」を考えていたのですが、
④は、可能世界自体の無:可能世界がないこと
の「無」に対する「有」ではなく、可能世界自体の無によって炙り出される「マイナス内包」の有無を考えてしまいました。

⑤の場合は無内包の有無ではなくで、無内包をあぶりだすような何かの無さを考えなくてはならず、それに対応する何かの「有」を考えないといけないところでした。

可能世界は、言語以前の話ではなくて、言語と言語以前とを弁別するものとすべきところだったと思います。その意味で、可能世界のことを、言語によって開かれた世界って勝手に考えるのは、正しいと思います。

僕自身の混乱にtaatooさんを引きずりこんでしまいました。ごめんなさい。


師匠、いつも、ほんとうに、ありがとうございます。もともと、少し無理な設定かもしれないのに、恐縮です。しかも、あいかわらず、すごいです。

おかげで、入不二の「無の4段階」と「マイナス内包」「無内包」の関係を整理することができました。また、いつでもお越しください。

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