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2015年6月18日 (木)

メアリーが獲得したクオリアはいかなるクオリアか<クオリア再考8>

Suzukitakayukisuzukitakayuki

鈴木貴之「ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう」宛てに疑問点を挙げた便りを差し出した。まだ、返答は来ていないが、とりあえず、アップしておくので、感想文への感想をいただければ嬉しい。。

鈴木先生、
はじめてお便りいたします。
「ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう」は本当にすばらしい本ですね。
僕は大阪の小学校で教員をしている横山と申します。趣味で哲学サークルに参加し哲学に関するブログを書いています。どなたかを師事するわけでもなく無闇に独学で思索しているだけなので、恐らく様々に検討違いをしていると思います。それでも、先生の本「ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう」の「間違い探しのお願い」という洒落っ気ある章題に甘えて、先生に意見するという無謀を犯そうとしています。どうぞ、温かい目で読んでいただければありがたいです。よろしくお願いいたします。

「ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう」は、現象判断のパラドクスなどの悪さをするクオリアなるものを、意識経験の志向的対象の性質として捉え直すことで、クオリアを機能的なものであるとしながら現象的な意識の質だとしても扱えるような懐の深い概念として捉えるようにし、それによってクオリアが悪さをするのを押さえ込みながら、クオリアの働きを生き延びさせようと狙ったものだと読みました。

クオリアを既存のものからずらして考えられた貴書に倣って、クオリアの意味を考えるのに、クオリアを2つに分けて整理してみましたので、そこの話から聞いてください。
一つは、「今私に見えているのは私がずっと『赤』と呼んできたクオリアだ」という表現を許すもので、クオリア同士が同じだとか違っているとかを言うことに意味があるとするタイプのクオリアです。このタイプのクオリアは、二つの異なる時刻のクオリアを比べてその同一性を問うことができます。色のクオリアをテレビ画面の発色に例えるとすれば、昨日のテレビ画面と今日のテレビ画面を比べることが出来るような、超越的なステージの設定を可能とするようなクオリア観です。昨日と今日の二つのクオリアを別々のクオリアと見なしたまま比較することがでるきるので、今日未明にクオリアが反転したとしてもそれに気付くことが出来ます。このタイプのクオリアは、反復して何度も比較したり名指したりできるので、ここでは「反復出来るクオリア」と呼ぶことにします。

もう一つは、チャーマーズが「意識する心」で語ったタイプのクオリアで、クオリアが点いたり消えたり反転したり跳び跳ねたりしても自分自身では気付くことが出来ないようなものです。何故気づけないかというと、二つの異なる時刻のクオリアを比べることが出来ず、他の時刻と比較出来ないので変化を変化として捉えることが出来ないからです。昨日見た赤色の質感の記憶と今見えている赤の質感とを比べようとするときに、そのまま他時刻のクオリアを比較することが出来ません。そこで、昨日の赤の記憶を今思い起こしたうえでのそのクオリアと、今眼前に見えているもののクオリアとを比較しなければならないことになります。テレビ画面のメタファでいうと、昨日見た赤色の「反復出来るクオリア」が映し出されている画面と、今見えている赤色の「反復出来るクオリア」が映し出されている画面の両方を映像にして、その枠内に入れ込んで映し出しているテレビ画面があると想定します。チャーマーズのクオリアはこのいちばん外側のテレビ画面の発色にあたります。このいちばん外側の画面の発色が乱れたり白黒になったりどんどん暗くなって遂には消えてしまったりしても、その画面の中の世界の色が変わったとは思いませんし、この画面自体も他時刻と比較出来ないという捉え方なので、その変化に気付くことは原理的に不可能です。この、チャーマーズのクオリアは、反復して比較したり反復して有意味な名指しをしたりすることが出来ないので、ここでは「反復出来ないクオリア」と呼ぶことにします。

そして、僕の考えでは、この「反復出来ないクオリア」はその反復出来なさがゆえに、それをそれとして同定することは不可能で、言語分析論的にナンセンスでしかない、というものです。言語ゲーム論的に言語とは複数の語の使用例から抽出された規則性によって語の使用可能性を担保するシステムだといえますが、如何なる言語ゲームでも反復しないものから規則性を抽出することなど出来るわけがないからです。「反復出来ないクオリア」は、言語ゲームの駒に原理的になり得ないはずです。だからまた、「反復出来ないクオリア」は他者がそれを持っているとか持っていないとかを言えないだけではなくて、自分自身でさえそれを持っているとか持っていないとかを、有意味な発言としては言えないもののはずです。

それゆえ、あるとは言えないはずの「反復出来ないクオリア」を「ある」と言えるとしてしまったり、無いとさえ言えないはずの「反復出来ないクオリア」を持たない「ゾンビ」を思考可能としてしまったりしたところが、現象判断のパラドクスや意識の難問などの混乱を生んでしまった、間違いの元だと僕は考えています。
そして、一方、「反復出来るクオリア」は、所詮、その外側の「反復出来ないクオリア」の画面の中でその「反復出来ないクオリア」によって色付けられたことによって質感を持てるようになったものでしかないもので、それ自身としては質感と質感の関係性を表しているだけのものだと考えられます。「反復出来ないクオリア」の画面の中の「反復出来るクオリア」のテレビ画面に映っている色について、外側の画面の色調設定に頼らずに内側の画面の色調を語ろうとするなら、語れるのは高々様々の色の関係性だけであろうからです。

この「反復出来るクオリア」は、ですから、命題的概念であり、サールがいう意味で統語論的であり、因果機能を持ち、物理的に還元され、フィジカルで、語り得ます。
そして対して、「反復出来ないクオリア」は、非命題的概念であり、サールがいう意味で意味論的であり、因果機能をもたず、物理的に還元されず、メンタルで、語り得ません。

そして、このクオリア分析の視点で「ぼくらが・・・だろう」を読むと、ある疑問が起こりました。
それは、クオリアにかんする志向説の捉え方に関連した疑問です。「クオリアとは、意識経験そのものの性質ではなく、意識経験の志向的対象の性質である」という定式の仕方は、クオリアを、(チャーマーズ型の「反復出来ないクオリア」ではなく)「反復出来るクオリア」として捉え、語り得るものとする戦略だとも考えられます。そしてそれは、単純にクオリアを「反復出来るクオリア」とするだけの話ではありません。意識経験の透明性によって、意識経験に現れるものは意識経験の志向対象の性質だけだともします。これによって、捉えることさえ出来なかったはずのクオリアを発話者自身が捉え得るものとして構築し直すものだと、僕は理解しました。 ただ、捉え得るとは言っても、それは、「本質的に、いま、ここの世界がどのようであるか(だけ)を表すものであり、世界がどのようでないか、世界がどうなっていたか、世界がどうなるか、世界がどのようでありうるか、ものごとが一般的にどのようであるか、といったことを表すものではない」というような捉え方でしかないものです。時間的に現在だけしかなく、実現しなかった可能世界を考えることも出来ず、真理値のある命題としての働きは一切もたないものだとされています。この知覚経験の捉え方は、僕のいう「反復出来ないクオリア」が言語論的にナンセンスで真理値をもたない、と考えるのに一致していてとても共感します。

しかし、メアリーの部屋に関する記述を見る限り、この非命題的な知識が(反復出来ないクオリアではなく)「反復出来るクオリア」について語っているだけの概念ではないかと疑いたくなります。

「p.206メアリーは、部屋を出る前にも、・・・「赤」という語を正しく使用することができたはずだ。しかし、・・・彼女は「赤」という語をみずからの意識経験にもとづいて対象に適応することはできなかった。」
この記述を読むと、メアリーの獲得する経験の質は明らかに、 「今私に見えているのは私がずっと『赤』と呼んできたクオリアだ」という表現を許すタイプのクオリアで、反復出来るクオリアです。
このメアリーが、もし、チャーマーズの言うようなゾンビだったとして「反復出来ないクオリア」を欠いていたとしても、そのゾンビのメアリーは部屋を出ることで「『赤』という語をみずからの意識経験にもとづいて対象に適応することができる」ようになるのではないでしょうか。
メアリーが獲得する経験の質を、もし志向的なクオリアとして考えるのだとしても、それはクオリアである以上「反復出来るクオリア」か「反復出来ないクオリア」かのどちらかに分類出来るはずであり分類出来るのであればその二者は別物として考えられるはずですから、「反復出来るクオリア」でもって「反復出来ないクオリア」を論証しようとすることは単純な間違いだと思われます。

つまり、知識論証は「世界にかんする非命題的な知識」を問う問題提起にはなっておらず、「世界にかんする命題的知識」を問うものでしかないのに、そこから、非命題的知識を引っ張りだそうとする論理飛躍を犯しているのではないか、という疑問です。

せっかくの魅力的な思索なのに、意識の難問を解決せんとし得るはずの思索なのに、このつまづきは、志向的クオリアが何を差すものなのかの基本をぼやかしてしまうような、大きなつまづきなのではないかと疑っています。

いかがでしょうか。お返事いただければ幸いです。

つづく

クオリア再考

★大阪哲学同好会へのおさそい★

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コメント

『「赤」という語をみずからの意識経験にもとづいて対象に適応することはできなかった。』
と感じているのは誰ですか。
『「赤」という語をみずからの意識経験にもとづいて対象に適応することはできる。』
と感じているのは誰ですか。
もしメアリー自身が、
『「赤」という語をみずからの意識経験にもとづいて対象に適応することはできなかった。』
とか、
『「赤」という語をみずからの意識経験にもとづいて対象に適応することはできる。』
とか何か言い得るならば確かにメアリーは何かを感じているだろう。
と私は感じます。

「無から有は生まれない」とはよくある話で、
もし無から有が生まれるように見えたならば、その無は「偽の無」だ
と考えることも出来ます。
では、「有から無」はどうでしょう。
あなたが「何か」をすくい上げたとき、
すくい上げた「何か」が無になることはあるとおもいますか。
「何か」をすくい上げた跡が無になることはあるとおもいますか。

Jさん、

>あなたが「何か」をすくい上げたとき、すくい上げた「何か」が無になることはあるとおもいますか。 「何か」をすくい上げた跡が無になることはあるとおもいますか。

「無」が何を意味するかがはっきりしませんので返答しにくいです。
何かの存在が否定されることが「無」であるのでしたら、何かの存在が掬い取られてなくなった後は、その存在が否定され得るでしょうから、「無になることはある」といえると思います。
何かの存在が肯定も否定もされずそもそも何を指示しているのかわからないようなことが「無」なのでしたら、「無になることが『ある』」ということを有意味に発言することはできないと思います。

>何かの存在が肯定も否定もされずそもそも何を指示しているのかわからないようなことが「無」なのでしたら、「無になることが『ある』」ということを有意味に発言することはできないと思います。

であるならば、その「無」や「無を捉えようとすること」を無意味だと捉えて
ただ切って捨てることが有意味なことだと思えますか。

沈黙していられないならば、
捉えずに済ましていられないならば、
例えそれを無意味だと捉えることが出来るとしても
僅かにでも有意味に捉え直す必要があるとは思いませんか。
有意味な「偽の無」が必要だと思いませんか。

例えば、私は「偽の無」を徹底的な無秩序、無知、中庸だと考えることがあるのですが、あなたは「偽の無」をどの様に考えますか。

「偽の無」の意味が分かりません。

「偽の無」の意味はあなたが決めるのです。

あなたは知らないうちに亀を追いかけているのです。
あなたは知らないうちに亀に名前を付けているのです。

あなたが亀に付けた名前を見れば
あなたが亀を追いかけた先は予測できるのです。
あなたが亀を捕まえることが出来ないことも。

意味や意図の共有を図ろうとしないコミュニケーションにはあまり興味がありません。

あなたは無意味だと言いながら意味を掴もうとしているのです。
意味を掴みたいならまず有意味に捉えることです。
無意味だと捉えることが出来るものに対して、
それがどういう名や意味をもつか自ら定義をしないで、
共有することなど不可能です。

何を仰っているのか全然分かりません。

稚拙な例えで申し訳ありませんが書きます。

2進法で0.1の後ろに1を付けていく作業を考える
0.1
0.11
0.111

次に0.1の間に0を付けていく作業を考える
0.1
0.01
0.001

無いが有る
無いが無いが有る
無いが無いが無いが有る

秩序が無いという秩序が有る
秩序が無いという秩序が無いという秩序が有る
秩序が無いという秩序が無いという秩序が無いという秩序が有る

語りえないと語りえる
語りえないと語りえないと語りえる
語りえないと語りえないと語りえないと語りえる

分からないことが分かる
分からないことが分からないことが分かる
分からないことが分からないことが分からないことが分かる

Jさん、
僕が「語り得ない」「ナンセンス」としているものについて、それらがナンセンスや語り得ないものであるということが語り得ない可能性があるということですか。

「語り得ない」という事実を、語り得ているのでは?

はい、僕もそう考えていますので、Jさんが何を言われているのか分からなくて困っています。

可能性というよりは個人差という方が近いと私は考えるのです。

あなたが直面した事実は
あなたにとって確かな事実であると思うのです。
同様に誰かが直面した事実は
誰かとって確かな事実であると思うのです。

事実を語っているというあなたの立場において
誰かにとっての事実を「私的言語がある(ない)」と語る誰かに対して
あなたにとっての事実を「私的言語は語り得ない」と語って
あなたは何を訴えようと考えているのですか。

あなたは「私的言語は語り得ない」という言明だけで
あなたが直面した事実の全てを適切に語り得ていると思いますか。
例えばあなたが直面した事実から「私的言語がある(ない)」
もあなたは語り得るのではないですか。

自分が何かを語っている気になっていたら、それだけでなにかが語られていることは確実だ、ということを仰っているのですか。

どう話が繋がっているのかも、Jさんの言いたいことも、僕には見えません。Jさんは、自分で何が言いたいか分かっておられるのですか。

>あなたは「私的言語は語り得ない」という言明だけで
あなたが直面した事実の全てを適切に語り得ていると思いますか。

そんなこと思うわけが無いです。

>例えばあなたが直面した事実から「私的言語がある(ない)」もあなたは語り得るのではないですか。

僕の説明している私的言語が語り得ないこととは、全く別物の「私的言語」について語っておられるとしか思えません。Jさんの言う私的言語とは自分が直面した事実からあったりなかったりすることが言えるものなのでよね。僕の言う私的言語が、その、Jさんが言うようなものだと、Jさんに誤解させたのはどのページのどの記述ですか。僕のどの記述を読んでそう思われたのでしょうか。そのような誤解をさせる記述はしないように気をつけていたつもりなのですが。

あなたは直面した事実から
「私的言語は語り得ない」という事実を語り得るのでしょう。
「私的言語はある(ない)」という事実は語り得ないのですか。
あなたの直面した事実の全てを語っていないと言うのであるならば
全てを語っていただければ良いと思うのです。
もしそれもできないというのであれば、
あなたの直面した事実というものは、
あなただけが分かっているものだと私は思うのです。

「私的言語はある(ない)」という言明を
「私的言語を語り得ている」と考えることができるならば、
「私的言語は語り得ない」という言明を
「私的言語を語り得ている」と考えることもできると私は思うのです。

>「私的言語はある(ない)」という言明を「私的言語を語り得ている」と考えることができるならば、

できません。

メアリーがゾンビだとするなら外に出ても「反復できるクオリア」を獲得できるとは限らないのではないでしょうか。

私は「反復できるクオリア」は「反復できないクオリア」とは別の概念ではなく、「反復できないクオリア」が「反復できるクオリア」を内包していると考えています。(これは個人単位の話です)

すなわち、テレビの画面を持たない人はそもそもテレビに任意の色が映ること自体がないわけであります。

これをメアリーの話に適合すると、そもそも「反復できないクオリア」を持たないゾンビであるメアリーは外に出ても「反復できるクオリア」を獲得するとは限らない、ということです。
見かけ上は白と黒以外の色のクオリアを持たないメアリーが外に出ることでほかのクオリアを獲得しているようにも見えますが、これは、明らかに真であるとはいいがたいように見えます。

確かに、ゾンビであるメアリーが「赤い色はリンゴの色だ」という知識しか持ち合わせていないのに外に出た途端に「リンゴ」と「トマト」の色のクオリアの共通性に気付き、「トマトは赤い」と言い出したとしたら、メアリーは「反復できないクオリア」を持たないにもかかわらず、「反復できるクオリア」を獲得し、それをほかの対象に当てはめることができたと考えられます。しかし、メアリーの問題は前提として「メアリーは視覚に関する物理的事実をすべて知っている」のであります。
つまり、観測者からは「外に出たメアリーが知覚経験に基づいてクオリアの規則性を抽出して色を語っているのか、はたまたただの『知識』に基づいてその色を語っているのか」は判断不能であります。メアリーがゾンビだとしても、経験に基づいてクオリアの知識は得ることができる、という点がこのような誤りを導きやすくしているのだと思います。メアリーはクオリアその物自体は得ることができないのです。


しかし、どちらにせよ個人のクオリアが他者のクオリアの絶対的な存在証明には成り得ないのですから、私たちは経験から他者も何らかのクオリアを持っている可能性が高く、それは自分の持っているクオリアと同一である可能性も高いということしかできないのだろうと思います。そうでないと話が進まなくなりますから。

サイトウさん、コメントありがとうございます。僕の主張がどのように解釈されどこまで正しいのかを確かめる伝になるので、コメントいただけることはとても嬉しいです。

意識の哲学で一般的に「クオリア」と呼ばれるものには様々な内容のものが混在しています。
その様々なクオリア観をまずは二つに分けて考えてみましょう、と提案したのが上記本文です。一般的にクオリアと呼ばれているもののうち、反復して何度も比較したり名指したりすることが出来るものと、出来ないものに分けましょう、という提案です。この分け方は、Aか¬Aかを問うものですから、対象は必ずどちらかに弁別分別され、どちらかがどちらかを内含したり内包したりすることはありません。ですから、
>私は「反復できるクオリア」は「反復できないクオリア」とは別の概念ではなく、「反復できないクオリア」が「反復できるクオリア」を内包していると考えています。

と仰っているときの「反復できるクオリア」と「反復できないクオリア」は僕の言っているものとは別のものだと思います。
また、

>メアリーがゾンビだとするなら外に出ても「反復できるクオリア」を獲得できるとは限らないのではないでしょうか。

については、話の設定が、メアリーが部屋を出たら「 彼女は「赤」という語をみずからの意識経験にもとづいて対象に適応することはでき」るようになった、ということですから、そうであるならその「意識体験」は原理的に「反復できるクオリア」でなければならないですよね。ってことを主張しているわけです。おかしいですか。

僕が本文で批判している鈴木氏もサールもネーゲルもそのクオリア観は反復できるクオリアとしてのものだと思います。反復できるが故に機能的に言語化をゆるしてしまい、自分にクオリアがあることを言えるものにし、自分がゾンビになったりスペクトラム反転したりしても自分で気づけるものになります。これは、どうみても跳ね踊るクオリアに自分では気づき得ないとしたチャーマーズのクオリア観とは違います。だから、その鈴木氏の「クオリア」とチャーマーズの「クオリア」を別物として分けて考えようとした訳です。そして、分けて考えてみると、鈴木サールのクオリアは単なる反復できる比較可能なもののはずだったのに、比較不可能な現象的意識の質そのものにまで言及している、ごまかしがあるのが分かる、と言うのが僕の主張なのです。

どうでしょう。分かってもらえるでしょうか。


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