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2015年5月21日 (木)

現実世界と〈私〉とクオリアはホントに在るか<クオリア再考5>

 ダークマターとは、この現実の宇宙空間に大量に存在しているが、我々を構成している物質とは重力でしか関与し合わないので、その存在にほとんど気付くことが出来ないような不思議な物質である。我々を構成している物質には、強い核力、弱い核力、電磁力、重力の4つの力だけが働き得る。そのうちの、重力だけが遠い遠い遠方にまで力が働き得るので、天体の運動などに対しては影響が大きい。しかし、近距離では他の3力に比してものすごく弱い力しか働き得ない。だから、重力だけでしか僕と作用し合えないダークマターが僕の目の前に巨壁を作っていたとしても、僕はそれに気付くことができず、知らぬ間に通り過ぎてしまう。もしかすると、ダークマターで形成された世界が目の前にあって、ダークマターでできた恋人達がダークマターでできたお茶を飲んでいるかも知れない。でも僕はその存在には全く気づけないままだ。僕らにとってダークマターの存在はかなり捕まえにくいものだ。捕まえにくいのは捕まえにくいが、それでも重力は相互に作用し合うのでその存在を認識することは不可能ではない。
では、重力さえも僕らに関与せず、如何なる作用も関与し合わないようなスーパーダークマターなるモノを想定してみよう。このスーパーダークマターは思考可能だろうか。
その存在を確認することは不可能だ。
でも、想像するだけなら十分思考可能なのではないだろうか。僕は原理的にそれを知り得ないのだけれど、神の視点で世界が見えるとするならば本当は、僕の目の前に今、僕とそっくりなスーパーダークマターの意識主体D氏が存在している、と想像できて、その想定は完全に有意味であるように思われる。
しかし、この「D氏」という命名によって、僕はその本当に存在するであろう存在者を名指し得るのだろうか。
或る意味では確実にできるとも言えるだろう。それは、「 神の視点で世界が見えたなら本当は、僕の目の前に今、僕とそっくりなスーパーダークマターの意識主体D氏が存在しているとする」と定義したのだから、僕が想像したD氏は実在者そのものだと考えるのだ。しかし、この考え方によると、「D氏の存在」とは「D氏は定義的に実在するのだから実在する」というトートロジーに過ぎないのだから、この現実世界の記述ではあり得ない。単なる「おとぎ話の世界での実在」という、なんだか訳の分からない存在でしかないのだ。少なくとも、現実世界のことはこれっぽっちも語れてはいないのだ。
では、確実ではない話だろうが、「D氏の存在」なる言明を「D氏が存在する可能性が在る」とするだけの話だとすれば、有意味な言明だと考えることができるのではないだろうか。
しかし、それも無理な話なのだと僕は考えている。だって、本当に平行宇宙に存在するはずのD氏と想像のD氏が どれだけ近いのかを測ることは絶対にできないからだ。本当の平行宇宙があるとしても、その平行宇宙の存在を語るための基準を持つことは
、僕には絶対できないからだ。何一つ物理的作用が共有できないのだから、その平行宇宙の「距離」なるものがどういう物理法則や幾何学に当てはまるものなのか、まったく想定できないし想像のしようがない。我々の世界の物理法則や幾何学が当てはまらなければならない理由は何もないのだ。距離だけでなく、その平行宇宙における「形」とは如何なるコトガラなのか、「色」とは、「時間」とは、「固さ」とは何なのか、全く分からないのだ。例えば「今この時同時に僕の目の前に座っているD氏」という言明で以て何かを表そうとしたとしても、「この時」とは如何なる時間か、「同時」とは如何なる時間関係か、「僕の目の前」とは如何なる空間位置か、その言葉に意味を持たせるための基準が何もないのだ。
だから、「D氏の存在」はその可能性だけを問うレベルの話、「もしかするとそうかも知れない」というだけのレベルの話だとしても、やはり、意味が持てないのだ。スーパーダークマターのD氏なる存在は思考不可能なナンセンスなのである。現実世界と関与し合わないモノだけから出来ている世界なんてナンセンスなのだ。

現実世界だけが本当に在ると言えるのだ。

しかし、それでも、僕の住んでいる「この」現実世界だけが何故特別なのだろうか、という疑問が僕には残ってしまうんだ。

僕が死んでもこの現実世界だけが 特別なのだろうか。例えば、僕が死んでその平行宇宙のD氏に生まれ変わったとしたら、その平行宇宙だけが特別になるのだろうか。

そもそも、現実世界だけが本当に在るなんていう話は、本当か。信用できるのか。

でも、まあ確かに在るよなあ。

話を変える。
永井均のいう〈私〉は、僕だけにしかない。他者の〈私〉なんて、ナンセンスだ。
でも、何故僕が僕である僕の「この」現実世界だけが特別なのだろうか。
そもそも、本当に〈私〉なんて在るのだろうか。
在ると考えていることの方が実はナンセンスなのではないか。
でも、まあ確かに在るよなあ。

話を変える。
僕にクオリアが在ることは疑い得ない。一方、他者のクオリアなんて確認しようがない。ロボットのクオリアなんていう想定はナンセンスだ。

でも、なぜ、僕だけがクオリアを確認できる僕の「この」現実世界だけが特別なのだろうか。
そもそも、本当にクオリアなんて在るのだろうか。
在ると考えていることの方が実はナンセンスなのではないか。
でも、まあ確かに在るよなあ。

本当か。現実世界は在るのか。
本当か。〈私〉は在るのか。
本当か。クオリアは在るのか。
在るよなあ。
在るのかなあ。
僕は、どこで間違っているのか。

つづく

クオリア再考

★大阪哲学同好会へのおさそい★

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