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2015年5月21日 (木)

クオリアも〈私〉も世界も在るとは言えないはず<クオリア再考6>

記述文は、それが真か偽かであることを示すことのみを以て世界を語ることができる。ならば、その文が真偽の値を持たないものであったり、有意味に真になることがあり得なかったりするならば、その文が語る世界も真なる世界になることはあり得ない。

だから、例えば、「私にはクオリアが在る」という文も、真や偽だと示すことを以て世界を語ろうとするはずである。しかし、この文は、語り手が仮りに クオリアを持たないゾンビだったとしても「私にはクオリアが在る」という言明を真だとして表明するはずである。クオリアを持つ主体もクオリアを持たないゾンビも物理的構成は完全に同じなのだから行動や発言に違いが出るはずがないからだ。そして、それゆえ、その発言の真偽は何の意味もないものに成り下がってしまう。本人にも他者にもその真偽は判明し得ない疑似命題でしかないものと言えることになるのだ。これは、偽になり得ない文であり、それゆえ真であると主張したとしても、何の効力も持てない文なのだ。それゆえ、この文は世界を記述する文ではあり得ないと断定できる。
だかしかし、それでも僕には、「私にはクオリアが在る」という文は、完全にこの本物の世界を正確に記述しているようにも思われる。
僕の考察はどこか間違っているのだろうか。

また、例えば、唯一実在する本物の世界の開闢者であり、唯一絶対の主体であるところの〈私〉なるモノゴトについて、「世界には〈私〉が在る」という文を考える。この文は、それが真だと示すことを以て、世界を語るはずである。しかし、この文は語られるときには必ず真になり、偽になることはあり得ない。仮にこの世界中のすべての発言者が実は世界の開闢者でなく、世界が開闢していなかったときに限り、この文は偽になるのであろうが、開闢されていない世界の事態なんて無いに等しい。開闢されていない世界に限って偽であるなんて、必ず真であることに他ならなのではないか。
だから結局、これは、偽になり得ない文であり、それゆえ真であると主張したとしても、何の効力も持てない文なのである。この文は世界を記述する文ではあり得ないのだ。
でも、それでも僕には、「世界には〈私〉が在る」という文は、完全にこの本物の世界を正確に記述しているように思われる。
僕の考察はどこか間違っているのだろうか。

さらに、例えば、「世界が在る」という文は、それが真だと示すことを以て、世界を語るはずである。しかし、この文は誰かが語るときには必ず真になり、偽になることはあり得ない。仮にこの世界がなくなり得たときに限り、この文は偽になるのであろうがこの発言が存在している時点で、その発言の存在だけから、すでに世界は存在していると言える。
だから結局、これは、偽になり得ない文であり、それゆえ真であると主張したとしても、何の効力も持てない文なのだ。だから、この文は世界を記述する文ではあり得ないはずだ。
でも、それでも僕には、「世界が在る」という文は、完全にこの本物の世界を正確に記述しているように思われる。
僕の考察はどこが間違っているのだろうか。

つづく

クオリア再考

★大阪哲学同好会へのおさそい★

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