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2015年5月16日 (土)

語の反復可能性と語の検証基準確保性が同値であるわけ<クオリア再考4>

反復可能性の問題は 何を以て反復と見做すのかが1つの焦点になると、そして、 そのポイントはその反復が 意図的で某かのルールに基づいているかどうかにあると、僕は考えています。
例えば、車を見て「ブーブー」という語を対応させることを覚えた子どもが「ブーブー」という発声を反復するとき、何を以てそれを語の反復と見做すのか。
「ブーブー」の発声の仕方一つをとってもそれが反復であるか否かは自明ではありません。それが完璧に同じ空気の完璧に同じ振動状態であることはあり得ません。だから、大体同じだということを以て同一の「ブーブー」という発声であると見做すこと、「見做し」による同一性の判断が必要になります。
話し手などがその「ブーブー」を同一の発声と見做すならばそれはその話し手にとって同一の発声に「成る」のであって、もともと初めから無条件に同一か否かが決まっているわけではありません。或る発声がまた別の或る発声と同一の音声を成していると見做されればその発声は反復されたことに成るというわけで、そう見做されなければ反復したことにはならないわけです。
「ブーブー」の発声の同一性に関してだけでなく、Γブーブー」の意味する内容の同一性についても、話し手の意図と関係なく無条件に初めから決まっている意味が存在するはずがありません。同一とする「見做し」によって初めて同一の内容を持つ語になるはずです。或る車がその子の目の前を通つたときに「ブーブー」と言ったのなら、その発声は最初に言っていた「ブーブー」と同一の意味を持つ語であるとして良いのでしょうか。もし目の前に車が見えなくてもその子が車をイメージしながら「ブーブー」と言ったのなら その発声は最初に言っていた「ブーブー」と同一の意味を持つ語であるとして良いのでしょうか。この問題についても、やはり、同一の意味だと「見做す」か否かだけが関係するのではないでしょうか。そして、その語を同一と見做すか否かを自分自身でどう決めるのか。そこには普通何かのルールがあるはずだと考えられます。僕は、語の意味とはこのルールのことなのではないかと考えています。
そして、そこに何かのルールがあると仮定してそのルールに基づいて、その語の真理値を測ろうとしたものがΓ検証基準確保性」になるのです。
ですから、その一つのルールに基づいて、語の「反復可能性」と語の「検証基準確保性」が為されることになります。
語の「反復可能性」があることと語の「検証基準確保性」があることは結局、同値になってしまうのです。
その子が、例えば、車が見えたことと「ブーブー」を対応させているというルールがあったのなら、世界の事実としてその子が車を見たときそのときに限って、「ブーブー」は同じ語として反復されたのだと見なされ、そして同時に、真なる命題として見なされえることになります。
ただし、これは、文が真理値を持ち得る一部の場合に限っての話で、真理値が策定されない文については、このかぎりではありません。

大哲同好会ウラサキさんから「検証可能性」という語は誤解されやすいと指摘されて、確かにそうかもしれないと思えたので、「検証基準確保性」という言い方に言い替えています。

つづく

クオリア再考

★大阪哲学同好会へのおさそい★

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コメント

私にとって「検証基準確保性」という語はあまりに難解です(^^;)

ウラサキさん、
結局のところ、僕の言っていることは、ダメットの反実在論(言語論的反実在論)ですから、言語論的実在論に疑いを持たない方には、奇妙へんてこりんな話にしか見えないのじゃないかと思います。

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