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2015年5月22日 (金)

「何故何もないではなく、何かがあるのか」を考える<クオリア再考7>

「何故何もないではなく、何かがあるのか」という有名な問いを考える。

「世界はある」。確かに「ある」、ように思える。
しかし、この「ある」ってのは「無い」に対してそうではないとする、という意味でしかないはずだ。「世界がある」っていうときには必ず「世界が無い」ってのを想像して、それとは違うという認識をしてるはずだ。
しかし、「世界が無い」っていう想像はどういう想像か。その想像は、世界に存在者は何も無いのだけれど、その何も無い場所としての器はそのまま残っていて、その器の中身が何も無いというのを、想像しているだけなのではないか。例えば、物質や物理的実体は何も無いのだけど空間そのものや時間そのものが残っているような、「何も無い空間」や「何も無い時間」なるものがあると想像しているのではないか。所詮、「世界が無い」というのは「時空間内には如何なる存在者も無い」というレベルの「無さ」を考えているだけなのではないか。そして、「世界がある」というのも、その無さに対するようなレベルの「世界がある」を考えているだけなのではないか。そして、そう考えているから「世界がある」が有意味に語り得る内容を持つと考えているのではないだろうか。

でも、ここで本当に問題にしたいのは、「時空間も何もかも全く何も無い」に対しての「ある」なのではないか。つまり、何も無い場所としての器自体が「無い」ことに対してのレベルで、世界が「有る」とする意味を問題にしたいということだ。しかしそうだとしても、「何も無い場所としての器自体が無い」という内容を、僕らは有意味な話として考えることができないのではないだろうか。
例えば、「ビッグバン以前には宇宙には時間も空間も無かった」という話がある。この話を理解しようとするとき、僕らは「時間が生まれる以前」なる言葉が意味を持つようにするために「時間以外の某かの前後軸」を新しく想定しなければならないはずだ。「時空間自体が無い」ということがもし有意味であるのなら、時空間が無いことを受け入れるための新しい「何も無い場所」が必要になる。そういう器がないのなら、何かが「無い」ということ自体が言えないはずなのだ。そうでなければ、「ビッグバン以前には時空間さえ無かった」と言うときの「以前」も「無かった」も意味のないナンセンスでしかないのだ。

「~である」は「~でない」の対概念としてのみ意味を持ち、「~でない」は「~である」の対概念としてのみ意味を持つ、というのが、ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の主要論点の一つだった。文とは真であるか偽であるかが示されることによって世界を記述するものである。そして、文の意味とは、文が世界にフィットしているかどうかを調べるための指標である。世界がその指標にフィットしていれば「~である」であり、フィットしていなければ「~でない」になる。そのどちらかを言うことができるということが、文の有意味性なのである。
同様に、「~がある」と「~が無い」は対概念としてのみ意味を持つ。世界が、文「~ある」にフィットしていれば、それは「ある」ことになり、フィットしていなければ「無い」ことになる。ただし、このときフィットしているかどうかを判定するということは、どちらであるかを選ぶということである。文にフィットしているか否かという指標によって、世界の様子を二者択一の選択で切り分けることが、世界を記述するということなのである。言語は、世界の特定の対象そのものを一突きで捕まえ得る「銛」のようなものではないのだ。世界を真か偽かという二者に切り分けることができる、謂わば「包丁」のようなものでしかないのだ。
その世界を切り分ける「基準」が、文と世界とがフィットしたりしなかったりす可能性が常にまったく無いような「基準」であったならば、そのような基準ではフィットしているかどうかに世界を切り分けたり、判定したりすることはできない。もし無理に判定しようとしても、それは世界の様子をわずかにも記述したことにはならない。「~が無い」か「~がある」かに切り分けて世界を語るときにのみ、「~がある」は世界記述たり得るのである。だから、「~が無い」の可能性が無いような「~がある」なんてものは、「~がある」ことの記述にはなり得ないのである。

だから、「世界がある」という言明は、「世界が無い『状態』なのではないという意味での「ある」」というレベルの話に限って意味を持つのだ。ところが、このレベルとは違ってもっと深い意味での「世界がある」を考えるとき、つまり、「如何なる『状態』でもなく、『無い』でさえないような、『無さ』」に対するレベルでの話としての「世界がある」を考えるのなら、それはナンセンスの否定でしかなくなる。だから、その「世界がある」という認識自体がナンセンスになるのだ。

これが、「何故何も無いのではなく、何かがあるのか」という問いへの一つの答えになると、僕は考えている。
「何故何も無い『状態』なのではなく、何かがある『状態』になっているのか」というレベルの問いとして捉えるならば、僕らはその問いに、科学的に或いはその他の視点で解明を図ろうとすることができる。例えば「完全なる真空状態は物理的に不安定だから」などという答えを用意することができたりする。
一方、何かが「無い」と判明されるためには、世界が某かの空状態になっていることが判明される必要があるのだが、ところが、そのような空状態になっているというレベルの「無さ」ではなく、「空状態」さえも無いというような、高レベルの「無さ」の問題を考えたいとするならどうだろう。そのような高レベルの「無さ」を問題にするならば、「何故何も無いではなく、何かがあるのか」という問いは、 「何故、空状態でさえも無いのでなく、空状態や何かの存在状態であるのか」 という問いになる。しかしこのとき、「何故空状態でさえ無いか」ということを問うこの問いには、意味があるわけが無い。答えられるわけが無いじゃないか。

「何故何も無いではなく、何かがあるのか」という問いは様々なパラドクスを生んできたが、それは上記のような有意味な問いとナンセンスな問いを一緒くたに考えてしまったために起こった混乱である、というのが僕の理解だ。つまり、時空間の中には何も無いけど時空間自体はあるとするような「無さ」に対するものとしての「世界がある」を思い浮かべることによって「確かに世界があるよなあ」と考え、その確認で以て「『無し』を入れる器自体が無いような「無さ」に対しての「世界がある」までも、肯定できると考えてしまったのである。

「クオリアがある」か「無い」かという問題についても同じ混乱によって「クオリアがある」とする断言が正当だとされてしまうのだと、僕は考えている。
でも、それでも、「クオリアがある」ということは間違いない事実に思える。これはどういうことなのか。これについては次節で考える。

つづく

クオリア再考

★大阪哲学同好会へのおさそい★

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コメント

「本当の世界」の大きさを測ることは不可能と思える程に困難です。
ですから「本当の世界」を扱うことをやめ、「実在の世界」を扱うことにしたわけです。

しかし、「実在の世界」の大きさを測ることはそんなに簡単なことではありません。
『「実在の世界」にある全て』に共通する何かを探すことは、
まさに「実在の世界」の大きさを測ることになるのではないかと考えます。

もし、仮にあなたが「言語によって記述できるものが実在するものだ」
とするならば、その世界の大きさは必然的に、
「言語によって記述できるものの世界」の大きさになるのではないかと考えます。

以下続きます。

私が上記のコメントを考えた末に疑問に思っているのは、
「ある法則に従うものと無関係なものとに分け、それを何らかの方法で結合させる」
ということを私たちはごく当たり前にやってのけており、それだけではなく、
このことを法則とした「広がり」から大きな影響を受けているのではないか。

もしそうであるならば、このようなことから離れて私たちは活動することができるのか。
そのとき、私たちは世界をどのように見ることが出来るのか。
ということなのです。

Jさん、

どうも言葉の意味が掴みきれず、Jさんの思考を共有することができません。

「ある法則に従うものと無関係なものとに分け、それを何らかの方法で結合させる」とは、どういうことをイメージされているのか、具体例を挙げて解説してもらえませんか。

それから、因みにぼくは、「言語によって記述できるものが実在するものだ」とは、考えておりません。

師匠、お疲れ様です。

おそれおおくも、師匠の考えを、不肖私が、まとめてみましょう。

①非機能的クオリア(クオリア)≡②私的言語≡③語りえぬもの
対として
④機能的クオリア(機能的感覚の質)≡⑤公的言語≡⑥語りうるもの
とします。

私もそうでしたが、クオリアを私秘的な感覚の質であると考えている人は結構たくさんいて、クオリアが無いというと、直観的な拒絶反応が起こることになります。しかし、師匠は、私秘的な感覚の質としてのクオリアは、言語的に機能しているので、有るとします。
つまり、機能的クオリアは、感覚的には私的であるが、言語的には公的であるということになります。「感覚」は「私秘的」なものなのに、言語が「機能」するという意味で、「公的」であるというところが、わかりにくいところではないでしょうか。

また、「言語による記述」は無いが、「言語による機能」は有ると、というところもポイントと思います。

師匠へ、添削をお願い致します。

taatooさん、
とっ散らかした文章どもを整理していただきましてありがとうございます。
全体としておよそ正しいと思います。

でも、
>「私秘的な感覚の質としてのクオリアは、言語的に機能しているので、有るとします。つまり、機能的クオリアは、感覚的には私的であるが、言語的には公的であるということになります」
について、微妙なところですが僕は、「「現象的意識の感覚質としてのクオリア」のうちの言語的機能を有しているものを「私秘的な感覚の質としてのクオリア」と呼ぶすると、「私秘的な感覚の質としてのクオリアは、言語的に機能しているので、有る」とできる」という感じの、まるでトートロジーな分析を考えています。その辺りを考慮して、上のようにまとめていただいたのなら、正しいように思います。また、「≡」の記号の使い方はていねいさに欠けるかと感じました。(ていねいさを気にせずに自分勝手な文章を書いている僕が言えることではありませんが)

本章で僕がアタックしたいと考えているのは、私的言語の不可能性の射程がどこまで有効であるのかを確かめたいということです。「クオリアの問題は私的言語と別問題だと考えている人」や、「クオリアは語りえないが示し得ると考えている人」に対して説得力を持つような思考をしたいと望んでいます。永井が「端的な私的言語は不可能」(私今そして神p160)としながら、「端的でない私的言語や今的言語は可能でなければならない」(同P161)としたり、メビウス氏が「クオリアが欠如したゾンビが思考可能であるゆえに、ゾンビは形而上学的にも可能であると主張し、そのことにより心と物が存在論的に異なる可能性を示すもの」などとしたりする考え方に対して、その考え方がどこまで有意味な「考え」になりうるのかを問いたいと考えています。ウラサキさんはクオリアを語りえるものと語りえないものとに峻別すること自体に、拒否反応を示されましたが、この間、クオリア批判は様々な拒否反応を引き起こすことを実感しました。その拒否反応に寄り添いながら、その拒否反応がどこまで有意味なのかを再考したいというのが、僕の希望しているところです。

そういう意図から言うと、taatooさんのまとめは大変よろしいものなのですが、できればそれ以上の何かが示せるようになると良いなということを考えています。

では例として、

『クオリアが「ある」』は「ある」という法則に従うものだという確認となり、
それが『どのように「ある」』という法則は示されません。
もしそれを示したいと思うならば、
『このように「ある」』という法則に従うものだという確認を行うことになるでしょう。
『クオリアが「ない」』としても同じなのではないでしょうか。

『クオリアが「ある」』や『このように「ある」』という法則に従う確認を行なったとして
クオリアがその示された法則だけのものであると納得できるでしょうか。
例えば、まだ知らない法則を持っているのではないか。
法則の異なるものが合わさりあって出来ているのではないか。
ということを考えるのではないでしょうか。

「言語によって記述できるものが実在するもの」という法則の確認を行い、
それを否決したあなたはその脳裏に、
「言語によって記述できるという法則に従うものと無関係なものが合わさることで実在のものになっている」と考えたり、
「実在のものは言語によって記述できるという法則に従うものと無関係なものに分類することが出来る」と考えることができると思いませんか。
実在するという法則に従うものやその世界の大きさを知らないのにも関わらず。

師匠へ

無謀なまとめにご指摘を、ありがとうございます。

そうでした。「現象的意識の感覚質としてのクオリア」のうちの言語的機能を有していないものがある、でした。そこらあたりが、このまとめの限界ですね。

「≡」は、ちょっとてきとう過ぎました。かわりに、何がよろしいですか?

クオリア再考、今後も楽しみにしております。また、よろしくお願い致します。


taatooさん、
たとえば、
①非機能的クオリア(クオリア)→②私的言語→③語りえぬもの

のような、十分条件の関係や、

①非機能的クオリア(クオリア)⊇②私的言語⊇③語りえぬもの

のような包含関係で扱った方が、僕はしっくりするような感じがします。


Jさん、
言語分析の手法では限界があり、限界の先にある「実在」を問うことができない、という批判を意図されていたという理解でよろしいですか。
朧の先にですが、Jさんの意図が見えてきたような気がして嬉しいです。

それから、因みにぼくは、「言語によって記述できるものが実在するものだ」とは、考えておりません。
と申し上げたのは、
(「言語によって記述できるもの」≡「実在するもの」)や(「言語によって記述できるもの」⇔「実在するもの」)とは、考えていないという意味です。
でも、
(「言語によって記述できるもの」←「実在するもの」)

だとは考えています。

私たちは影が映っている白い壁を見たとき、
影が映っているという法則に従う箇所と無関係な箇所とに分けることが出来るだけでなく、それでいて白い壁であることを理解しています。
分子を原子という法則に従う箇所と無関係な箇所とに分けることが出来るだけでなく、
それでいて分子であることを理解しています。

「クオリアはある」も「クオリアはない」も
「クオリアという名前を持つという法則に従うもの」の確認や
「言語によってその様を形容することが出来るという法則に従うもの」の確認を
行なわなくてはなりません。
もし、その確認を行なった結果として法則を否決した場合、
「それ」に対する考察や言明を行うことは可能でしょうか。

一方で、一度ある法則に従うものP1を定めると、
その法則に無関係なものN1と「P1とN1を結合させたものという法則」に従うものP2
という構造をとるのです。私たちにこれを制御することは可能でしょうか。

Jさん、
影がうつっている白壁を見たとき、「影がうつっている」という文の規則によって、世界を真か偽かどちらでもないかに分類して分析しようとするのが 言語分析の手法ですよね。Jさんが
「影が映っているという法則に従う箇所と無関係な箇所とに分けることが出来るだけでなく、それでいて白い壁であることを理解しています。」
とおっしゃるとき、それは上のような言語分析をイメージしていらっしゃいますか。

それなら、
「その確認を行なった結果として法則を否決した場合」とおっしゃるときの「否決」とは、「偽と判断する」「ナンセンスと判断する」「偽かナンセンスかのどちらかだと判断する」のいずれでしょうか。或いはいずれでもないのでしょうか。

また、
「ある法則に従うものP1を定めると、その法則に無関係なものN1と「P1とN1を結合させたものという法則」に従うものP2」
とおしゃる時の「P1」とは、例えば「白壁に影がうつっている」などの文が真になるような状況の可能世界を差すものでしょうか。それとも、世界全体を差すのではなく、世界の一部分を差すのでしょうか。
「N1」とは、 例えば「白壁に影がうつっている」などの文が偽になるような状況の可能世界を差すものでしょうか。それとも、世界全体を差すのではなく、世界の一部分を差すのでしょうか。

まだまだ、Jさんのおっしゃる言葉の意味が、遠いとおい霞の奥に見え隠れしているような状況で、もしかすると意味を共有できるかも知れないという希望が生まれつつある段階でしかありません。討論の先を急がず、言葉の意味を確認させてください。

私たちは「違い」というものを認識し、そこに「境界」というものを設定する事が出来、
同時に「境界」によって分けられたものが1つのものを形成しているとも認識できる。
と、言っているだけの事です。
そして、それが私たちの考察に影響を与えているだろうと考えているのです。
正直P1やP2などに言葉の意味を定める必要を感じません。
特に真新しいものでもないと思います。

無色の世界に「真、偽、ナンセンス」を判断して色を塗った世界を見ているのではないと思います。
脳がそのような判断をして色を塗っていたとしても、脳自身がそれを覚えてないのなら
同じことです。

Jさん、

いやいや、Jさんのおっしゃる意味を理解したいと思ってP1P2の意味するものを質問したのですが、「正直P1やP2などに言葉の意味を定める必要を感じません。」ということは、討論の意図は無いということですか。
それなら、無理して理解しようとしたり返答しようとしたりすることは止めておきます。

あなたはあなた自身が若い頃から全ての事柄に対して
「真、偽、ナンセンス」を判断して生きてきた訳ではないでしょう。
脳がその判断をしてきたとしても、脳自身がそれを覚えてないのなら同じことです。

であるならば、あなたは今も「真、偽、ナンセンス」といったことではない
判断をしていることがあるはずだと私は思うのです。

Jさん、
残念ですが、言葉の意味の共有ができません。仰っていることが理解できるかもしれないと期待したのですが、僕の読解力では無理なようです。

見てもいないものに真のカタチを想定え《あたえ》るのが、我々の本質であり宿命なのだと。

言葉にできるものは実在するか、というのは、祈りの先に神が在る《いる》のかを問うのと同じくらい虚しい。


問題は、祈りの先に神がいるのかではなく、言葉に対応する実在があるのかではなく、その主体《主体とさえ呼べるのかさえ分からないが、》の抱えている問題に応えることができるかである。

科学であれ、宗教であれ、当人の問題とすることに応えられたと感じられるなら、それは優劣を超えて素晴らしいことである。

諦を知らん者は、真理を追いかけ迷い彷徨う。諦を識る《しる》者は、役に立ってこその論と知り、結果、実践を重んずるのである。

神がいるとかいないとか、くだらないことを長々と論じるより、あなたが問題とすることを論じるべきではないのか。

見てもいないものに真のカタチを想定え《あたえ》るのが、我々の本質であり宿命なのだと。

言葉にできるものは実在するか、というのは、祈りの先に神が在る《いる》のかを問うのと同じくらい虚しい。


問題は、祈りの先に神がいるのかではなく、言葉に対応する実在があるのかではなく、その主体《主体と呼べるのかさえ分からないが、》の抱えている問題に応えることができるかである。

科学であれ、宗教であれ、当人の問題とすることに応えられたと感じられるなら、それは優劣を超えて素晴らしいことである。

諦を知らん者は、真理を追いかけ迷い彷徨う。諦を識る《しる》者は、役に立ってこその論と知り、結果、実践を重んずるのである。

神がいるとかいないとか、くだらないことを長々と論じるより、あなたが問題とすることを論じるべきではないのか。


恐らくこれは『差別』ではなく、全ての人に等しく言えることであり、普遍であり、また、どうしようもなく冷たく温かい感情である。

なぜなら、それは個体の差異、感じ方によるものだからである。

それを他人の所為にし、差別だの悪だの騒ぎ喚き散らすは、人間の、理性を無視した悪性である。

人間は、どうしようもない情況になれは、これと言わんばかりに、常軌を逸した行動に出る。
だからこそ、彼は、どうしようもなく、人間だった。

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