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2015年5月10日 (日)

クオリアが思考することさえできないわけ<クオリア再考3>

非機能的クオリアは語り得ない。
なぜなら、非機能的クオリアは検証不可能だからだ。

随伴現象説ならばクオリアが語ることはできると主張する人がいるがそれは間違いである。


目に見えず物理的に一切の相互作用を持たないコバンザメがいてジンベエザメの腹には必ずそのコバンザメがくっ付いているのだとしよう。


さて、このコバンザメは語り得るか。不可能ではないだろうか。
ジンベエザメを語ることによってコバンザメをも語ることができている、とすることができるか。そんなことでコバンザメを語ったと言って良いことにするゲームに何の意味があるのか。


そのコバンザメは確かに「円い四角」のような恒偽(必ず偽になる、矛盾)ではない。ならば、コバンザメは語り得るとして良いのか。
その「コバンザメ」という語は一体何を指すものなのか。ジンベエザメが通ったときにそれを確かめて「コバンザメがいた」と発声するというゲームがあるとする。この言語使用において「コバンザメ」という言葉はジンベエザメの腹が見えたということを意味するだけではないか。


しかし、その「コバンザメがいる」という事実を直接確かめることはできないとしても、空想の「コバンザメ」のイメージを語ることはできるのではないだろうか。確かに。それはできる。ただし、それはもちろん、実際にジンベエザメのお腹に貼りついている「コバンザメ」そのものを語っていることにはならないのだ。「コバンザメ」は確かに空想可能といえるかもしれない。しかし、実際にジンベエザメの腹に貼りついている「コバンザメ」そのものは、空想することさえできないのだ。それは、空想ではないコバンザメを空想するという語義矛盾をなすことになってしまい、ゆえにその語の意味が確定できなくなってしまう。それゆえ、「コバンザメ」という存在は矛盾でさえなくナンセンスになってしまうのである。こ
の語りえなさは、「円い四角」のような恒偽ゆえの語り得なさなのではなく、「○●i□◆uの存在」のようなナンセンスゆえの語り得なさでしかないのである。


だから、同様に、非機能的クオリアも、随伴現象説を取ったところでナンセンスな語でしかなく、語り得ないのだ。

しかしそうは言っても、「自分が検証不可能な自分の痛み」なんて矛盾概念なのではないか。
もちろん自分の痛みは自分で確認でき、検証できるはずである。自分で検証できないのなら、それはもはや「定義的に」自分の痛みではないはずだ。でも、非機能的クオリアはすべての機能を持たないのだから、そのクオリアの存在を確かめられないことも「定義的に」明らかなはずである。どっちが正しいのだろうか。どっちも正しいのであろう。つまり、自分が定義的に検証できる自分の痛みの質感は、定義的に検証できない非機能的クオリアとは別物だとしなければならないのであろう。

それでもまだ、非機能的クオリアは語り得なかったとしても、物的一元論の反証になり得ると考える人がいる。
「物的一元論の立場では物理的なものが全てを決定するのだから、物理状態が同じでありながら心的状態が異なることはありえないので、ゾンビは「思考可能」ですらない。ところが非機能的クオリアを欠いたゾンビは思考可能であるので、物的一元論は完全な世界モデルではあり得ない・・・」と言うのだ。

しかし、その主張は正当だろうか。すごく巧妙ではあるが、残念ながら正当な主張ではない。どこがダメかと言うと、非機能的クオリアなるものは現実の感覚の質感とは何の関係もない空想クオリアもどきだからである。空想のクオリアもどきは確かに空想可能である。でも、そんな空想のクオリアもどきが空想可能であることによって物的一元論が否定されるのであれば、どんな世界モデルも否定可能になってしまう。この主張が正当な主張であるためには、少なくとも、その思考可能であるはずの「クオリア」とは何であるかを我々が分かっていなければならないはずである。ところが、そこで語られるべき真のクオリアは、一切の機能が無いがゆえに原理的に一切の言語ゲームに乗ることができない。空想のコバンザメでしかないのだ。そのために、我々はその「クオリア」なる言葉が何を指しているかを正しく知ることができないのである。「クオリア」を空想しようとしても、それが本当に非機能的なものであるのならば、それは何を空想すべきなのかを原理的に自分でも分からなくなってしまうはずのものなのだ。

だから、ゾンビ説なるものが本当に思考可能なのだとしたら、そこで思考されているクオリアは非機能的クオリアではあり得ない。それが本当に非機能的なのであれば原理的に思考不可能なはずだからだ。ゾンビ説で思考可能だとされているクオリアの欠如は、自分が定義的に検証できる自分の痛みの質感としてのクオリアであって、定義的に検証できない非機能的クオリアとは別物なのである。

定義的に非機能的クオリアは検証不可能であり、それゆえに、非機能的クオリアの存在を語ろうとする文は真にも偽にもなり得ない。


非機能的クオリアの存在は、真にならないかも知れないが、すくなくとも偽ではないのだから、それは有意味な主張になり得ると考える人もいる。しかし、それはに、空想のコバンザメとしての、おとぎ話としての、非機能的クオリアもどきの話でしかない。定義的に原理的に実際の非機能的クオリアは語り得ず、思考できず、まさに何ものでも無いのである。「無い」でさえない存在し無さというナンセンスな対象なのである。

前節と本節の内容について、よそのサイトで討論させてもらおうと考えたのだが、どうも僕の言葉が誤解を生む言い方だったようで、理解不足の迷惑者と受け取られてしまったみたいだ。立入禁止にされてしまった。誤解を受けずきちんと理解してもらえるような言葉づかいを磨かねばならないと思う。

つづく

大阪哲学同好会に来ませんか

クオリア再考

心は実在するか

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コメント

今晩は。誰かがコメントをされる前に先に言わせて下さい。
クオリアのテーマは気楽で面白くていいですね。と言うのは、「感覚の質感」は
純粋に主観的な事柄のように私には思え、これを議論する上で、生理学的研
究室や物理学的実験室など必要とせず、その意味で、これに関してはどんな
理論であろうと、私自身の内面的な所からの判断と横一線に並んでいるもの
だろうと思うことが許されそうだからです。つまり、自分が感じる痛み、辛味、
赤み、臭み、‥‥といった私の“五感”の内容は、他の誰でもなく私しか分から
ないので(原理的に誰からも文句が入らないので)、堂々と意見が吐けるから
です。どんなに権威ある人が「これはこういう感じのことです」と言ったとしても、
私は「いや、私の感じは違います」と対等な立場で言うことができるからです。
もちろん、表現力の点で、ボキャブラリー(語彙)の差異がこの対等性(横一線)
を崩す可能性もあるかもしれません。それでもボキャブラリーが“感じ”を覆す
ことは不可能でしょう。
‥‥“いや、それはあなたの勝手な先入観で、まったく違います”ということで
あれば、この議論に入るのは遠慮いたします。これはハッキリ仰って頂いた方
がいいです。

平戸さん、こんばんは。

クオリアについて、それが自身のことであれば間違いなく語りえると、(僕から言わせると無邪気に)考えている人が多くてびっくりします。
「自分が感じる痛み、辛味、 赤み、臭み、‥‥といった私の“五感”の内容は、他の誰でもなく私しか分からない」と仰るということは平戸さんもそうお考えなのですよね。
しかし、自分でそれとわかるのであれば、それが因果性や機能性を持ち合わせていることは疑えないように思えます。それを仮に、随伴現象説ならば因果性や機能性を必要としないという人がいたとしても、上の本文で言った理由でそれは間違いだと、僕は考えています。どうがっばっても、非因果的非機能的なものを言語で拾うことができないというのが、僕の主張です。
平戸さんが仰っているのが、そんな非因果的でも非機能的でもクオリアでもない、単なる感覚の質の事なのだったら、他者よりも自分が優位だとされるのはその通りだと思います。

横山さん。
私はクオリアを「感覚の質感=感覚の感覚」と理解していましたから、(無邪気に)
面白みを感じていたのです。感覚を感覚できる機能は人間は持っていない、それ
なのにそれが在るかのごとく呼称するのは、もう冗談に近いだろうと‥‥それは
言語表現上の“行き詰まり”をやっきになって解決しようとしているだけ‥‥という
風に見ていましたから。まあ、入り口から間違っていましたね。では、失礼しました。

ワインの味や香りはクオリアですよね?

機能的であること(脳内反応?)が確認されるまでは語り得ないのでしょうか?

ウラサキさん、
よくいらっしゃいました。歓迎します。

ワインの味は辛いとか芳醇だとか語りえますよね。その語りえる味や香りは、語りえるがゆえに機能を持っていると言えると思います。だから、語りえる味や香りは明らかに「機能的」であって、「非機能的クオリア」だと考えてはいけないと僕は思っています。
でも、その味や香りには機能的でない本物の感覚があると僕でさえ言いたくなるときがあります。語りえないその感覚の本質こそが本当の味であり、本当の香りなのだと。しかし、それは、その定義によって、語りえないことが明らかです。

味や香りは機能的であることが確認されるまで語りえないのではありません。語りえた時点ですでにそれが機能的であることが実証されているのです。
そして、ワインの味や香りをクオリアだと呼ぶことは或る非常に消極的な意味では可能なのかもしれません。しかし、それは決して語りえることはありません。

ではチャーマーズや茂木健一郎さん達が「語っている」クオリアも「機能的」なのですね?

横山さんが散々語ってきた「非機能的クオリア」について語っている人は他にも誰かおられますか?

茂木の本は読んだことが無いので分かりませんが、チャーマーズはクオリアが機能的でないものとして扱っています。一般的にクオリアと言えば機能を有しない現象的意識の質のことを指しているとされているのに、意識が物理的実在者にスーパーヴィーンしているがゆえに、相互作用が無いのに示され得るものとして、チャーマーズは考えていたようです。
そこで僕は、その混乱をはっきりさせるために、わざわざ「非機能的」なる表現をしています。

クオリアに、「機能的」「非機能的」を分けるのあまり意味無いような気がします。
なぜなら、クオリアを語る人々はわざわざそれが「機能的」であることを確認はしないでしょうから。

ウラサキさん、

その点に僕の主張の焦点があります。
チャーマーズは明らかにクオリアは非機能的なものだとして語っています。心の哲学wiki管理人のメビウスさんもその点に関して心の哲学で問われているクオリアは非機能的なものだと認めておられました。
そしてその上で、チャーマーズは「実世界には現象的意識がある」と言っています。「現象的意識」の質が「クオリア」だとチャーマーズは断定していますから、つまり明らかにクオリアの存在を語りえるものとしていると言えます。

そのねじれに問題の本質があると僕は考えています。だから、「クオリア」で通じるはずの言葉にあえて「非機能的」と形容して、機能がないものであることをはっきりさせようとしているのです。

「非機能的」という形容詞が、混乱の元のような気がしますが、、、。

「非機能意的ワインテイスト」っていうとおかしいでしょ?

それは、ウラサキさんが、ワインテイストを因果性や機能性を有しているとお考えだからではないですか。
チャーマーズによると、クオリアには因果性や機能性が無いので、ウラサキさんのお考えのような「ワインテイスト」はチャーマーズが考えたクオリアとは別物なのじゃないかと思います。
僕のいう「非機能」はそのような言葉の意味の整理を図るために導入したものです。
本来、クオリアはもともと非機能的なはずですが、機能性のあるクオリアの話をされるかたがいるので、それとは別だとするための語です。水蒸気はもともと見えないものですが、「水蒸気がもくもくと上がってるのが見えます」などといわれる場面があるので、区別するためにわざわざ不要な「見えない」という形容をつけて「見えない水蒸気」といって湯気ではないことを確認しているようなものです。

師匠へ

>感覚を感覚できる機能は人間は持っていない、それなのにそれが在るかのごとく呼称するのは、もう冗談に近いだろうと‥‥それは、言語表現上の“行き詰まり”をやっきになって解決しようとしているだけ‥‥(平戸皆空さん)

最初の「感覚」と2つ目と3つ目の「それ」を、「非機能的クオリア」にお置き換えたら、それほど外れてないと思うのですが、どうでしょうか?


taatooさん、

>非機能的クオリアを感覚できる機能は人間は持っていない、それなのに非機能的クオリアが在るかのごとく呼称するのは、もう冗談に近いだろうと‥‥非機能的クオリアは、言語表現上の“行き詰まり”をやっきになって解決しようとしているだけ‥‥(平戸皆空さん)

ってことですね。素晴らしいです。平戸さんも、平戸さんの意図を読み取ったtaatooさんも。
taatooさんの解釈が正しいのなら、僕はその意見に大賛成です。

他人が感じたワインの味や香りも、直接には我々には感じられ得ません。
それをあたかも共通の味や香りを感じているかの如く、
社会的合意によって行われている言語ゲームが、
ワインテイスティングではなかろうかと思われます。

まさに「非機能的クオリア」なのでは?

語り得ない事柄だとされているものでも、社会的合意によって語り合えていることにしてしまえるようなゲームを組み立てることが可能だということですよね。
しかし、それは語り得ないとされている非機能的クオリアでも、自分自身では言語的に掴めているということを、前提にされていませんか。
他者には語り得ないけれど自分では分かっているということに関して、語り合えるようにするゲーム設定が可能だという話なのではないですか。
それなら、僕の言っているクオリアの話とは違ってきます。僕の言っているクオリアは、自分自身でも掴めないというところで言語化不可能なのです。
それとも、自分自身が掴めないクオリアでも社会的合意によって言語化可能になるという話なのでしょうか。

クオリアは定義上、自分に感じている質感ですよね。

それを「言語的に掴めている」場合といない場合があるのですか?

「言語的に掴めている」とは「言葉で上手く表現できている」
という事でしょうか?

僕が「言語的に掴めている」という表現でイメージしているのは、「言葉で表現し得るものとしてその語の意味対象を理解できている」です。

とすると、「非機能的クオリア」ってそもそも「語り得ないクオリア」って意味になりませんか?

なんだか自分で矛盾概念を捻出しておいて、ケチをつけているように見えますが、、、

非機能的クオリアは僕が捻出した概念ではありません。チャーマーズは現象的意識は非機能で非因果的だとしてその現象的意識の質がクオリアだと言っていますし、心の哲学wikii管理人メビウスさんもクオリアはもともと 非機能的であることを認めて下さいました。
僕はそのクオリアがナンセンスであることを主張したくてクオリアのうちの一般的なものは非機能的であることをはっきりさせようとしているわけです。

非因果的だからといって語り得ないとは限らないと思います。

横山さんはチャーマーズとは違う意味で「非機能的」という形容詞を使っているのではありませんか?

先に「非機能的=語り得ない」という定義を立てて反論しているように思えます。

ウラサキさん、

その、完全に因果性も機能も持たないものを言語ゲームの駒にしようとしても、結局、その非機能的なものが言語のシステムに引っ掛からない、コバンザメでしかないことを述べたのが、このブログページです。

ウラサキさん、
チャーマーズのいう「クオリア」と僕のいう「クオリア」、チャーマーズのいう「因果的」「機能的」と僕のいう「因果的」「機能的」は、同じ意味だと僕は考えています。僕のそれと違いがあると仰るその語は、どの本のどの部分に書かれているか分かりますか。

チャーマーズや心の哲学者たちが、
まさしくクオリアについて現に語り合っているという点です。

心の哲学におけるクオリア談義は、
ワインテイスティングと同様に社会的合意を得たものであり、
「彼らの語りは実はナンセンスなのだ」という主張は、
「アポロ11号は実は月に行っていない」という主張と似ているように思います。

勿論、そういう信念をお持ちになる事は自由です。

ウラサキさん、

1.クオリアは物理的存在に還元できない。
チャーマーズはクオリアを物理的存在に一元的に還元できないとし、それゆえに二元論を主張しています。
2.物理的に還元できないものは語ることができない。
3.クオリアの存在が語り得る。

このトリレンマについて、僕は1と2が正しいとすると3が間違いだと考えました。ウラサキさんは2と3を正しいとして1を間違いとすべきだというお考えだと理解して良いですか。
そうすると、前提が違うだけで僕たちの理解はそれほどずれていないのかも知れないと思いました。
いかがでしょうか。

私は2が間違いだと思います。

やっぱりそうですか。
2はやはり意見がぶつかりますね。大哲掲示板での議論のポイントがそこですものね。
では、取り敢えず、1「クオリアは物理的存在に還元できない」については了解してもらえたと考えて良いですか。

はい。

一方、すべて知覚には脳反応も伴うとは思いますが、
それは同一現象の別方向からの説明であり、
丁度、7色の虹が太陽光と水蒸気に還元できないのと同様です。

では、クオリアがあらゆる物理現象の原因になり得ず一切の物理的機能を果たせないことや、非機能的クオリアという言い方がチャーマーズのクオリアを表していることを、了解していただけますか。

「還元できない」と「原因になり得ない」の意味は異なると思います。
チャーマーズの使っている「非機能的」は「還元できない」という意味で、
「原因になり得ない」やましてや「語り得ない」という意味は無いかと思われます。
チャーマーズも私も脳反応とクオリアが対応していることや、
何らかの因果関係があることまでは認めています。

「還元できない」とは「別の言い方で過不足なく記述できる」くらいの意味でしょう。
「脳反応だけで記述しようとしても、記述しきれない部分」というのが、
チャーマーズらの「非機能的」の意味だと思われます。

「二つの心的概念。第一は現象的な心的概念。これは意識体験としての概念である。第二は心理学的な心的概念。これは、行動に因果関係をつけ、行動を説明付ける基盤としての心的概念である。或る状態が行動を生み出すのに申し分ない因果的役割を果たしていれば、それはこの心理学的な意味での心的状態ということになる。」(チャーマーズ「意識する心」邦訳p33)

チャーマーズのこの文章によると、「因果関係」は心理的心的概念に関与するのみで、現象的心的概念には関与しないと言っているように見えますが。

引用文では、

「意識現象」と「心理学的な心的概念」との間の因果関係には言及していません。
心的概念には2つの側面があると言っているだけだと思います。

「意識現象」と「心理学的な心的概念」との間の因果関係はここでは関係ありません。行動に因果関係をつけられるような側面があるのならその側面を(クオリアなどの現象的意識の側面とせず)、心理学的な側面と捉えましょうとチャーマーズは言っているのです。

ウラサキさん、

>チャーマーズも私も脳反応とクオリアが対応していることや、何らかの因果関係があることまでは認めています。

チャーマーズが脳反応とクオリアの因果関係を認めていることが分かる根拠はありますか。本とか講演とか。

『最新脳科学』(学研)に収録されたインタビュー(p.109)でチャーマーズは、
「意識が脳から生じるということには疑問の余地はありません。問題はそれがどのように生じるかです。」と述べています。

なるほど、その「意識」が現象的意識なのだったら明らかにチャーマーズはクオリアと脳状態の因果性を語っていますね。
では、還元できないのに因果性があると考えていたのでしょうか。それならチャーマーズはやはり変だと思います。因果性があるなら、必ずそこから還元できてしまうのじゃないかと僕には思えます。
AはいつもBの原因になっているのなら、「AはBの原因になるところのもの」と言えてしまうからです。

ウラサキさん

違いました。自然主義的二元論は、一種の現象随伴説ですから、脳状態はクオリアの原因になるのですよ。でもクオリアは一切の物理現象の原因にはならない。だから、クオリアは物理的世界に対して非機能的で非因果的なのです。
チャーマーズは、クオリアが結果になるということはあっても原因になることがあるとはいっていないはずです。

提案ですが、

お互いもう少し勉強しなおしてから議論しなおしませんか?
メビウスさんのおっしゃるように、
信原幸弘編『シリーズ心の哲学1人間編』(勁草書房)
くらいは読んでから議論した方が、
各論者の基本的なスタンスを踏まえた上、
標準的な用語使用で議論ができると思うのですが。

そうですね。
信原の書に僕の問題意識の内容が書かれていればいいのですが。取り敢えず読んでみます。

クオリアに限らず検証不可能な存在全体についても言えることですが、個人的には非機能的クオリアの存在を仮定して、どうしてもそれについて語りたいとすれば、そのクオリアに近似的なモデルとして扱う以上のことはできないと思っています。

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