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2015年4月22日 (水)

クオリアが「無い」でさえないわけ<クオリア再考2>

前提1.¬(「xがある」に真理条件がある) ⇔ ¬(「xがある」に真理値がある)

前提2.Pに真理値がある ⇔ ((Pは真)∨(Pは偽))

前提3.¬(P∨Q) ⇔ ¬P∧¬Q

推論4.2・3より、¬(Pに真理値がある) ⇔ ¬(Pは真)∧¬(Pは偽)

推論5.1・4より、¬(「xがある」に真理条件がある) ⇔ ¬(「xがある」は真)∧¬(「xがある」は偽)

前提6.「xがある」は真 ⇔ xはある

前提7.「xがある」は偽 ⇔ xは無い

推論8.5・6・7より、¬(「xがある」の真理条件がある) ⇔ ¬(xはある)∧¬(xは無い)

前提9.物理的に一切の機能を持たない非機能的クオリアを考えるときに、任意のyについて、「yの非機能的クオリアがある」の真偽は原理的に検証不可能

前提10.Rの真偽が原理的に検証不可能 ⇔ ¬(Rは真理条件がある)

推論11.9・10より、任意のyについて、¬(「yの非機能的クオリアがある」は真理条件がある)

結論12.8・11より、任意のyについて、¬(yの非機能的クオリアがある)∧¬(yの非機能的クオリアが無い)

つまり、非機能的クオリアは原理的分析的に「ある」でさえなく、「無い」でさえもないということだ。

つづく

この話、大阪哲学同好会の掲示板「第14回大哲感想」で討論中(2015.4.現在)。そちらの方もコメントご意見募集しています。大阪哲学同好会 掲示板

大阪哲学同好会に来ませんか

クオリア再考

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コメント

御坊哲です。いつもこのブログを拝見して勉強させていただいています。

一つ気になったのが、「『ある』でさえなく、『ない』でさえもない」と言う表現がどのような視界をもたらしてくれるのか、と言うことです。
私にはただ単に、前提9の「検証不可能」と言う言葉を「『ある』でもなく、『ない』でもない」と言う言葉に置き換えただけのように思えるのですが‥‥。

私自身は「クォリアしかない」という立場をとっています。クォリアは物理現象に随伴するものなのではなくて、逆に物理現象と考えられているものはクォリアから構成されたものだとみています。

御坊哲さん、コメント頂けて嬉しいです。ありがとうございます。

上の推論は大阪哲学同好会の掲示板で、エピフェノメナリズム論者と目される方への反論に挙げたものです。物理現象に随伴するというクオリアが非物理的なものであるのならそれは必然的に語り得ないことになるという推論から、そのようなタイプのエピフェノメナリズムは成り立たないことを論証しようとしたものです。

これに対して御坊哲さんは、以下のように言われました。

>クォリアは物理現象に随伴するものなのではなくて、逆に物理現象と考えられているものはクォリアから構成されたものだとみています。

このコメントに対して、2点疑問があります。

1.僕のいう「非機能的クオリア」と御坊哲さんのいう「クォリア」は違うものじゃないかという疑問です。
僕のいう「非機能的クオリア」は一切の機能を持たないものを想定していますから文法的分析的論理的に一切の物理作用がないはずです。
しかし、御坊哲さんの「クォリア」は物理現象の構成のもとになるものですから物理作用を有することになるはずです。
もし別のものなら、違うものについての有無をそれぞれに主張しても仕方ないので、その点の整理が必要になると思います。

2.2つめは、御坊哲さんはご自身の説がエピフェノメナリズムではないように仰っていますが、その違いは本当に有意味な違いかという疑問です。
「クォリアは物理現象に随伴するもの」という見方と、「逆に物理現象と考えられているものはクォリアから構成されたものだ」という見方は視点と表現が違うだけで、内容は同じなのではないかと僕は疑っているのです。どこが違うのか教えてもらえるとありがたいです。

3.もう1つありました。僕の上の推論の、前提や証明方法でおかしいところはありますか。あれば教えてください。
僕の主張は、
「検証不可能」⇔「真理条件無し」⇔「真理値無し」⇔「真でもなし∧偽でもなし」
というような同値記号で繋いだ推論ですから、単に言い替えただけのものだといわれればまったくその通りだと思います。しかしだからこそ、その論証はかなりしっかりしたものになっていて、確実に正しいと自負しています。

すみません。非機能的クォリアについて意味が分からないままコメントしてしまいました(たぶん今も分かっておりません)。無知をさらけ出してお恥ずかしいです。

でも、私の言いたいことはあまり変わりません。私が問題にしたいのは、「『無い』でさえない」という奇妙な日本語のことです。

検証不能なものについては、『真ともいえないし、偽ともいえない』とするのが一般的なような気がします。つまり、

≪ 前提10.Rの真偽が原理的に検証不可能 ⇔ ¬(Rは真理条件がある)≫

の右辺を通常の言葉にすれば、「Rは真とも偽ともいえない。」とするのが妥当ではないでしょうか。つまり、「クォリアが原理的に検証不可能なものであるなら、クォリアは有るとも無いともいえない」とするのが妥当ではないかということです。「『無い』でさえない」と言ってしまうと新たな形而上学的概念であるかのような印象を受けます。

もう一つの問題は、クォリアの検証不可能性についてですが、確かに他人のクォリアを直接確認することは原理的に検証不能です。しかし、自分のクォリアについて検証が必要でしょうか? 自分が恐怖にさらされているさなかに、思わず「怖い!」と叫びます。その時の自分を振り返って、「あの時の『怖い』は有ったのでもなく無かったのでさえもない。」などというのはいかがなものでしょうか。記憶の正しさを検証するというのならわかりますが、内在的なクォリアを検証するとなると、「証拠が証拠である証拠を出せ。」と迫られているような気がします。

横山さんから見れば、「あなたが怖かったと思っているのは、単に宗教的に怖かったと『信じて』いるにすぎない。」といわれるかもしれませんが、私からすれば「本当に怖かったのですよ。」というしかないです。

最後に、「『クォリアは物理現象に随伴するもの』という見方と、『逆に物理現象と考えられているものはクォリアから構成されたものだ』という見方は視点と表現が違うだけで、内容は同じなのではないか」という件ですが、視点の違いはとても重要だと思います。前者は客観的視点、後者は独我論的視点からの表現です。後者の視点に立てば、心身問題は解消されると私は考えています。

御坊哲さん、

「非機能的クオリア」は僕の造語です。一般的に通用する言葉かのような書きぶりをして惑わせてしまったかもしれません。すみません。意味は、デイヴィッドチャーマーズが哲学ゾンビに欠けるとした「現象的意識」の感覚質のことで、一切の物理作用をせず一切の機能をもたないような意識の質を指します。いわゆる「クオリア」そのものなのですが、機能を一切もたないことを明確にし、茂木健一郎などがいう検証可能な「クオリア」とは別物であることをはっきりさせようとしたものです。

3点の回答ありがとうございます。どれも非常に興味深いお話でもっと色々と深くうかがいたいです。1つ1つ討論の相手をしていただければ非常にうれしいです。
まず、次の内容から僕の考えを述べますが、御坊哲さんの興味から外れていくようならご指摘ください。

>検証不能なものについては、『真ともいえないし、偽ともいえない』とするのが一般的なような気がします。

についてです。
確かに一般的には「検証不能」な事柄については『真ともいえないし、偽ともいえない』とするものだと思います。ただ、その「真とも偽とも言えない」の意味合いには、原理的には検証方法があるのだけれど現実的に検証不可能だというような事柄も含まれているのじゃないでしょうか。ネッシーの不在を検証するのは現実的には難しいかもしれませんが原理的文法的に検証不可能なわけじゃありません。一般的に「検証不能」が「真偽を言えない」と表現されるのは、そのような「単なる現実的な検証の不能性」のために「本来は存在しているはずの真偽がわからないだけ」という意味合いを含んでいるからじゃないかということです。
しかし、「機能的クオリア」に関しては定義からして一切の「機能」が無いのだから原理的文法的に検証不可能なわけです。ですから、本来存在している真偽なぞ初めっからあるはずも無く、それゆえ「真偽がない」とでも「真偽が言えない」とでも「真でも偽でもない」とでも表現することが許されることになるのです。

この考えいかが思われますか。

師匠、こんなんどうでしょうか?

「真でない」という事態(A)が「有る」。
「偽でない」という事態(B)が「有る」。

そこで、「(A)と(B)が「有る」。」ではない、という事態は「有る」。

その最後の「有る」を、「有る」とするか、「有る」としないか。

それを、好みと言うか、言わないか。

名前忘れました。失礼しました。

taatooさん、コメントありがとうございます。面白いアイデアですね。

僕はその「「あるでも無いでもない」ではない」に2つの解釈ができるように思います。
1つは「あるとも無いとも言えない」で、もう1つは「あるでも無いでもないという新しい領域がある」です。

1つめの「言えない」は十分にあり得る話だと思います。それは、単に或るものがナンセンスであるか無いかが決定できないというだけの話になるでしょうから。もともとナンセンスと有意味は必ずしもきちんとした線引きができるものではないでしょうからです。

しかし、もう1つの「ナンセンスでも有意味でもない新しい領域がある」は、僕には無い話のように思えます。でもすごく興味深い思い付きですのでもう少し考えてみたいと思います。
何か大発見が隠れているかもしれませんね。

師匠へ

よかったです。ただ、今のところ、大発見はありませんが。(^-^;

掲示板の裏にて

taa:ウラサキさんは、排中律論者だと思うな。
too:うん、うん。
taa:師匠は、部分的な排中論者だと思う。
too:なるほど。で、お前は?
taa:うーん、ま、ハイチュウ論者ってとこかな。
too:へ~、なんか、おいしそう。
taa:あめでもないし、ガムでもない。
too:そう、そう、ハイチュウはハイチュウだよね。
taa:ハイチュウいるひと~。
too:は~い。

すいません。また名前忘れました。

taa さん、

私は排中律は便利ですので愛用しております。

でも基礎論的には形式主義(有限の立場)に最もシンパシーを感じます(^^;)

ハイチュウは時々(主に期間限定版を)、ファミマで買ってます。

各種類を1個ずつ試食した後、職場に寄付してます。

ウラサキさんへ、

コメントありがとうございます。師匠との討論は、基礎論の勉強としても、興味深いです。

「ハイチュウ」は、家族からよくもらってるうちに、というか、置いてあるのを勝手に食べてるうちに、好きになりました。

「ハイチュウ律」の言葉は、僕のおバカなオリジナルですが、「中論」の「空」をヒントにしています。掲示板のほうの話で、般若心経が出てきたので、ドキっとしました。ただ、ここでの「空」は「空即是色」に行く前の「空」だと考えたいと思っています。

僕の思索内容は、御坊哲さんの興味からは逸れるものだったのでしょうか。応答がなくなってしまいましたね。残念です。

クオリアナンセンス説について、ここで御坊哲さんと議論でき、「心の哲学wiki」というサイトの掲示板で管理人のメビウスという方が議論の相手をしてくださり、大阪哲学同好会の掲示板でウラサキさんが相手をしてくださって、僕はたいへん幸せだったのです。
でも、御坊哲さんもメビウスさんも応答がなくなってしまい、僕のクオリアナンセンス説に反論してくださるのは、ウラサキさん一人になってしまいました。
それほど魅力に欠ける議論ではないとおもうのですが。

師匠、大哲会16の盛況、メビウスさんとの再開、よかったです。

私にとっては、師匠の感想が、とてもチャーミングでした。「純粋経験と思惟を意味論的世界解釈と統語論的世界解釈の違いだ」は、すごいです。また、「現象」と言えば、現象主義とひとくくりにされ、一蹴されていたあの師匠が、と、びっくりもしました。

私がはまった永井さんの「西田幾多郎」の中で、西田は、ウイットゲンシュタインと表裏だとありましたので、たぶん師匠にもつながると、想像していました。

taatooさん、
コメントありがとうございます。大哲の感想欄までチェックしていただいて恐縮です。
西田幾太郎ははじめてよんだのですが、とても面白かったです。

内容と形式の二項対立や実体と言語の二項対立において、語は言語システム内部での位置づけられ方としてでしか意味を持てないと、後期ウィトゲンシュタインやデリダの考えた「意味」の論理というものが、その二項対立の内部でのアイデアでしかないと僕は捉えてしまっていたのですが、その外側に出られる可能性があると示唆し連れ出してくれたような気がしました。

唐突ですが、聞きたいことがあります。もちろん答える義務はありません。

①ある画家が出来の良い2つの絵を描いたとします。
1つは部屋に花瓶が描かれており、もう1つには部屋だけが描かれていたとします。
描いた画家曰く、「部屋に花がないことを伝えたかった。」ということで、
それぞれの絵に『花のない部屋』という題をつけたいそうです。
しかし、他人から同じ題の絵が2つあるのは良くないと言われた様で、
あなたに助言を求めています。あなたはどのように答えますか?

②ある画家が出来の良い2つの絵を描いたとします。
2つとも部屋だけが描かれており、素人には2つの判別を付けることが出来ません。
描いた画家曰く、「部屋に花がないことを伝えたかった。」ということで、
それぞれの絵に『花のない部屋』という題をつけたいそうです。
しかし、他人から同じ題の絵が2つあるのは良くないと言われた様で、
あなたに助言を求めています。あなたはどのように答えますか?

③ある画家が出来の良い2つの絵を描いたとします。
1つは部屋に花瓶と花が描かれており、もう1つには部屋と花だけが描かれていたとします。
描いた画家曰く、「部屋に花があることを伝えたかった。」ということで、
それぞれの絵に『花のある部屋』という題をつけたいそうです。
しかし、他人から同じ題の絵が2つあるのは良くないと言われた様で、
あなたに助言を求めています。あなたはどのように答えますか?

あなたは①②③のケースにおいて一貫した助言をすべきだと思いますか?
それとも①②③のケースにおいて異なる助言をしますか?
異なる場合、その基準とは何だと思いますか?

Jさん、
お久しぶりです。

お問い合わせの意図が掴めませんので、的外れな回答しかできないと思いますが、感じたことを書きます。

その画家さんは、その2つの画をセットにして1つの事柄を表現しようとしているのなら、2つセットで1つの題名をつければ良いと思いますし、2つが別々の作品なのであれば「花のある部屋1」と「花のある部屋2」などというように2つ別々の題名をつければ良いと思います。

ウィトゲンシュタイン「論考」4.0621「記号「p」と「¬p」が同じことを語りうるということは重要である。というのも、そのことは記号「¬」が現実におけるなにものにも対応していないことを示しているからである。」
というのは、一つのヒントになるそうに思います。

続きです。まずは、下記のように思いました。
「横山さんが先ほどの掲示板のほうに書いてくださったプロセスには、赤い感じ自体の機能がどこにも書かれていないように思います。その感じを生むための客観的状況に対する記述がなされているだけです。」

そして、ここで思ったのですが、「赤い感じが持つ機能」ということで私が考えるのは「赤い感じが持つ原因性」です。因果の「果」ではなく「因」のほうです。「果」のほうなら、「リンゴが反射した光が目に入って・・・・・」といった物理的因果連鎖のあとに、それが物理学的なものかどうかを別にするなら「果」としてクオリアが生じていても特に異存はありません。

「赤い感じの原因性(因)」に着目するのであれば、
「その感じが世界の他の存在に対していかなる"原因性"も持たないことを確かめ」ることは大変なので、まずは、
「その感じの存在やありようを知るために、その感じが持つといういかなる原因性を利用しているのか」を具体的に考えてみるとよいと思ったしだいです。
私の考えは、「そのためなら原因性は不要」というものです。

http://jbbs.shitaraba.net/study/12216
大阪哲学同好会掲示板「10月23日「心身問題」」の欄でのken7rowさんとの議論の続き。

ken7rowさん、議論の移転ありがとうございます。

「リンゴが反射した光が目に入って・・・・・」といった物理的因果連鎖の中で感覚を司る脳の器官が反応し、その人が感覚を感じる。さらにその連鎖のあとにその脳の器官が次の器官へ物理反応をつなげ、「・・・りんごを見たことに反応して、咽頭や口唇を動かしその人体に『おいしそう』とつぶやかせ、頬の筋肉を引き上げて笑顔を作る」といった物理的因果連鎖をなしていく。
このような語り方では感覚そのものが表現されていないかもしれませんが、この反応連鎖をそのまま「リンゴの視覚的な感じそのものによって私は美味しいと呟いた」という表現で語ることもできるはずです。
いかがでしょうか。

例えば、ビリヤード台の上の球の動きを語ることにします。まず、分子レベルでの語りが可能です。すると、その分子レベルでの語り(を満足する過程)に、球体レベルでの語り(を満足する過程)が論理的に付随(ロジカルスーパービーン)します。だから、おそらく、分子レベルでの因果関係の語りの簡易版としての球体レベルでの因果関係を語ることができるのです。

しかし、感じの場合は違います。感じは生理的な機能には論理的には付随しません。だから、高いレベルでの簡易版の因果関係を語れたとしても、そこに感じを織り込むのは、アドホックなものでしかないように思います。

横山さんは、もしかすると、言語的クオリア(?)が優勢なのではないでしょうか? 私においては、赤属性を表現するものは、視覚的な赤クオリアです。しかし、横山さんにおいては、それは「赤」や「アカ」という言語的(聴覚的? 音声的?)想い、すなわち言語的クオリアなのではないでしょうか? 横山さんにとって「アカ」という音声的な想い自体の存在やありようは、いちいち検証行為を行わなくても「ただちにわかる」ようなものではありませんか?

まさに、チャーマーズの論法ですね。でも、ぼくはそれが、物理的存在を言語上の絶対的前提としながら、いわゆるクオリアの存在も言語上の絶対的前提とする、という二重の基準設定をしてしまったことによる誤謬だと考えています。

まず、言葉づかいの確認をします。「AがBに論理的に付随(スーパーヴィーン)する」というのは、「言語的な設定として、Bのときは必然的にAであり、notBのときは必然的にnotAである」という意味ですよね。(違ってたら指摘してください。)また、「AがBに自然的に付随する」というのは、「言語的な設定ではないが経験的事実としてBのときは常にAであり、notBのときは常にnotAである」という意味とします。
そして、物理事象に論理的に付随しないような感覚の質を「非機能的クオリア」、物理事象に論理的に付随するような感覚の質を「機能的クオリア」と呼び、その両者を引っくるめたものを「機能があるかないかどちらかのクオリア」と呼ぶとします。
そのような言葉で言うとすると、チャーマーズの誤謬は、「機能があるかないかどちらかのクオリア」の確認でもって「非機能的クオリア」が絶対的な言語的基盤として「あると言える」としてしまい、同時にクオリアに論理的に付随しないような「物理的な実体」も絶対的な言語的基盤として「あると言える」と設定してしまったことだと思えます。
僕の考えでは、次のように言うべきだったと思います。
僕の感じるところには、確実に「機能があるかないかどちらかのクオリア」がある。これだけが、言語設定をなす上での唯一の基盤である。これを基にして、「世界が時空内にある」とか「世界が物理的実体として説明できる」とか「物理的実体は物理的因果によって関係しあっている」などと、仮説立てて、説明的に理解し語ることができる。そのようにして世界を語るのであれば、世界が物理的実体であるということは、冒険的な仮説に過ぎず、決して言語的に必然的な基盤ではない。そして、そのように世界を構築し理解しようとするのなら、「機能があるかないかどちらかのクオリア」と論理的に付随しないような物理的実体の存在を設定することは無意味だ。
と、僕には思えます。眼前にありありとあるこの「機能があるかないかどちらかのクオリア」から、それがあることを積極的に受け入れてそれだけを基盤にして世界設定をするのなら、「世界はそれと必然的に関係を持っている」という(もっというと「それこそが世界だ」だという)前提を受け入れなければならないと思います。だから、世界を有意味なものとして受け止めるためには、クオリアは必ず「機能があるクオリア」だと考えるべきだと思うわけです。

もちろん、世界モデルを物理的実体が存在することを基盤として構築することも可能だと思います。しかし、物理的実体のほうを絶対的なものとして置いてしまうならば、「それとは論理的に付随しないクオリアがある」というのはこの世界の話からはみ出してしまう物言いでしかなくなると思います。
物理的実体を絶対だとするならクオリアはそれと論理的に付随しないとは言えず、クオリアを絶対だとするなら物理的実体はそれと論理的に付随しない斗はいえなくなってしまう、というわけです。

いかがでしょう。

このまま議論を進めても、地に足がついたものにはならないと思います。議論の題材であるクオリアの実例を二人が共有できていないように思うからです。

確認してみたいのですが、感覚的クオリアについて(下記問い参照)、横山さん自身にはどちらがあてあまりますか?
ここで、クオリアとしては機能的か非機能的は問いません。そして、理屈や考察の結果ではなく、第一感で答えてみて下さい。

問1
①クオリアは、あるともないとも言えないようなおぼろげな存在である
②クオリアは、あるとしか言いようがないような鮮明な存在である。

問2
①クオリアは希少である
②クオリアは遍在(あまねく存在)している

問3
①リンゴの色合いがどのようであるか知るためには、「赤」とかそれに類する語が必要である。
②リンゴの色合いがどのようであるかは、言語とはほぼ無関係に知ることができる

付随性とは2つの特性(通常は基礎的な特性と高レベルの特性)の関係のことです。

論理的に可能などんな2つの状況についても、2つの状況が特性Aについて同一なら、特性Bについても同一になるとき、特性Bは特性Aに論理的に付随すると言います。

例えば、生物学的特性は、物理的特性に論理的に付随します。物理的特性が同じ2つの状況においては、例えば片方で生きているものは必ず他方でも生きているし、片方で群れを作っているものは、他方でも必ず群れを作っているからです。

また、「物理事象に論理的に付随するような感覚の質」とは、何らかの物理的状態の別名とでもいうべきものであり、わざわざクオリアと呼ぶ必要はありません。もちろん、何らかの物理的状態であることとクオリアであることは「意味が同じ」とか、「論理的に前者が後者を含意する」と考える人なら話しは別です。

クオリアが機能的かどうかは問わないということですが、それによって、その語が指示する対象はまったく違うものになると僕は考えていますので、それぞれについて、回答します。


問1
①クオリアは、あるともないとも言えないようなおぼろげな存在である

「非機能的クオリア」はまったくナンセンスで意味を持たないとかんがえていますから、有るともないとも言えません。それは、おぼろげでさえありません。

②クオリアは、あるとしか言いようがないような鮮明な存在である。

「機能的クオリア」はある意味で有るとも言えて鮮明なものです。

問2
①クオリアは希少である
②クオリアは遍在(あまねく存在)している

機能的クオリアが有ると言えるとする場合には、それはあまねく存在しています。
非機能的クオリアは、もちろん、①でも②でもありません。

問3
①リンゴの色合いがどのようであるか知るためには、「赤」とかそれに類する語が必要である。

それは不要です。

②リンゴの色合いがどのようであるかは、言語とはほぼ無関係に知ることができる

「どのようであるか」を知るためには、それはある意味で分析可能でなければならないはずですが、その分析可能性は他の色との関係を問えるものである必要があるかと思います。それは、ある意味で言語的な分析だと言えます。それゆえ、りんごがどのような色合いであるかは、言語とは無関係には知りえるとは言えないと思います。

ありがとうございます。

>「どのようであるか」を知るためには、それはある意味で分析可能でなければならないはずですが、その分析可能性は他の色との関係を問えるものである必要があるかと思います。それは、ある意味で言語的な分析だと言えます。それゆえ、りんごがどのような色合いであるかは、言語とは無関係には知りえるとは言えないと思います。

考察の結果ではなく、第一感としてはどうでしょう? どんな感じであるか、分析しないとわかりませんか? どんな感じであるか、他の色と比較しないとわかりませんか?

(a):「AがBに論理的に付随(スーパーヴィーン)する」というのは、「言語的な設定として、Bのときは必然的にAであり、notBのときは必然的にnotAである」

(b):論理的に可能などんな2つの状況についても、2つの状況が特性Aについて同一なら、特性Bについても同一になるとき、特性Bは特性Aに論理的に付随すると言います。

(a)と(b)の付随の理解は違うものだと考えた方が良いですか。同値のように思えますが、同値としての理解ではダメですか。


>「物理事象に論理的に付随するような感覚の質」とは、何らかの物理的状態の別名とでもいうべきものであり、わざわざクオリアと呼ぶ必要はありません。もちろん、何らかの物理的状態であることとクオリアであることは「意味が同じ」とか、「論理的に前者が後者を含意する」と考える人なら話しは別です。

そうですね。僕はクオリアを問うのであれば、それは必ず、論理的に物理事象に付随するようなものでなければならないと考えています。それは、何らかの物理的状態であることとクオリアであることは「意味が同じ」と考えなければならないと考えているということです。

>考察の結果ではなく、第一感としてはどうでしょう? どんな感じであるか、分析しないとわかりませんか? どんな感じであるか、他の色と比較しないとわかりませんか?

もちろん、言語的な分析以前にもありありとした感覚はあります、と言いたいところなのです。しかし、「ある」と言ってしまうためにはそこに必ず言語的な分析がひつようであります。もちろん、言語的な分析以前にどんな感じか分かる、と言いたいところなのです。しかし、「どんな感じか分かる」と言うためにはそこに必ず言語的な分析がひつようであります。そこは、どうしようもなく語り得ない言語の外なのです。このことは、「本当は「ある」けど、言語の力が及ばないから有るとは言えない」ともすることはできません。本当に「有るともないとも言えない」とする以外無いのだと思います。

>(a)と(b)の付随の理解は違うものだと考えた方が良いですか。同値のように思えますが、同値としての理解ではダメですか。

同値かどうかというよりも、主張の構造が違うように思います。
なるべく横山さんの定義に似た形にするなら、

Bを決定するとAが必然的に定まるとき、
AはBに論理的に付随する、
といっていいように思います。

BやAは単一の命題ではなく、下記のようなものが例になるかと思います。
B:物理特性、A:生物学的特性
B:ビリヤード台上の分子の挙動 A:ビリヤード台上の球の挙動

質問に答えていただきありがとうございます。
私の場合は、少なくとも第一感としては、問1~問3のすべてで②です。
他者とクオリアを共有しているかどうかを確認することは困難だということをあらためて感じました。この試みで何か得られたのかどうかチェックしてみます。

どこから手をつければいいのかわかりませんが、

横山さん:「世界はそれと必然的に関係を持っている」

「必然的」という部分を除けば、よほどの懐疑論者でもない限り、このことを疑っている人はいません。チャーマーズも同様です。何か、一人相撲をとっているように見受けられます。

ご参考 チャーマーズ:意識する心(日本語訳)より
「コヒーレンスの原則
 意識の理論を進展させるうえで、もっとも有望な手の着け方は、意識体験と認知構造の際だったコヒーレンスに焦点を合わせることである。精神の現象と心理学は、お互いに自由に動き回ることはない。両者は系統的に関係づけられている。」

「非機能的クオリア」というのは横山さんの造語なのですね。
私は単に、例えば「原因性を持たないクオリア(物理的原因とはならないクオリア)」といったものだと思っていましたが、横山さんの意味するところのものは破天荒すぎるように思います。そんなものがあるとは、誰も思っていないのではないでしょうか?

ken7rowさん、
僕が「非機能的クオリア」と言っているのは、クオリアが「物理的事象と論理的に付随しないクオリア」という意味だということをはっきりさせるために用いているもので、自然的に機能がないということを指示するものではありません。まったくチャーマーズが言っているクオリアそのものだと僕は理解しています。
だから、少なくとも、チャーマーズはそんなものが有ると考えているはずです。チャーマーズはそのクオリアが物理的事象と必然的に付随することはないと考えているが、それは、ダメットの言うような「反実在論」の立場からするとあり得ない、必然的に付随しているのでなければならない、ということを検討するために、考えた造語です。
たとえば、「非機能的クオリア」はチャーマーズの言うクオリアであって、サールの言うクオリアではないということをはっきりさせたいがための言葉なのです。

必然的か偶然的かというところが決定的に重要な問題点だと思います。仮に、私が現に感じているこの「感覚」が「世界の中心」にあるものとして決して疑えないものだ、とするとき、それと偶然的にしか結び付いていないような物理的実体の想定をすることは形而上学か或いは宗教的なおとぎ話にしかならないものになってしまう。その関係を必然とするからこそそこに想定される物理的実体が有意味な現実の実在世界を示す世界モデルとなる。と考えているのです。

そして、僕は「論理的に付随」が「必然的に付随」を含意するものだと理解しています。

私が感じているこの「感覚」と「必然的」な関係を持たない世界などを現実の実在世界とすべきではない、と考えているのです。このような考えには、多くの人が頷いてくれるように思うのですがダメですか。

少し考えてみますが、「機能」という語の意味がずれているのではないでしょうか?

あるいは、横山さんは、
「全ては機能である。だから非機能的なものは存在しない。」
と主張しているだけのように思います。

機能でないものは、あるとしたら、自分の中にしか見出せません。
そして、横山さんの主張が、「私の中にはそんなものは見いだせない」という主張であるなら、それに反対することは困難です。

>横山さんは、「全ては機能である。だから非機能的なものは存在しない。」と主張しているだけのように思います。

僕の思いとしては、その「機能」が「目的論的分析可能性」であるようなものだとイメージしています。そして、何か言語的な基盤とするものを設定したときにその基盤からの目的論的な分析可能性が無いものは、「無い」でさえなく、「ナンセンス」だとすべきだと考えています。

ken7rowさん、
そのように、その「機能」を目的論的な分析可能性だとして考えて、さらに、その「分析可能性」を何らかの規則に従う基準との対比確認ができる可能性だととらえるなら、それはまさしく、とても根源的な意味での言語化可能性だというべきものになると僕は考えています。
そう考えて、

>機能でないものは、あるとしたら、自分の中にしか見出せません。

という「機能」の捉え方を僕はしません。それは、上のように「機能」を捉えるなら「機能のないものがあるとしたら」などと言うことさえできないと思えるからです。「機能のないもの」など、端的に「有るともないとも言えない」ようなナンセンスでしかないと考えているのです。だから、それを自分のなかに見出だすことなどできるものではありません。
それゆえ、

>横山さんの主張が、「私の中にはそんなものは見いだせない」という主張であるなら

という点についても、
僕の主張は「私の中に機能のないものは見出だせない」というものではありません。
機能のないものは、私の中に「無い」ということさえ言えないし、どこであっても「あったりなかったりする」ようなものであるわけがない、ということを主張しているのです。

必然的に物理事象に還元できるとは限らないようなタイプのクオリアの存在を認め、さらに物理事象の存在をも認める人は、矛盾しあう2つの記述を受け入れねばならないような世界モデルを構成しているはずです。僕は、「世界モデルを構成するときに矛盾してはならない」という原理が「還元しあわない物的存在と心的存在がある」という原理より優先されねばならないということが、最上級に厳格に問われるべきだとしか思えないのです。

横山さん、
目的論的分析可能性というものがまだわかっていませんが、それは物理的機能でしょうか?
私も別にチャーマーズを信奉しているわけではありません。詳細は割愛しますが、ありていの言い方をすれば「ゾンビと普通人の言動が同じでは面白くない」と考えています。

横山さん:「もちろん、言語的な分析以前にもありありとした感覚はあります、と言いたいところなのです。しかし、「ある」と言ってしまうためにはそこに必ず言語的な分析がひつようであります。もちろん、言語的な分析以前にどんな感じか分かる、と言いたいところなのです。しかし、「どんな感じか分かる」と言うためにはそこに必ず言語的な分析がひつようであります。そこは、どうしようもなく語り得ない言語の外なのです。このことは、「本当は「ある」けど、言語の力が及ばないから有るとは言えない」ともすることはできません。本当に「有るともないとも言えない」とする以外無いのだと思います。」

この描写はもしかすると大変面白いものかもしれません。ここで「ある」と言えないのは、次のいずれでしょう?
①「ある」と言ってしまうのは知的に誠実ではないから。(理性的に控えている。)
②「ある」と物理的に発言するための手段(物理的機能)が実際のところないから。
③その他

>「ある」と言えないのは、次のいずれでしょう?

③です。「ある」と言ってしまうと、それは必然的に言語的な分析をされてしまったものでしかなくなるからです。言語的な分析以前のものなど、原理的に「有るでも無いでもない」でしかないからです。


>目的論的分析可能性というもの
>それは物理的機能でしょうか?

一般的な意味では違うものだと思います。ただ、私が感じている「感覚」や「知覚」や「印象」から世界がどのように構成されているかを仮説立てて構築していくその運動によって作られる世界モデルをすべて「物理的世界」と呼んで良いのだとすれば、「目的論的な分析可能性」は「物理的機能」にほかならないように思います。

つまり、「ある」といったら信念に反するということですか。

「ある」と言い切れないのであれば、横山さんにとってそれは機能的なものではないでしょう。一方で、それは「無」でもないでしょう。

無でない状況で「ある」と言えないような言語設定(?)や言語的分析(?)がおかしいのではないですか?

もちろん、「ある」と言ったら横山さんにとっては矛盾です。困ったものですね。

>「ある」といったら信念に反するということですか。

違います。単に、非機能的クオリアの意味からして、それがナンセンスでしかないのだから原理的に「ある」ということができないという、それだけのことです。

>「ある」と言い切れないのであれば、横山さんにとってそれは機能的なものではないでしょう。

誤解されるような物言いをしてしまっていたでしょうか。僕が「ある」と言えないと言ったのは、非機能的クオリアについてのつもりだったのです。だから、もちろん、「ある」と言えないのは機能的なものではありません。

>困ったものですね。

いや、全然困っておりません。非機能的クオリアはナンセンスでしかなかったとしても、僕は、私の感覚の質がきちんと機能を持つものだと考えて、それゆえ、きちんとはっきりとそれが「ある」と言えるのです。二元論の矛盾に悩まされることもありません。何も困ることはありません。

>僕が「ある」と言えないと言ったのは、非機能的クオリアについてのつもりだったのです。だから、もちろん、「ある」と言えないのは機能的なものではありません。

つまり、あるとはいえない「それ」はまさに非機能的クオリアの実物ですね?
そして「無」でもない。

>「それ」はまさに非機能的クオリアの実物ですね?

多分そうなのだと思います。ですが、「実物」というのが何なのかよく分からないので、イエスだともノーとも言いにくいです。

また、「無」がどういう意味だとイメージされているのか分からないのでこれも何と答えて良いか分かりません。僕は、よく仏教の話などで出てくる「無」というものは、「何かがある」とか「何かである」などという文が、どんな状況においても真理値を持たない場合の、その「何か」や「何かがある」や「何かである」のことではないかと疑っています。つまり、「無」=「ナンセンス」だと疑っているのです。もしそれが「無」なのであれば、非機能的クオリアはまさに「無」です。でも、そういう「無」ではないのですよね。

>、「実物」というのが何なのかよく分からないので、イエスだともノーとも言いにくいです。

う~ん、横山さんが、自らの現象的体験について語ってくれたのだと思ったのですが、思弁的なものだったのでしょうか? ここで「実物」とは、「赤いクオリアに対する実物の赤いリンゴ」といった意味では「ない」です。
単純に「空想上のものではない実物」といった感じです。「実例」のほうがわかりやすいかもしれません。現象的体験であれば、そこに現れているものそれ自体は、ここでの文脈では実物です。

実物を前にして「あるともないともいえない」というのはおかしいと思うわけです。まあ、幻だったりもしますが、それでもその幻自体はあると言えると思うわけです。「神」のような形而上学的存在とは違うわけです。もちろん、あの記述の際には実物が無かったのかもしれませんが・・・。

「「無」でもない」というのは言葉がまずかったかもしれません。「何もないわけではない」といった感じでしょうか?

だめもとで、ご協力いただければと思いますがどちらでしょう?
問4
①逆転スペクトルは、それが言わんとすることも意味不明である。
②逆転スペクトルは、それが言わんとすることなら容易にわかる。

問5
①言語的な想いの存在やそのありようは、検証するまでわからない。(あるいは検証することすらできない)
②言語的な想いの存在やそのありようは、直接的にただちにわかる。
(ここで、言語的想いとは、例えば「それは赤い」と思考したり判断したりするのに伴うであろう「ソレハアカイ」といった音声的イメージ、あるいは聴覚的イメージ、あるいは言語的イメージとしか言えないような何かです)

訂正です。
訂正前:
①言語的な想いの存在やそのありようは、検証するまでわからない。(あるいは検証することすらできない)

訂正後:
①言語的な想いの存在やそのありようは、検証するまで(言語的分析以前には)わからない。(あるいは検証することすらできない)

ken7rowさん、
>あるとはいえない「それ」はまさに非機能的クオリアの実物ですね

あー、これは「私が非機能的クオリアを感じているけれどこれを言語化できない」という解釈によるものだったのですか。そーですかー。うーむ。そんな風に考えられてたのですか。その解釈は全然違います。これまでの、僕の話があまりに伝わってなくて残念に感じます。
「非機能的クオリア」なんてものは、まったく論じる意味がないだけでなく、どんな形で論じようとしても自分で何を論じているのかさえ分からないような、どんな文で表そうとしても真理値を持たない、デタラメなまったくのナンセンスだと僕は言っているのです。だから、「非機能的クオリアを感じているけれど言えない」のではない、でなければならず、それを感じているそのものの実物なんてない、でなければならないのです。

でも、それは、クオリアを世界と論理的に関わり合わないものだと捉えるような、無茶な捉え方をした場合の話です。
僕は、逆に、クオリアがナンセンスであるどころか、ある意味では私の世界にはクオリアしかないとも言えると考えています。それはクオリアが世界そのものであることを認める場合の話です。その場合には、クオリアが世界に論理的に付随しないなんて捉え方はできません。私が感じているこの「感覚」も「知覚」も「印象」も「表象」も論理的に世界と関わりを持つものとして捉えるほかないはずになるのです。

この、論理的に世界と関わりあうことが許されるクオリアを「機能的クオリア」ということができるとすれば、機能的クオリアは実物がちゃんと「ある」と言えるものになります。

だから、
問4の「逆転スペクトラム」についても、それが、一般的によく言われている「非機能的クオリア」の逆転なのであれば、それは意味不明でしかありませんから、答えは①です。しかし、それが「機能的クオリア」についての問いなのであれば、今現在の科学力では分からなかったとしても将来にはその機能的な差異が発見されることが有るかもしれないと言えるようになるので、意味不明ではなくなります。

問5については、「言語的な想い」の意味が掴みにくかったので、例で挙げられていた「それは赤い」の聴覚的イメージについて考えさせてもらいます。その、「それは赤い」の聴覚的イメージを機能的クオリアとして捉えてよいのであれば、その聴覚的イメージがあること自体はそのイメージがあることを確かめるよりほかの検証は不要だと考えます。ただし、そのイメージが「ソレハアカイ」という音声に対応するようなイメージであるという言語的な分析はもちろんそのような言語的な分析が必要ではありますが・・・。
しかし、このイメージを「非機能的クオリア」だと捉えなければならないのであれば、この眼前にある確実な感覚から話が始めるというわけにはいかなくなるので、まず、物的存在の実在から話を始めることになります。それで、それから、ナンセンスなそのイメージが「ある」かどうかということをわざわざ検証しなければならないというような、無駄骨を折る話になってしまわざるを得ません。

と考えます。

横山さん、ありがとうございます。

う~ん、わからないです。
先の記述で、「ある」とは言えなかった「それ」は、「そこにあるなにものか」ではなかったのでしょうか? 単に、筆がすべっただけですか?

問5について、
>「それは赤い」の聴覚的イメージを機能的クオリアとして捉えてよいのであれば、
>このイメージを「非機能的クオリア」だと捉えなければならないのであれば、

実際の体験談をヒアリングしている時に、このような「条件分岐」が登場すること自体が理解できません。それが機能的クオリアであろうが非機能的クオリアであろうが、体験談としての内容は一つに決まらないのでしょうか?

また、
>論理的に世界と関わりあうことが許されるクオリアを「機能的クオリア」ということができるとすれば、機能的クオリアは実物がちゃんと「ある」と言えるものになります。

ここにも条件が登場すること自体が理解できません。機能的クオリアであろうと何であろうと、そこに現にあるならあるし、そこに現にないならない、ということにはなりませんか? ああ、もちろん、主語を明確にしなくてはいけないなら思考も必要かもしれませんが、 なんでもいいから何かがあるかどうかという問いでも思考が必要なのでしょうか?

どうも解せません。
横山さんにとっては、何かが(例えばクオリアが)あるかないかを決めるのは、思考なのでしょうか?もちろん、数学的対象であるなら、思考が必要でしょうが・・・。横山さんにとって、クオリアとは数学的対象のようなものなのでしょうか???

古典的な話になりますが、ユングは、人には、思考、直観、感情、感覚の4タイプがあるといっていますよね。そういった違いなのでしょうか? (そんな気もしてきました。)

だめついでに、お手数をおかけしますが、
問6 (たぶん、この問は役に立たないと思います)
①クオリアは数学的存在に似ている。
②クオリアはリアルな存在である。
  
問7
①世界ないしはその現れは、言語によって構成されているといっても過言ではない。
②世界ないしはその現れは、言語とはほぼ無関係に存在している。


(アブラカダブラはそこに見えてるかい?)
アブラカダブラって何?
(何って、言語化以前のそれだよ。それはあるのかい?)
言語化以前のじゃ分からないよ。
(とにかく、それはあるのかい?)
「ある」とは言えないよ。
(じゃ、無いんだね)
「ない」とも言えないよ。
(わからない。さっき、「ある」とは言えなかった「それ」は、「そこにあるなにものか」ではなかったのか? 単に口がすべっただけか?)
その「アブラカダブラ」が何者なのか、もっとはっきりさせなければ答えようが無いじゃないか。
(実際の体験談をヒアリングしている時に、そのような「条件分岐」が登場すること自体が理解できない)

僕の気分としては、こんな感じです。わかってもらえますかね。

その気分によって、問6は僕には返答不能です。

問7は、微妙です。もちろん世界と言語は別物ですから、「世界は言語と無関係に存在している」とせねばならないはずです。しかし、「世界は言語と無関係に存在している」とするそれは必然的に言語と絡まりあって、言語によって「存在する」と言われねばならないです。だから、言語の構造として(世界の構造ではなく)、言語は言語以前のことや言語と無関係なものを語れないのです。それゆえ、結局、この問も返答不能になります。

こう言った方が良いでしょうか。


眼前にりんごがあるときに
(りんごでもアブラカダブラでも区別しなくて良いから答えてね。とにかくそれは、あるのかい?)
りんごならあるよ。
(そんな条件分岐は要らないのだよ)
だって、そうとしかこたえようがないよ。

わかりません。

クオリアでも質感でもいいのですが、語り合うためには、「ああこれのことか」というように実例を知っておく必要があります。もちろん実例を持たない人もいるでしょう。

どうも言語至上主義とでもいうような方、例えばウィトゲンシュタインを引き合いに出すような方とは、体験のありかたが大きく異なるようです。というよりも、体験を持っているのかすらわからない。同じ土俵にのることができない。同じゲームに参加できない、共通の言語ゲームの駒にならないということでしょうか???

でも、横山さんが語るようなクオリア論は普遍的なものではないと思います。そしてそれは私にも言えるのかもしれません。

数学的存在であるなら、「ある」か「ない」かはその存在の言語的定義に依存するし、思考や証明によって有無を決定すべきものです。「ある」か「ない」かが「何であるか」と結びついています。しかし、全てがそうではないと思います。但し、それには個人差があるようです。

すでに、僕ははっきりと次のように言っています。

>僕の感じるところには、確実に「機能があるかないかどちらかのクオリア」がある。これだけが、言語設定をなす上での唯一の基盤である。これを基にして、「世界が時空内にある」とか「世界が物理的実体として説明できる」とか「物理的実体は物理的因果によって関係しあっている」などと、仮説立てて、説明的に理解し語ることができる。


僕は、ここで「機能があるかないかどちらかのクオリア」を感じることができると言っていますし、そのようなタイプのクオリアを考えるならば、クオリアだけが世界を構築する要素になりうると考えています。

なぜ、この返答ではダメなのでしょう。それで、質感やクオリアを語り合うには十分だと僕には思えるのですが、なぜダメなのでしょうか。

私が理解した横山さんです。

(さきほど直近の投稿を読み返してみたところ、前後の文脈から切り離して理解していたり等々で、さすがにここまではいかないだろうと思っているのですが、どこまで題材を共有できているのかはまだよくわかりません。)


その1
横山さんは、見慣れないものを見つめて、こうつぶやいた。
「これは非機能的クオリアだから、あるともないとも言えない。」

その2
横山さんは、傍らにあるりんごに目を向け、こうつぶやいた。
「これが機能的クオリアなら、ある。これが非機能的クオリアなら、あるともないとも言えない。」

その3
誰かが、横山さんの見たことも聞いたこともない得体のしれないものを机においておいた。
外出から戻り机の前のソファに座った横山さんは、隣室からの「机の上に何かある?」という問いかけに対し、
机のほうに目を向けて、「あるともないとも言えない」と答えた。

その4
誰かが、机の上に、横山さんのよく見慣れたものを何個か置いておいた。
外出から戻り机の前のソファに座った横山さんは、隣室からの「机の上に何かある?」という問いかけに対し、
「何って何が?」と答え、「何でもいいから何かある?」という応答に、
机のほうに目を向けて「もっとはっきりさせなければあるともないとも言えない」と答えた。

先ほどの投稿、気分を害されないようにお願いします。

冒頭は、「私が「誤解」した横山さんです。」のほうが適切だったかもしれません。

お気遣いありがとうございます。ken7rowさんとの、この議論はたいへん楽しく感じています。気分を害するようなことはありません。大丈夫です。

僕の思いとしては、「非機能的クオリア」というのは、外延を指示しないナンセンスな「ことば」なのです。何かの「ナンセンス」なる「対象」があると言ってるわけではないのです。ことばがナンセンスであるだけで、対象がナンセンスであるなんてことはあり得ないと思っています。
だから、

その1
>横山さんは、見慣れないものを見つめて、こうつぶやいた。「これは非機能的クオリアだから、あるともないとも言えない。」

そのように「これ」と名指される対象が「非機能的クオリア」とすることはあり得ません。「非機能的クオリア」なんてことばは意味をもつものではないのだから、何かの対象がそれだと名指されることはあり得ないからです。

その2
>横山さんは、傍らにあるりんごに目を向け、こうつぶやいた。「これが機能的クオリアなら、ある。これが非機能的クオリアなら、あるともないとも言えない。」

これも、同様に「これが非機能的クオリアなら」などと言うことはあり得ません。

また、

その3
>誰かが、横山さんの見たことも聞いたこともない得体のしれないものを机においておいた。外出から戻り机の前のソファに座った横山さんは、隣室からの「机の上に何かある?」という問いかけに対し、机のほうに目を向けて、「あるともないとも言えない」と答えた。

これについては、ちょっと違う感じを持っています。「何か」は何を指示するかははっきりはしませんが、問うている相手の意図はある程度図れるので、「何か」が何を指すのかボンヤリとながらうかがうことはできます。なので、「何かある?」は全く回答不可能な問いだとは言い切れないと思います。僕が非機能的クオリアについての質問に対して感じている回答不可能性は、「何かある?」よりも、たとえば「あれがある?」に近いかもしれません。隣室の知らない人から「そこのソファにあれがある?」と聞かれたらやはり「有ると言うわけにもいかないし、無いと言うわけにもいかない」と思うはずです。

その4
>誰かが、机の上に、横山さんのよく見慣れたものを何個か置いておいた。外出から戻り机の前のソファに座った横山さんは、隣室からの「机の上に何かある?」という問いかけに対し、「何って何が?」と答え、「何でもいいから何かある?」という応答に、机のほうに目を向けて「もっとはっきりさせなければあるともないとも言えない」と答えた。

ですから、これも、「机の上にあれがある?」と隣室から知らない人が聞いてきたら、「あれとは何でしょうか」と聞かなくては答えられません。非機能的クオリアのナンセンス感はそんな感じに近いと思います。


それにしても、目から鱗でした。
僕の非機能的クオリア批判は、私が非機能的クオリアを見ているのにそれが言語化できないから、「あるとも無いとも言えない」と言っているだけだと回りから誤解されている、ということがよく分かりました。

私は機能的クオリアを見ているのであって、その機能的クオリアがあることについては語りえるが、そこに非機能的クオリアなるものがあるかどうかなぞということについては、意味が分からないから何とも言えないと言ってるのですが、そこがずれて伝わってしまうのですね。

とても残念ですが、反面とても面白いです。

いや、面白いといってもらってこういうのもなんですが、ちょっと違うかもしれません。
そのように誤解したのは、2016年10月31日 (月) 22時01分 の投稿を読んで以降のことです。

何らかの現物を前にして、もしそれが機能的なら「ある」と言えるはずです。ところが言えないということなので、横山さんも「それは非機能的なものだ」と認めるべきだろうと思ったのです。
ところが、「ある」と言えない理由は、「言語的分析以前」という制約を課したからというわけだったのですね。

ちなみに、その時の選択肢「②「ある」と物理的に発言するための手段(物理的機能)が実際のところないから。」は、わかりやすくいうと、「言いたいのに口が動かない」といった意味です。
非機能的クオリアがそこにあると思っているのに、その非機能的クオリアは機能を持たないため、因果連鎖をたどって口を動かすことに至らない、といった状況です。

実際のところこうはならないのはなぜか? チャーマーズにとっては、本来課題であるべきだと思います。

>非機能的クオリアがそこにあると思っているのに、その非機能的クオリアは機能を持たないため、因果連鎖をたどって口を動かすことに至らない、といった状況です。

なるほど、それも面白い論点だと思います。しかし、チャーマーズは、次のように反論すると思われます。すなわち、
「自分が言っているクオリアは、確かに機能がないとしているのだけれど、その「非機能」というのは「『論理的に』物理事象と結び付いているわけではない」とするだけのもので、「『自然的に』物理事象と結び付くことがない」と言っているわけではない。だから、私のクオリアが赤いということが、何度やっても結果的にたまたま私の口が「赤い」と発音することに結び付くということは十分あり得る。」

クオリアがすべて論理的に機能的だと捉えれば、クオリアは語りえるものとして扱えるのだから、クオリアを問いたいのだったらそれを機能的クオリアとして考えて、それがあるってことにすれば、何の問題もないじゃないか。

という僕の主張は受け入れてもらえたと考えて良いですか。

機能的クオリアではダメなのであればその理由が知りたいです。

私は、人の考えを説明するのはあまり得意ではなく、チャーマーズの主張も正確に知っているわけではありません。

結局のところ、意識は機能によっては汲みつくせないということだと思います。

機能とは何か?
まず、おそらくはこの文脈では、物理的機能を考えるべきだと思います。もう少し言うと、物理"学"的機能になるのでしょうか?

どうも横山さんと「機能」の意味がずれているように思います。

まず、様々なクオリアによって構成され、まわりに広がっている現にある「これ」は世界の実物なのでしょうか? (横山さんも「これ」を持っていることを望みます。)

私は、「これ」は世界の広い意味での像だと思っています。「これ」を「クオリア層」と呼ぶことにします。そして、私は、クオリア層の構造と世界の構造は、おおむね同型なのだろうと思っています。

このことは、クオリア層が世界から広い意味での影響を受けていることを意味するかと思います(受容性)。私は、この受容性のことを「機能」とは呼んでいません。
もし、この受容性をも機能と呼ぶのであれば、チャーマーズは、クオリアを機能的だと考えていることになると思います。

ken7rowさんは、「クオリア」或いは「これ」と論理的な関係を持たないような世界としての(いわゆる物理学的な)「物理世界」が実在するとすべき、だと考えておられるのではないですか。
僕は、「これ」との関係が論理的なものでない(或いは語義的ではない)ような物理世界を想定することは、形而上学的な世界の想定に過ぎないと捉えています。なので、「これ」と論理的に関係しない世界には、あまり積極的な意味は無いとしか思えないのです。ken7rowさんと僕は、そこが違うのかもしれません。
つまり、僕の方こそが、クオリアの存在を絶対的或いは優先的に捉えているのかもしれません。

〔「クオリア」或いは「これ」と論理的な関係を持たないような世界としての(いわゆる物理学的な)「物理世界」〕

という、僕の言い回しが誤解されそうな表現不足に思えるので、付け加えます。ここで言っている「物理世界」は、僕の考えでは一般的な意味での「物理世界」ではなく、すべての主体にとって何の根拠も無いような世界設定を認めるような世界をイメージしています。
たとえば、「我々の感じることのできる世界とは完全に相互作用を持たないような物質が『本当は』あって、我々にはそれを確かめることができない」というときの「本当の世界」なるものが意味ある実在だと考えるような、実在の捉え方です。

先ほど「受容性」と言いましたが、「相関性」でもいいかもしれません。

>つまり、僕の方こそが、クオリアの存在を絶対的或いは優先的に捉えているのかもしれません。

もしかするとそうかも知れませんね。

確かに、まずは、物理学が示すような物理世界が客観的に実在していると想定する。
すると、「これ」はそれとは異質、あるいは、そこには登場してこないように思うわけですね。するとクオリア問題が発生する。別にそれでもいいとは思うのですが・・・。

尚、「これ」の直接の相関物を、物理世界そのものとする場合と、物理世界の中にある脳内の物理状態とする場合が考えられますが、私はどちらかというと後者のほうです。そのほうが、自然科学との折り合いはつけやすいと思うからです。折り合いは簡単にはつきませんが(笑)。


一方、
「「これ」との関係が論理的なものでない(或いは語義的ではない)」の意味がややつかみづらいのですが、
「これ」を原初的なものと考えると、物理学が教えるような物理世界の位置づけはどうなるのでしょうか?

例えば、物理世界とは「これ」の構造を説明するためのモデルと考えることができますね。すると、そこにクオリアが登場しなくても、ただのモデルなのだから問題はない。でも依然としてクオリアはモデルの中に登場してこない(と私は思います)。でも、モデルの中には登場しなくても、実物の世界である「これ」の中、あるいは「これ」上には見いだせるのだから、クオリアが説明できないからといってなきものとされてしまうわけでもない。

そんな観点から、横山さんの2016年10月31日 (月) 06時59分の投稿を再読してみましたが、やっと意味がわかるようになった気がします。

>「「これ」との関係が論理的なものでない(或いは語義的ではない)」の意味がややつかみづらいのですが、「これ」を原初的なものと考えると、物理学が教えるような物理世界の位置づけはどうなるのでしょうか?

その点について、ken7rowさんとのこの議論で思い付いたアイデアがあります。新しい記事にしようと用意しているのですが、「我々と自然的に関係するが論理的に関係しない物理存在」に関するものです。もう少ししたらアップできると思いますので、よろしければ読んでください。ご質問に関連した内容にできるかも知れないと思っています。

ken7rowさん、
「我々と論理的に関係しない実在<クオリア再考24>」
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/24-bae9.html
アップしました。よろしければ、ご覧ください。

いちおう、こちらにも投稿しておきます。

面白そうな内容ではあるのですが、「我々と論理的に関係する」「我々と自然的に関係する」という言葉の意味の説明がないとちょっと文章の意味がとりづらいです。

私は、客体は機能によって定義されると思っています。従って、陽子と全く同じ機能を持つ中性子というものは存在しません。そのような機能を持つものは、定義により「陽子」と呼ばれるからです。もちろん、「陽子」と「中性子」が同種のものに対する別名であれば、そのような中性子も存在することになります。しかし、現実には、「中性子」とは、定義上、陽子とは異なる何らかの機能を持つ粒子の名前になっているのです。

そしてまた、機能は、「これこれの観測を行うとこれこれの結果が得られる」といったことがらにより特徴づけることができると思います。

従って、例えば、陽子を特徴づける機能の存在を示す観測結果が得られたなら、例え、神の目から見て実はそこに何もなかったり、あるいは、神の目からみて今までの陽子とは別種のもの(例えば機能は同じだが、神の目から見て非機能的特性がいままでの陽子とは異なっているようなもの)が存在していたのだとしても、我々にとっては、論理必然的に「そこに陽子がある」ということになるのだと思います。

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