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2015年3月28日 (土)

私的言語が語り得るというのは文がそれ自身の真を語り得るということ<クオリア再考1>

他者に対して語り得ず自分だけしかその意味を知り得ない私的言語という言葉が可能だとする人がいる。
「ウィトゲンシュタインという哲学者は「私的言語」というものが可能か否かを論じて、不可能であるという結論を出したのですが、あの議論ははっきりと誤りで、私的言語がなければ言語は不可能です。私的言語の可能性が言語にとって不可欠なものに転じることによって言語は完成するのですが、ただそうであるということを通常の公的言語で語ろうとするとそのこと自体は公的言語の意味の働き方に乗らなければ語れないので言わんとすることが言えない―言わんとしていることとは別の「正しい」ことが言われてしまう―ということが起こるのです。」(永井均「なぜ意識は実在しないのか」p36)

しかし、その私的言語の内容を自分で知り得るというのは後期ウィトゲンシュタインの私的言語批判の考え方にそぐわないだけでなく、前期ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の考え方にも反している。
「3.221 命題はただものがいかにあるかを語り得るだけで、それが何であるかを語ることはできない」
「4.442 フレーゲの「判断線」は論理的には全く指示対象を持たない。「判断線」はそれゆえ、命題に付された番号等と同様、命題の一部ではない。命題が自分自身について真であると語ることはできない」(ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」)

私的言語が語り得るというのは文がそれ自身の真を語り得るということと同値だと僕は考えている。

他者に対して語り得ない内容をもって自分でそれが真だと思うことは、命題がそれ自身の真を語るのと同様、真だと信じているということに他ならない。宗教的に検証方法の無いものを信じているという「信じ方」とまさしく同じ信じ方なのではないだろうか。
他者に対して語り得ないことは自分でもその真偽を検証できないので、宗教的にその真偽を信じる以外ないはずだからだ。

例えば、自分のクオリアがあると言えるという人がいる。僕はこれも「宗教的に」「ある」と「信じて」いるだけだと考えている。
クオリアを物理的機能のまったく無い現象的意識の質だとするならば、自分のクオリアがあることは検証できるはずがない。検証できるならば原理的文法的に機能があることになってしまうからだ。
だから、クオリアがあるとすることはその真偽を検証できないので、宗教的にその真偽を信じる以外ないはずだ。

宗教的な信仰は自分の真の根拠が無くてもそれを語る。

結局、私的言語可能論者やクオリア擁護論者は宗教を語っているのと変わらないようにしか僕には思えない。

つづく

この話に関わる哲学討論を大阪哲学道場掲示板「第14回大哲感想」 でしています。 http://www5.atchs.jp/daitetsudo/(←この掲示板は消失してしまいました。残念です。)

 

クオリア再考

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コメント

この話の最初に「クオリアは主観的なものだから語り得ない」というような趣旨の言明があったように思います。その頃から話の構造的に私的言語と近いなと思っていました。
とはいえ、主観的なものは語れないというのは想像力の問題で、それが無理というのはウィトでいうところのアスペクト盲とかそういう話に近いかとなは思いますけどね。

「結局、私的言語可能論者やクオリア擁護論者は宗教を語っているのと変わらないようにしか僕には思えない。」も又、宗教的信仰なのでは?

 少なくともウィトゲンシュタインは『論考』が「語り得ないものについて語っている」という自覚はあったようですよ。
「7 語り得ないものについては沈黙しなければならない。」という命題自体が語り得ない筈の倫理的命題ですから。

はじ銀さん、ウラサキさん、コメントありがとうございます。

>「結局、私的言語可能論者やクオリア擁護論者は宗教を語っているのと変わらないようにしか僕には思えない。」も又、宗教的信仰なのでは?

その視点はとても興味深く、僕もよく考えてみたいテーマだと思っていました。

はじ銀さん、
主観的なものが語り得ないという問題は、客観性の全く無いものは語の同一性を担保する規則性を立ち上げられないとかそんな問題なのではないかと僕は考えています。
想像力とかアスペクト盲とかが関係するというのはよく分かりません。どういうふうに関わりが出てくるのでしょうか。

では公的言語における語の同一性を担保する規則性をまず考えて、
私的言語に対して「公的言語に当てはまらないもの」という規則性を与えてみてはいかがでしょう?
とはいえこの考え方では、そのうち公的言語でも私的言語でもないものが生まれ出ると推測しますけども。

Jさん、

私的言語に対して「公的言語に当てはまらないもの」という規則性を与えては、そのうち公的言語でも私的言語でもないものが生まれ出る

のは何故ですか。
それから、公共言語でも私的言語でもないものが出てきたら、何か困りますか。

それは「木を見て森を見ず」であり「飛んでいる矢は止まっている」だからでしょう。
そしてその状況から辻褄を合わせるために便利だからでしょう。

本来は便利なので困りはしませんが、
見えてる木のみで森ができていると考える人にとっては、
邪魔な考えに見えるでしょう。

Jさん、
すみません。何がなんだかわからなくなってしまいました。何の話をされているかも掴めない状態です。

確かにクオリアに関することだけの話ではないので、
困惑されるのも仕方ないかと思われます。

事象の観察、考察、言明にあたるものが事象に対してどのようなものであるかが
ゼノンのパラドックス
ハゲ頭(砂山)のパラドックス
誤った二分法
の中に置き去りにされているのではないかと私は考えているのです。
例えば、事象を1としてみたときに事象の観察、考察、言明にあたるものが
具体的な数値をとるのか、とらないのか
定数か変数か
量子力学的な挙動を行うものなのか等の知識
及び事象の観察、考察、言明にあたるものと事象との関係式
といったものが不明瞭なままであるという考えを持っているのです。

ウィトゲンシュタインは事象の観察、考察、言明にあたるものにおいて
言語の重要性に気づき、言語の観察、考察、言明にあたるものを
導き出したのだとわたしは考えているのです。

クオリアについては「メアリーの部屋」に関しての考察が
私のこうした考えを一層強めるものだと考えています。
クオリアの有無に関することは、私の考えにおいて大きな意味を持たない上、
知識が増えるたび、その知識が事象に対してどのような値を取るものか
を考えなければならない可能性を考慮して、反対しておきたいと思います。

Jさん、

僕の読解力がないのだと思いますが、

>反対しておきたいと思います。

が何に反対されているのか、さっぱり分からないので教えてください。
単純な二分法を嫌悪されているように感じましたがその理由も詳細も分かりません。

それから、
>では公的言語における語の同一性を担保する規則性をまず考えて、私的言語に対して「公的言語に当てはまらないもの」という規則性を与えてみてはいかがでしょう?とはいえこの考え方では、そのうち公的言語でも私的言語でもないものが生まれ出ると推測しますけども。

と仰った意味が全然分からなかったので

>私的言語に対して「公的言語に当てはまらないもの」という規則性を与えては、そのうち公的言語でも私的言語でもないものが生まれ出るのは何故ですか。
それから、公共言語でも私的言語でもないものが出てきたら、何か困りますか。
2015/04/03

とお尋ねしたのですが、その回答も僕にはちんぷんかんぷんのままです。

まず、Jさんの主張があるのかないのさえ分かりません。主張が無いのでしたら、どういうお返事をお求めか。もし、主張があるのなら、読解力がない僕にも分かるように解説してください。

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