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« 「第14回大阪哲学同好会参考レジュメ」 | トップページ | 排中律と震災被害者霊標 »

2015年3月 9日 (月)

現在は存在し得るか

現在という時間には1秒の前後さえなく、まったく時間幅のない0時間の瞬間のことを指すとする考え方がある。
しかし、それが本当だとすると「現在」なんてものは存在し得ないのではないだろうか。保持された記憶としての過去と、予測や予想としての未来だけがここにあるのであって、時間的な瞬間の現在などはそこに挟み込まれる余地などないのではないか。
もし、「現在」なるものがあるのだとすればそれは時間的な存在ではなく、時間そのものの器となるような(メタ時間的とでもいうべきもののような)、過去と未来を産み出す基盤としてのものでしかないのではないか。

なんて、入不二の「時間は実在するか」を読んで、思いついた。思いついただけのアイデアだけど、結構重要な思い付きのような気がするので、ここにメモしておく。

思いつきの言々

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コメント

いつも通りの僕の考え方です。
「現在」というものが"存在"するという考え方は、区分が存在するという前提が無いと成り立たない話ですね。
「現在」という言葉が指せるものには輪郭が必要だと思います。しかし、過去、現在、未来という区分はあくまで人工的なものであるはず(時間そのものは流れるだけですので)。
ですので、過去、現在、未来の実在性がこの問題をどのように裁くかについて大切だと思います。
観念的な対象として扱うか、実在的な対象として扱うか。哲学における多々の問題はこの整理をしていないから起こるものと最近思います。

はじ銀さん、コメントありがとうございます。
大哲の仲間からコメントが貰えると嬉しさひとしおです
現在が観念的な対象として扱うか実在的な対象として扱うかを整理できていない問題。
面白いですね。その観点での整理をしてみると何かの答えが見えてきそうですね。
現在を時間幅のあるものとしてみるか否か。
現在を実在としてみるか否か。
「現在」という語にいくつかの用法がありそうですね。

【保留の種類】

①現象a(オリジナル・原初の言語)と現象1が実際には『1≠a』の関係にもかかわらず、再現が可能なことを根拠として『1=a』として扱う。

a=兎

兎(オリジナル言語)…知(識別材料)+『兎』という像、または『Usagi』という音。

1=対象

例.『彼(対象)は兎である。』

1=a

その触れないし見えない二つの物体が、実際はちがうものにもかかわらず、振る舞いとして同じである。または、その触れないし見えない、物体ではない方向性が実際はちがうにもかかわらず、表面に現れる振る舞いは同じである。
→私が兎に化けて、相手は兎と私を識別できなかった。

私は私から見て私だが、相手から見た私は兎である。→彼から見て私は兎なのだから、兎と私は概念的同一性。

→真には全くちがう類のもの、全くちがう類の方向性の可能性はあるが、別々の存在であることを証明する手段がない。現段階に於ける沈黙。現段階では、それらを別々のものと見做す手段はないが、将来、その被り物を剥がし新しい象を識別化する可能性がある。

→識別材料、根拠の発見を待つ保留の態度。


【保留の種類】

②眼の前に、兎に似た対象を発見した。やはり兎(オリジナル言語)とちがうのだが、兎として扱わなければ行動というカードが選択できない。兎に似た動物に対するカードが存在しない場合。

行動はカードの具現化である。このカードは経験により収集される。行動はカードの具現化なので、経験値により行動は制約される。

(制約の破綻)
新しい経験は、カードの具現化の失敗である。
→志向を具現化しようとするものや方向性以外に、ちがうものや方向性が存在する。経験の失敗は、自己(原理機械)以外の他の『物、方向性』の存在可能性の根拠である。


とりあえず、我々は生きている。生きているということは

①対象なく、志向性なく流れてゆく然性(自然から自を除いたもの、すなわち世界から志向性を除いたもの)である。

②また、同時に然性から生じ、然性を対象(エレメント)化・識別可能形態にし、さらにそれを条件化(基底化)・方向(或条件で或事が生じるという認識)化する原理機械である。

③また、基底化されたそれをこの前後に永遠にならべ、原因と結果の連鎖を創り上げることである。

④また、その認識に基づいて、自己という原理機械が存続可能な条件を制約として加え、自己の行動を選択する。

【④】
4番は、ストローの様なものである。私は火の鳥にはなれないし、水の精霊にもなれない。私は、私の通ったストロー(私の通れるストロー)以外になれない。私の行為選択の自由は、或条件下に於ける複数のストローとそれを維持し得る原理である。

さらに言えば、行為は選択し具現化した時点で自由(志向の具現それ自体を己の存在証明とする)を達成する。故にその一回がストロー(既知)的であると認識し続ける者が自由である。もしストロー的でなく、そこに自我を持つものがいるとすれば、新しい発見の繰り返しによる何らかのストローにより、自己の存在性を確保しているに過ぎない。

何にしても、ストローは基底(条件)認識に突き立てられた思考空間の移動手段としてあり、例えば火の鳥であれば爆発しながら空に登ることになるが、我々は自分の意識を維持し得るかたちという前提で空間を移動してゆく。何故ならば、我々の思う記憶はそれを録る原理機械を維持し続けなければ存在できないからである。

この様に、我々はストロー的にしか実空間を移動できない、と言うかストローしか選択できない。だから、兎似の動物に対して、兎として扱う。または、分からないものとして警戒する。しかし、このどちらも目の前の象に対して決めつけているのである。

私は、この兎似の動物と過去に遊んでいた。この兎似の動物は、爆弾を操り人を攻撃するテロリストで、私は彼を追っている刑事だった。因にこの兎似の動物の名前はエドワード。昨夜、道を歩いている途中で隕石に当たり兎似の動物の記憶を失っていた。

兎似の動物への、分からないものという対応は現時点に於ける私の決めつけにより生じた。私は使えるカードしか使用することが出来ないのである。この場合、私は《その象に対する正しい理解と行動》という命題に対する答えを保留にした。

例えば、このマシュマロ似の爆弾。食べたら爆発するのに、私はマシュマロと判断して食べて死んだ。


理さん、
かなり面白い世界解釈モデルだと思います。
でも、

>「現象aと現象1が実際には『1≠a』の関係にもかかわらず

ということは、「1=a」という取りあえずの言語的設定をしたときでも、「本当は『1≠a』だ」と言えるような本当があるということですね。だとすると、理さんの理論の「保留」はダメットの反実在論の「取りあえず性」のようなものではなく、フッサールの「エポケー」みたいなものだと考えればいいのでしょうか。

フッサールのエポケーとは一体何でしょうか?

エポケーは現象学の「判断留保・判断停止」ですが、ご存知なければ僕の質問は無視してください。

カード選択は、カードがあることを基底の条件とする。
(カードがなければ、カードを択ぶことが出来ない。)

このとき、私が《その象に対する正しい理解と行動》という命題に対する回答を保留にするとはどういうことなのか。

それは真正の物体という正しい理解とその理解に基づく正しい行動、賢者の石とその所持者を想定してものを考えるということである。賢者の石など確かめようがない。

しかし、だからそれが嘘になるかといえば違う。


カードの選択に於て、我々は、失敗という概念を有している。あの行動は失敗だった。あのマシュマロを食べなければ腹痛にならずに済んだのに……。其処には、私たちの、よりものを正しく理解したいという方向性がある。我々は、もの自体を方向性的に、欲しているのである。だから我々は、良心に基づいて行動する。良かれと思って。正しくないと否定を含み。

嗚呼その一球の投球が正しいと錯覚していられたらどれ程素晴らしいだろう。

真正のもの、精霊の類は、人がそう向かう所である。だから、それを否定し排除してしまったら投球《歪曲》が正しくなるし、精霊もいなくなる。

理さん、
以前は記名忘れの方があっても文章内容で大体分かったものですが、この頃は分からなくって困ることが多くついイライラを人にぶつけてしまいます。すみません。たぶん歳のせいです。

さて、
>私たちの、よりものを正しく理解したいという方向性がある。我々は、もの自体を方向性的に、欲しているのである。

の文章について、僕は、1.今は解らないけどいつかその真偽が判明する可能性があるような「方向性」と、2.カントのいう物自体のように原理的にその真偽が判明する可能性が無いような「方向性」とがあるように感じました。理さんのいう「方向性」は1.も2.も両方を含むものですか。

そうです。

理さん、

しかし、それなら、1.の「方向性」だけでなく、2.の「方向性」を求めなければならない理由は無いのでしょうか。

>カードの選択に於て、我々は、失敗という概念を有している。あの行動は失敗だった。あのマシュマロを食べなければ腹痛にならずに済んだのに……。其処には、私たちの、よりものを正しく理解したいという方向性がある。

と仰るところからは、僕には1.の「方向性」しか理由づけられていないように思います。

《真正の物体という正しい理解と、その理解に基づく正しい行動》。これがどうやっても手に入らないので常に己の行為は否定的な意味を含みます。どんなに先に行こうと認識は永遠に正しさを得ないのです。良心のレヴェルで停滞します。

成分①認識は正しくあろうとする。
成分②認識は常に、正しくない。


もうお分かりだと思いますが、この様に成分①が成り立つ前提として成分②が必ず要るのです。真正の物体、もの自体という、得られる可能性のない想定可能なものは我々の良心にはなくてはなりません。

1.今は解らないけどいつかその真偽が判明する可能性があるような「方向性」。


2.カントのいう物自体のように原理的にその真偽が判明する可能性が無いような「方向性」。

よくよく観察して見ると、2の方向性の上に発見し、いつかその真偽が分かる1の方向性があるように思います。

真正の物体という理解を手に入れ全てがうまく行くということは、全てを知っているということ。全てを知っているなら、新しい発見、つまり2.の方向性は生じ得ないのである。

横山さん、昨日(13日)の晩御飯は何でした?

因に私は『鯖の塩焼き』でした。

あなたに解りますか?

お久しぶりです。

理さん、
「さらば」というのは理さんのコメントですね。
コメントありがとうございました。よく分からないままの部分もまだありますので、まだ続けたいところですが、いったんお終いにするということでしたら仕方ないですね。

また、機会がありましたらコメントいただければ有難いです。またいつでもお越しください。

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