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2015年3月11日 (水)

排中律と震災被害者霊標

今日3.11、「犠牲者の霊」と書かれた標柱の前で霊に語りかける人がテレビに映っている。
霊なんかがそこにいるわけがないし、そこに霊がいる証明などできるはずがない。それでも、死者がそこで聞いていると信じている人は真実の涙を流す。証明なんかできなくても馬鹿げた内容でもそう信じればそれは真実になる。

ところで、πの小数展開の無限の数列のなかに7が100万回連続するだろうか。連続するような気もする。しかし、僕の命のあるうちにそれが証明されることはないだろう。連続しない気もする。しかし、それが証明されることは決してないだろう。無限の数列を全部並べて「ほら、連続してないでしょ」と見せることは原理的に不可能だからだ。
だから、「πの小数展開の無限の数列のなかに7が100万回連続するか、しないかの何れかである」という排中律は必ずしも正しいとは言えないだろう。
さらに、もっと言えば、「πの小数展開の無限の数列のなかに、どんなに長く続く7の連続でもそれが有限であれば、それが連続するかしないかの何れかである」という文について、その真偽を確かめることは、連続するもしないも両方とも、原理的に不可能である。
だから、排中律は必ずしも正しいとは限らないと、はっきりと言えるものになる。

それゆえ、もし何らかの理由で、排中律が正しいとしたいときは、排中律が正しいことを前提にしてしまわなければならない。「正しいと前提してしまったのだから正しいのだ」というわけだ。そして、そう信じてしまう人にとってはそれは明らかな真実になるのであろう。

さて、「霊がここにいる」と「排中律が正しい」はそのような、宗教的な形而上学でしかその真偽を決められないという点で、似ているように思う。
何一つそれが正しいとすべき証拠など無くても、それを正しいとした方が便利だとか快適だとか或いはただそうしたいというただそれだけの理由で、それが正しいことにしてしまえる。トートロジーで語ってよいのなら何てもかんでも自由自在に正しいとしてしまえるのだ。

しかし、そんな正しさが本当に正しいと言えるのだろうか。

言えるのかもしれない。少なくとも鎮魂の涙は本物だった。

思いつきの言々

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コメント

カード選択は、カードがあることを基底の条件とする。
(カードがなければ、カードを択ぶことが出来ない。)

このとき、私が《その象に対する正しい理解と行動》という命題に対する回答を保留にするとはどういうことなのか。

それは真正の物体という正しい理解とその理解に基づく正しい行動、賢者の石とその所持者を想定してものを考えるということである。賢者の石など確かめようがない。

しかし、だからそれが嘘になるかといえば違う。


カードの選択に於て、我々は、失敗という概念を有している。あの行動は失敗だった。あのマシュマロを食べなければ腹痛にならずに済んだのに……。其処には、私たちの、よりものを正しく理解したいという方向性がある。我々は、もの自体を方向性的に、欲しているのである。だから我々は、良心に基づいて行動する。良かれと思って。正しくないと否定を含み。

嗚呼その一球の投球が正しいと錯覚していられたらどれ程素晴らしいだろう。

真正のもの、精霊の類は、人がそう向かう所である。だから、それを否定し排除してしまったら投球《歪曲》が正しくなるし、精霊もいなくなる。

文章には署名がなければそのコンテクストの多くが失われます。
だから、僕には「カード選択」がいかなる内容を指そうとした修辞なのかまったくわかりませんでした。前のコメントはジョンさんなのか他の方の記名忘れなのか、僕は混乱しています。

カードは、私です。

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