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2015年2月27日 (金)

私の死と私の同一性<私の死と「私」の同一性7>

横山A助:「未来の私」なるものを考えようとしても、未来なるものが何ものなのか原理的に分からないはずである。原理的にその時点にならないと分からないような時間のことを未来というのだから、未来はその時点になってみなければ分からないし、なってみれば自ずから分かるとしかできないのじゃないか。

横山B助:「未来の私とはなってみれば分かるもの」という言語的規則で「未来の私」なるものの意味を決定しようというのは、通常の、私が常に一人であることが脅かされないような世界においては、正当な言語規則になるだろうし、通常それ以外の方法は妥当ではないのかもしれない。しかし、これまでの節で考えてきたような、私が分裂するなどという異常な状況を考えるような、そんな滅茶苦茶な状況では、通常の言語規則は崩れるのではないだろうか。僕はそのような極限での「私」の意味を考えてみたいのだ。

A:そうしたければ勝手にすればいいと思うが、そんな特殊な考えをしてみたところで「私」が生きて命あるようなものとしては理解できるはずがないと思うがね。君が主張しているのは、すべての時刻にある個々の主体のどれとどれが同一であるかを決定するのに、必然的でアプリオリな規則が事前に決まっているわけではないとすることだよね。君が「恣意的に同一性が決められる」と主張しているのは、例えば横山A助がカップ麺を食べようとカップにお湯を注いだという自意識と、その3分後にカップ麺を食べる横山A助とを同一人物だとするのも、3分後にアンパンを食べる横山B助を同一人物だとするのも、ワシントンで会議しているバラクオバマとを同一人物だとするのも勝手にして良いということだよね。そんな無茶苦茶な「私」の捉え方をしていては、私が私として生きていけるはずがないじゃないか。少なくとも、カップ麺を食べるのが私だとするから、私はお湯を注いで食べようとすることが有意味になるのだし、実際に食べようとすることができるのだ。その言語的基盤を崩してしまうのなら、どんなことをしようとすることも出来なくなってしまうはずだ。そんな、私の同一性をなし崩しにするよな思索など、無意味でナンセンスではないのか。

B:基本的には君が言うとおりなのだろう。僕の主張するような「私」の同一性の崩れを考えてしまったとしても、そのような「私」の同一性が崩れた世界で私が生き続けられるはずがない。現実的にも、言語の原理的にも、「昨日の私」は「今の私が記憶している昨日の私」でなければならず、「明日の私」は「今の私から時空間的に連続していたり、今の私の記憶を自分自身の記憶として持っていたりするものでなければならないのは、間違いない。しかし、それでも、自分自身の死という「私の限界」において、「私」という語に関する現実的で言語的な原理が崩れてしまったとしてもなお「私」という語が有意味であり得るような、そんな地平があるのではないかと僕は考えているのだ。
君のいう「無意味でナンセンス」とは、言語が現実的に何の役にも立たず有益な言語世界を作れないということを意味するものだよね。確かに、僕の考えている「私の限界」は現実的な生にとって何の役にも立たず、有益な言語世界はこれっぽっちも作り得ない。でも、僕のいう「有意味・無意味」は君の「有意味・無意味」とは少し違うんだ。某かの世界をとにかく真偽づけて立ち上げることができるのなら、それが僕のいう「有意味」なんだ。前節までで考えた「主体体験映画」や「どこでもドア」や「分裂する私」などというお話はハチャメチャで実際に生きていくための世界とは何の関係もないおとぎ話かもしれない。それでも架空の世界ではあっても、確かに真偽づけられる世界を立ち上げられていたし、その内容を君は理解できたはずだ。そして、その僕のいう意味での「有意味」なのであれば、その世界理解は、生や死の問題を考えるために有益なものになると僕は考えているのだ。

A:今いち君の言っていることがうまくイメージできないのだけれど、そんな世界理解の仕方が本当にできるのか。

B:一瞬の自意識が生じたその瞬間だけの自我をそれぞれ、別個のものとして考えるところから始めて、そのうちのどれとどれが同一なのかを後から考えることができる、というのが僕の主張だ。これまで考えてきた種々のおとぎ話によって、瞬間瞬間の個々の自意識のどれとどれが同一かということが一意的で必然的に決定できるとは限らない、ということが明らかにできたと思うのだが。どうだろうか。そして、その一瞬間だけの自意識は、元々その他のどの自意識とも必然的なつながり(必然的同一性)を持たないのだから、それぞれの自意識はその一瞬のみを生きていて、その瞬間に死んでいくとするような世界理解の仕方もできるはずなのだ。
私は今この一瞬を確かに生きている。この一瞬だけを確かに生きている。しかし、今のこの自意識より他のすべての自意識は、この私から見ると元々一種の他人だということができるのだ。この今の私と、その他大勢の他者たちの中で、たまたま同じ記憶を持っていて物理時空間で連続しているものを、その世界での私と同一の自我だとすることが、「あとづけのお話」として「可能になる」のではないだろうか。今のこの私と同一人物と判断されるべき存在が、必然的に初めっから決定しているわけではない。そのように考えてみると生きるのに都合が良いのであとづけでそのように捉えただけだという話なのだ。つまり、それが一般的な言葉の用法での「私」になるわけだ。しかし、その捉え方は絶対的必然的なものではなく、私と同じ記憶を持っていて物理的時空間で連続している未来の自我があったとしても、それを必ず自分自身としなければならないとは限らないのだ。

A:そんなことが本当にできるのか、と僕が問うた一つの論点はそこにあるのだ。今この瞬間の私だけを過去未来の私から切り取れるなどということが、君は本当にできると考えているのか。そんなことできるわけが無いとしか、僕には考えられない。だって、今こうしている間にも私は刻一刻と次の時間の私になっていくのだから、1秒前の私も1秒後の私も同一の私であるということははっきりしている。これほど明確な証拠があるだろうか。今ここに私はまさしくそう感じているのだから、それを覆すことなどできるわけがないじゃないか。

B:君が時間の流れを感じていて、その流れの中で一個の確実な主体を自我とする以外ないと考えるのなら、それに対する反論の余地は、実は余りない。君のその時間観は普通にある一般的なもので、そのようにしか時間と自我を捉えることができないという人が圧倒的に多数だからだ。でも、そのような捉え方が絶対的な唯一の捉え方だとは言えないというのが僕の反論だ。君の捉え方は時間と自我の捉え方の一つだがその捉え方も所詮一つのおとぎ話に過ぎないのさ。僕の捉え方からすれば、世界は多世界解釈説が示すように、あらゆる可能世界が、未来世界も過去世界も同時に存在し(未来も過去も同時に存在するというのは矛盾表現だが、そうとでも言わなければ表現できない)、その中で主体がその記憶から時間の流れなるものを後から生み出しているのに過ぎない。僕から見れば君の世界がおとぎ話なのさ。君から見れば僕の世界がおとぎ話に見えるようにね。

A:でも、それは、あまりにも無茶な話だ。我々はふつう、自分の記憶の中にある昨日の自分を「昨日の自分」と呼び、自分から連続した意識を持ち続ける明日の主体を「明日の自分」と呼ぶ。それを、君の主張では、そんな一般的な「私」とか「自分」とかいう言葉とは別の新しい言葉づかいをすることができると言っているのだ。我々は言葉を使って世界を把握する。その土台となる言葉の意味をそんな自分勝手にいじくってしまっては、世界の詳細を把握するどころか、その指針を失って世界の右も左も分からなくなってしまうのじゃないだろうか。

B:「私」の意味を考えるために「私」という語が持つ意味自体を変えてしまおうと僕は主張しているにだから、「私」というものの理解全体が、そしてひいては「世界」の理解全体がハチャメチャになってしまうかも知れないという恐れは確かにある。でも、僕が問題にしたいのは、自分の生死にかかわるような「私」自体の限界を探らねばならないという問いなのだ。「私」という語がどこまで有意味になり得るかの限界を探ろうというのだから、「私」という語の意味を通常のままで良しとするわけには、どうしてもいかないのだ。「私」の理解自体がハチャメチャになる危険性を恐れていては決して知ることができないような暗部こそを、僕は問題にしたいのだから仕方ないんだ。
僕がいちばん問題にしたいことというのはこういうものだ。それは、耐えられない苦痛に死にたくなった時に自殺して苦痛から逃れようとすることが本当に有意味な行為かという疑問だ。この一瞬間に生じた「私」という自意識はそれ自体では、別時間の自意識と同一だとは元々決まっているわけではないのだが、それを自分自身だとするという言語規則を採用することによって、初めて私は過去現在未来を「生きる」ことができる存在になる、という一種のおとぎ話的世界観を僕は主張している。その世界観に立てば、私が苦痛から逃れるために自殺するという行為は不可能になってしまうのだ。なぜなら、自分を殺そうとしても、その死なせるべき対象は未来の自分でしかないはずだ。しかし、その未来の自分というのは、自分が元々自分と同一だと設定しなければ自分自身とは同一者とはならないようなものでしかなかったのだから、わざわざ殺さなくっても、初めから言語規則の設定の上で未来の自分を自分との同一者だとしなければそれで済むはずなのだ。通常の人間は未来の自分を自分と同一のものとするという設定を生きることで、ある意味で奇跡的に、命ある生存者としての主体となり得るのだが、未来の無いその場限りの命として、その場一瞬だけの命の光があるだけだとすることによって、その一瞬の命の光が未来の自分と同一だと設定しないままでいれば、未来に苦痛に喘がなければならないのは自分自身だと信じなくても済むはずなのだ。どうだろうか。この話、おかしいだろうか。

A:おかしいに決まっているじゃないか。僕がそんな世界理解が本当にできるのかと聞いたもう一つの論点は、そこなのだ。そんなことができるわけがないんだ。仮に、この一瞬の私自身のみを真の私だと考え、1秒後に私の記憶を保持している生き物を私とは別の他者だと思い込むことができたとしても、その1秒後の事実はどうなるか。1秒たっても私は無くなるわけじゃない。やはりひどい苦痛にのたうち回ることになるではないか。未来の自分を自分ではないとどんなに思い込んだところで、その苦痛から逃れられるわけが無いじゃないか。だから、言語規則の設定上で未来の自分を自分と同一のものだとせずに済ますなんてことは到底できる話じゃないのだ。

B:君は、この一瞬一瞬に自分が生れ、そして死んでいることに気づいていないのか。君の自意識は、実は、今この瞬間に初めて誕生し、君が気づかないうちに次の瞬間死ぬのだよ。君は、自分が生き続けているような気がする事実が眼前にあるのだから、それこそが自分の生に時間的な長さがあることの明らかな証拠だと思っているのかも知れない。しかし、それは、「自分は未来の自分になることができる」というアイデアが絶対的に正しいとする考え方の虜になりきってしまっているために過ぎないのだ。確かにそのようなアイデアは一般的な考え方ではある。でもそれは絶対的な考え方ではないのだ。自分の死が目前に立ちはだかるような場面では、その「自分は未来の自分になることができる」とは限らないと考えなければならないことはもちろんであるが、それだけではなく、肉体的な死が目前にある場合じゃなくても「自分は未来の自分になることができる」とは限らないということが、いつでも考えられるはずなのだ。
そのことを分かってもらうために、また一つのおとぎ話をしよう。君の意識は、今のこの1秒間の意識だけが何度も何度も同じ1秒を繰り返しているというお話だ。もし、本当にそのような永遠回帰が繰り返されているのだとしても、自分ではその1秒の向こう側の過去とその1秒の向こう側の未来とを持った、長い時間経過を経験することができていると感じており、自分ではその永遠回帰に気づくことはできない。できないが実はそのようになっているのかも知れないという仮説を立ててそのように理解することは可能である。だから、「自分は未来の自分になる」とする世界理解のみが唯一の世界理解の方法ではないと言えるのだ。
そのように、世界を理解し、僕は、この一瞬だけに生まれて、この一瞬だけで死んでいくのだと信じているのだ。それゆえ、どうしようもない苦しみから逃れたい時にわざわざ自殺などせずとも、自分と1秒後の自分は同一ではないとするだけで良い、と言い切れるのだ。

A:ウソだろ。君は本当は、自分がこの一瞬のみを生きて一瞬だけで死んでいくなどということなどを、信じちゃいないはずだ。そんなことを本気で信じているのなら生きていけないはずだ。

B:むむむ。ばれたか。その通り、嘘をついた。実は本気で信じているわけではないんだ。ただし、僕の考えが正しいのだということは本気で信じているのだ。「自分が未来の自分になる」という世界理解のみが唯一可能な世界把握ではないという、この考えは正しいと信じている。しかし、実際に「自分が未来の自分にならない」とは自分でも信じることはできないんだ。どうやら人間は生来的に「自分は未来の自分になる」ことを信じるように出来ているのかもしれないね。だから、実のところ本当は、どうしようもない苦痛から逃れるために1秒後の自分を自分と同一でないものとして捉えることは、僕にもできそうにないんだ。でも、自死をせずそのまま生き残るとしても、そこには必然的に自分の死が隠れているのだという、この考え方自体は間違っていないと確信しているんだ。ここのところをもっと深く考察することで僕自身の生と死を捉えるヒントがあると信じているんだ。

A:なるほどね。確かに、君のこだわりにも注目すべき点があるのかも知れないと思えてきた。今回の考察はもう一度「自分」とは何なのかを見つめるための重要な視点があるのかも知れないね。

B:僕たち二人は少しは理解し合えたのかな。ここまでの章で、私の意味と私の死について考えてきたけど、これらは「デリダ」を読んでいてふと思いついたことだった。次節からは、また章を改めてきちんと「デリダ」を読むことに挑戦してみよう。そしてそのあとでまたここの問題に戻ってこられるようになるといいね。

つづく

私の死と「私」の同一性

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コメント

世界認識の三元理解(対象、知的交換媒体、知)

条件1.
言語は、対象となる知の領域を持たなければ意味がない。裏の対象。

いぬ、犬(音や像、記号)↔︎裏の対象(知)

知の領域は、音や像に繋がれて意識に表れ、はじめて言語としての意味を持つ。

【対】⇨表の対象とは、志向の具現の条件となるもの。己の前にあるもの、感覚のもの。志向の対象。

【別】知っているとは
或主体により言語化(音、文字、記号化)されたそれが他者の主観(知)と交換される場合、また反対に同様の作用を及ぼす場合、互いが、互いに《知っていること》が存在する、という認識に至るが、ここで言う《知》の領域は(コミュニケーションの道具としての)言語=知的交換媒体を通じて認識する他者の知の内容ではなく、対象が何であるかを識別する材料(根拠)である。識別材料。


自らの知が世界という完全性に還元可能かは、言語的意味に例外を有する時点でもはや不可能である。従って、言語の志向対象への適用は便宜的であり、対象への言語適用は常に保留された部分を有するのである。この様な現象が起こるのは、我々の行動、方向性(再現性)は経験によりかたちづくられ、己の前の対象が何であるかを一旦決めつけてしまわなければ行動ができない為である=全ての行動は、何らかの決めつけが前提である。つまり、志向の具現に不必要な部分を象捨した概念の形成は、我々の再現性の機能からすれば必然である。


条件2.
我々の認識(言語=音、像+知(根拠))は、その再現性を脅かされない限りに於て、その対象を別のものと見做すことは出来ない。

その再現性を脅かされない限りに於て、対象はその言語に纏められて概念へと昇ってゆく。

それは、我々の行動が経験的であることにより証明されている。志向が具現できない場合になってはじめて、根拠を探し、己に取り込もうとする=事が起こらなければ、それに対する行動が起こらない。言語的に分化し概念化する原因は、対象を使った再現の失敗である。

あらゆる行動は志向、因子の具現に過ぎない。もし同じ対象を別々のものと見做せるなら、別の志向を再現する条件に当たる為である。それは、私が、再現性を脅かされない限りに於て、その対象を別々のものと見做すことは出来ないと言ったことを発現の条件とする、見做せる根拠を探そうとする志向の具現に過ぎない。最終的に対象に違いが見つからなければ、それは置かれている状況、違うものと主張する主体などを含め環境的違いにより違うものとして見做されているに過ぎないのである。対象が対象ではない根拠(識別材料)を提示できない対象は、例え真には別のものであっても、概念的には同一である。


条件3.
言語は知保(それが何であるか知っている部分と、考え、判断を保留にしている部分)の領域を表す。

知識、言語化された知が世界に還元できないのは言うまでもない。言語は、対象への適用の便宜性を認めることによって、また、その適用に、判断保留の存在を認めることによって、オリジナルを除いて保留の領域を普遍的にもつことになる。


言語は、対象の識別と判断保留によって運用される。また、言語には概念化される前の原初の言語が存在する。

【訂正】

世界認識の三元理解(対象、知的交換媒体、知)

条件1.
言語は、対象となる知の領域を持たなければ意味がない。裏の対象。

いぬ、犬(音や像、記号)↔︎裏の対象(知)

知の領域は、音や像に繋がれて意識に表れ、はじめて言語としての意味を持つ。

【対】⇨表の対象とは、志向の具現の条件となるもの。己の前にあるもの、感覚のもの。志向の対象。

【別】知っているとは
或主体により言語化(音、文字、記号化)されたそれが他者の主観(知)と交換される場合、また反対に同様の作用を及ぼす場合、互いが、互いに《知っていること》が存在する、という認識に至るが、ここで言う《知》の領域は(コミュニケーションの道具としての)言語=知的交換媒体を通じて認識する他者の知の内容ではなく、対象が何であるかを識別する材料(根拠)である。識別材料。


自らの知が世界という完全性に還元可能かは、言語的意味に例外を有する時点でもはや不可能である。従って、言語の志向対象への適用は便宜的であり、対象への言語適用は常に保留された部分を有するのである。この様な現象が起こるのは、我々の行動、方向性(再現性)は経験によりかたちづくられ、己の前の対象が何であるかを一旦決めつけてしまわなければ行動ができない為である=全ての行動は、何らかの決めつけが前提である。つまり、志向の具現に不必要な部分を象捨した概念の形成は、我々の再現性の機能からすれば必然である。


条件2.
我々の認識(言語=音、像+知(根拠))は再現性を脅かされない限りに於て、その対象を別のものと見做すことは出来ない。

その再現性を脅かされない限りに於て、対象はその言語に纏められて概念へと昇ってゆく。

それは、我々の行動が経験的であることにより証明されている。志向が具現できない場合になってはじめて、根拠を探し、己に取り込もうとする=事が起こらなければ、それに対する行動が起こらない。言語的に分化し概念化する原因は、対象を使った再現の失敗である。

あらゆる行動は志向、因子の具現に過ぎない。もし同じ対象を別々のものと見做せるなら、それは別の志向を再現する条件に当たる為である。それは、私が、再現性を脅かされない限りに於て、その対象を別々のものと見做すことは出来ないと言ったことを発現の条件とする、見做せる根拠を探そうとする志向の具現に過ぎない。最終的に対象に違いが見つからなければ、それは置かれている状況、違うものと主張する主体などを含め環境的違いにより違うものとして見做されているに過ぎないのである。対象が対象ではない根拠(識別材料)を提示できない対象は、例え真には別のものであっても、概念的には同一である。


条件3.
言語は知保(それが何であるか知っている部分と、考え、判断を保留にしている部分)の領域を表す。

知識、言語化された知が世界に還元できないのは言うまでもない。言語は、対象への適用の便宜性を認めることによって、また、その適用に、判断保留の存在を認めることによってオリジナルを除いて保留の領域を持つことになる。


言語は、対象の識別と判断保留によって運用される。また、言語には概念化される前の原初の言語が存在する。


理さん、コメントありがとうございます。

理さんの言葉づかいでわからないところがあります。でも、その言葉づかい全体について、まず教えてください。その理さんの説は、理さんが作られた言葉づかいですか、それとも、どなたかの学説ですか。どなたかの学説ならその方を教えてください。独自理論なら、もう少し説明してもらわないと分からないので、直接質問させてもらいます。

横山さんは、何をされている方なのですか?

大阪の大学の哲学科の学生さん?
それとも、大学関係者の方で、そう言ったことを研究されている方?

それとも、社会人で、趣味で探究されている方?

私、気になります。

プロフィール欄にも書きましたが、僕は1963年生まれの小学校教員です。哲学はもともと独我論に興味を持っていましたが、10年ほど前からきちんと独学するようになりました。

師匠、ご無沙汰してます。
デリダの師匠解釈は、楽しみです。

質問お願いします。
独今論者は3分後のカップ麺を食べることができないのですが、今回の「私と私の死の意味」論者も、3分後のカップ麺を食べることができないということで、いいのでしょうか?

taatooさん、お久しぶりです。

「「私と私の死の意味」論者」というのは「私の同一性が恣意的に決められる」とする論者のことですよね。それなら、3分後にカップ麺を食べる自分の体の主体を今の自分と同一だと「する」のであれば食べられることになりますし、「しない」のであれば食べられないことになります。ご質問の内容は単に言語的意味設定の問題に成り下がってしまうので、それ以上の問いができなくなってしまうという構造から抜け出せないようになっている・・・という方が適切な回答になるでしょうか。

「私と私の死の意味」論者は、B助さんのことです。

B助さんの考えでは、「独今」が無数にあって、「あとづけのお話」によって、無数の「独今」から、「独今」と「独今」がつながり、「同一性」を獲得するということになるということかと、理解したのですが。

「同一性」を獲得すると、カップ麺を食べることができるが、「同一性」を獲得しないと、カップ麺は食べることはできない、ということでいいでしょうか。

独今論者は、カップ麺を食べることができないが、B助さんの話は、カップ麺を食べることはできないと考えることはできるが、やっぱりカップ麺は食べることができてるような気がする、という話と理解していいでしょうか。

taatooさん、

カップ麺を食べるB助を同一だとする同一性を獲得すれば、今のB助は3分後にカップ麺を食べる者になれるのですから、「「同一性」を獲得すると、カップ麺を食べることができるが、「同一性」を獲得しないと、カップ麺は食べることはできない」ということは言えると思います。

でも、ここで考えていることはかなり言語の限界に近い所なので、某かの表現に関してその真偽はかなり微妙になると思います。そこで「できる」という語の意味を「しようと思ったならばその状況を得る」ということだとすれば、「B助さんの話は、カップ麺を食べることはできないと考えることはできる」とはならないような気がします。それは、今のB助が3分後にカップ麺を食べる者を自分自身と同一のものだとしようとしてもそうできない、ということにならなければならないので、偽になると思われるのです。正しく言うなら「B助さんお話は、カップ麺を食べるのは自分ではないと考えることは原理的に可能であるが、やっぱりカップ麺を食べるのは自分自身であると実際には考えてしまう、という話」というところではないかと思います。

なるほど、厳密に言えばそうなりますね。

ただ、ここでの私の関心事は、独今論者も、「カップ麺を食べるのは自分ではないと考えることは原理的に可能であるが、やっぱりカップ麺を食べるのは自分自身であると実際には考えてしまう」のではないかと思うのです。つまり、B助の話は、独今論者の話でもある、ということになる。で、いいでしょうか?

taatooさんの言い方を受け入れて、B助を独今論者だとしても良いと思います。ただ、B助を厳密な独今論者にはなりきれない、現実的な「独今論者もどき」とする、くらいが適正な表現かとも思います。

かしこまりました。ありがとうございます。

また、よろしくお願いします。

独我論とは一体何でしょう?

もし宜しければ、言葉を交わしませんか。はい、貴方の言葉は、私の知識に置き換わるのです。私が理解できないなら、私にはそれを理解するに足る、根拠それ自体がないのです。

理さん、

言葉を交わしませんか。とのお誘い大歓迎です。どうぞよろしくお願いします。

>独我論とは一体何でしょう?

僕は、3種類の独我論を考えています。
1.他者に対する「独我」・・・世界には他者がおらず、主体は自分だけとする独我論です。
2.存在に対する「独我」・・・世界に実在する物理的物質は存在せず、私の意識だけがあるとする独我論です。
3.言語に対する「独我」・・・世界の記述に対する意味理解は自分の理解によってのみ、世界の成立を保証するとする独我論です。

3つ目のは普通、「独我論」とは呼ばれないものですが、僕は「独我論」の一つとして考えたほうが便利に思えるのでそうしています。

理さんは、独我論とは何だと思われますか。

はじめまして。哲学に興味があって、勉強している者です。1は他我問題、2は唯心論に重なってきますね。3は、興味深い考えですね。もしよければ、3の独我論の内容を少し書いてもらえませんか?

竹村さん、ようこそいらっしゃい。歓迎いたします。

3の独我論は世界を私の言語が私的に捉えたものとして開闢された「私の世界」だとする独我論として、僕は考えています。
「言語が独我論を許さないわけ」
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/17-e0f0.html
のページでも少し書きましたが、言語ゲームに対するものとしての「私的言語」によって開かれる世界も結局独我論になるというものです。

・・・難しいですね。横山さんは独我論者なんですか?それとも、独我論はあり得ないと考えているのでしょうか?

独今論者のカップ麺なるブログを書いているくらいですから、独我論大好きなのですが、反独我論者です。

どうして反独我論なのですか?

竹村さん、

僕は反独我論者であり、かつ反実在論者でもあります。それは、いわゆる実在論もいわゆる独我論も、ダメットがいう言語論的な実在論に含まれてしまうからです。つまり、われわれが入手し得るような類の言明の証拠と直接つながっているのではなく、その証拠をわれわれが持っているかどうかに依存しないで存在する事態によって当の言明の真偽が決定されるされ方に他ならないとする考え方だからです。これに対して僕の主張はそれを証明する事態とセットにならないと言明は意味を持てないとするものです。

>それを証明する事態とセットにならないと言明は意味を持てない

哲学の問題として例を上げてもらえませんか?あるいは中世の普遍論争のような問題なのでしょうか。具体的な例があれば助かります。質問ばかりですみません。

自分で読み返してみるとすごく分かりにくい書きぶりになってしまっていたことに気づきました。すみません。

独我論とか実在論は、「本当は」独我論が正しいとか、「本当は」実在論が正しいとかいうような、「本当は」性を主張するものだとも言えると思いますが、そのような「本当は」性などは言語的には何ら意味が無いとしか思えないので、独我論や実在論を認められない、ということが言いたかったのです。

独我論や実在論は擬似問題だと言うことですか?言語に騙されているだけだと?

そうですね。いわゆる独我論やいわゆる実在論はその主張の真偽づけに有意味性を持ち得ないという点で、疑似問題だといえると思います。

逆に、独我論の「本当は」性は本当にあって、それを言語がエレガントに隠蔽しているとは考えられませんか?つまり、独我論は有意味性を持ち得ない擬似問題だと思ってしまうことが実は言語に騙されているのだ、というように。

竹村さんは独我論者か実在論者かどちらですか。それとも僕のようにどちらでもないですか。

どちらでもある、ですかね。ウィトゲンシュタインは独我論と言語の二重性(矛盾性)に苦戦していますけど、私も共感できるので。今のところ。

竹村さんもウィトゲンシュタインに共感されるのですか。僕もウィトゲンシュタインファンなので仲間に会えてとても嬉しいです。

さて、
>独我論の「本当は」性は本当にあって、それを言語がエレガントに隠蔽しているとは考えられませんか?
というご質問について。

「本当は」という語には
1.「今は情報が不足しているので判らないが、新たな情報が得られれば真偽が確かめられる」
という意味のものと
2.「人間には知り得ない事柄であるが、神の視点ではその真偽が確かめられる」
という意味のものとがあると思います。
この1の方は有意味だけど、2の方には意味がないと僕は考えています。
1は、映画「マトリックス」の元の世界のバーチャル現実から見て「本当の世界はコンピュータによって見せられている疑似体験だ」というような言明に当たります。これについては、どのようなことが明らかになれば当該の言明の真偽が決定できるかがはっきりしていますので、意味のある言明だとしていいと思うのです。
一方、2は、「自分以外のすべての人は哲学ゾンビだ」というような言明に関するものです。ゾンビといっても「他者が実はみな機械仕掛けの人形だった」なんていう話だったらこれは真偽が確かめられるので1の方の話になりますが、見かけも内部構造もまったく同じままで原理的にその見分けがつかないはずの状況で「本当は他者はみなゾンビだ」とする言明は真偽の確かめ方がないので、有意味な言明にはなり得ないと考えています。

竹村さんがお考えの、「独我論の「本当は」性」とは、1か2かどちらの「本当は」を想定されていますか。

①他者 対 独我
複数的存在性(他者)↔︎独人的存在性(自己)

②存在 対 独我
複数的存在性(物質)↔︎単一的存在性(意識)

③言語 対 独我
複数的存在性(言語意味的複数)→包括する存在《根源》

③は、もはや、何方にでも転ぶというか、根源的であり、限界です。①と②の独我を発生させる根源が③であります。

飛ばします。結論。
他者は、証明できないが、少なくとも、志向の具現の条件、対象としてはある。但し、それが他者として正しく明確に区分できるかは、他者を正しく認識している主体aが、正しく明確に存在していることを証明する必要がある。他者を正しく認識している主体aが証明できるなら、その主体が正しく明確に区分した、他者を正しく認識している私が認識した、貴方や彼らの存在は正しい。証明できないなら、独我論に陥るか、存在可能性程度に留めておく必要がある。

③について。
言語的意味を決定しているのは言語的意味を《交換》する主体です。これは、貴方様が私の言葉遣いが分からないと言われたことから理解できます。例えば『姉属性』という言葉。これは、40年と1ヶ月後の火星では、『生クリームを尻の穴から注入して、その後、糞と一緒にその生クリームを噴射する』という、スカトロ的意味になります。このように言葉は言語化する何かによって、意味が区々です。

今日は雛祭り。

あれですよ、あれ!
俺は思うのです。確かに考えることは素晴らしいが、考えた結果、何かの行動に移せたり、感動が呼び起こされるなら、その考えは素晴らしいと。

でも、不毛なことをいつまでも論じるなら、俺はその考えに共感できません。

俺は、ちらし寿司を百貨店で買って嫁と楽しく食べます。隣で食べるから、味覚が違えど、より言語的には同じ意味になるでしょう。

横山さん。
今日は哲学など忘れて、美味いものを食べて共感なされては如何です。

これは嫌味とかそんな下劣なものではありません。精一杯の此処でできる善意です。

理さん、

考えずに、感じて行動できるだけで生きていけたら本当に素晴らしいだろうと思います。しかし、僕は考えずにはおれないのです。死が恐ろしくてたまらず、そのため自らの生と死について考えずにいられないのです、憐れんでやってください。

理さん、

質問1.理さんの仰る「独我論」とはどんなものを指していますか。

質問2.他者は結局、証明可能とされますか。不可能だとされるのですか。

質問1.
私の独我論は『有《結果》の領域のみに執着するライフスタイル』。結果主義で、原因にスポットライトが当たらない。

おまけで言うなら、
原因は存在性。または、存在というカタチ《真形》に執着しなければ、方向性。

理さん、

質問1.「有《結果》の領域のみに執着するライフスタイル」とはどんな事柄をイメージすれば良いのでしょうか。具体例を挙げて説明していただけないでしょうか。

質問2.他者は結局、証明可能とされますか。不可能だとされるのですか。

言葉を使ってどうこう論じるのではなく、他者は主体の識別に過ぎないのだから、前を見つめそれを実感すべきです。

他者は証明するものであると言う前提を超えて、他者とはそう認識し続けるものである。と説きましょうかね。

普通なら世界・意識がある場合、その直接の原因を《想定》するものです。

言語は、識別と保留する部分以外に、その対象の直接の発生原因を指しています。我々の眼前に現れる対象は、見えないし触れない何かの表面に過ぎないのです。

理さん、ていねいな回答ありがとうございます。ですが、まだはっきりしないところがあるので質問させてうださい。

質問1.「他者の存在は証明できない。けれども、他者の存在は証明という問題を越えて受け入れるべきものとする」という立場を理さんはとっていると考えていいですか。ちなみに僕は、「他者の存在は証明できるし、証明できないようなものを問題にしても仕方がない」という立場です。


>言語は、識別と保留する部分以外に、その対象の直接の発生原因を指しています。我々の眼前に現れる対象は、見えないし触れない何かの表面に過ぎないのです。

と仰るところから察すると、次の質問の答えはどちらもイエスになりますか。

質問2.理さんは、カントの「物自体」のように、見えないし触れない何か対象そのものが存在するとされる立場ですか。ちなみに僕は、そんな想定はナンセンスだとする立場です。

質問3.現実的な問題としてでなく言語の意味の問題として、哲学ゾンビは存在可能だと思われますか。ちなみに僕は、可能だとしない立場です。

そうです。
私たちは、その見えないし触れない外側に物の存在を想定できます。また、他者の存在や言語的意味での多様性も想定できます。これらは確かめようがないので、この世界には自分以外存在しないとする理屈も同じく確かめようがないのです。

だから、存在するかしないかは、確かめようがない。しかし、物自体が存在しなくても、表面として現れている、その方向性は渦巻いているのだ、と。

横山さん。
今日はどんな料理を誰と楽しみますか?

我々は底の分からないものを不毛に見つめ続けている。我々の認識が、行動というカードを選択するための識別に過ぎないと言うのに。

状況判断をし続けてこそ、それがそれであり続けると言うこと。目の前の料理を見つめ続けてください。

昨日、雛祭りでした。
美味しい料理は食べられましたか?
誰かと日常のなかの楽しいひと時を味わえましたか?

味わえなかったのなら、今日がその機会です。美味しい料理を誰かと楽しんでください。それがこれである、という事を感じ続けてください。

大切なものに気づかないなら、きっとその生は不毛なものとなります。

『悩み続ける生に意味はない。ただ答えのないものを求めていただけだった。そうしてさえいれば、私は、わたしとして永遠に《それがこれである》と認識し続けていられた。わたしがわたしでいられたのだ。』

それがこれである以上、つまり識別以上のことを求めるなら、裏側、根源に到達するしかない。

横山さんは小学校の先生でしたよね。

何科の先生ですか?
また、大学は何を専攻されていましたか?

どの様な理由で独我論に興味を持たれたのですか?

理さん、

>しかし、物自体が存在しなくても、表面として現れている、その方向性は渦巻いているのだ、と。

ということでしたなら、物自体なるものは別に想定しなくても大丈夫ってことにはならないのですか。
オッカムの剃刀で切り捨てられるように思えます
。なので、僕は、認識に引っ掛かって判別できるものだけを相手にしようとするスタンスは理さん以上にとっているという自負があります。

但し、自らの死に関わることなど言語の限界を探る必要がある問いについては、言語の本質と世界の成り立ちについてという、いわゆる「形示上学」と「検証可能な世界記述」との狭間にある問題を探らねばならないのではないかとは考えています。
そういう意図で、言語の限界が僕の興味のあるところなのです。

昨日は妻子と過ごしました。もちろん家族のことも興味はありますが、あまりプライベートはこの一応オープンな場では扱いたくないと考えています。ご理解ください。プロフィール欄にあるアドレスへメールしてくだされば返信いたします。

独我論に興味を持ったのは幼い頃に「蝿男の恐怖」という映画を見たのがきっかけです。詳しくは「瞬間転送と私の死」のページをお読みください。

僕は反独我論者であり反実在論者ですが、独我論も実在論も大好きです。
理さんは独我論がお嫌いですか。

僕は大学は教育学部です。専攻は小学校の理科教育です。
一応、理科が専門です。

妻子との時間があるのは良かった。

此処で話し合っている全てが不毛ではなく、人々の生きる力になることを祈ります。

さらばです。

そうですか。またいつでもお越しください。

御伽話のような哲学の話ですか・・・。
私は御伽噺を読んで世界を私なりに構成していくうちにここに流れ着いた者です。
ざっと読みましたが非常に興味深く参考になる話が沢山ありますね。
私のように哲学知識に疎い者でも読みやすい文章や絵があり助かります。

唯、気になって伝えたいことがあります。
私にはあなたが死を恐れているようには考えられません。
これが大変失礼な発言であることは私も理解しているつもりです。
勿論、死への恐怖が無い者は居ないということも私は感じています。
しかし「世界」や「私」についてあなたがここに書いたことを読みますと、
あなたが厳密に死を恐れることが可能かという疑問を抱いてしまうのです。

ジョンドゥさん、ようこそ。おほめのコメントありがとうございます。
来場歓迎いたします。

僕は上の本文の横山B助です。「自分が未来の自分になる」という世界理解のみが唯一可能な世界把握ではないという、この考えの正しさは信じているのですが、実際に「自分が未来の自分にならない」とは自分でも信じることができないでいるんです。

あした、子の受験合否発表なのですが、それも合格か不合格かのいずれかであることを信じています。未来に希望をもってしまっているので、「死」に絶望を感じざるを得ない体になっているのかもしれません。

あなたの返信を読んであなたと私の何が違うのかを感じとることができました。
あなたからの情報の提供と私の理解とがそれぞれ一方通行であることに関して、
私は違和感を持っていますがそれでもこのままというのも私は嫌なので、
感じ取ったことについて書かせて頂きます。

私は横山B助の発言に対して同意できるのですが、
あなたの発言に対しては一部同意が出来ないような気がします。

「自分が未来の自分にならない」の上辺だけ見れば、「死」であるように見えます。
このことをもって、「自分が未来の自分にならない=死」かと問えば、
横山B助は何と答えるでしょうか。あなたはなんと答えるでしょうか。

ジョンドゥさん、
ジョンドゥさんの感じていらっしゃる、僕とB助の違いがよく分からないのですが、僕の発言のどの部分に違和感があって、どの部分がB助と違うと感じていらっしゃるのかを教えてくださいませんか。
B助は僕自身のこととして書いたつもりなので、違うと言われても、ご指摘の意図が全然掴めません。

あなたと私の違いやあなたと横山B助の違いを書けといわれても
それを言葉として書くことはできないのです。何故ならば、
言葉として現れたそれを理解しようとするとそれが違いではないという結論に至る
という哲学的経験があるからです。
また、この経験を「経験させる」という私から見た行為の是非もあります。

とはいえやはり捻り出さなければならないのでしょう。
ただ、できることならば以前の私の問いに対して何らかの答えらしきものがあったほうが良いと思います。
私は横山B助とあなたに対して問いを行ったことで、あなたを混乱させてしまいましたが、あなたはどう答えますかという問いに率直なあなたの答えを考えて頂きたいと思います。

ジョンドゥさん、

>「自分が未来の自分にならない=死」か

回答します。
「自分(1)が未来の自分(2)にならない」という文において、「自分(1)」はこの今の自分の主体を指しています。これはジョンドゥさんも同意してくださるでしょう。そして、「自分(2)」は「A.その未来において今の自分の身体が持つ主体」という意味と「B.その未来において何故だか今の自分と同一の自分が世界を開闢していたと分かるような主体」という意味の2種類を、僕は考えられるのですが。ジョンドゥさんの意図はどちらでしょうか。
Aの場合、「自分が未来の自分にならない」は「今の自分はその未来においてその身体の主体にはならない」を意味します。これなら、今の自分がその未来において自分身体以外の主体となっているこという「抜け道」があることになります。だから、これは必ずしも自分の死を意味するものにはならないと思います。
一方、Bの場合、この今の自分という主体が、その未来において文法的に(それゆえ原理的に)なくなってしまうことを意味することになります。だから、これはその未来においての自分の死を意味するものになる思います。
ただし、それは未来の自分という(ある意味での)他者の死であるとも言えます。今の自分は、この一瞬に、永遠の生と死を、すでにして内含しているからです。

以上です。

あなたの回答と問いを私なりに理解したという前提で話をします。
あなたの提示した2種類の自分(2)の意味のどちらかを意図したかの回答は、
どちらもです。あなたはある意味失望するかもしれませんが、どちらもです。
ただし、その2種類の自分(2)の意味から考え出された回答に目を向けると
Aのほうが好みです。それはこれから私が述べようとしていることが
私にとって都合が良いからです。だから意図するものはAになるのかも知れません。

私の問いはナンセンスなものです。私がそう考える理由は、いかに私の問いを有意味に捉えて答えようとも矛盾というべき壁に突き当たるからです。
「自分が未来の自分にならない=死」と端的に捉えたときはそれが顕著です。
B助は死を信じることが出来ないがあなたは死に絶望していると発言できるためです。
あなたの回答は「自分が未来の自分にならない=死」を除くことが出来ませんでした。
結論としてあなたの提示した回答では矛盾に突き当たるということです。
私が自ら私の問いに回答してもやはり同じです。

そして、この先述べようとすることは御伽話だと予防線を張っておきます。

結果としてあなたも私も矛盾に突き当たらない回答は「今は」出来ませんでした。
おそらくですがこれはあなたにも納得できる表現だと思います。
そしてその結果を私とあなたはそれぞれ見つめなければなりません。
この行為が私には極めて危険だという感覚があるのです。

だから私たちはそれぞれ自身に「魔法」を掛けたのです。
私は私が私自身に掛けた「魔法」を私になりに理解しようとしたのです。
「魔法」の正体なのか「魔法」によってもたらされた結果なのか分かりませんが
あなたとB助を別に考えたこととあなたは死を恐れることが出来ないと考えたことは確かです。
もちろん私だけが「魔法」に掛かってる可能性もあります。
あなたがあなた自身に掛けた「魔法」を私なりに理解することも出来ますが、
それはやはり言葉にすることは出来ないのです。

ジョンドゥさん、

>B助は死を信じることが出来ないがあなたは死に絶望していると発言できる

というご指摘について、確かにある意味で矛盾しているようにも見えますが、「死1を信じることが出来ないが死2に絶望している」という発言は矛盾ではないと、僕は考えています。

B助の信じることができないという「死1」は、この瞬間に私が死を迎えていると考えることもできるとする「文法的超越論的な死」だが、
僕が絶望しているという「死2」は、いつかこの身体活動が停止するときに意識が滅消することを指す「経験論的な死」を述べようとしていたものです。
ですので、この二つの死について、一方を信じ得ないままに一方に絶望することは矛盾しているわけではないのです。

そうです。矛盾していません。それは私にしても同じなのです。
「あなた」はB助とあなたに分かれているから矛盾していません。
「死」は死1と死2に分かれているから矛盾していません。
ですがそこから私の言葉における「哲学的経験」と新たな問いが生まれてきて、
その答えを考えますが、トートロジーになるか矛盾というべき壁に突き当たります。

あまり言葉にしていても気分は良くないので、流れを変えましょう。
私はこのように見るようになったのでそれを観察し、言葉として捻り出しました。
私とあなたの違いについても言葉として捻り出すことはできます。
ですがそれを為すかについては、ここはあなたのブログで領域でありますから、
あなたに任せようかと思います。

ジョンさん、
僕は私的言語不可能論者です。クオリアやその他のすべての「言葉にできないけど判っている」なんて状況は不可能で、判っていると思うのは勘違いだと考えています。
だから、哲学的思索についても自分の考えたことを言葉にしてこそ、本当に理解したと言えるものになると思うのです。しかし、厄介な哲学的思索を他者に理解してもらおうというのは余りに面倒な作業です。でも、その作業は決して無駄ではないと考えて、ここのようなブログのスペースを作っています。

ジョンさんのお考えを僕に判るように表現するというのは、相当、骨の折れる苦役かもしれませんが、何かお考えがあるのなら書き込んでいただければうれしいです。

私は私的言語不可能論を肯定も否定もしません。
しかし私的言語不可能論はあなたがここで書かれている独我論のように
振舞うことが出来る「独言語論」だと考えることも可能なのです。

世界のあり方について言葉にすることが出来ない疑いが持てるものをすべて排除し、言葉にする事ができる確実だと言えるものだけに信頼を置くことにしようとする考え方

私は独言語論も独我論もやはり肯定も否定もしません。
しかし反独我論者であると「言葉にする事が出来た」あなたは
矛盾というべき壁に突き当たることになります。
また私も私的言語不可能論と独言語論と独我論を否定も肯定もしない故の
矛盾というべき壁に突き当たることになります。

言葉として捻り出すことによって得られるものは確かに私を満たしてくれます。
このことについて私はあなたに感謝しなければなりませんね。

ジョンさんのご指摘は次のようなものと考えて良いのでしょうか。確認させてください。すなわち、僕は私的言語不可能論者だも反独我論者だとも言っているが、私的言語不可能論は一種の独我論だとも考えられるので、横山は独我論者でかつ反独我論者だという矛盾を言っていることになる。

こういう理解で良いのでしょうか。

【訂正】更に、訂正しました。貼り付けておきます。

世界認識の三元理解(対象、知的交換媒体、知)

条件1.
言語は、対象となる知の領域を持たなければ意味がない。裏の対象。

いぬ、犬(音や像、記号)↔︎裏の対象(知)

知の領域は、音や像に繋がれて意識に表れ、はじめて言語としての意味を持つ。

【対】⇨表の対象とは、志向の具現の条件となるもの。己の前にあるもの、感覚のもの。志向の対象。

【別】知っているとは
或主体により言語化(音、文字、記号化)されたそれが他者の主観(知)と交換される場合、また反対に同様の作用を及ぼす場合、互いが、互いに《知っていること》が存在する、という認識に至るが、ここで言う《知》の領域は(コミュニケーションの道具としての)言語=知的交換媒体を通じて認識する他者の知の内容ではなく、対象が何であるかを識別する材料(根拠)である。識別材料。


自らの知を世界という完全性として扱うことが可能かは、言語的意味に範囲や例外を有する時点でもはや不可能である。従って、言語の志向対象(眼の前、感覚の対象・裏側を含めて世界・完全性)への適用は便宜的であり、対象への言語適用は常に保留された部分を有するのである。この様な現象が起こるのは、我々の行動、方向性(再現性)は経験によりかたちづくられ、己の前の対象が何であるかを一旦決めつけてしまわなければ行動ができない為である=全ての行動は、何らかの決めつけが前提である。つまり、志向の具現に不必要な部分を象捨した概念の形成は、我々の再現性の機能からすれば必然である。


条件2.
我々の認識(言語=音、像+知(根拠))は再現性を脅かされない限りに於て、その対象を別のものと見做すことは出来ない。

その再現性を脅かされない限りに於て、対象はその言語に纏められて概念へと昇ってゆく。

それは、我々の行動が経験的であることにより証明されている。志向が具現できない場合になってはじめて、根拠を探し、己に取り込もうとする=事が起こらなければ、それに対する行動が起こらない。言語的に分化し概念化する原因は、対象を使った再現の失敗である。

あらゆる行動は志向、因子の具現に過ぎない。もし同じ対象を別々のものと見做せるなら、それは別の志向を再現する条件に当たる為である。それは、私が、再現性を脅かされない限りに於て、その対象を別々のものと見做すことは出来ないと言ったことを発現の条件とする、見做せる根拠を探そうとする志向の具現に過ぎない。最終的に対象に違いが見つからなければ、それは置かれている状況、違うものと主張する主体などを含め環境的違いにより違うものとして見做されているに過ぎないのである。対象が対象ではない根拠(識別材料)を提示できない対象は、例え真には別のものであっても、概念的には同一である。


条件3.
言語は知保(それが何であるか知っている部分と、考え、判断を保留にしている部分)の領域を表す。

知識、言語化された知が世界という完全性と同一に扱うことができないのは言うまでもない。言語は、対象への適用の便宜性を認めることによって、また、その適用に、判断保留の存在を認めることによってオリジナルを除いて保留の領域を持つことになる。


言語は、対象の識別と判断保留によって運用される。また、言語には概念化される前の原初の言語が存在する。

【保留の種類】

①現象a(オリジナル・原初の言語)と現象1が実際には『1≠a』にもかかわらず、再現が可能なことを根拠として『1=a』として扱う。

『彼は兎である。』

その触れないし見えない二つの物体が、実際はちがうものにもかかわらず、振る舞いとして殆ど同じである。または、その触れないし見えない、物体ではない方向性が、実際はちがうにもかかわらず、振る舞いとして同じである。
→私が兎に化けて、相手は兎と私を識別できなかった。

私は私から見て私だが、相手から見た私は兎である。→彼から見て私は兎なのだから概念的同一性。

理さん、ジョンさん。

様々な方がコメントくださるのは有難いですが、ご面倒でも何某かのお名前を入れてくださるとありがたいです。どなたから頂いたコメントか分からなくて混乱してしまいます。

↑は理さんのコメントの付け足しですよね。ジョンさんかも知れないと考えて、どちらかわかりにくくなってしまいます。
ジョンさんもよろしくお願いします。

理さん、こんばんは。

質問を4つさせてください。

1.「知の領域」がすなわち「裏の対象」ということでしょうか。

2.「裏の対象」がシニフィアンで「表の対象」がシニフィアと理解していいでしょうか。
それとも、「表」が言語で指される対象そのものであって、「裏」がシニフィエとシニフィアンの両方を指すと考えた方がいいのでしょうか。

それから、
3.「⇔」は同一とか必要十分条件とかということを表していると考えていいですか。

そして、次が一番質問したいことです。
4.理さんが考える「言語化された知」とは誰のものですか。発言者のものですか。その発言を聞いて解釈する者のものですか。それとも、発言者と解釈者が同一の意味を知り得て両方のものになるのですか。発言者と解釈者とがそれぞれに別の意味を知るのでそれぞれに固有のものになるのですか。発言者と解釈者以外にもいる人を含む社会全体のものですか。社会だけでなくさらなる真理を知る神のものですか。

質問に対して返信するのが遅くなってしまいました。申し訳ありません。
他の方の姿も見えないようなので先にコメントを書かせて頂きます。

私の前回のコメントに対するあなたの理解は「問題はない」と思います。
書き方で分かるかも知れませんが、あなたの理解について
私の考え方ではこのように答えるのが精一杯なのです。

ジョンドゥさん、
わかりました。僕の言っている「私的言語不可能論」は言葉で掬いとれないものは「無い」とするのだからそれは独言語論とでもいうべきものになる。というご指摘ですね。

しかし、そのご理解は誤解です。
僕が説く「私的言語不可能論」は、言語で掬いとれないものの「無さ」を論じるものでなく「ナンセンス」を論じるものだからです。言語で掬いとれないものは無いとするのではなく、その有無を問題にし得ないようなナンセンスだと言っているものなのです。
ですから、それは独我論の一種に分類されるようものではないのです。独我論どころか、反独我論や反実在論に分類すべきものだと僕は考えています。その辺りの詳細は本ブログ「意味の意味2」のページでダメットの反実在論を読んでもらえますか。

横槍失礼します。
以下「」内は横山さんの永井さんに対する発言です。

「言語的世界像の外部で学くんが自分の「言葉」の有意味を確信するための言語的メカニズムは、正に言語的世界像の外部の話ですから、無いのですよね。それなのに何故学くんはそれを有意味だと言えるのでしょう。 」

↑この文章を読む限り、横山さんははっきりと「無い」とおっしゃっています。
ナンセンスであることと無いことを混同されているようにも思えます。
言い間違い・・・あるいは永井さんとのやり取りの後、考え方が変わったのだと好意的に捉えることにして・・・横山さんの言うナンセンスとはどういう意味なのか?
それが気になります。

哲学も科学同様、検証可能なことだけを相手にすべきだという話なら、横山さんにとって哲学と科学の違いは何なのか?それも疑問に思います。

がみさん、コメントありがとうございます。
ここの名無しのジョンさんとの話は、がみさんのいう「一枚の絵」の話とも、おそらく関連があるだろうと思いますので、僕は横槍大歓迎です。ジョンさんもうるさがられないのではないでしょうか。

上の文の中の「言語的メカニズム」というのは、僕は、「言語ゲームを為すための状況システムの有無」をイメージしています。「親方が『板石』と言ったときに助手が板石を持ってくるか、持ってこないかの状況」が<有れば>、この言語ゲームでは「言語的メカニズム」が<有る>と言えて、『板石』という語には意味があると言えるでしょう。しかし、「助手が板石を持ってくるか来ないかが分かるような状況」が<無い>なら「言語的メカニズム」が<無い>としか言えなくて、そのときには『板石』という語は意味を持ち得ずナンセンスになる、と言えると思います。
「言語的メカニズム」が<無い>ときに語は<ナンセンス>になるのです。
そして、永井氏とのやり取りで僕が「無い」と言っていたのは「言語的メカニズム」のことであって、語の意味のことではありません。ですから、「無い」と「ナンセンス」を混同しているとは言えないと思います。

それから、ナンセンスと無意味有意味の意味について、僕の考えている内容は
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/4-25ff.html
をご参照ください。

がみさん、
科学は検証の中身を相手にして検証しその検証結果を検討する。
哲学は検証と言語の関係を相手にし、検証の有意味性を検討する。
というふうに思っていますが、でも、本当はよく分かりません。

上で横山さんから引用した文章だけを読むと単に「言語的メカニズムがない」と言っていますね。しかし、その後・・・

「言語的世界像の外部での何かを有意味にするメカニズムなんて有り得るのでしょうか?どうすれば外部に出られるのか、外部があるとは思えないのです。存在しない橋梁を踏めと言われているような気がしています。」

と、書かれています。存在自体を否定されているように読めます。
言語的世界像の外が「存在しない」と。
これは僕の読み違いなのでしょうか?

「言語的世界像の外部に言語的メカニズムがない」ということなら全くのトートロジーでそれこそ無意味な発言だと思いますが。

ジョンさん?、
「有る」と「無い」と「ナンセンス」の関係について、「有ると言えない」のときにはそれは「無い」と「ナンセンス」のときがあるのではないでしょうか。
また、しかし「無いと言える」のときそれは「無い」であっても「ナンセンス」だとは言えないと思います。
つまり、「有ると言えない」と「無いと言える」は似ていますがまったく別物です。
僕が上で言っているのは「有るとは思えない」ですから「有るとは言えない」と同じでそれは「ナンセンス」かもしれないような「言えなさ」だと僕には感じられます。

詭弁に聞こえますか。僕はかなりまっとうなことを言っているつもりでなのすが、納得してもらえるでしょうか。

名前が抜けていましたが、二つ上の投稿は僕です。

名前が抜けていましたが、二つ上の投稿は僕です。

がみさん、
永井は「いったんは(言語的世界像の)外に出た視点に立てないと肝心の弁証法が始まりません」と言っていました。
しかし、僕にはどうしても言語的世界像の外に出ることは不可能だとしか思えなかったのです。なぜなら言語的世界像の外で某かのことを語ったり思ったりすることはナンセンスでしかないと考えたことからです。そのことをもって言語的世界像の外に有意味な視点は存在し得ないと(つまり「無い」と)言えると思いました。そこで、言語的世界像の外に何かがあるというのは「ナンセンス」であると考え、「言語的世界像の外部での有意味なんて単なる語義矛盾じゃないか」と尋ねたら、「言語的世界像の外部での有意味などとは言っていない」と諌められた訳です。

永井氏との議論は噛み合いませんでしたが、ここまでで、僕が使っている「ナンセンス」「無い」「有意味」には少なくも語義の混乱はないと思いますが、いかがでしょうか。

「言語的世界像の外部」と言う言葉で僕が言わんとしていることが何のことだかさっぱり分からないと言うなら、横山さんの言っていることは筋が通っていると思います。

永井氏やがみさんやジョンさんは、排中律がいつでも正しいとされるような気がするのですが、いかがでしょうか。
たとえば、「πの小数展開のなかに7が100万回連続することは有るか無いかのいずれかである」は必ず正しいとされるのではないですか。
僕は、これが無条件に正しいとは言えないと考えます。排中律が正しいとするという前提を入れてトートロジーにする場合に限らないと正しいとは言えないと思っています。

排中律??
その話が今の話とどう繋がるのかさっぱり分かりません・・・。

永井氏やがみさんやジョンさんが、(ダメットの言うところの)「言語論的な実在論者」なのではないかと疑っているのです。
言語の意味が言語ゲームを離れて固定できたり、証明の可能性がなくてもその真偽が有意味になるとする考え方です。
そして、ダメットによると排中律がその試金石となるので、排中律を話題にした訳です。僕はダメットと同じく反実在論の立場です。

以前横山さんと無限についてお話しした時、確か横山さんは「実無限に分がある」とおっしゃっていましたよね?もしまだその立場を変えていないならπに関しては「小数展開の全てが予め決まっている」と言わねばならないんじゃないですか? 僕はそうは思わないですが。

がみさん、
そうなんです。自分の立場が揺れているんです。去年は実無限に分があると思っていたのですが、この頃はそれも微妙になってきました。
でも、πの小数展開が無限に決まっているという矛盾を前提にし、排中律を前提にすることによって、排中律が受け入れられるようになるという点に関しては、今も以前と同じように認められるとは考えています。

がみさん、
がみさんは、検証できず言語ゲームの駒になり得ないような語の意味さえ認めようとされているように思っていたのですが、でも排中律は認められない立場なのですね。
僕自身もそうなのですが、ダメットの実在論・反実在論の区分ではすっきり区切れないようですね。

たぶん・・・誰かと議論しあうことで何かを結論付けて行こうとすれば、横山さんのような考えが正しいということになって行くんじゃないかと思います。そして科学と哲学の違いも判然としなくなって行くのではないでしょうか?
僕は哲学を「自分を納得させるための営み」だと考えていて、大勢で共有されなくてはならない科学とは明確な違いを与えています。
だから基本的に議論することに重きを置いておらず、他人を説得することにも無頓着です。
哲学書もあまり読みません。

たまにこうして議論に参加するのは、他人を説得するためではなく、議論することで自分の考えが明確になることもあるからです。

僕がこのブログを書いている理由は、自分の考えたことをだれかと共有したいとか自己顕示欲を満たしたいとかという意図もあることはありますが、それよりも自分が何を考えているのかをはっきりさせたいという思いが強いです。
ここでの議論や大阪哲学同好会などで討論会に参加して他者と話し合うのも、自分の考えを言葉にしてその内容を明確にしたいという意図が最大でほぼ唯一の目的です。
言葉にしないと、わかった気になるだけで全然混乱したままになってしまうのは僕だけではないと思います。
ただ他者と細かな議論の意味を共有しようとするのはかなり面倒くさいですけどね。

完璧な議論の共有など、ないだろう・・・と思います。
ですが、それを目指すのが議論なのかもしれません。
議論というのは本当に骨が折れるものだと思います。
僕はかつて、あるサイトで管理者としてクオリアに関する議論をしたことがあります。
約一年くらいやっていました。
仏教思想の人やら、現代哲学の専門家のような方やら、断定口調で訳の分からない批判ばかり繰り返す人やら・・・色んな人でにぎわいました。
管理者ですから、無視しては失礼だと思い、ほぼ全員の方とお話ししましたが、結局大したことはできなかったと思います。
相手の主張を理解することや、こちらの主張を理解してもらうことばかりに気を取られてしまい、結局疲れて止めてしまいました。
他人の言っていることは基本的に分からないです。
分からないのが他人というか。
そのことを痛感しました。
永井さんの話もとても難しく、僕には分からない部分がかなりあります。
ですが、「ああ、これはとてもよく分かる」と共感できる部分もあります。
宇宙空間を漂う塵と塵が接触したような、そんな気分になることがあります。

がみさん、
そのクオリアのサイトの話し合いにすごく興味があります。閲覧したいです。むずかしいですか。

かなり前のもので、今からするとめちゃくちゃなことを言っていますから、自分で読み返して見ると恥ずかしいです。勘弁してください(笑)

そうですか。それは残念。

がみさん、
因みにそのサイトへの投稿では「クオリア容認派」と「否定派」のどちらが多かったですか?

容認・否認というのは「実在するか否か」ということでしょうか?
色んな立場の人がいたので、二分するのは難しいですけど
○「実在し、また科学的に取り扱える」
○「まったくそのようなものはない(消去主義)」
○「あるとも言えるし、ないとも言える」
大別するとこの三つですかね。
どの立場の方が多かったのかは覚えていません。

がみさん、ありがとうございます。
とても興味深いデータです。

>○「実在し、また科学的に取り扱える」○「まったくそのようなものはない(消去主義)」○「あるとも言えるし、ないとも言える」大別するとこの三つ

僕はクオリアなんぞナンセンスで有るとも言えず無いとも言えないとしたい立場です。この場合は2つ目の消去主義に分類されるのですかね。
僕はクオリアは私的言語でしかないのでナンセンスだと考えますが、永井均などはクオリアも私的言語もはっきりとあるとしなければならないと公言しています。クオリアに関連する第0次内包について、最近もウィトゲンシュタインが理解していなかったとミクシィで呟いています。僕は、その0次内包があるとすることこそ永井の勘違いであることをはっきりさせるためにも、今年はデリダを読み込んでいきたいともくろんでいます。
ここのブログでもレポートをあげていきたいと考えています。
その時には、ぜひ読んで感想をいただければ嬉しいです。

レポート、期待してます。
そして、僕は永井さんと横山さんの以前の議論が未消化だったと思うので、もう一度ちゃんと議論して欲しいとも思っています。永井さんが議論する気になるかどうかですが・・・。

がみさん、
そうですね。永井氏が討論を受け入れてくだされば嬉しいですが、すでにあれだけはっきりと拒絶されていますから、もう一度お願いするだけの心臓を僕は持てていません。

実は私がこのブログに流れ着いたのは排中律に考えることがあったからです。
とはいえ、私が排中律の哲学的な意味を理解しているとは言えません。

ただ、私なりの世界を構成する過程で矛盾を如何するかという問題があり、
そして「排中律」を知り、それを拒否することで矛盾を解決できるのではないか
という希望が私の中で生まれてきたのです。
因みに「排中律を拒否する」という表現はこのブログを読んで得たものです。
それまでの私はこのような表現を持ち得ませんでしたから。

勿論、矛盾を解決するために排中律を拒否することを実行に移した訳ですが、
結果は惨憺たるものでした。
その過程は死についてあなたと交わしたコメントにも表れていると思います。

それにしても私の文はなんと読み難いものかと反省しきりです。

Jさん、
貴方はだれですか。

>その過程は死についてあなたと交わしたコメントにも表れていると思います。

と言われましても何のことかわかりません。

さらばです。

私はあなたが言う所のジョンドゥです。
一つ前のコメントで名前欄にJと入れて投稿した際に、
あなたが私をジョンドゥだとちゃんと認識しておられた様なので、
このまま使わせて貰おうとしたのですが、ジョンドゥと書いたほうが良いのでしょうか?
でも、それはそれで紛らわしいのではないかと思っているのですけども。

Jさん、
失礼しました。前回の投稿でJと記名してもらっていたのを見落としていて気づいていませんでした。
では、Jさんというお名前ということでよろしくお願いします。やはりお名前なしでは分かりにくいところもありますので、お名前をもってもらったのは有難いです。
しかし、

>矛盾を解決するために排中律を拒否することを実行に移した訳ですが、結果は惨憺たるものでした。その過程は死についてあなたと交わしたコメントにも表れていると思います。

この部分はよく分かりませんでした。再度、排中律を拒否したともがなぜダメで惨憺たるものなのか解説してもらえませんか。

>矛盾を解決するために排中律を拒否することを実行に移した訳ですが、結果は惨憺たるものでした。

これについて零から捻り出すと長く理解し難くなってしまうと思うので、
「死についてあなたと交わしたコメント」と関連する箇所に留めて、
いくつかに分けていきたいと思います。

まず、或る問い《「自分が未来の自分にならない=死」か》に対して、
排中律を拒否すること、またはそれによって得られた回答が、
排中律を拒否しなかった場合の回答を排除する事が出来ましたか。
もしくは、改めて考えて排除することの出来る回答を見つけることが出来ますか。

Jさん、

>《「自分が未来の自分にならない=死」か》

という話が排中律に関係した話をされていたことを僕は分かっていませんでした。
それが排中律を拒否するということってのは、<「自分の未来が自分にならないことが死を意味するか、あるいは、死を意味しないかの何れかである」って事にはならない>という話だと、僕は理解しました。それで合っているでしょうか。
でも、その理解だと「『死』という語の意味」を「自分の未来が自分にならないことと同一に『する』か『しない』か」という、語の意味使用の設定だけの話でしかないのではないですか。僕は本来、排中律拒否の問題は、語の意味使用の限界が使用者の意図的設定だけで決められないような用法の場合に限って問題になると考えています。しかし、ご提示の《「自分が未来の自分にならない=死」か》は使用者の意図的設定だけで決められる用法の問題だと思うので、排中律拒否の問題を「惨憺たるもの」にするものだとは思えません。

あなたの理解に対して私は肯定も否定もしない立場ですが、
要らぬ誤解のないように申し上げますと、
私は《「自分が未来の自分にならない=死」か》という問いをしたときに、
排中律に関係した話をしているという意図は全くありませんでした。
ある問いに対して排中律を拒否する立場で回答するということを、
分かりやすく理解してもらうために取り合げた例に過ぎません。
もしくは、あなたと私とで交わされたコメントを
「このように見ることも出来る」という立場を示したに過ぎません。
あなたが私の提示した例もしくは立場を受け入れることが、
「矛盾を解決するために排中律を拒否すること」の結果が惨憺たるものとしたことに
直接的に繋がる訳でもありません。

私の提示した例もしくは立場というもので、あなたが困惑されたり、
受け入れることが出来ないという考えに至るならば、
他の例を挙げるということも考えておりますが、
恐らくどのような例を挙げたとしても、前回のコメントで述べた、

>排中律を拒否すること、またはそれによって得られた回答が、
>排中律を拒否しなかった場合の回答を排除する事が出来ましたか。
>もしくは、改めて考えて排除することの出来る回答を見つけることが出来ますか。

というものに行き着くと思います。

Jさん、

僕の理解を肯定も否定もされないというのは、僕の文章が分かりにくくて判断できないということか、僕の解釈があまりに的外れで返答できないということか、イエスノーで断言できるような問題ではないということか、あるいは、正誤を判断して返答する気分にならないということでしょうか。
肯定も否定もしないというのは結局情報量0と変わりませんから、理解するための糸口が見つけられません。某かの情報がいただければありがたいです。

さて、

>恐らくどのような例を挙げたとしても、前回のコメントで述べた、>>排中律を拒否すること、またはそれによって得られた回答が、排中律を拒否しなかった場合の回答を排除する事が出来ましたか。もしくは、改めて考えて排除することの出来る回答を見つけることが出来ますか。>というものに行き着くと思います。

と仰るのは、
「排中律を認めるための積極的な根拠がなかったとしても、認めなければ困ったことになるから便利のために排中律を認めなければならない」
ということでしょうか。それでしたらよく分かります。それとももっと積極的な根拠があるとお考えなのでしょうか。それならさらにその根拠理由を教えてください。

それはまさしく
「私の理解はこういうものであるが、あなたの理解と一致しているか?」
誤解を恐れず言い換えるならば
「ある問いに対する自分の理解と他人の理解が完全に一致し得るか?」
という問いに対して、私がどのような立場で回答しているかというのを示してるのです。
ダメットの反実在論を支持する立場において、
この問いに対する答えは「一致し得る」というものになりますか?

Jさん、

>「ある問いに対する自分の理解と他人の理解が完全に一致し得るか?」という問いに対して、私がどのような立場で回答しているかというのを示してるのです。


Jさんは、ある問いに対する理解が自分と他人で完全に一致することはないから、僕の理解について肯定も否定もすべきではないと考えておられるということですね。
しかし、それが本当ならコミュニケーションはどのようにして可能になるのでしょう。

それについて、ダメットがどう考えるのか僕には分かりません。しかし、僕は次のように考えます。自分と他者の言語理解が完全に一致できるはずがない。なぜなら言語規則がどこまででも確定され得ないことを示す「規則のパラドクス」によって全ての発言者の言語規則の一致しない可能性がいつまでもありつづけるからだ。しかし、その規則のパラドクスによって自分自身が語っている内容さえ自分自身で完全に分かりかねるということになってしまう。実際に他者と共有できる言語規則だけしか自分自身でも理解できないのだ。そして、そうなのであれば、いっそのこと積極的に、他者と自分は理解を共有できる可能性が常に開けているとしなければならない。
これが「ウィトゲンシュタインの私的言語批判」の本質だと考えています。

長大な思想をここまでかい摘まんでしまっては伝わらないでしょうね。焦って省略しすぎたかもしれません。分かりにくかったら解説をしていきますので、おっしゃってください。

では、「ある問いに対する自分の理解と他人の理解が完全に一致し得るか?」
という問いに対するあなたの回答は
「一致し得る」もしくは「一致し得ない」という回答を完全に排除している
と考えることは出来ますか?

Jさん、

>「ある問いに対する自分の理解と他人の理解が完全に一致し得るか?」
という問いに対するあなたの回答は「「一致し得る」もしくは「一致し得ない」という回答を完全に排除している」と考えることは出来ますか?

出来ません。
それゆえ、排中律が崩れることはありえないと推論されるわけですね。そういう論旨だったのですね。ようやくわかりました。

しかし、そうだとすれば、その推論はいけません。
排中律否定派の主張は、「排中律はいつも成り立たない」ではなく「排中律はいつも成り立つとは限らない」なのだからです。それゆえ、僕は排中律が成り立たない例を一つ挙げれば論証になりますが、Jさんは排中律が成り立つ例を100個並べても論証することができません。上の例で排中律が成り立ったとしても、「いつも成り立つとは限らない」の反証にはならないのです。

ある質問に対して「分からない」としか答えられないような場面がこの排中律の是非を考える上での争点になると思います。

私が述べたいことは、

>排中律を拒否したともがなぜダメで惨憺たるものなのか解説してもらえませんか。

ということに対することであり、
排中律否定するかどうかについて話してるつもりではなかったのですが、
残念ながら私はあなたの理解を否定も肯定もしない立場であるので、
質問を変えさせていただきます。

「ある状況において観察された結果が矛盾しているように見えるか?」
という問いに対して

>排中律を拒否すること、またはそれによって得られた回答が、
>排中律を拒否しなかった場合の回答を排除する事が出来ましたか。
>もしくは、改めて考えて排除することの出来る回答を見つけることが出来ますか。

Jさん、

質問に対して質問で返していては議論が建設されず有効でないのですが、


>「ある状況において観察された結果が矛盾しているように見えるか?」という問いに対して>>排中律を拒否することが、排中律を拒否しなかった場合の回答を排除する事が出来ましたか。

というご質問の意図と意味が僕の読解力では読み取れないので、質問させてください。

1.「回答を排除」とはどうなる(どうする)ことですか。言葉の意味を教えてください。
2.Jさんのいう「排中律の拒否の結果が惨憺たるもの」は、「排中律がいつも成り立つとは限らないとするとその結果が惨憺たるもの」ということではなくて、「排中律がいつも成り立たないとするとその結果が惨憺たるもの」ということなのでしょうか。それなら、僕も同意しますし、惨憺たる結果も当然だと思います。しかし、「排中律がいつも成り立つとは限らないとするとその結果が惨憺たるもの」という意味なのであれば、同意できません。どちらなのでしょうか。

前のコメントを頂いてから、返信が遅くなってしまい申し訳ありません。
あなたの質問を私なりに理解した上で、
どのような答えを搾り出すのが良いのか考えていました。

あなたは私がしたいくつかの質問に対して回答をしてくださっていますが、
その中には「回答を排除」などの表現を使ったものが既にあります。
したがって、あなたは私がした質問

>「ある状況において観察された結果が矛盾しているように見えるか?」
>という問いに対して

>>排中律を拒否すること、またはそれによって得られた回答が、
>>排中律を拒否しなかった場合の回答を排除する事が出来ましたか。
>>もしくは、改めて考えて排除することの出来る回答を見つけることが出来ますか。

にあなたなりに回答することが出来る。
と、私は思っています。

要するに、私はあなたに対して行った質問などをあなたに自問自答させたい
ということなのだと思います。
ですから私に対しての回答というものを考えて頂く必要はありません。
以下続きます。

上述のように考えていただいた上で

>勿論、矛盾を解決するために排中律を拒否することを実行に移した訳ですが、
>結果は惨憺たるものでした。
>その過程は死についてあなたと交わしたコメントにも表れていると思います。

というのは、死についてあなたと交わしたコメントの中に
私があなたに質問をする形で自問自答している様というものが潜んでいる。
と私は感じていることの表れなのです。
逆に言えば、私はそうした様やその中ででてくる考え方から至るものに対して
「惨憺たるもの」という言葉を捻り出したということなのです。

私は、あなたがそうした様を見たりその中ででてくる考え方から至るものに対して
あなたなりの理解というものをさらに私なりに理解するために質問を繰り返している。
というのをあなたの質問への回答としたいと思います。
勿論自問自答である訳ですから、回答を私に示していただく義務はありません。

Jさん、

できれば、二つ目の質問にも回答してください。

2.Jさんのいう「排中律の拒否の結果が惨憺たるもの」というのは、
(1)「排中律がいつも成り立たないとするとその結果が惨憺たるもの」ということなのでしょうか。それとも、
(2)「排中律がいつも成り立つとは限らないとするとその結果が惨憺たるもの」という意味なのでしょうか。

私はその質問も含めての回答をしたつもりでしたが、
改めて質問をされたということで私なりに回答いたしますと、
どちらもです。
「今、この質問に排中律は成り立つか?」という質問に回答して頂ければ良いのです。
その上であなたの「私への質問」にあなたなりに答えて頂きたいのです。

私は反実在論を肯定も否定もしません。

Jさん、

両方ということは「排中律がいつも成り立つとは限らないとするとその結果が惨憺たるもの」という意味でもあるということですね。だったら、排中律が成り立たなくて惨憺たる結果になるという例を幾つ挙げたとしても、すべてを挙げきらなければ「排中律がいつも成り立つとは限らないとするとその結果が惨憺たるもの」になることの論拠にはならないと思います。そういう意図の話をされているのでなかったのならごめんなさい。

さて、
>「今、この質問に排中律は成り立つか?」という質問に回答して頂ければ良いのです。
のご質問にこたえたいのですが、

「今、この質問に排中律は成り立つか?」とは具体的にどの場面の「この質問」なのかが分かりませんでした。教えてください。

謝られる様なことはありませんが、

>勿論、矛盾を解決するために排中律を拒否することを実行に移した訳ですが、
>結果は惨憺たるものでした。

という言葉を捻り出した理由をわたしなりに解説しているというつもりであるので、
あなたが納得できる論証を確実に提示できる
とは私の立場からは言うことはできませんし、
あなたを絶対に納得させようという意気込みも御座いません。

質問の回答としては、
自己言及のパラドックスを真似たものだと考えて頂ければ良いかと思います。

Jさん、

>「今、この質問に排中律は成り立つか?」という質問に回答して頂ければ良いのです。その上であなたの「私への質問」にあなたなりに答えて頂きたいのです。

では、そうします。
課題の質問文は「今、この質問に排中律は成り立つか?」
その僕の答えは「成り立つとは限らない」だとしましょう。
それに対する僕の質問は「その排中律の不成立は常に不成立なのか」でしたから、それに対する回答は「成立するとは限らないし、しないとも限らない。分からない。」です。

ではその
「成立するとは限らないし、しないとも限らない。分からない。」という立場は、
「排中律がいつも成り立たない」とする立場
「排中律がいつも成り立つとは限らない」とする立場
のどちらかと一致しますか?

Jさん、
「排中律がいつも成り立つとは限らない」とする立場です。

「今、排中律は成り立つとは限らない」から
「排中律がいつも成り立つとは限らない」へと話を進めることが出来ますか?
また、「排中律はいつも成り立つとは限らない」はいつも成り立ちますか?

要するに、私なりの理解で言葉を捻り出すならば、
あなたの語る「実在論者」も「反実在論者」そして「私自身」も
飛んでいる矢は止まっていると言い合っているに過ぎないのだと思うのです。

ですから、あなたが
「排中律がいつも成り立たない」とする立場
「排中律がいつも成り立つとは限らない」とする立場
から離れない限り、少なくとも今は、

>勿論、矛盾を解決するために排中律を拒否することを実行に移した訳ですが、
>結果は惨憺たるものでした。

ということになるのではないかと私なりに考えているのです。

Jさん、

なぜ、

>ですから、あなたが「排中律がいつも成り立たない」とする立場「排中律がいつも成り立つとは限らない」とする立場から離れない限り、少なくとも今は、
>>>結果は惨憺たるものでした。
>ということになる

ということになるのかが、全然分かりませんでした。僕の理解力でも分かるように分かりやすく言ってもらえればありがたいですが、ダメですか。

ではあなたの立場を取ったとして、
矛盾を解決するために排中律を拒否することを実行に移した結果が、
「矛盾を解決できた」であるとか「矛盾のない世界を構成する事が出来た」
といったものになりますか?

私は私なりに実行に移した結果がそういったものにならなかったのです。

最期になりますが、
今回は大変貴重な経験をさせて頂きました。ありがとうございました。

>あなたの立場を取ったとして、矛盾を解決するために排中律を拒否することを実行に移した結果が、「矛盾を解決できた」であるとか「矛盾のない世界を構成する事が出来た」といったものになりますか?

はい、なります。
最期というのはこの通信を終えるということですね。なぜ、僕の考えでは排中律批判ができないのか、Jさんのお考えを理解できなかったままなので終わるのは残念です。

また、よろしけれぱ気が向いたときに来てください。

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