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2015年2月11日 (水)

多世界解釈説と「私」の同一性<私の死と「私」の同一性4>

多世界解釈説において「私」の同一性がどう保たれるのかを考える。

多世界解釈説によれば時刻t0における私の身体は1秒後の時刻t1において無数の世界に分裂してしまうことになる。時刻t0における対象人物の身体をO、その主体をoと呼び、時刻t1においてのその分裂した身体をそれぞれA、B、C…、とし、その主体をそれぞれa、b、c…、と呼ぶこととしよう。

このとき、時刻t1の主体aにとって、時刻t0の主体oは、主体aと同一の私だとし自分自身だとすることができるか。 然り。できるだろう。
主体aにとってみればoはまさしく自分自身の1秒前そのものであるはずだ。aにはoであった記憶がありありとあり、aにはoからaまでまさしく持続した意識が連続していて途切れていない。完全に主体oは「私自身」である、とすべきだ。
では、主体bにとって主体oは自分自身だと言えるか。もちろん然り。主体bにとってみれば、oはまさしく自分自身の1秒前そのものであって、その記憶がありありとあって、oから意識が持続している。完全に主体oは「私自身」だ、とすべきものである。
同様に、主体cにとっても主体oは「私自身」と言えるものである。

それなら、a=oであり、b=oであり、c=oなのであるから、a=b=cとなるのか。aもbもcも、oと同一であるのだから、aとbとcは互いに同一であると言えるのだろうか。aにとってbやcは「私自身」だと言えるのか。
否。そんなはずは無いだろう。
だって、bが苦痛に喘いでいてもaは痛くも痒くもなく、aがいくら頑張ってもBの身体を動かすことはできず、bの感覚や思考や記憶をaが持っているわけでもないからだ。aにとってbはまさしく他人であると言って良いはずだ。 a=oで、b=oで、c=oなのに、a≠b≠cなのだ。

では、oにとって、a、b、cは自分自身だと言えるのだろうか。どうだろう。私は未来の自分自身をどんなものだと考えているのだろうか。やはり、連続性と記憶だろうか。物理的にも心的にも、この今の私から時間連続していて、この今の私の記憶を自分のこととして持っているのなら、そいつが私自身だと言えるのだろうか。 しかし、oにとってはaもbもcも完全にoからずっと連続した存在であり、自分の記憶を完全に自分のこととして持っている。だから、aもbもcもどれもがoにとっての未来の自分自身であると言って良いはずだ。 でもどうだろう。僕にはこれがしっくりこない。僕の感覚では、未来の自分とは唯一人であり、そのため唯一人だけが「本当の」自分になるとしか思えないのだ。 aもbもcもoの未来の姿だと客観的には言わなければならないのかもしれない。ところが、僕自身にとって主観的には、aかbかc・・・かの何れか一つだけが何故か本当の自分になると思われるのだ。aかbかc・・・かの何れか一つだけがoと「本当に」同一だと言える自分であるはずだと思われるのだ。

でもしかし、自分が未来にも唯一人とだけと同一だとしたいという、僕のこの感覚は、「私」という言葉の意味を確定させる上で、絶対的に 正しいものだと言えるものなのだろうか。それは、今のこの私が、原理的に一人であり、未来の私「たち」がそれぞれ個々に原理的に一人であって、それ以外のものを他者とするという制限によって、そのまま自分と同一のものは未来にも一人しかいないはずだと考えるドグマに陥ってしまっただけではないのだろうか。
この問題については次節で考えよう。

ともかく、多世界解釈説の世界像から鑑みれば、誰と誰が私として同一であるかを調べたいときに、調べたい対象を十把一絡げに並べて探れるような客観性で絶対的な作業台など何処にもないということだ。 a=o、b=o、c=oなのに、a≠b≠cであり、また¬(o=a ∧ o=b ∧ o=c)なのかも知れないのだから、「私」の同一性とは単純に絶対的視点で語れるようなものではないのだ。「私」の同一性は、誰にとっての同一性なのかをはっきりさせて、主観的に、そして個別に考えざるを得ないようなものでしかないと言えるのではないだろうか。

つづく

私の死と「私」の同一性

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