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2015年2月19日 (木)

完全バーチャル主体体験一秒映画と飲茶さんのどこでもドア<私の死と「私」の同一性6>

「[…oと同一な主体は…自ずから決まるのである]と続けないとおかしい」というコメントを平戸さんからいただいた。oと同一だとすべき主体は、現実のt1世界では現実に唯一つあることになるのだから唯一つに決められるはずだというご指摘だ。

これはある意味では全くその通りだ。
しかし、言語の限界においての「私」の同一性を考えるときにまでそう言い切って良いのだろうか。多世界解釈説においては、現実のt1の世界というのはaからみればaの世界が唯一の現実世界だけれども、bからみればbの現実世界がありcにはcの現実世界があるというものなのだ。だから、大局的見地からから見れば、aもbもcも現実の主体だとできるとする世界観である。それゆえ、多世界解釈説においては「oと同一の主体は自ずから決まる」とは言い切れないことになる。
このことをはっきりさせるために、多世界解釈説とは別のおとぎ話を考えてみる。

多世界解釈のように主体が分裂する話なのだが、世界ごと分裂するのではなくて一つの世界の中で主体だけ分裂することを考えるのである。t0で主体oの身体Oが実際の現実世界内で無数に分裂してA、B、C…になるというものだ。荒唐無稽な話だが言語的ナンセンスではない。有意味な設定のお話にはなっているはずである。A、B、C…は身体Oから物理時空間的に連続して存在する身体であり、それぞれa、b、c…という主体を持っている。
a、b、c・・・は自身がoであった記憶を完全にもっている。だから、aもbもcもその連続性と記憶の面では完全にそれぞれがoと同一であると主張する根拠をもっているし、実際そのようにそれぞれが主張する。
このような「お話」を考えるなら「oと同一の主体は自ずから一つに決まる」というようなことを単純に言うことはできないのである。
僕が今回の話でもっとも重要だと考えている視点はここにある。「私」の同一性が恣意的にしか決まらないと言うときに「恣意的」と言っているのは、「世界を唯物論的で意味論の欠けたものとして考えると私の同一性は意味が持てないのだけれども、自意識をもった主体が存在するときには自動的必然的にその主体にとっての同一性が決まる」というものでは無いのだ。「自意識をもった主体が存在していたとしても必然的で一意的に同一の主体が決まるのではなく、どの主体を同一と考えるかは自分勝手に決めても良い、という恣意性によって決まる」というものなのだ。私の同一性が恣意的に決まると言うときの恣意的なるものは、そのような、自分勝手に同一性の意味を決められるという意味での恣意性なのだ。
aは自分がoだと言うし、bも自分がoだと言うし、cも自分がoだと言う。それなら、oは本当はaになったのか、bになったのか、cになったのかを決められるような「本当」など無いのだ。

このようなおとぎ話を考えることによって、自我oの同一性が如何なるものかということに恣意性があることがはっきりさせられるのであれば、そのようなおとぎ話以外の現実の話であっても自我の同一性はもともと恣意的なものであるということが言えるのではないか。

飲茶という方の有名なサイトで大変興味深くおもしろい思考実験が揚げられている。「どこでもドア」というその突飛なストーリーで自己の同一性がどうなるかということを考えてみる。
こんな話だ。
ここでの「どこでもドア」の仕組みは、物や人を入口のドアでスキャンして完全コピーした物体を作製し出口のドアから出してくるというものである。入口ドアに入った人体はそこで完全スキャンされ、その記憶までを再現したコピーを出口に出現させる。出口から出てきた人体はどこでもドアに入った記憶も持っていて、そのまま直接スムーズに出てきたように感じるだけなのだ。だから、人物は遠く離れた出口まで瞬間テレポートすることができるというものだ。この話の面白い所は、その入口に入った方のオリジナルがすぐに消去されず、入口の裏側で毒液に溶かされながら地獄の苦しみを味わうということだ。
のび太が入口から入ると、そのオリジナルのび太は入口裏で毒液に苦しみつつ融けゆく。そして、のび太と同一だと信じているコピーが出口から出てくる。オリジナルの苦しみのことなど知らず、ただ入口から通り抜けただけの自分がオリジナルだと信じている。…というものだ。

さて、この話でのび太は瞬間テレポートしたと言えるのだろうか。また、のび太がテレポートするのか苦しみながら死ぬのか、どちらになるかということは確率によって決まるのだろうか。

僕はこの問題に答えが出るわけが無いと考えている。主体が分裂するなどという事態は僕たちのこれまでの言語ゲームには含まれていないのだから、新しい語のルールをでっち上げるしかないと思えるからだ。ルールの無かったフィールドの内容を語るには新しくルールを立ち上げる以外に方法は無い。だから、のび太が死ぬのかテレポートするのかは、完全に語のルール設定の問題になってしまって、結局、好き勝手に決めるしかないことになるのではないだろうか。

そのことをはっきりさせるために、もう一つハチャメチャなおとぎ話を考えてみたい。完全バーチャル主体体験一秒映画だ。
その未来の映画システムはドラマの登場人物に完全になりきることができるというものだ。完全になりきるのだからその映画を見ている観客は自分のもともとの記憶を失い自分自身がもともと何者であったかということも完全に忘れてしまう。その登場人物になりきって、世界をその人物の眼で見て、匂いを感じ、触れて、その人物の記憶を思い出し、世界のすべてをその人物そのものになって感じ得る。完璧に本物の臨場感を味わえるというものだ。この横山信幸としての私の意識はまさに胡蝶の夢かもしれないという、懐疑論的逸話と同じアイデアであるけれども、一つ違うのはこの映画では同じ夢を見ている意識体が「私」の他にも多数あることを許すということだ。この横山信幸という意識体験は100万匹のナメクジが映画を観ている、そのうちの1匹の自意識かも知れないということだ。
そしてこの映画の特徴は、1秒だけの上映時間しかないことである。今現に有るこの1秒の実感を完全に味わうことができれば、1秒という短時間であっても、その人の人生をすべて受け入れることになるはずなのだ。
80分間もある長いシンフォニーでもその80分間のハーモニーとリズムを聴いた人物の記憶感覚をこの1秒間にすべて味わうことができるのであれば、80分間の音楽をすべて聴き味わった人物と完全に同じ1秒体験ができるはずだからである。
50年の人生でもその50年の体験の記憶を持っている人物になりきったのであれば、この1秒にすべての過去を引き受けることができるはずだからである。

この「私の今の1秒間の横山信幸体験」という映画に100万人観客が入っていたとして、私自身がその観客だったとすると、私と同時にその横山信幸体験をしている主体が100万個もあるということになる。
全く馬鹿げた妄想だ。しかし、このような空想が有意味に思い描けるのであれば、この私が横山信幸のただ唯一の主体だということは「必ずしも必然的に決まるものではない」と言えるのではないか。

そしてこの、完全バーチャル主体体験一秒映画で「どこでもドア」体験前後ののび太になってみるという想定を考えてみよう。
時刻t0において、どこでもドアに入る前ののび太の意識記憶に関する全データをOとし、その主体体験映画の観客の意識をo1~o100万とする。時刻t1において、どこでもドアの入口裏で死の苦痛に喘ぐのび太の意識記憶に関する全データをAとし、その主体体験映画の観客の意識をそれぞれa1~a100万とする。また、同じ時刻t1において、どこでもドアの出口でスムーズにドアを通過できたと喜んでいるのび太の意識記憶に関する全データをBとして、その主体体験映画の観客の意識をそれぞれb1~b100万とする。

このとき、o1とo100万は同じ体験をしているのも関わらず別の主体である。a1とa100万も、b1とb100万もそれぞれ同じ体験をしているにもかかわらず別の主体である。
そして当然、o1とa1とb1が必ず同じ主体でなければならない必然性はどこにも無い。ただただ、o1~o100万とa1~a100万とb1~b100万の300万個の主体がそれぞれに主体体験をしているという客観的事実があるだけなのである。

一般的には、aがoから連続していてその記憶を持っていればaとoは連続だと言える。しかし、それは必ず必然的にそうでなければならないというものではないのだ。
この同一性についての食い違いは自らの死という極限的な場面ではっきりと現れてくるように僕は考えている。
「oと同一な主体がaなのかbなのかが自ずから決まる」というのはある意味では至極もっともでまともな考えなのであるが、言語の限界においてはその同一性に必然性は崩れるのである。

本節で自死と同一性について考えようと思っていたのだが、その前に、僕のこだわりが伝わりにくかったようなので、その点をはっきりさせたくてこのような話をさせてもらった。自死については次節で考える。

つづく

私の死と「私」の同一性

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コメント

空っぽ『0』。

何か無駄なものを買った記憶はないかい?

俺はプランターを買った。土を入れ花を植えるやつさ。パンジーとか、プラタナスとかを植えるやつだよ。

あれは実は『0』なんだぜ。

あれの真価は、状況によって表れる。

5・『』=25

8・『』=63

そうさ、プランターってのは箱物なのさ。それは状況によって真価が変わるんだ。いや、真価が表れると言った方が正しい。

この「私の今の1秒間の横山信幸体験」という映画に100万人観客が入っていたとして、私自身がその観客だったとすると、私と同時にその横山信幸体験をしている主体が100万個もあるということになる。
全く馬鹿げた妄想だ。
しかし、このような空想が『有意味に思い描けるのであれば』、この私が横山信幸のただ唯一の主体だということは「必ずしも必然的に決まるものではない」と言えるのではないか。

前提だ。前提。
状況だよ。

意味を持つならば、プランターの真価はそうなのさ。意味を持たなければそうではない。意味を持つということは、プランターは、真理と関係ない戯言ではなく、真理と関係している。真理の値がプランターに反映される。

プランターはパンジーを植えることもできるし、プラタナスを植えることもできる。我々は、そのプランターに言語的には何でも植えられるのさ。


意味。

意は意志、
志向。味は、未だ見ぬ口《予想》。
即ち未来。

全てに魂があり意志性(記録とその具現、能力)があるという考え方からすれば、意味があるとは、或もの自体の作用が何らかの数値《未来》に直接影響していることを言う。

未来とは、或前提の上に成り立つものであり、或前提こそが真理であると言える。つまり真理が在るのなら、未来は必ず決定しており、現時点の思考、考えはは真理を構成する個ぶつ、要素と有意味な関係であると言える。

さて、我々はその真理を証明せずして、その考えが有意味であると言えるだろうか?

そこが一番に問題なのである。

意味論とは単純に、人間の妄想というものではない。意味とは、影響であり、個物と個物の関係である。即ち、究極的にあっては唯物論である。

前世界の科学が否定され、現在の科学、唯物論があるとすれば、宿命的に我々は意味論から逃れられない。意味が間違いとするなら、永遠未完全な唯物論も、昨日の科学と同じであり、間違いであるし、不確かである。

(訂正)

さて、我々はその真理を証明せずして、その考えが有意味であると言えるだろうか?


さて、我々はその真理を証明せずして、その考えが何に於て有意味であると言えるだろうか?

理さん、コメントありがとうございます。

>さて、我々はその真理を証明せずして、その考えが何に於て有意味であると言えるだろうか?

と仰るのを見ると、理さんはダメットの言うところの「実在論者」なのかもしれないと感じました。いかがでしょう。
ダメットの実在論・反実在論については以下にまとめました。よろしければご覧ください。僕はダメットの反実在論にシンパシーを感じています。
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/2-b5f4.html

横山信幸さん
(やはりコメントしときます)
ここまで「お伽話」を作られましたら、私の違和感はすべて「言葉の問題」になります。
私が「‥‥それは違う」と思っても、それは「言葉の問題」です。横山さんの「有意味」は私にとっては「有意味」ではありません(無意味かどうかも不確かです)。横山さんの「本当」も私にとっては「本当」ではありません。横山さんのお話に対する、私にとっての一切合切の「不条理感」が「言葉の問題」だということに帰着してしまいます。
別の言い方をすれば、それは「話が通じない」ということを意味します。
喩えて言うなれば(良い喩えではありませんが)、今の韓国の大統領と話をするようなものです。

平戸さん、コメントありがとうございます。

僕の言う「有意味」は、ナンセンスでも恒真でも恒偽でもなく真偽情報を持ち得る文だという意味で使っています。その意味で、僕のおとぎ話を見てもらったら「有意味」になることは同意してもらえると思ったのですが、ダメでしたか。

例えば、主体体験一秒映画の話では、その映画会が終わって夢から覚めれば、対象の主体体験が夢だったことが分かるというのは、「有意味」に真偽判別可能です。
そしてその意味で「有意味」な話であることが確認されれば「私」の語の意味は「必然的に固定できる」とは限らないことが言えるようになると考えました。
しかし、この辺りの話は言語的実在論の方には伝わりにくいようです。
クリプキは名の指示が固定できることを疑わなかったですし、サールはデリダの「散種」を決して認めないみたいですし。キリスト教信者に神の存在が必然でないことを説くようなものなのかも知れません。

横山信幸さん
(少しくどいようですが)
「言葉の問題」とは「そもそも文法が違う」というものです。一旦は別の文法の世界(お伽噺の世界)へ脱して、そこで論理を作り上げることに異論はありませんが、また元の世界へ戻って、元の世界の文法としてその論理を適用しようとするのは、正しい手法と言えるんでしょうか(違う文法ではこれは「正しい」のかもしれませんが)。‥‥そして、最後のところの<同一性についての食い違い>とは、意図的(恣意的)に作り出した、文法の違いによる<食い違い>に過ぎないものでしょう。このようなことを<言語の限界(の試行)>と呼ぶのですか?

言語が違うと仰るのは、(1)僕のおとぎ話が理解不能だということですか、(2)「「私」の同一性はそれ自身になってみれば分かる」という捉え方こそが原理になるべきものだから、その原理を否定するような僕の主張は分析するに値しないということでしょうか。それとも、(3)それ以外の意味ですか。

横山信幸さん
<同一性6>の中で言ってみましょう。横山さんの文章の以下の☓☓☓の箇所には《 》のような注釈が付けられるはずです:《何故なら、ここではそういう「おとぎ話」として話が作られているので》
<多世界解釈のように主体が分裂する話なのだが、‥‥(中略)‥‥そのようにそれぞれが主張する>☓☓☓
<このような「お話」を考えるなら‥‥(中略)‥‥単純に言うことはできないのである>☓☓☓
<私の同一性が恣意的に決まると言うときの恣意的なるものは、‥‥(中略)‥‥という意味での恣意性なのだ>☓☓☓
<aは自分がoだと言うし、bも自分が‥‥(中略)‥‥決められるような「本当」など無いのだ>☓☓☓
細かく言えば、句点(。)の後には常に付くと言えます(「文法」をより正確化すれば)。
 ところが、次の箇所から「おとぎ話」ではない元の世界へ横山さんは話を戻します。
<このようなおとぎ話を考えることによって、‥‥(中略)‥‥自我の同一性はもともと恣意的なものであるということが言えるのではないか。>‥‥私には、この結論に至るくだりは論理的説明になっているとは思えません。これを約めて言えば「おとぎ話の世界で言えるのだから、現実の世界でも言える」というものになります。この理屈が通りますか?
これが、横山さんの仰る(1)~(3)のどの意味になるのか、私は分かりません(3でしょうかね)。
私としては、当初から申していますように、「私」の同一性とは、主観的に(恣意的に)確かめられるのみだと言うだけで、横山さんの、「おとぎ話」に迂回する方法は思いつきません。‥‥しかし、「自殺」の考察の上ではそれが必要なのかもしれませんね。

平戸さん、コメントありがとうございます。

>「おとぎ話の世界で言えるのだから、現実の世界でも言える」というものになります。この理屈が通りますか?

なるほど、筋の通ったご指摘です。ですが、僕はその「理窟」が通ると考えています。何故なら、僕はおとぎ話で考えたことから、「私」という語の意味が一意的に決まるとは「限らない」ことを(一意的に決まることが「必然でない」ことを)導いたものだからです。「Aが必然である」はおとぎ話であろうとなんであろうとその必然性が崩れる反例を挙げれば否定することができるはずだからです。

必然性はただ一つの反例で反証されてしまうもののはずです。

紹介

百花繚乱 http://www13.ocn.ne.jp/~ryouran/
全生庵  http://www.theway.jp/zen/
言霊百神 http://futomani.jp/

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