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2015年2月 8日 (日)

意識が持続していればそれは私か<私の死と「私」の同一性3>

次のようなコメントをいただいた。
「今日の私A1と明日の私A2の同一性を確かめる方法は唯一つだけ…今日から明日まで(眠らずに)意識を持続されればいいということ…」( 平戸さん)
今日と明日の主体「私」の同一性の根拠は、その意識の持続にあるとする考えだ。これはかなり説得力のある考えだと思う。しかし、僕の主張はそのような同一性の定義は必ずしも確定的なものではなく、必ずしもそのような同一性の捉え方で明日の「私」がこの「私」と同一だと決められるとは限らないというものだ。今日はそれについて考える。

「意識の持続」とは何だろうか。僕が考えられた、「意識の持続」の意味は2つあった。
1つは物理的な検査で調べ得る脳状態(や振舞いなど客観的に検査可能な状況)が対象の時間内に連続性を客観的に持っているということであり、もう1つは対象の時間が経過した後で意識が連続していたという自覚が主観的に持てているということである。(もしこれ以外にあるのなら教えてほしい。コメント待っています。)

僕の問いを確認しておく。僕の問いは「t1での身体Aの主体A1とt2での身体Aの主体A2とが必ず同一だと言えるための必要十分条件とは何か」であった。
物理的で客観的な時間においてその脳状態が物理的に連続していることがA1とA2の同一性の必要十分条件になると言えるだろうか。

ダメなのである。
たとえば、映画やドラマでよく出てくるタイムトラベルの話を考えた場合にはどうしても物理的客観的時間での連続性が断ち切られることになる。映画バックトゥザフューチャーで1985年を走っていたデロリアンが1955年へと時間を飛んだときその前後でのマイケルJフォクスの主体は同一だったと言ってもいいだろう。だから、その脳状態は物理的客観的時間で連続していると言えないのにその不連続の前後での主体が同一になってしまうことになる。つまり、脳状態が物理的に連続していることは主体の同一性の十分条件ではないのだ。

逆に、必要条件だとは言えるのだろうか。どうだろう。たとえば、A1とA2がこの私の主体ではなく他者の主体だと考えた場合に脳状態が連続していれば必ずそのA1とA2を同一だとしなければならないのだろうか。

否、そうとは限らないだろう。
脳状態が連続していても「実は」その主体が不連続であり、A1とA2が別々の主体であったという話をでっちあげたとして、その話は有意味に想定可能であるのではないか。A1という主体は実は時刻T2の直前で死んでしまって、時刻T2においてA2は別の主体が誕生していた。だけど物理的な脳状態は完全に連続していたという想定だ。脳状態が連続でも記憶や意識が連続していないという状況は、想定可能であるだろう。また、脳状態も振舞いも記憶も連続しているように他者からは見えるのに本人にしてみればぜんぜん別の主体に乗っ取られているという想定は可能なのではないだろうか。だとすると、A1とA2の脳状態が物理的に連続していることは主体の同一性の必要条件でも無いとしなければならないだろう。

では、もう1つの「意識の持続」の意味、「時刻t1の主体A1から意識がずっと連続していたという自覚を時刻t2において主体A2が持っていること」の方は主体の同一性の必要十分条件になると考えて良いのだろうか。
しかしよく考えてみると、「時刻t1からt2にかけてずっと意識が連続してあったという自覚があること」というのは「時刻t1からt2にかけてずっと意識が連続してあったという記憶がA2にあること」と完全に同じことなのではないだろうか。そうすると、A2がA1から連続した記憶を持っていることが主体の同一性の必要十分条件になるか否かを考えれば良いことになる。

しかし、どうだろう。その問題は既に前々節で考えた問題だ。
時刻t2での身体「横山信幸」の主体A2が今現在の時刻t1でのこの「横山信幸」の主体A1から完璧に連続した記憶をもっていたからといっても、そいつがこの「私」A1とは別の主体である、という想定は可能である。僕が死んだあとで僕の記憶をそのまま受け継いだレプリカが世界に居残るという想定だ。だから、時刻t1の主体A1から意識がずっと連続していたという自覚を時刻t2において主体A2が持っていたとしても、それは主体の同一性の必要十分条件にはならないはずだ。

もちろん場合によっては、「意識の持続」が主体の同一性を確認するための条件になり得ることはある。しかしいつでも必ず「意識の持続」があれば主体の同一性が担保されるかというとそうではないみたいだ。

本節では、量子論の多世界解釈をもちいて主体の同一性を考えようと考えていたが、大変面白いコメントをいただいたのでそれについての考察を先にしてしまった。多世界解釈については次節で考える。

つづく

私の死と「私」の同一性

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コメント

横山信幸さん
まず、「私の同一性」=「(私の)意識の持続」として、それは物理的な脳状態の検査で定義するものでしょうか。つまり、客観的に判定するものでしょうか。私が主観的に判定するものですよね。そもそも「私の同一性」という概念が、主観的な範疇に属するものなのでしょう。私でなくAという表記をしてもそれは同じです。Aという表記の背後には私がいて、私がそれを考えているからです。仮に自分以外の第三者に、私の同一性を確認してもらっても(「さっきのあなたと今のあなたは同じ人です」と言われても、少し安心するかもしれませんが)、私の同一性を決めるのは結局は私以外にいないでしょう。その点で「意識の持続」の意味は、横山さんの説明で言えば後者の方だけでしょうね。そして、横山さんも仰るように、「意識の持続」とは、とことん主観的な範疇のものと言っていいでしょう。(つまり、横山さんの示す2つのうち、最初の方はボツですね。それに対応する後の議論の部分も。決してはしょる意味ではありません)
 さて、そうした上で「A2がA1から連続した記憶を持っていることが主体の同一性の必要十分条件になるか否か」について述べてみましょう。虚心坦懐に言わせてもらえば、これで必要十分、過不足なしです(横山さんの問に対するストライクボールのつもりです)。これ以上に主体の同一性を確証させる手続きが必要でしょうか。‥‥その根拠は何と言われれば、横山さんや私が生きているこの現実の社会が、自分と他人の取り違えなど起こることなく、混乱なく成り立っているのが証拠と言うしかありません。この手続は、誰にとってもほとんど無意識でなされていると言っていいでしょう。前の私の言い方をすれば、これは「生体反応」に類することだと言っていいでしょう。逆に、刻一刻、自分の同一性を記憶で確認しながら生きている人など、まずいないはずです(いれば、精神を病んでいる人でしょう)。
さらに、「主体A1から完璧に連続した記憶をもっているA2が別人である」と想定することは、想定するだけなら可能でしょう。また「A1の記憶をそのまま受け継いだレプリカ」なるものを想定することも、想定するだけなら可能でしょう。しかし、その想定の現実味はどうでしょうか、果たしてあると言える余地があるのでしょうか。「お伽話」として想定するというのなら分かります(アナロジーとして)。しかし「お伽話」を、「A2がA1から連続した記憶を持っていることが主体の同一性の必要十分条件になる」ことを否定する根拠にすると言われると、「私の同一性」という議論全体が「お伽話」になってしまうように感じますが、それでいいのですか?

t1とt2の主体Xの同一性。

条件1.主体Xの物理的状態は、t1とt2の主体、二者間の意識的同一状態に於て同一である。→意識は主体の物理的状態によって規定される。再現性の原理。

条件2.t1、t2は宇宙の物理的状態によって固定される。従ってt1、t2が絶対的同一質であれば、t1とt2の主体Xは同一である。

これを確かめる方法はない。
もっとも正しい方法は、信憑性という概念により語られることであり、主体Aや主体Bや主体Cや主体D等々が、同一の空間、時間に於て、t1とt2が同一質であると感じることである。

有名な話がある。

自分と全く同じ人形を作り、自分が死んだら、自動的に生き始める設定にする。

ならどうなったか?
全く変わらない。
やることなすこと、

ならば、なんの問題がある?
t1とt2に於ける主体Xの同一性など、なんの問題にもならない。

平戸さん、こんばんは。

「私」が乗っ取られて別の主体がA2になるなどという話は有意味に想定可能かもしれないけれども、そんな現実とは関係のないようなおとぎ話を持ってきても、現実の「この」私についての同一性の問題に対する答えとして適切なものにはなり得ない・・・という理解で良いでしょうか。
仰る通り、僕の話はおとぎ話的で現実の話として成立するための根拠を現実的に何一つ持たないものだと言えるでしょう。
しかし、ここで僕が考えてみたいと思っているのは、自殺というものが主体の同一性からみてどこまで意味を持ち得るかという問いです。これは、自分とは何で死とは何かを考えようとするもので、日常語からはきわめて遠い問題に向かおうとするものです。そしてそのために、「私」という語の限界を探ろうとしているのです。ですから、無根拠なおとぎ話でも「私」がどこまで意味を持ち得るのかを探るための手立てになり得るのではないかと考えているのです。
僕は、そのような言語論的な思索こそが私の死を考えるための有効な方法になると考えて、そのため「私」という語が指すものの限界を言語論的に探ろうとしているわけです。
僕のこだわり、分かってもらえるでしょうか。

mintさん、ようこそいらっしゃいました。歓迎します。
興味深いコメントありがとうございます。

>自分と全く同じ人形を作り、自分が死んだら、自動的に生き始める設定にする。・・・ならば、なんの問題がある?t1とt2に於ける主体Xの同一性など、なんの問題にもならない。
(哲学関連の短編集(「マインズアイ」だったかな)で似たような話を読んだ記憶があります。)

そのmintさんの指摘はもっともですし完全に正しいと思います。ただし、それは言語ゲームが通常に成立する場合の話です。僕はここで私の死という言語ゲームが成立するかしないかのぎりぎりの状況を問題にしたいと考えているので、通常は問題にならないような隙間を無理にねじりひろげているのです。もしかすると、ご指摘のようにナンセンスな問いを問うているのかもしれませんが、もう少しこだわってみたいと考えています。

横山信幸さん
私は、哲学をお伽話的に語ることが必ずしも邪道とは思いません。プラトンなどはお伽話を格調高く使いこなし、そのエレガントさに至っては余人の及ぶ所ではないですよね。また、お伽話をやるならプラトンのようにやってくれと言いたいのでもありません。横山さん流に縦横無尽にやっていただければ結構です。‥‥ただ正直、怪訝な感じがしたものですから‥‥まあ、私のは、何と言うか、外野のヤジだと思って下さい。時に癇にさわることもあるかもしれませんが、ヤジも応援の一種です。(とイチロー並みの矜持で、こだわって下さい)
>「私」という語の限界を探ろうとしている :まさに「私の同一性の探究」の正道ですし、これには期待を寄せこそすれ、反論など微塵もありません。死(自殺)と同一性の問題がどう絡みながら、言語論的展開がなされるのか、楽しみにしています。

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