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2015年2月13日 (金)

唯物論の視点で「私」を考える<私の死と「私」の同一性5>

多世界解釈説的な唯物論世界観の視点で「私」を見ることによって、「私」の同一性が必ず恣意的であることを考える。

前節では、「私」の同一性は一意的に決められたり絶対的に決められたりするものではなく、その瞬間の個人個人その人その人によって「私」の内容が変わってしまうものであることを考えた。
多世界解釈説の世界観では、時刻t0における私の身体をOとしたときその1秒後時刻t1における身体がA、B、C・・・と無数の可能性に分裂するというものだった。そのときの身体Oの主体をoとしA、B、C・・・の主体をそれぞれa、b、c・・・とするとすると、a、b、c・・・それぞれから見るとそれらはoと同一だけれども、a、b、c・・・は互いに互いを同一の主体だとすることはできないのだった。また、a、b、c・・・から見るとa、b、c・・・それぞれとoは同一の主体だと思われるのに、oから見るとa、b、c・・・のすべてが同時に自分と同一になるとは限らないことも確かめた。
このことから「私」の同一性とは、絶対的にこうだと決めつけられるような視点があるとは限らないということが言える。

ここで注目したいのはoからの視点である。
oから見ればaもbもcもまだ実現していない未来なのだからそのうちのどれが自分と同一かはoの時点t0からは決定できるはずがない。ただ、「そのa、b、c等の時点t1になってみれば分かる」ということを言えるにすぎないと考えたくなる。
でもそれっておかしくないか?
t0のoから見てどれが自分と同一かはt1のa、b、c・・・になってみれば分かると言っているのだ。つまり、a、b、c・・・のどれが自分と同一かはa、b、c・・・のどれが自分になるかを調べれば分かる・・・ということか。それって、どういうことなのだろう。そのような分かり方をしたところでそれが分かることに何の意味があるのだろうか。a、b、c・・・の視点からならどれが私なのかはすでに分かっているのだ。分からないのは、oの視点からのことのはずだった。それなのに、oの視点から見て何が未来の自分になるかはa、b、c・・・にならないと分からない、と言っているのだ。
ということは、つまり、oの視点から見て未来では何が自分なのかは必然的に不可知な超越だということなのだろうか。
確かに或る意味では超越的なものなのかも知れないが、神の視点でないと分からないということではない。oがaになるかbになのかcになるかなどということは、神の視点でも分からないことなのだ。だってそれは、実際、神の視点では、oはaにもbにもcにもなるものだからだ。神に分かるわけが無いのだし、だから、「本当は」oはaになるとか「本当は」oはbになるなどと言うような、つまり、本当の未来が一つあるとするようなナンセンスでしかないのだ。
あえて、「本当は」と言うとすれば、主体oがただあり、主体aがただあり、主体bがただあり、主体cがただあるのだ。これらのどれとどれが同一とするかなどということは、それぞれの主体それぞれの個人の自分勝手な判断に委ねられる以外にないようなものなのではないか。

次の話はある種のおとぎ話なのかもしれないが、唯物論的なストーリーで主体oを考えてみよう。
たとえば時刻t0において身体Oの脳神経回路に電気信号が発火すると何故かその眼から世界が見えるような自意識が一瞬生まれるとする。一瞬間ではあるがその自意識には身体Oが過去に連続してきた身体の経験の記憶を持ち合わせた一瞬間である。ただし、その自意識に意味論的な意味は無い。唯ただ唯物論的な物理反応として自意識が発火しただけなのだ。また、たとえば身体Oの1秒後時刻t1において、身体Oから連続して成立している身体Aの脳神経の発火によって物理反応としての自意識が生じ、それはoの記憶も持ち合わせているのであるが、oとaとが同一であるとか同一ではないとかいう意味論的意味はここには存在しない。唯ただ唯物論的な物理反応としての自意識があるだけなのである。
そのように考えると、主体の同一性というのは実は単なる意味論的な意味でしかないものであって、某かの恣意性を下敷きにして初めて意味を持ち得るものなのではないだろうか。
だから、何の恣意性もない状況では自意識というものは主体の同一性が無く、ただ無意味でしかないものになってしまうのだろう。だから、oは恣意的にaを自分自身と同一だとすることも、恣意的に別ものだとすることもできるのだ。もともと、自分自身と何を同一とするかの基準が決定していない、真っさらのところから語の意味論を立ち上げていくような語のスタート地点では、主体の同一性でさえその基準は決定していないのだ。だから、自分の記憶を持つものを自分と同一だとすることも、自分と連続しているものを同一だとすることも、自分と連続しているものを同一だとすることも、ただ一人だけが自分自身だとすることも、無数に自分自身が分裂するのだとすることも許されるはずなのだ。

さて、そうすると、本当に主体の同一性なるものが、そのような恣意性に左右されるものであれば、私が私の同一性を作っていくことで初めて自分の生は意味を持つものになることになるだろう。だから、自分の死というものを考えるような、「私」という語の限界を探る場面では、私の同一性というものも本来の無意味な存在に還ってしまうように思われる。このアイデアこそが本章での僕の思索の本丸なのであるが、そこのところは次節でしっかり考えたい。

つづく

私の死と「私」の同一性

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コメント

根源的自由について考えて見ます。

自由とは何なのか。
自由の自は、自己の《自》を取ったものだと考えます。だから先ず自己の理解が必要不可欠です。

《自己とは》
自己を理解する場合、表象という概念が必要です。表象とは(己の)前に現れている全てのかたち、世界であります。つまり、表象が有るからこそ、それと同時に存在する原因として反射的に、真実の己(領域として限定されない己)の存在を把握できるのです。そして、真実の己の存在は、様々な条件時に発動する志向(因子)の矢の集合として、また、それら志向を具現化する原理機械として、世界から切り離されるのです。対象と自己はこうして生ずるのであります。

志向、因とそれを具現化する原理機械を《自己》=或状態を再現しようとする性質、再現可能性。
それ以外の再現の材料となるものを《対象》。
但し、自己と対象は重なることがない。対象は視たり考えることが出来るが、自己は、対象に向いて働く力であって方向性であって、象の再現可能性の要素の見えない一部であって、範囲が認識によって区分されることはない。対象化される自己は自己ではない。

再現性が何かを対象とする自己により生ずるなら、自己を自傷解体の対象としたところで、自己が死ぬわけではない。対象が存在する限り、再現性は消えず、自己は消えない。壊したり殺せる対象は自己ではない。

《理性の在処》
自己は志向とそれを具現化する肉体により成りますが、まだ何かが足りません。そこには場の条件を認識したあと、志向という因を選択する何者かが要るのです。我々の理性は、その何者かであります。理性は志向の矢の集合と共に、己の持ち物として存在しています。

理性は神の持ち物ではない。《思考》の機能は、志向を具現化する原理機械の一部であります。

思考は、表象に現れる思考の領域と、表象下の考の領域により成ると考えます。思考のかたちは対象として意識中に見付けることが出来ますが、考は意識中に有りません。また、意識出来ない領域として想定されるので、思考の領域よりも、へい面的にまた深さ的に大きい領域を持つと考えられます。


《自己を超えた自己観》
我々は、理性の一部領域を表象を通して考え見ることが出来ます。だから、思考という感覚の繰り返しや反芻から安定性を見出し、自己がそこに存在するという錯角に陥ります。しかし、我々はそこには存在しません。それが対象としてある限り我々は自己として別のところで生き続けているのです。


《自由とは》
自由とは、志向の具現それ自体を己の存在証明とすることであります。すなわち、自由とは、自己に内在する自己観、信仰であり自我の盲信と錯角であると言えると思います。

ひとが何故 自殺を択ぶのか。そのこたえは、死んだら全てなくなるからでも、天国が存在するからでもありません。

ただ、そこに対象があるからであり、我々は或ものを再現しようと努める存在だからであります。

人生が有意味なものか、無意味なものか。また、世界とは人とはどんなものなのか。それらは全ては、あなた自身の向かう所であり、あなた自身によって、あなた自身に対して提示される、あなた自身の存在の証明となるでしょう。

理さん、ようこそいらっしゃい。歓迎いたします。
非常に興味深いコメントありがとうございます。
これまで僕は自由について、他の行為を為す可能性という意味での自由「選択可能性自由」と、しようと思った行為ができる可能性という意味での「行為者性自由」の2つに分類して考え、行為者性自由のみが有意味に「自由」の有無を語れる自由だと考えてきました。…http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html
理さんの自由はこのどちらとも違うみたいですね。
理さんのコメントを読んで、本節で考えた多世界解釈説的な唯物論世界観での自意識をとらえる視点で「自由」を考えるのも面白いと思いました。

横山信幸さん
前段(<次の話は‥>の前まで)のところから言いますと、時刻t0における主体oの1秒後の主体a、b、cとは可能性としてものなので、実際には存在してませんよね。そして、1秒後(t1)にはa、b、cのうちどれか一つしか実際には存在しないですよね。つまりa、b、cは実際には並列して同時に存在することはあり得ません。ですから、<t1のa、b、c‥‥になってみれば分かる>という言い方はおかしいでしょう。例えばbとなったのであれば、aやcは存在しないわけですから。ですから、前段の最後の、<あえて、「本当は」と言うとすれば‥‥>というところは、[t0においては主体oがただあり、t1においては主体aか主体bか主体cのどれか一つがただあるのだ。oと同一な主体はその時に自ずから決まるのである。]と続けないとおかしいでしょう。‥‥やはり私には「多世界解釈説」はどうもしっくりしないと言うしかありません。
後段の唯物論的なストーリーでは、次のような感じを持ちました。
「唯物論」とは私の理解では、客観性を旨としてすべての物事の根源を物質と考え、精神の実在を認めない考え方だと思っています。従って、自意識(=自分自身についての意識―「自己の同一性」と表裏のもの)という、主観的な、精神世界のど真ん中に位置する概念は、ハナから問題視しないか、極めて劣後した概念として扱われるのだろうと思います。つまり、真性の「唯物論」というまな板に乗せられたら、「自意識」などは価値の無い“しょうもない物”としてさばかれるだけなのでしょう。しかし、横山さんは「唯物論的な」と仰ってますから、「あたかも唯物論のような」という意味合いでこの語を用いているのでしょうか。しかし、そうした唯物論的な切り口から「自意識」を見たとしても、<主体の同一性というのは実は単なる意味論的な意味でしかないものであって、某かの恣意性を下敷きにして初めて意味を持ち得るものなのではないだろうか>‥‥「主体の同一性」というのは、単に語り口の上での意味しかなく、恣意的な考えの上でのみ成り立つものではないだろうか‥‥と仰っているわけですね。唯物論的な考え方に立てば、まさにそういうことだろうと私も思います。
ただ、その後(居直るかのように)、<だから、何の恣意性もない状況では自意識というものは主体の同一性が無く、ただ無意味でしかないものになってしまうのだろう。だから、oは恣意的にaを自分自身と同一だとすることも、恣意的に別ものだとすることもできるのだ。‥‥(中略)‥‥自分と連続しているものを同一だとすることも、ただ一人だけが自分自身だとすることも、無数に自分自身が分裂するのだとすることも許されるはずなのだ>と、横山さんは主張(強調)されています。そしてその勢いのまま、<本当に主体の同一性なるものが、そのような恣意性に左右されるものであれば、私が私の同一性を作っていくことで初めて自分の生は意味を持つものになることになるだろう。だから、自分の死というものを考えるような、「私」という語の限界を探る場面では、私の同一性というものも本来の無意味な存在に還ってしまうように思われる>と結論されます。‥‥私はこの論理展開に対しては疑問なしとすることはできません。
  というのは、<何の恣意性もない状況>とは、主観性を排除した客観性だけの世界と同義でしょうから、自意識という本質的に主観的な概念が、無意味とされてしまうのは当然のことです。ですから、[唯物論的な考え方に立てば]<自分の死というものを考えるような、「私」という語の限界を探る場面では、私の同一性というものも本来の無意味な存在に還ってしまうように思われる>というのも当然のことです。‥‥つまり、私から見ますと、逆に、「私」の同一性は、唯物論的世界観のものではなく、とことん主観的(恣意的)なフィールドで考えるべきものだろうと、ますます強い確信を抱く思いなのです。‥‥横山さんがわざわざ唯物論という“色眼鏡”をかけてまで、「私」の同一性が恣意的であると非常にこだわるのは、「自分の死」を念頭に置いた場合にこそ、「私」という語の限界(地平)に見えてくる「本丸」(本論)のプロローグということでしょうから、次節以降が楽しみです。
(やっぱり外野からのヤジだったでしょうかね?)

平戸さん、ていねいなコメントありがとうございます。
本当にありがたく嬉しく思っています。

><あえて、「本当は」と言うとすれば‥‥>というところは、[t0においては主体oがただあり、t1においては主体aか主体bか主体cのどれか一つがただあるのだ。oと同一な主体はその時に自ずから決まるのである。]と続けないとおかしいでしょう。‥‥

と仰るのは、現実世界において主体aが自分自身だったことが確かめられたならば主体aにとってだけじゃなく「主体oにとっても」「必然的に」主体aが主体oと同一だということを仰っているでしょうか。そうだとしたら、やはり反論したいです。次節では自殺の考察の前に、その点を先に考えてみたいと思います。

私が言うのはこういうことです。
時刻t0における主体oは、時刻t1においては必ず主体aか主体bか主体cのどれか一つになる(理屈上)。その時(t1)、主体oは例えば主体aと同一だと確認されたことになる。(現実的には同じ)人間を経時的に(t0)o‥‥(t1)a‥‥(t3)m‥‥(t4)x‥と分ける考え方(多世界解釈説?)をすれば、自分の同一性の確かめ方とはそのようなものになるんじゃないですか。経時的にどれか一つに次々になっていく、その有り様は「自ずから決まっていく」という言い方もできるのではないでしょうか。

(追補)それは、主体oは即ち主体aであり即ち主体mであり即ち主体xであり‥という「即ち」繋がりの有り様と言ってもいいでしょう。

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