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2015年2月 4日 (水)

自殺しなくちゃ苦痛から逃れられないか<私の死と「私」の同一性1>

苦痛に耐えられず死にたくなったとして、そんな時でもわざわざ自殺などしなくても、自らの思い込みを言語論的に転換するだけで人は苦痛から逃れられるんじゃないかと、この頃僕は真剣に考えている。
明日の横山信幸が明日という時間の世界に実在するのだとしても、そいつが「僕」と同一人物だと解釈しなければ明日の横山が抱える苦痛は必ずしも「僕」の苦痛にはならないはずだと考えているのだ。バカなと笑われるかも知れないがよく考えればそれほど突拍子のないアイデアでないことが分かってもらえると思う。

私は今現在身体Aによって感覚を持ち身体Aを運動させ得る身体Aの主体である、とする。そして明日の身体Aには耐え難い苦痛があることが分かっている。このとき、「私は明日、耐え難い苦痛を必ず持つ」と言えるための必要十分条件は何か。それは、今現在の身体Aの主体が明日の身体Aの主体だということだろう。
さてしかし、今現在の身体Aの主体が明日の身体Aの主体であるか否かということは、どうすれば確かめられるのだろうか。それは、果たして何も確かめなくてもそうであると言えるアプリオリなものなのだろうか。
今の身体Aの主体をA1とし、明日の身体Aの主体をA2と呼ぶとして、A2がA1の記憶を持っていることが必要十分条件だろうか。否、記憶を失っていてもA2が同一の「私」であるということは想定可能だ。記憶喪失だけど同一人物という想定は可能だからだ。
では、身体がAのものであるというだけでA2はA1と同一だとして良いのか。否、常識的にはそうだと言えるかもしれないが、身体が入れ替わるというドラマは有意味な物語として理解可能であるのだから、身体が同一であることだけで無条件にA1とA2が同一だとできるとは限らない。では、A1とA2が同一であるための必要十分条件とは何だろうか。
僕の考えは、それには絶対的な答えなど無いということだ。絶対的な答えが無いのだから、どのようにでも好き勝手に答えを定めて良いということだ。A2はA1と同一で明日のAはやはり私であると考えても良いし、同一ではなく明日のAは他人だと考えても良い。本当に好きにして良いと思うのだ。

しかし、このようなキテレツな主張を無根拠のままいくら繰り返しても賛同は得られないだろう。そこで、ちょっと違う視点を入れてみよう。
でもそれは、また、次節で。



前回のレポートからずいぶん長い間ページをアップするのをやすんでしまった。
哲学の興味がデリダ関係に移ってきてデリダの書を読んでいるのだが、これが読みにくくてずいぶん時間がかかってしまった。でも時間をかけたお陰でデリダの「声と現象」に関してはだいぶん分かってきた。
また、この正月には永井均先生とmixiで討論をする機会も得た。議論が深く噛み合わず大した話にはならなかったかも知れないが、僕にはとても面白かった。自分でもそれなりに思索できた数ヶ月だったと思う。
この間に考えたことはこのブログでも紹介していきたい。今回考えている「私の同一性」の問題もデリダに感化されて出てきたアイデアだ。
次節以降でこの「私の同一性」問題のアイデアを書いて、そのあと「声と現象」について考えていきたいと思っている。

つづく

私の死と「私」の同一性

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コメント

横山信幸さん
初めてコメントします。
<私の同一性論>はそのまま<時間論>につながりそうですね。明日の私が今日の私であるのか、今日の私は昨日の私であったのか、という具合に時間軸上に私を並べて、その同一性を考えるということは‥‥。逆に、時間とは何か、を考えるとおのずから、時間とは何か、を考える私とは何か、の考えにつながると言ってもよさそうですね。そして、私とは何か、とは<私の同一性論>のことに他なりませんよね。ただ、私とは何か、とは私が死ぬまで結論が出ないだろうという思いが強くあります。つまり死ぬまで分からないだろうと‥‥。ですから、時間とは何か、も私は死ぬまで分からないだろうと思います。
ただ、私はしばらく前から、時間(概念)とは、私が体感として知覚できる時間感覚のことであって、時間感覚とはその起源を知り得ないもので、ただそれを生体反応(それがあるのは生きている証)だと言うしかないもの、と思うようになりました。‥‥それは、私にはもう、それ以外に考えようがないからです。もちろん、生命体がいようといまいと、「時間(現象)」そのものは存在するような気がします(ただ、生命体がいなければ、「時間」と名付ける主体はいない=時間(概念)は存在しない、ということでしょうが)。
あなたがこれから展開されようとしていることと、ピントがズレた話かもしれませんね。

平戸皆空さん、ようこそいらっしゃいました。歓迎します。

おっしゃる通り、僕はこれから「生きていることの意味」と「時間を措定することの意味」を同時に問うて「時間論」を考えたいと考えています。

平戸さんの思索内容と僕の興味はおそらく別のものかと思いますが、交差しあう部分も多いでしょうからそれを討論できれば嬉しいです。

こちらにも失礼させていただきます

今の身体の主体A1と明日の身体主体A2が同一であるかについて、
記憶の有無による同一を認めるのなら、身体の同一を認める事と同等であるかと思います。と言うのも、その同一を認める認めないと行為自体(視点自体)が客観性主観視であると考えるからです。

私の考える生命倫理では、主観がその持続性を失った瞬間からその人物の中に居た前回までの人物(人格)は死んでいると考えています。
現在の生命倫理では、そのような認識では無いのて、生命倫理においての重視観点は最終的に身体の生命維持となっています。
というのもそれは、横山さんの記述にあります「記憶の有無に関係なく、今と明日の身体の主体を同一と認める」という前提があるからだと思われます。

クロネコさん、

>今の身体の主体A1と明日の身体主体A2が同一であるかについて、 記憶の有無による同一を認めるのなら、身体の同一を認める事と同等であるかと思います。と言うのも、その同一を認める認めないと行為自体(視点自体)が客観性主観視であると考えるからです。

について、仰っていることが理解できませんでした。「同等」とはいかなる意味でしょうか。「必要十分条件」や「同値」という意味だったとしたら、誤解だと思います。「客観性主観視」もわかりません。僕が主張しているのは「客観性」のある事実を主張しようというものではなく、「言語なんて所詮自分勝手な提案でしかないですよね」ってことを主張しようとしているものなので、「客観性」はあまり関係がないもののように思えます。が、そういう理解とは全く違うことを仰っているのでしょうね。

勘違いを起こしていたようです。申し訳ございません。
返す言葉もございません。

「身体が入れ替わるというドラマは有意味な物語として理解可能」とありますが、想定されているのは、脳も含めて入れ替わる、という事態なのでしょうか?
脳も含めて入れ替わる、ということだとすると理解不能だし、
脳以外の身体が入れ替わる、ということだとすると、同一人物でないのは自明ではないでしょうか。

てつしさん、コメントありがとうございます。
>想定されているのは、脳も含めて入れ替わる、という事態なのでしょうか?

そうです。脳も含めて入れ替わるという想定です。物理的にはあり得ない想定でしょうが、言語的な意味が通じるかどうかという思考的実験としては、あり得ると出来ると考えています。「物理的な仕組みはどうなってるのか知らないが、脳まで全部すべてが別人になっているのに、記憶と感情だけはAの主体のものをそのまま有している」というのは、有意味な発言として十分に通用すると思われます。

すると、「脳以外に記憶と感情がある」という前提を認めるということになり、
多くの現代日本人には受け入れがたい(理解不能な)想定になるのでは?
私には「肉体が無くなって精神だけの存在になる」と同程度に理解不能な想定に思えます。

ウラサキさん、いらっしゃい。コメントありがとうございます。

ここでの問いのレベルが、自らの生を前提にしないレベルの問いである、という点が重要なのだと思います。
一般に、「私は精神だけでなく肉体としても存在する」や「私は培養脳ではない」や「物理的法則がこの世界を支配している」などの言明はまず疑うことができないものだと考えられます。それは、我々がこの世で生きていく上で、もっとも根本的基本的な前提とすべきものだからです。
しかし、その前提はいくら根本的基本的であったとしても所詮仮説でしかありません。
今、ここでの議論は、私の生を前提にしないというレベルの問いを問おうとしているのですから、その前提さえ疑うことができ、残るのは矛盾がなく整合的かどうかだけを問うものになると、考えています。
だから、そのレベルでの有意味さにおいて、「私に脳がない世界」も矛盾ではなく、有意味だと考えているという訳です。

全てを疑い得るという前提ですね。

では「我思う」や「我在り」も疑い得るという前提でしょうか?

横山さんなら排中律は勿論、疑い得るのでしょうが、
矛盾律も疑い得るという前提にしますか?

だとしたら我々の議論自体が成立し難いかと思いますが、、、

生と死の意味を考えるために、まずはすべてを疑るところから始めてみよう、という感じの問いを考えています。たとえば、「映画「マトリックス」のヴァーチャル世界みたいなものから目覚めてみると、どこまでも意味不明な世界だった」みたいな設定で、どんな風に言語と世界を立ち上げることができるかを考えてみたい、って感じの問いです。
そういう問いにおいて、世界の立ち上げ方の最初は、やはり、すべてを疑るというか、「何の前提もない」というところからスタートしたいと思います。
だから、

>横山さんなら排中律は勿論、疑い得るのでしょうが、 矛盾律も疑い得るという前提にしますか?

と問われれば、「すべて疑いえる前提にします」と、とりあえずは、答えます。
でも、そのままでは、もちろん、いかなる言語もいかなる世界も立ち上げられません。
だから、まずは、同一律と矛盾律はとりあえず基本ルールとして設定せざるを得ないと思います。
で、だから、僕の考えでは、それゆえ、逆に「同一律」と「矛盾律」は絶対です。
「世界は矛盾している」なんてことを平気で言う人がいますが、僕にはその人が何を言っているのか全然わかりません。

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