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2014年9月 3日 (水)

死んで苦痛が無くなるか

大阪哲学同好会で「死んだら苦痛がなくなるか」に関して討論する機会があった。思考が少しまとめられたので記しておく。

死後など無いものとし、死んだら何も無くなってしまうとするのであれば、耐えられない苦痛を持っている人は死ぬことによって、少しはマシになるのじゃないか。だって、とりあえず何もなくなるのであるから、苦痛のマイナスが無くなる分だけマシなはずだからだ。

でも僕はこの考えが間違っていると思う。
死によって苦痛が0値になるのではないと思うのだ。死は苦痛を0でさえないものにしてしまうので、生き残って苦痛があるのと死んで苦痛がなくなるのとは、比べることなどできないと思うからだ。

『無門関』の「狗子仏性」という話の中で「犬に仏性があるか?」と問われた老師が「無。」と答えたのは「ナシ。」と読んではいけないそうだ。「ム」と読まないと意味がないのだそうだ。
それは、「無(なし)」と答えるのは、犬の仏性が0値であることを意味し、 「無(む)」と答えるのは犬の仏性が値そのものを持たない、ということを表すのではないかと僕は解釈した。

値が0と値が無いのの違いについて、考えてみよう。
例えば、テストでAさんは0点で、Bさんはマイナス点だった。また、Cさんはテストを受けなかったので得点なしだった、という話を考える。この話のAさん0点は上の犬の話の「なし」に対応し、Cさん未受験は「む」に対応する。 Aさんは0点という得点が有るのでBさんよりマシだと言えるが、Cさんは値そのものが無いのでBさんよりマシだと言うのはナンセンスになる。

次に、肝試しの例を考える。Aさんは肝試しが嫌でも楽しくもなかったとする。点をつけるなら0点だった。Bさんは肝試しがチョー嫌だった。点をつけるならマイナスだった。Cさんは肝試しをしなかった。この場合、AさんがBさんよりマシなだけじゃなく、CさんもBさんよりマシだと言えそうだ。チョー嫌よりは何もしない方がマシだからだ。

では、「苦と死の比較ができるか」という問いは「テスト」と「肝試し」のどちらのパターンに近いだろうか。
もしかすると、肝試しの方が相応しい例えに思えるだろうか。肝試しは、Bが0値と比較してマイナスなだけでなく、0値との比較なしでも絶対的な値としてのマイナス値を持っているので、数値無しのCでさえBよりマシになる、というように思えるかも知れないからだ。

しかし、僕はそれが間違いだと思う。数値無しがマイナスよりマシというのはやはりおかしい。そう考える理由はこうだ。
肝試しをしなかったCさんは肝試しをしなかったのだとしても生きているので知らず知らず数値0として比較してしまっているのではないか、そしてその結果、CはBよりマシと考えるのではないか、ということだ。
0値と数値無しを正しく比較するためには生きてさえいない石ころDとマイナスのBを比べなければならないのだ。 石ころとチョー嫌だったBさんのどちらがマシなのか考えようとしても、答えが出てくるわけが無い。ナンセンスな問いだからだ。

死が苦よりマシというのは、石ころがチョー嫌よりマシと問うのと同じで、ナンセンスだと思う。
だから、値無しと値有りを比較できないと適切に表した「テスト」や「石ころ」の比喩が、「死と苦」の例として相応しいものとすべきであるのだ。

結論、死んで苦痛が無くなるなどということは、決して言えない。

ただし、だから自死したり安楽死したりしてはいけないと結論付けられるかと言えばそれはまた別問題だ。

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