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2014年9月 7日 (日)

実在論と現象主義がダメなわけ<意味の意味Ⅱ−7>

ダメット「実在論(1963)」を読む6

実在論と反実在論と現象主義と、観察的言明と傾性的言明の関係を確かめておく。

「隣室にテーブルがある」は直接観察できないことを言っているのだから傾性的言明である。この傾性的言明の確かさをいかにして求めるかのアプローチの仕方で実在論と反実在論と現象主義が区別できそうだ。
反実在論者はたとえば、「隣室にテーブルがある」を「隣室にテーブルがあると推論するだけの根拠がある」という言明に翻訳して考察する。「隣室にテーブルがある根拠となるセンスデータがある」は直接観察できる観察的言明である。そしてこれは、これ以上根拠を掘り下げられない根拠の底であるので「センスデータがあるかどうか」というテストが為される前から「センスデータがあるのか無いのか」の決まった値があると実在論的な仮定をし、「センスデータが如何なるものであるかの真偽が真か偽かのいずれかである」と実在論的な仮定をして、それ以上の根拠が無くても有意味な世界記述ができることにしてしまうという言語的トリックを挿入する。そして、その「センスデータがある」から「隣室にテーブルがある」を推論する。この推論は必ずしも演繹的な推論ばかりではなく、帰納的推論をも含むので、言明の確かさは薄れてしまうことになるが、それは仕方ないとする。こうして、「おそらく隣室にテーブルがある」という言明は、絶対的でもなく確実でもないが、きちんと根拠づけられた是値の言明として意味を持つことになる。

では、実在論者にとってはどうか。
実在論者にとっても、「隣室にテーブルがある」は傾性的言明である。この言明の価値をはっきりさせるために様々な根拠を見つけてきて証拠立てることによって言明の価値を高めていくというのは、実在論者にとっても反実在論者と同じである。しかし、反実在論者がその証拠立てこそを、世界の「本当」に他ならないものであるとするに対し、実在論者は人間が得る証拠立てとは別の「本物の真実」があるとする。そのため、実在論者にとって「隣室にテーブルがある」は傾性的言明であると同時に観察的言明でもあると言えることになるのだ。それが、いわゆる傾性的言明であろうとも、その底には、その言明が真偽の本当の真理値を持っているとする実在論的仮定があり、それによって、根拠など無くても真偽を問うことに意味があると考えるからである。

それでは、「隣室にテーブルがある」を「隣室に入ったらテーブルのセンスデータが得られる」と翻訳するタイプの現象主義にとって、この言明は傾性的言明だろうか。このタイプの現象主義は「隣室にテーブルがある」という傾性的言明を「隣室に入ればテーブルのセンスデータが得られる」という観察的言明に翻訳することで、つまり傾性的言明を観察的言明に翻訳することで、言明の意味を確かなものにすることを目論んだ。しかし、これはうまくいかなかった。「隣室に入ったらテーブルのセンスデータが得られる」という言明は観察的言明ではなかったからだ。考えてみると、「もし〜だったら」という文が直接観察できるものであるわけが無い。だから、「隣室にテーブルがある」を「隣室に入ったらテーブルのセンスデータが得られる」に翻訳するというのは、傾性的言明から傾性的言明への翻訳でしかなかったのだ。つまり還元に全然値しない翻訳でしかなかったと言えるのだ。傾性的言明を別の傾性的言明に言い換えただけでしかないような翻訳をもって、確実な言明が得られると勘違いしたのが、このタイプの現象主義の失敗の原因だったのである。

このように見ると、「隣室に入ったらテーブルのセンスデータが得られる」とするタイプの現象主義はダメなことがはっきりする。それでは、反実在論と同じ「隣室にテーブルがある根拠となるセンスデータが今ここにある」とするタイプの現象主義なら大丈夫なのか。確かに反実在論の捉え方と同じく文の意味を捉えるのなら大丈夫なはずである。ただし、反実在論の捉え方での「隣室にテーブルがある」は「おそらくあるはずだ」というものでしか解釈することが適わず、「隣室にテーブルがある」を確定的に真なる言明であると言い切ることができない。つまり反実在論の捉え方は還元主義ではなく、またある種の実在論の、存在を推論で形づくるので人間には真偽を確定できないとする実在論の一面と同じ捉え方になっている。これに対し現象主義の捉え方では「隣室にテーブルがある」は隣室にテーブルがある根拠となるセンスデータが今ここにある」完全に同一の言明として還元できる。隣室にテーブルがある根拠となるセンスデータが今ここにある」のなら「隣室にテーブルがある」はそのまま確実な言明として発言できるものとする。(そうできるように意味をスライドさせて調整する。)つまりこの現象主義は還元主義で、またある種の実在論の、存在の真偽を確定することができるとする実在論の一面と似たような捉え方になっている。真偽をはっきりさせられるという点で、この現象主義は実在論的である。実在論が神の視点に頼るのと同じように、現象主義は人間を神格化し真偽が言えるようにしてしまったとも言えるのかもしれない。
そして、そのような確実な言明ができるとしてしまった点で実在論と現象主義は同じ間違いを犯してしまった。つまり、現実の世界を語ろうとするのではなく、神や私が真とするものを真とするようなおとぎの世界を語るものための言語体系を作ったに過ぎないという点で、この二者は世界を正しく捉えられないはずの言語なのである。

つづく

意味の意味Ⅱ

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