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2014年9月 3日 (水)

現象主義が反実在論の本質でないわけ<意味の意味Ⅱ-6>

ダメット「実在論(1963)」を読む5

観察的言明と傾性的言明

ダメットは世界記述言明をその内容の確かさによって2つに分類する。
「物的対象に観察可能な性質を帰属せしめる言明と、傾性的なあるいは測定可能な性質を帰属せしめる言明」(「実在論」「真理という謎」所載p102)の2つである。
「物的対象に観察可能な性質を帰属せしめる言明」というのは、つまり、ある対象を直接観察してその性質を語れるような言明のことである。以下、「観察的言明」と呼ぶ。
もう一つの「傾性的なあるいは測定可能な性質を帰属せしめる言明」というのは、つまり、ある対象を直接観察することができず、それについての状況証拠を集めてきて、その対象の傾性や、もし測定すればどんな結果が得られるかの予測を考えることから、対象の性質を判断して語るような言明のことである。以下、「傾性的言明」と呼ぶ。ちなみに「傾性」というのはdisposition(独・英)の訳で「傾向性」と訳されることもある。仮に何らかの状況になったら一定の傾向を示すであろう性質のことである。
たとえば、赤い花が目の前にあって、それを直接観察することによって「赤い花がある」と言うとき、これは一般的に「観察的言明」にあたる。一方、赤い花が隣室にあって直接観察することができないが、状況的証拠から判断して「隣室に赤い花がある」と言うとき、これは一般的に「傾性的言明」にあたる。
しかし、観察的言明や傾性的言明という区分は絶対的なものではなく、言明をどのように見るかという立場によって変わるものである。たとえば、眼前に赤い花があって「赤い花がある」と言った場合に、対象を今現に直接観察して言ったのだとしても、今現に観察しているわけではない別の「赤いもの」や、今現に観察しているわけではない別の「花」についてのデータを、「赤」や「花」という語が意味を持つための補助データとして持っていなければ、「赤い花」という語で何を意味するのか話者自身に分からないことになってしまうのだから、眼前にある赤い花を観察言明として有意味に語るためには、過去に見た「赤」や「花」についての過去の言明が必ず下敷きにならねばならない。と同時に、将来どんな対象を見たときにそれを「赤」と言うのか「花」と言うのかを傾性的言明で語れなければ、眼前にある「赤い花」を語れないことになる。観察的言明と言っても必ず傾性的言明を含まなければならないし、逆に、傾性的言明も必ず観察的言明を含まなければならないと言えるである。

観察言明は端的に真と言えるはず

さて、観察的言明と傾性的言明を比べると、圧倒的に観察的言明の方が信頼度が高い。見たままそのままのことを言明している直接的な世界記述なのだから、話者が誠実であればそれだけでその言明は真とできるような内容になるはずだからである。実在論者から見ても、現象主義者から見ても同様に観察的言明の方が信頼できるものであることははっきりしている。ただし、実在論者に言わせれば、観察的言明はここにテーブルがあるから端的に「ここにテーブルがある」のであり、現象主義者から言わせれば、ここにテーブルのセンスデータがあるから「ここにテーブルがある」と言える、という違いはある。
では、傾性的言明については、実在論者と現象主義者で評価が違うだろうか。

実在論と傾性言明

実在論者が傾性的言明を語る場合、たとえば、隣室にテーブルがあると判断される場合に、「隣室にテーブルがあると思われるが、無いかも知れない。しかしあるか無いかのどちらかだ。」と言うだろう。この判断が妥当かどうかは、また後で検討するが、まあ「あると思われる」というのはもっともな言い方だと思われる。しかし、「あると思われる」と言いながら実在論はその答えが神の視点によって「あるか無いか」のどちらかに決まっているとする。この神の視点なるものが反実在論者にしてみればナンセンスなのである。この問題についても後で検討する。

現象主義のダメなわけ

一方、現象主義者は、隣室のテーブルについて語るときには「隣室に入ればテーブルを見るだろう」と言うことになると言う。こちらも至極健全な判断をしているように思われる。
Berlin
しかし、現象主義者によるこの傾性的言明の解釈は発言自体が無理な発言なのだと、バーリン(Isaiah Berlin1909~1997)は批判する。バーリンによると、「現象主義者は、物的対象言明の観察言明でないものはセンスデータを要素とする仮定条件法に還元されねばならないと考えたのだが、それはいかなる定言的言明によって真になるわけでもないものに、真であるような仮定条件法の存在を含意することになる」(同p117)のだから、現象主義者の解釈は認められるはずがない。つまり、「隣室に入ればテーブルを見るだろう」というのが現象主義者の解釈だが、「隣室に入ればテーブルを見るだろう」が「もし隣室に入ればテーブルの存在を示すセンスデータを得るだろう」ということを意味するのなら、それは、その未来の時点で現れるセンスデータについてであって、それが現れることの証拠となるかも知れない現時点でのセンスデータとは全く別もののことを言っているのだ。そして、そのことは、今現に得ている定言的なセンスデータが、隣室に入れば得られるだろうという仮言的なセンスデータの根拠にはなり得ないことを意味する。
だから、まだ生じていない仮言的なセンスデータは、結局、何の根拠もなくても端的に現れると言えるものでなければならないはずのものなのだ。しかし、そんなことは無理だ。それはいかなる定言的な観察的言明も根拠にならないはずの「隣室に入ればテーブルを見るだろう」という傾性的言明を、無根拠のまま真だと確定させようとする暴挙に挑んでいることに他ならない。だから現象主義は原理的文法的に間違っているのだ、とバーリンは言うのだ。

現象主義の抜け道

バーリンの批判はもっともだと思う。
現象主義者が「傾性的言明はセンスデータを要素とする仮定条件法に還元されねばならない」と言っているのは、「隣室に入れば机を見る」か「見ない」かのいずれかだと考えていて、還元によってそのどちらが真であるかを突き止めようとしているのであれば、現象主義は無謀でナンセンスな問いを追っているだけで疑似言明を語っているふりをしているだけだと言えそうである。
しかし、ダメットはこのバーリンの議論を半ば認めつつも、現象主義にも逃げ道があるとする。
「端的に真である仮定条件法を想定することは許されない。しかし、物的対象言明Pの翻訳たる仮定条件法の根拠となるところの定言的センスデータが存在するときのみ真なのだと考えるなら、バーリンの批判は当たらない。」(P117 )
つまり、現象主義の「隣室に入ればテーブルのセンスデータを得るだろう」という解釈はダメだけど「現に得ているセンスデータから隣室にテーブルのあることが推論できる」は大丈夫だと言うのだ。現象主義が傾性的言明を発言しようとするときに「もし~なら」という仮言の場面のセンスデータを持ってきて、それによって言おうとするのなら、全然ダメなのである。「今現に現れている」という定言的なセンスデータを根拠にして推論するのなら、しっかりと有意味な考え方だと言えるのだ。もし隣室に行ったならどんなセンスデータを得られるかを直接考えようとしても無駄な努力にしかならないが、「過去に隣室を覗いたときにテーブルがあった」という記憶があり、自分の記憶が信頼できるということの根拠になるような記憶があり、テーブルがその後に別のところへ運ばれたような物音や気配のなかった記憶がある、というようなセンスデータが今現に得られている場合、このセンスデータを根拠にして「隣室にテーブルがある」ということが有意味になるのだ。ただし、ここで考えられる「隣室にテーブルがある」の意味は神の視点での確実さは無い。発話者の視点でもって根拠づけられるだけの、言わば「あやふやな」確実さのみを持つものでしかない。つまり、上の文でダメットは「真」という語を使っていたが、ダメット自身が論文「真理」で「是値」と表現したような正しさを語るものなのである。

ダメットの反実在論

そして、この視点はダメットの言語論的反実在論の視点である。
ダメットの説く「言語論的実在論・反実在論」は次のようなものであった。
実在論にとっての世界には、本当の姿というものがあって、言語は完全に意味を確定させて語り得る。それゆえ、語る内容は神の視点によって真か偽かが決定し得る。
反実在論にとって、世界に本当の姿と呼べるものがあるか無いかなんていう問いはナンセンスな問いでしかない。それは語が完全に意味を確定させることができないのだから仕方ないことなのである。それゆえ、語が語る記述の内容が神の視点による真偽を決めることができるかなんてことに意味があるはずがない。言明にとっては発話者の視点で証明可能かどうかだけが問う意味を持つのである。いわゆる是値非値のみが語の意味を持つのである。

実在論になるタイプの現象主義

こう考えて、反実在論の切り口でもう一度判断し直してみると、単に現象主義・還元主義と言っても有意味なアイデアとナンセンスでしかないガラクタとに区分できることになりそうだ。

「隣室にテーブルがある」を「隣室に行ったらテーブルのセンスデータを得るだろう」に翻訳するタイプの現象主義について言えば、語の内容が神の視点によって真にするしかないような言明で、証明不可能なものでしかないようなものでしかないのだから、このタイプの現象主義は現象主義であっても、反実在論ではない。そして、その神の視点を語の意味判断に持ち込むことを認めてしまうなら、神の視点による本当の世界の姿なるものと比較することで「隣室にテーブルがある」が真偽の2値のいずれかに決定できる2値論理であり、排中律を認める立場となってしまう。現象主義と言ってもそれは言論的実在論でしかないと言えるものになる。実際、「隣室にテーブルかある」が神の視点によって真か偽かを決められる言明として発話されるものを実在論的な言明だとしたのだから、「隣室へ行ったらテーブルのセンスデータを得られるだろう」は実在論とぴったり重なるものとなるのだ。

反実在論になるタイプの現象主義

では、それなら、「隣室にテーブルがある」を「隣室にテーブルがあると推論できるだけの根拠になるセンスデータがある」に翻訳するタイプの現象主義なら反実在論であり、有意味だと考えて良いのだろうか。

この言明が発話者の視点での根拠づけだけを基準にして「隣室にテーブルがある」の真偽を(正確に言うと、是非を)決めるというのであれば、反実在論的な言明であって、実質的に意味のある発言とすることができるだろう。
ただし、このタイプの現象主義であっても、「隣室にテーブルがある」について神の視点による真偽が決まっていると捉えることは可能である。そしてそう捉えるのであれば、それは実在論的な言明でしかなくなったしまって、神の視点によるおとぎ話的な意味を持つものでしかなくなってしまうと言える。
ダメットの反実在論の言い分に従えば、発話者の根拠づけによる証明的な言明のみが確かな意味を持ち得るのであり、神の視点での真偽を問うことは無意味だと捉えるのだ。だから、「隣室にテーブルがあると推論できるだけの根拠になるセンスデータがある」に翻訳するタイプの現象主義が、「真偽」ではなく「是非」に価値を求め、排中律を否定するなら、それは反実在論であり、有意味な言明だと言えるのである。

あやふやな、しかし、意味のある言明

しかし、ここで一つ注意が必要なのは、この「隣室にテーブルがあると推論できるだけの根拠になるセンスデータがある」という言明に対する更なる根拠づけはもう存在せず、言明に対する根拠づけは無限に遡ることが決してできないという点である。「隣室にテーブルがある」を根拠づけるために「それを根拠づけるセンスデータが現にある」という言明を持ってきて証拠づけたとしても、その「センスデータが現にある」はもはや根拠を持つことができないのだから、最後には根拠なしで「センスデータがあるのだから、あるのだ」とせねばならないことになる。
だから、証拠と言っても、最終的には基盤がはっきりしていないようなあやふやな証拠でしかないとも言える。しかし、そんなあやふやな証拠でしかないものしか証拠とすることができず、それしか方法がないのだから、そのあやふやな証拠をもって言明が意味をなす証明とすることに、確かに意味があると認めなければならないと考えるのだ。そして、その証明によって得られる結論は、神の視点による「実在論的真実」なるものほどしっかりしたものではないかも知れないし、単に発話者の視点というあやふやなステージの上での推論でしかないかも知れないが、それしかないのだから、胸を張ってそれを有意味な発言だとすべきなのだ。そう反実在論者は考える。

この視点で再度、実在論・反実在論・現象主義と、観察的言明・傾性的言明の関係を確かめねばならない。しかし、それは次節で。

つづく

意味の意味Ⅱ

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コメント

>「隣室にテーブルがあると推論できるだけの根拠になるセンスデータがある」に翻訳するタイプの現象主義が、「真偽」ではなく「是非」に価値を求め、排中律を否定するなら、それは反実在論であり、有意味な言明だと言えるのである。

ダメットさんは、優しいな。反実在論派にも、少しスペースを与えてくれてる。

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