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2014年8月24日 (日)

言語論的実在論と真なる言明<意味の意味Ⅱ-3>

ダメット「実在論(1963)」を読む2

ダメットは言語論という新たな視点で実在論反実在論を切り分け直した。
それまでの「いわゆる反実在論」は還元主義や観念論や独我論や懐疑論であった。センスデータや<私>などの根源的存在が初めにあって、物質や物体なんてものはセンスデータや<私>の情報から得られる派生的で二次的な世界像に過ぎないとする考え方などであった。一方、それまでの「いわゆる実在論」はセンスデータや<私>などよりも先に、実在の物質があるのであって物質世界が存在するからこそ自我や他我が二次的に生まれるとする。そこにちゃんとモノがあるとする考え方であった。
これに対して、ダメットは言語論的反実在論を打ち出し、新たな視点で考えるべきだと提唱した。世界に関する言明が「証明し得るか否か」という観点でのみ価値を持ち得るとする視点で、反実在論を考えようというのだ。そう考えると反実在論は還元主義でも懐疑論でもない全く別のものになる。そして、言語論的反実在論とともに言語論的実在論を打ち出す。世界に関する言明は、「人間が証明し得るか否か」なんて頼りないものに頼らずとも、神の視点で判断される真偽があり、その真偽こそが言明の価値だというのだ。実在論をそのようなものと考えるといわゆる実在論とはだいぶ違う別の実在論になってくる。
本節からは、反実在論と実在論の具体的内容について見ていきながら、ダメットが反実在論を推し排中律を認めないわけを考える。

 

「反実条件法」と「端的に真」

勇敢さについて検討することで、「端的に真」なるものを考える。
人が勇敢であるかどうかという判断を、危険な状況で勇敢に行動したかどうかで測ることにする。そうすると、ある人が死ぬまで一度も危険な状況に出くわさなかったのなら、その人が勇敢だったかどうかは反実条件法に頼らないと分からないことになる。反実条件法とは「前件が事実とは違う状況で~だったなら後件は~であったろう」という構文言明である。つまり、「生前に一度も危険に遭遇しなかったある故人Aがもし危険な状況にあっていたなら勇敢な行動をしていたであろう」という言明の真偽を見ることによってのみ、Aが勇敢だったか否かが分かることになる。
さて、言語論的実在論の観点でこれを考えるとどうなるか。「Aは勇敢だった」という文が有意味になるためには、「Aが危険な状況にあっていたら勇敢に行動していた」という反実条件法が真だったと言い切らないといけないことになるのだろうか。しかし、これって結局、いかなる根拠もなく「Aは勇敢だったから勇敢だったのだ」とでも言うかのように「端的に真だ」と言っているのと同じではないだろうか。だからダメットは「私は反実条件法が端的に真ではあり得ないと仮定する」(「実在論」「真理という謎」所載p99)とし、「反実条件法が真ならば、それはある定言的言明が真であることによって真でなければならない」(p99)ということであり、さらにそれは「反実条件法が真ならば非真理関数的条件法を含まないある言明が真であることによって真でなければならないという意味で『端的に真ではあり得ない』ということになる」(p100)としている。反実条件法は無条件に真だと言うことはできないのだ。
たとえば、Aが普段の振舞いからしてしっかり者であることが分かり、その普段の言動を根拠としてAが危険に遭遇したなら勇敢に行動したであろうことは十分に推論できるという場合、「Aは勇敢だった」は真になるだろうか。ダメだ。決して真にはなり得ない。勇敢の定義からして、彼が実際に危険に対して勇敢に対処したという事実がないと、「Aは勇敢だった」は真だと確定させることはできないのだ。つまり、反実条件法言明を真だと確定させるためには、条件の前件が真であり、かつ後件が真であったというという真理関数的条件が満たされていることが確かめられないといけないのだ。真理関数を外れるような(たとえば前件の真偽が無いような)非真理関数条件法を持ってきて確かめようとしてもダメなのだ。
だから、反実条件法は、結局、「反実」であるがゆえに「端的に真」ではあり得ないのだ。

 

言語論的実在論者が「真なる言明」を得られなくてもへっちゃらなわけ

では、実在論者は反実条件法言明をすべて捨てないといけないのだろうか。
言語論的実在論者にとっては、そんなことは無いのだ。
これが「いわゆる実在論者」について考えるのであれば、そこにちゃんと対象が実在しているということが言えないといけないので、「ここにりんごがある」とか「空が青い」とか「Aは勇敢だった」などの世界記述の真偽が言えないということは、それが事実かどうかも言えなくなってしまうかも知れないという大問題である。だが、言語論的実在論にはへっちゃらなのである。
「Aは勇敢だった」という言明を真だと確定させることは確かにできない。しかし、「『もし彼が危険に遭遇していたならば彼は勇敢に行動していたであろう』という言明は、もしそれが真なら『彼は勇敢であった』という言明が真であることによって真なのだ」(p101)とダメットが言うとおり、言語的実在論者にとっては、神はちゃんと本当のことを分かってくれるのであるのだから、「Aは勇敢だった」という言明は、人間にはその真偽を知ることができなくっても、依然としてきちんと有意味なのだ。「Aは勇敢だった」が真だとは確定できず、Aの振舞いなどから推論して「Aが勇敢だったと十分に確信できる」くらいのことしか、実際には言えなかったとしても、普段の生活をするための世界理解としては十分な情報量を有しているのであるから、文の真偽を確実に知ることができなかったとしても平気なのである。自分自身が文の真偽を知り得るということよりも、言語的実在論者にとって大事なのは、すべての有意味な言明は神が真偽を判断できるようなものとして、この世界ができているということである。それは、「Aが勇敢であった」が真か偽かを神なら言い切ることができるということであり、「Aが勇敢であったか否かのいずれかであった」ということを我々が言い切ることができるということである。つまり、排中律が正しいと言い切れるということが言語論的実在論者であるということなのである。

 

言語的実在と言語論的反実在の違い

一方、言語論的反実在論者にとって、Aが勇敢か否かはどういう問題になるのか。
言語論的反実在論は言明の証拠があるか否かによってその価値を決めるのだから、Aの普段の振舞いからAがしっかり者であることが分かり、その言動を根拠とするのであるなら、「Aは勇敢であった」がちゃんと証拠を持つ「是値」に値する言明だと言えるはずだ。
こう考えると、言語論的実在論も言語論的反実在論も、「Aは勇敢だった」について真偽の確定はできないとしても、Aの生前の言動を根拠にしてその有意味さをある程度判断できるのだ。結局、ある言明の有意味さを状況証拠のみで判断しなくてはいけないような場面では、言語的実在論者も言語論的反実在論者も、状況証拠から推論してきて言明の意味を考えるのだから大差ないように思える。
しかし、大きな違いがある。言語論的反実在論は排中律を認めないのだ。「Aは勇敢だった」に真偽の意味を確定されられるなどということは、言語論的反実在論者にとっては、反実条件法に事実を当てはめようとする、ナンセンス以外の何ものでもないのだ。だから、「反実条件法の対のいずれの一方も真でないかも知れないと認めざるを得ない」(p100)のであって、「Aが勇敢であったか否かのいずれかであった」と我々が言い切ることなどできるわけがないのだ。排中律は正しくないのである。

「両者間の論争は、ある与えられた言明を支持する証拠も反証する証拠も存在しないかも知れないことを、双方が認めるような言明のクラスに関してのみ、持ち上がる。それゆえ、まさにこのことが、ある与えられたクラスの言明に対して排中律を受け入れることを、そのクラスの言明について実在論の見解を取るか否かを判定する決定的テストたらしめるのである。」(p111)
ある言明に対して何らかの証拠が考えられるときには、言語的実在論も言語的反実在論も、その証拠によって言明を有意味だと考えることができ、そこには論争は起こらない。けれども、証拠がないときや、証拠によって判断し得ず神の視点によってでしか判断できないような場面で、両者の違いがはっきりしてくる。そしてその違いは排中律を受け入れるか否かによって表れるのである。

それでは、言語論的実在論と言語論的反実在論の両者が、何らかの証拠をもとにして言明の意味を考えるというのは一体どういうことなのだろう。直接観測可能な性質を帰属せしめる言明と、傾性的あるいは測定可能な性質を帰属せしめる言明との違いと、それらの言明をいかに意味あるものとすべきなのか、ダメットがどう考えたのかについて、次節で追っていきたい。

つづく

意味の意味Ⅱ

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