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2014年8月13日 (水)

ダメットが直観主義を推すわけ<意味の意味Ⅱ-1>

ダメットの「真理」(1959)を読む。

ここまで、サール対クリプキ・パトナムの意味の内在外在論争を見てきたが、ここからは章を改めて、また違う視点で意味の意味を考えることにしたい。ダメットの反実在論やデイヴィドソンのチャリティの原理などを見て、言語と世界の関係について思索を深める。
Dumett
マイケルダメット(Michael Dummett 1925~2011)は、ウィトゲンシュタインの言語ゲームの発想を突き詰めるといかなる世界観が正しくなるかを考え、独自の反実在論を立ち上げた哲学者である。本節では彼の初期論文「真理」から彼がなぜ直観主義論理を推奨し、「真」とはいかなるものだと考えるべきだと考えたかを読み取っていく。

直観主義

直観主義とは、ブラウワー(Brouwer1881~1966)が編み出した数学の一つの学派。20世紀初頭、カントール(Georg Cantor1845~1918)の集合論によって無限のややこしい問題が起こってきたときに、(1)論理主義(2)形式主義(3)直観主義の、三つの対応策が立てられた。
(1)の論理主義は、ラッセル(Bertrand Russell1872~1970)などが論理学と数学の統合を図ったり、そのためにタイプ理論という裏技を持ち出してきて論理システムを階層化することで無限の問題の解消を図ったりしようとした考え方だ。
(2)の形式主義は、ヒルベルト(David Hilbert1862~1943)などが、数学に矛盾が含まれないように公理を調整し、無矛盾な形式的体系作り出そうとした考え方だ。(ZFC公理については<集合論はパラドクスをどう回避したか>を参照。)
(1)(2)の考え方では数学の世界がまるで実体あるもののようにされ、神の視点でもって確約された存在として捉えられた。この観点では、あらゆる有意味な論理式は「真」か「偽」かのどちらかに決定できる。このことを二値論理と言う。それゆえ、「Aか、またはAでないかのどちらかである」という法則・排中律を当然のこととして認める。これに対して、排中律をみとめない考え方が(3)の直観主義である。
直観主義では、形式主義のように数学的な認識は神によるものなどと言ったところで、そんなものは所詮マボロシでしかないのだからそんな考え方をしてもしょうがないとし、「人間が証明によって知識を増やしていくような活動こそが数学である」とした。直観主義にとって本当のこととは、「神の視点による真理」などではなく、「知識状態aのもとで証明が可能なこと」だとしたのである。
ダメットは論文「真理」でもって、存在論においてもこの直観主義の真理観が採択されるべきだとする。

「古典的真理論」とフレーゲの「真」

真理とは何かという論議は古代からあって、その説は一般に「真理対応説」と「真理整合説」とに大別される。「真理対応説」は命題や言明などが事実と正しく対応するとき、その命題が真だとする考え方であり、「真理整合説」はある命題が他の多くの命題と整合していて矛盾しないときにその命題を真だとする考え方である。
Frege
ダメットはフレーゲ(Gottlob Frege1848~1925)の意味論を取り上げ、フレーゲの「真理」の捉え方について考えるところから話を始める。フレーゲの「真理」は対応説の一種で次のようなものだ。「『真』という語のある説明は『Pは真である』が文Pと同じ意味を有するというものである」(ダメット「真理」邦訳p6(「真理という謎」)・以下、本節の引用文はすべてこの論文からのもの)というふうに「真」の意味を捉えたのである。たとえば「「このりんごは赤い」という文は真である」という言明と「このりんごは赤い」という言明は同じ意味を持つことが真だというのだ。
そしてその上で、フレーゲは文の指示bedeutungがその真偽だとする。(ややこしいのは、この指示bedeutungと意味sinnとの二つの言葉づかいがあることだ。一般的に、語の指示bedeutungとは外延的な意味を意味するものとして事実の対象を指し、意味sinnとは内包的な意味を意味するものとして別の語による説明内容を指す。しかし、この一般的な言葉づかいに対してフレーゲの言葉はずれているから余計にややこしい。)フレーゲによると文の意味sinnがその命題内容を指し、指示bedeutungはその真偽(真理値)を指すとしたのだ。かなり偏った捉え方であろう。そんなこと言い出したらいかなる文もその指示するものが真と偽の2種類しかないことになってしまう。それは変だろうと僕は思ってしまう。
しかし、「複合的表現の指示bedeutungはその表現の部分の指示bedeutungのみに依存するが、もしある文に現れる個別名に指示bedeutungが同じで意味sinnが違う別の名を代入するなら、その文全体の意味sinnが変化するからである。」(p1)と、ダメットは解説する。確かに、「明けの明星が見える」を「宵の明星が見える」に変えると、文の命題内容sinnは変化してしまう。その文の一部(「明けの明星」)を同じ指示bedeutungの語(「宵の明星」)と変えたときに文全体の指示bedeutungが変わってしまうなら、不便なのかもしれない。だから、それを一定に保つことのできる「真」「偽」の真理値なるものを指示bedeutungの指すものとしてあてがってやろうとするのも、全く馬鹿げたことでは無いのかも知れない。
しかし、そこに「真偽」という、他所で他の意味で使われる語をあてがってしまうのは本当に適切なのかとダメットは疑う。そして、その文の「真偽」が意味するものについて考えていく。

フレーゲの「真理論」がダメなわけ

「文『Pは真』は文『P』と同じ意味になる」というのがフレーゲの認める「真」の意味である。たとえば「このりんごは赤い」という言明が「このリンゴは赤い」という事実を指示しているとき「『このリンゴは赤い』は真」という言明も「このリンゴは赤い」という事実を指示することになるのは当然だと思える。だから、この説明は上手くいきそうに思える。しかし、「真」の意味をこう定義すると二値論理とうまく咬み合わなくなってしまうとダメットは指摘する。というのは、「命題を表現しはするが真でも偽でもない文が存在すればこれは正しくない」(p7)からである。
例えば、「ヘンピオ」というのは僕の娘が幼児だったときに考えた語で、何か得体のしれない不可知のモノである。それが一体何なのか、どんなものなのか娘自身にさえ分からないようなモノだ。で、この「ヘンピオ」を使って2つの文を考えてみる。(A)「ヘンピオは赤い」(B)「『ヘンピオは赤い』という言明は真である」の2文である。(A)は一応命題を表現してはいる。しかし、真でも偽でもない。ヘンピオが何ものなのか分からないのだから、それが赤いとか赤くないとか言うことに真偽があるわけがない。この(A)を「Pは真である」のPに代入すると、(B)になるわけだ。しかし、(B)は真でも偽でもないものを真だと断定しているのだから、偽の文であることになってしまう。つまり、この場合、「Pは真」と「P」が同じ意味にならなくなってしまうのだ。だから、「文『Pは真』と文『P』が同じ意味になるとき、それが『真』の意味である」という、フレーゲの「真」の定義は満たされなくなってしまう。

「偽」の定義にかんする困難

もしかすると、そんな「ヘンピオ」なんて訳の分からないものを持ち出してきて反証しても意味がないと、批判されるかも知れない。しかし、「ヘンピオ」のような、真でも偽でもない対象の話でなくたって、フレーゲの定義では「真」の意味を直接は確定させられていない、という論点もまだある。
「真」の意味を直接説明できなくっても「偽」の意味をはっきりさせられれば、そこから「真」の意味を確定させられる。そこで「Pは偽」の意味を確定させようとしてみよう。そのためにはPの否定を考えないといけない。ところが、Pの否定を考えようとするとPが偽のときの話を持ってくることになってしまう。「文『No one is here.誰もここにいない』の否定が文『Someone is here.誰かがここにいる』であることを説明するのにわれわれは『文Pの否定とはPが偽のときそのときに限り真で、Pが真のときそのときに限り偽の文である』と言う。」(p9)それゆえ、「偽」を定義するのに「否定」を使い、「否定」を説明するのに「偽」を使うことになってしまう。堂々巡りになってしまうのだ。
このように、「肯定」や「真」とは何か、「否定」や「偽」とは何かを確定させて示そうとすることには、根本的な困難があるのだ。

「選言」の定義にかんする困難

また、「否定(~でない)」だけでなく「選言(~または)」もその意味をきちんと示そうとすると困難がある。「選言」でなく「連言(~かつ)」ならあまり問題はないのだ。たとえば、犬に「連言」の意味を教え込むことはできる。「ベルが鳴り、かつ、ライトが点くときにのみ吠える」という訓練は可能だからだ。
同様に、人間の言葉が通じない犬に(あ)「ベルが鳴ったかライトが点いたかどちらかが起こったときのみ吠える」という訓練は可能であるから、そーゆー意味では「選言」を教えることはできるだろう。
しかし、ダメットが言うのはそーゆー意味での「選言」ではなく(い)「ベルが鳴ったのかライトが点いたのかどちらか分からないけれど、とにかくどちらかが起こったときにのみ吠える」という意味を教える訓練はできないということなのだ。この(あ)と(い)の違いを分かってもらえるだろうか。
「PまたはQ」の意味を、「『P』であると分かったか、『Q』であると分かったかのどちらかの場合」と取るのではなく、「『P』であるか『Q』であるかがはっきりするとは限らないが、そのどちらかであると分かった場合」と取るのである。そうであれば、その意味は犬に教えることができず、それは真理表に表せられないものになるのだ。真理表では(あ)と(い)の違いが表現できないからだ。
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余分説が排中律の根拠として不適切なわけ

フレーゲの「『Pは真』と『P』が同じとき真を示す」という説明についても、真理対応説の「Pのとき、そのときに限りPは真である」という説明についても、これらの説明では、言明Pが真だと言っても言わなくても元のPはその意味は変わらない。だからわざわざ言明が真だという必要なんてないんじゃないかと言われてもしようがないような説明でしかない。このことを「真偽の余分説」と言う。この「真偽の余分説」を受け入れるなら、フレーゲの説明も真理対応説も真理表の説明以上のものを語ることは無いと言える。それゆえ、「真偽の余分説」の当てはまる真理論は排中律の正当化を成功させることはできない。なぜなら「『Pのとき、そのときに限り、Pは真である』というかたちの「真」「偽」の説明がそれらの語に与え得る説明のすべてだとすれば、いかなる言明も真か偽かであると主張することは、『PかまたはPでないかである』と述べることがつねに正当化されていると言うのと、まさに同じことである」(p12)からである。余分説は排中律を前提として含んでいるものでしかないのだから余分説を「真」の定義づけに持ってきて「だから排中律が正しいのだ」なんて言うのは「排中律が正しいことにしたから排中律は正しいのだ」と言っているのと同じことだ。何の説得力も無い話でしかないのだ。

真理関数条件法

では、余分説に頼らず真偽の意味を考えるにはどうすれば良いのか。いかなる事情の下で言明が真になり、いかなる事情の下で偽になるのかを細かに確定させることができれば、真偽の意味をはっきりさせられるのだろうか。
そこでダメットは、言明の真偽をはっきりさせにくい2つの場面について検討している。
1つは、命令の場面である。命令の言明の意味は、どうなることがそれに従うことであって、どうなることが従わないことなのかを、はっきりさせることによって決まるはずである。
例えば、子が母から「外出するならコートを着なさい」と命令された場合について、「外出した」をPとし、「コートを着た」をQとし、「命令に従った」をRとして、真理表を作ってみると下表のようになるだろう。
2
コートを着て外出したならもちろん命令に従ったことになり、コート無しで外出したなら命令違反になる。注意すべきは外出しなかったときだが、そのときはコートを着ても着なくても一応命令に従ったことになるだろう。このような場面、仮言の前件Pが満たされないときには、後件Qが真でも偽でも命令には従ったことになる。このパターンをダメットは真理関数的条件法と呼ぶ。

条件付き賭け

2つ目の場面は、賭けの場面である。賭けに関する言明の意味は、いつどうなったら勝ちで、どうなったら負けることになるかを、はっきりさせることによって決まるはずである。
たとえば子が外出するときコートを着ていくか否かという賭けをした場合、「外出した」をPとし、「コートを着た」をQとし、「賭けの勝敗」をRとして、真理表を作ってみると下表のようになるだろう。
3
子が外出したら賭けは成立するが、外出せず前件が満たされなければ賭けそのものが成立しないので、勝ち負けもなくなることになる。このようなパターンをダメットは「条件付き賭け」と呼ぶ。

さて、まったく言葉が通じない他国でこの「真理関数的条件法」と「条件付き賭け」の2つのパターンの状況が示されれば、われわれはそこで何が「真」とされ、何が「偽」とされているのか知り得るだろうか。「真理関数的条件法」の状況で「命令に従ったら報酬がもらえる」という状況弁別のための判断基準が見られたり、「賭けの勝ち負けに応じて配当があったり掛け金を取られたりする」という判断材料が見られたりすると、そこで「真理関数的条件法」のやり取りがなされているのか、「条件付き賭け」のやり取りがなされているのかを判断して言うことは、確かにできる。しかし、そこで言うことができるのは、たかだか真理表に表れ得るような違いによる判断でしかないのじゃないか。真理表では「選言」の(あ)(い)の区別ができなかった。ここまで状況を詳しく見たところで、やはり、真理表に表れない「選言」の違いを明らかにすることはできないのだから、真理表のみにもとづいて真理の意味を確定させることができないのだ。真理表に表れるデータのみで真理の意味を確定させてしまうことは、「選言」の違いを無視し問題に蓋をしてしまうことで、問題解決にしてしまっていることになるのだ。二値論理にもとづいた真理表でもって、真理論を正当化することによって、二値論理が正しいと結論付けたり、排中律が正しいと結論付けたりしてもしようがない。真理表のみにもとづいて真理の意味を確定させることは、現実に起こったことだけを材料にして世界を語ろうとしたり、神の視点を持ってきて世界の状態がすべて決定されていると考えたりすることであり、そしてそれは、当然世界が真と偽のみの二値論理の下にあるとすることに他ならない。真理表にもとづいて真理論を正当化しようってことは、そのような二値論理を前提としていることに他ならないのだ。
だから、いかなる事情の下で言明が真になり、いかなる事情の下で偽になるのかを細かに確定させることがでたとしても、真偽の意味をはっきりさせることはできないのだ。
そう考えてダメットは「われわれの真偽の観念をすっかり放棄すべきなのである」(p20)と結論付ける。
そして、これまでの、神の視点に頼った真偽の観念の代わりに、「是値」と「非値」という新しいアイデアを推奨する。

是値と非値

「真」と「偽」がある言明を神の視点でもって判断するものであるのに対して、「是値」と「非値」は、ある言明を主張できるか否かを話者の目線で判断するものである。具体的には次のようなものである。
2つの場面を考えてもらいたい。
1つは、「真理関数条件法」の真理表で下表のようにT、F、Xの値を考える。
4
表の状況の例を考えてみよう。子が母から「外出時にコートを着よ」と命令された場面で、「外出する」をP、「コートを着る」をQ、そして、¬(P→Q)とはP→¬Qのことという意味で「否定」を考えるとする・・・というような言語世界を考える。
そして、T、Fの意味を普通に考えると、Tが「真」で、Fが「偽」ということになるだろう。
しかし、Tが真でFが偽なら一般的に下表のようになるはずだ。下2段の、PがFのときに、P→QもP→¬QもTになるはずだ。でも、P→¬Qが¬(P→Q)だとして言語世界を考えたのだから、表の下線部の部分の左右は互いに否定し合う関係なのだから、それが両方ともTだとするのは変だ。
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そこで、次のような否定とその値を考える。そうすると初めに示した表4のような真理表が得られることになる。
6
ここで、Xという値を「真でも偽でもない」と解釈したり、3値論理の1つの値のように解釈したりされてしまうかもしれない。しかし、ダメットは必ずしも「真」「偽」という用語でもって真理値を示さなくても良いじゃないかと言う。ダメットの主張は、ここで示されたTとXとが「その言明の主張が正当化される」を指示するもので、「是なる真理値designated value(是値)」という真理値を示し、Fが「その言明の主張が正当化されない」を指示し、「非なる真理値undesignated value(非値)」という真理値を示すものとして、直観論理で使われる値を使おうというものである。
その上でダメットは表6のTとXを是値、Fを非値としようと言う。
具体的に言うと、「外出するならコートを着よ」と言われた子が「言われたとおりにしたよ」という主張をするのか正当化されるのは、表の2行目以外、「外出し、かつ、コートを着なかった」場合以外である。つまり、1、3、4行目が主張する価値があるのでそれが是値となるのだ。そして、2行目が非値となるのだ。
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2つめの場面は、「条件付き賭け」の真理表で下表のようにT、F、Yの値を考える。
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この表は下線部が表4のXがYになっただけのものなのだが、ここでは「条件付き賭け」の場面を考えているのだから、状況は全然ちがう。表の状況の例を考えてみると、たとえば「子が外出するときにコートを着るか」という賭けをする場面で、「外出する」をP、「コートを着る」をQとするようなことを示していることにしよう。ここで、表の3行目以降は、子が外出していない場合のことを表しているのだから、賭けは成立していない。賭けが成立していないのだから、その状況で「外出したときにコートをきた」を否定しても偽が真になるわけではない。だから、Yの値については、次のような否定とその値を考えられる。
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そして、ダメットの是値非値の説明によると、表9のTが是値、Fが非値になる。具体的に言うと、「子が外出するときにコートを着るか」と聞かれて「そのとおり」と主張が正当化されるのは表8の1行目だけ、「外出し、かつ、コートを着る」の場合だけで、それだけが是値となるのだ。そして、2行目以降は主張が正当化されないので、非値になる。
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この「是値非値論理」は、必ずしもすべての「真偽」を否定するというものではない。ただそこに、人間には証明不可能な不可解な対象が含まれる場合に「真偽」を言ってしまうのはまずいことにしようと言うのだ。
ただ、表8でYの否定がYになっているように、是値の否定(のように見えるもの)は必ずしも非値にならず、非値の否定(のように見えるもの)は必ずしも是値にならない。そういう点で結構めんどうくさくて使いにくい論理体系である。しかし、「是値非値論理」は、「真偽」のような神の視点による絶対的な正しさに頼らずに済む。人間の(あるいは発話者の)未熟な視点での証明可能性でのみがその拠り所となるので、逆に確かな信頼性を持つ意味論になるのである。

反実在論が実在論をすべて否定しないわけ

神の視点による確からしさによる「真偽」を捨てるということで、ダメットの議論は「反実在論」に分類される。ただし、ダメットは、だからと言って直ちに実在論をすべて捨てることにはならないと言う。
「われわれはもはや対応説を受け入れないけれども、心底は実在論者のままである。われわれは、われわれの思考において、根本的には実在論者の真理観であるものをとどめているのである。実在論とはいかなる言明にもその言明がそれによって真となるところのものが存在しなければならないという信念である。この信念を土台にしてはじめて、真偽が言明の意味という観念に本質的な役割を演じるとか、意味を説明する一般的形式は真理条件を述べることである、というアイデアを正当化できるのである。」(p25)

「是値非値論理」が排中律を認めないわけ

ダメットのこの是値非値論理は排中律を認めない。ポイントは言明の論理的妥当性である。これを考えるのにダメットは「勇敢さ」を例に挙げる。
B「ジョーンズは勇敢であったか勇敢でなかったかである」
A「今は故人であるジョーンズは生涯一度も危険に遭遇したことがなかった。」
B「ジョーンズが実際に危険な目にあったとすれば勇敢に行動したであろうことが真であれば、彼は勇敢だったのだ。」
A「そのとおり。だが、『もしジョーンズが危険な目にあっていたなら勇敢に行動したであろう』ことと『もしジョーンズが危険な目にあっていたなら勇敢に行動しなかっただろう』こととのいずれかが真である必要はない。それは、そのような反実条件法を主張する根拠と見なされる種類の事実をどれだけ多く知ったとしても、それでも、そのいずれか一方を主張する根拠となるようなことは何も知らない、という場面があるかも知れないからだ。」(p26)

どうだろう。このAの主張に賛同されるだろうか。AとBは「危険な場面で勇敢に行動する人を勇敢だとするときに、一度も危険な目に合わずに死んだジョーンズが、勇敢だったか勇敢でなかったかのどちらかだ」と言えるかどうかを討議している。Bは「実際にそういう場面があったら勇敢に行動するかしないかどちらかのはずだから、ジョーンズは勇敢であったか無かったかのどちらかだと言える」とする。それに対してAはこう主張する。本当に危険な場面があったわけじゃないのに、事実に反した場面の条件法を考えるためには、事実の範囲での根拠を集めてきて、「もし~だったら~になるだろう」という予想をする以外にない。たとえばものすごく根拠をいっぱい集めた場合を考えると、もしかするとジョーンズの脳組織と体細胞のすべてを調べ上げて、ジョーンズがどんな状況でどんな行動をするかを詳細に予想できるようになることも想像できる。反実仮想なので、どんなに非現実的でもすごく詳細なデータ集めでも想像できることになる。しかし、どんなに詳細なデータ集めができると想像してみても、それは所詮人間の知力での証明可能性でしかない。だから、ジョーンズは勇敢であっただろうとか勇敢でなかっただろうと、「予想」を立てられるだけで、ジョーンズが勇敢であったかそうでなかったかを「知る」ことはできない。どこまでいっても反実仮想なのだから、勇敢か否かは確実に知ることはできないのである。そうは言っても、「勇敢であった」か「勇敢でなかった」かは言えなくても、「そのどちらかかは言えるだろう」と反論されるかも知れない。しかし、ジョーンズは死ぬまで「勇敢なわけでも勇敢じゃないわけでもなかった」かも知れないのだ。それは、たとえば「勇敢なわけでも勇敢じゃないわけでもない」ようなものが危険な目に合うとその時点で勇敢な行動をすると決定したり、勇敢な行動をしないと決定したりするような状況も考えられるからだ。
是値非値論理の考え方で言うと、この場合、「ジョーンズは勇敢であった」「勇敢ではなかった」の他に「ジョーンズは勇敢であったということは証明できない」「ジョーンズが勇敢でなかったことは証明できない」の4つの言明が言える可能性がある。「ジョーンズは勇敢であった」の正しい否定は「勇敢であったということは証明できない」であって、「勇敢ではなかった」ではないのである。
それゆえ、「ジョーンズは勇敢であったかなかったかのどちらかだ」は必ずしも言えない。ある言明は「真」か「偽」のどちらかだとは、だから言えないのだ。
「われわれはもはや言明の意味を、その言明の真理値をその構成部分の真理値にもとづいて規約し、それによって説明するのではなく、その言明がいつ主張できるか、をそれの構成部分が主張し得る条件にもとづいてきやくすることによって、説明するのである。」(p32)

以上で、ダメットが直観主義を推すわけ、並びに、排中律を否定するわけの説明を終える。
本節の元論文ダメットの「真理」は一見かなり取っつきにくいが、読み込んでみるとすごくユニークで面白い内容で僕もぐいぐい引き込まれた。本節は、できるだけダメットの考えを分かりやすく紹介しようと試みたが、やはり取っつきにくい文章になってしまったかもしれない。うっとおしい文章だと思われたとしても、できれば繰り返しチャレンジして読み返してもらいたい。内容の面白さは抜群であると思う。

次節は、いよいよダメットの反実在論そのものに切り込んでいきたい。

つづく

意味の意味Ⅱ

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コメント

質問です。お願いします。

表2のところで、
「注意すべきは外出しなかったときだが、そのときはコートを着ても着なくても一応命令に従ったことになるだろう。」

一般的な真理表の理解だと思うのですが、素人(私)は既に、ここでつまづくのです。
条件も含めて考えれば、「外出するならコートを着なさい。」という命令は、外出しない場合の命令ではないので、外出しなかったときは、命令に従ったかどうか、判断できないというのが、正しいと思います。ので、「一応命令に従ったことになるだろう。」とは、思えないのです。

それから、表10のところで、
「ただ、図を見れば分かるように是値の否定(のように見えるもの)は必ずしも非値にならず、非値の否定(のように見えるもの)は必ずしも是値にならない。」の図は、どの図でしょうか?

taatooさん、ご質問ありがとうございます。

一つ目の質問に答えます。
条件法の言明には、いわゆる「真理関数条件法」のように前件が偽の時には後件が何になっても無条件で真になってしまう言明と、いわゆる「条件付き賭け」のように前件が偽になった時には言明全体が無効になってしまうような言明があるよねって、いう話ですから、「外出時にはコートを着よ」で考えにくかったなら、仮に、「前件が偽のときは無条件で真になってしまうような条件法があったとすれば」と仮定した話と考えてもらってもいいです。
ただ、まあ、「外出時にはコートを着よ」と言われた子が、コートを見つけられなかったから外出をやめた場合も、約束を守ったと言えるのじゃないかと、僕は思います。また、たとえば、父が子に「あした晴れたらUSJに行く」と言った翌日、雨だったときにUSJに行っても行かなくっても、一応、約束を守ったと言えるのじゃないかと思います。どうでしょう。

二つ目の質問に答えます。
表10のところで「図を見ればわかるように」と書いたところは、
「表8のP→Qの欄と¬(P→Q)の欄で、Yの否定がYになっているように」と書くべきところでした。これで了解してもらえるでしょうか。分かりにくい表現になっていましたので訂正します。ご指摘助かります。

回答ありがとうございます。粗さがしではありませんので、悪しからず。

さらに質問お願いします。

「真理関数条件法」と「条件付き賭け」が、それぞれ独立してあって、使い分けるということですか?

私の印象では、「真理関数条件法」のサンプルに納得したことがありません。だからこそ、ダメットさんの「条件付き賭け」が、必要であり、それで十分なんじゃないかと思うのです。つまり、「真理関数条件法」の必要性が、ないんじゃないかと。

「「外出時にはコートを着よ」と言われた子が、コートを見つけられなかったから外出をやめた場合も、約束を守ったと言えるのじゃないか」は、私も言えると思いますが、ただ、命題として、先のサンプルと別物じゃないんですか。

「たとえば、父が子に「あした晴れたらUSJに行く」と言った翌日、雨だったときにUSJに行っても行かなくっても、一応、約束を守ったと言えるのじゃないかと思います。どうでしょう。」私の納得できないサンプルの一つだということになると思います。

神経質かもしれんせんが、「一応」というのが、まず許せないというか。師匠にはむかうつもりはありませんが、「あした晴れだったら」という契約なのに、「雨だったら」という契約は無効である。これは、世間(素人&私)では常識です。

表10のところの「図」については、了解しました。ありがとうございました。

taatooさん、そうですね。確かに「一応」はうさんくさいですね。

>「真理関数条件法」と「条件付き賭け」が、それぞれ独立してあって、使い分けるということですか?

その通りです。前件が偽になるときに、その言明を真にしてしまうか、無効にしてしまうか、二つの対処が考えられるので、それぞれのパターンを考えてみましょうということです。
「真理関数的条件法」は、実は、「二値論値」を前提にしている論理形態ですから。
taatooさんは「多値論理」を前提にした考察をされているのかもしれませんね。その方がダメットの言い分を了解してもらうのには都合がいいのですが、「真理関数的条件法」は納得いかないかもしれませんね。
ここでは、無理してとりあえず二値論理で考えてみてください。

二値論理上での証明。
PもQも真のとき「P→Q」は真ですよね。
それゆえ、PもQも偽のとき「¬Q→¬P」は真になりますよね。
一方、「P→Q」の対偶は「¬Q→¬P」です。
それゆえ、PもQも偽ならば「¬Q→¬P」も「P→Q」も真になります。
証明終わり。
どうでしょう。こんな話では納得いかないでしょうか。

訂正します。
「真理関数的条件法」と「条件付き賭け」が独立というのは間違いでした。
独立ではなく、重なりあわない関係です。

「のび太が100点とったら逆立ちして町内1周してやるぜ」というジャイアンの言明には「のび太が100点取らなかったら逆立ちして町内1周しなくてもいい。」が含まれていると考えるのが普通の言葉づかいのように思えます。だから、のび太が100点取らなかった場合にジャイアンが逆立ちをしなくてもウソつきとは言われません。ここで二値論理が働くと、ウソつきでないのだから、本当のことを言っていたのだ、ということになります。

回答ありがとうございます。のび太のサンプルとても分かりやすいです。証明も、のび太のサンプルも、対偶の話であり、真理表の4行目の話ですよね。とすれば、4行目は納得できたと思います。

ただ、真理表の3行目には、対偶とは別の違和感があると思います。「のび太が100点取らなかった場合に、ジャイアンが逆立ちして町内一周した。」という場合です。この場合は、逆立ちして町内一周をしたわけですから、結果的には約束が守られたことにはなりますが、違った条件で結果がたまたま同じになったから、約束を守ったことになるでしょうか?結果オ―ライの結果を約束を果たしたというでしょうか?

taatooさん、こういうのはどうでしょう。
ベン図を考えてみます。
()この括弧内がPの真の場合を表し、
<>この括弧内がQの真の場合を表す、
とします。すると、
(2<1)3>4
これが、真理表の1行目から4行目を表します。1が()にも<>にも含まれ、2が()に含まれ<>に含まれないで、3が<>に含まれ()に含まれないで、4が()にも<>にも含まれない。という図です。
で、P→Qというのはベン図でPがQに飲み込まれてしまっている場合のことを言いますよね。つまり、
<(1)3>4
となり、2の要素が無いパターンです。
だから、2の場合だけP→Qが偽になるわけで、
3の、Pが偽で、Qが真の場合も、P→Qは真になると考えられるというわけです。

これも二値論理を前提としなければ、こんな結論は得られないのですが、偽でなければ真であるとすると、こういう結論になってしまいます。

ジャイアンがのび太を虐めていたことを反省して、のび太が100点じゃなかったに、逆立ちして町内を1周した場合、ジャイアンは約束を破ってはいませんよね。そして、約束を果たしたか否かについては、本当なら、約束を果たしたとするゲームでも、約束から外れた状況だから約束を果たした訳でも果たしていない訳でもないとするゲームでもできるはずです。
でもここでは、二値論理を前提としていますので、約束を破ったのでないなら、約束を果たしたと言えることになっちゃうのです。

回答ありがとうございます。高級なマジックを見てるような気分です。ここまで説明頂いたら、納得できないとはならないです。

「ジャイアンがのび太を虐めていたことを反省して...」 ありそうにないけど、いいですね、このサンプル。

真理表が、ゲームのルールの一つに過ぎないというのであれば、了解します。ただ、真理表って、論理学や数学基礎論の原理中の原理みたいなもので、世界の事象に深く関わっているような印象ですが、そういうものなんです、でスタートせざるをえない話が、どうして世界の原理かのように扱われるのかが、不思議です。

それから、真理表は集合論をベースにしているでしょうか?ウットゲンシュタインさんは集合論に批判的だと聞きましたが、真理表にも、そうだったのでしょうか?

数学基礎論と論理学って、同じものだと思ってました。数学と数学基礎論と論理学は、どこがどう違うのでしょうか?集合論は、それらと、どのように関係しているのでしょうか?現代数学は、集合論抜きには成立しないと聞きました。ウイットゲンシュタインさんは、なぜ集合論を嫌ったのでしょうか?

疑問は尽きません。

taatooさん、こんにちは。

数学と論理学はややこしいですね。その統合の話には詳しくありませんので、よく分からないですが、ラッセルは「プリンキピアマテマティカ」でかなり苦労していたらしいです。

集合論は無限を許すのでややこしい問題が起こってくるようです。「論考」のウィトゲンシュタインは二値論理を採っていますが、排中律は認めない反実在論に近い立場でした。そのため、ウィトゲンシュタインは、無限も、無限を含む集合論も認めません。
例えば、円周率の数値の中に7が100万回連続するか否かが決まっているとするのが数学的プラトニズムですが、直観主義はこの答えが初めから決定しているわけではないとします。ところが、「円周率の数値列の中に100万回以上連続している数値の集合」というものを考えると、その要素の中に7の100万回連続があるか否かが決まってしまうことになります。だから、排中律と無限との関係から集合論を認められなくなるわけです。

原理が絶対視されることへの違和感は、新しい理論を生み出す原動力かも知れません。
原理は結局、仮説でしかないものですから、使い勝手が悪ければより良いものに変えればいいのです。二値論理も真理表も二値原理と呼ばれる仮説の案に過ぎません。でも仮説の大元になるものだから大前提とされるのですが、それだけのことです。大前提というとすごく正しそうですが、必ずしもそんなことはないようです。ガリレイの相対性原理は精密には間違っていたのでアインシュタインの相対性原理に改訂されました。

どんどん二値原理と真理表を疑いましょう。ただ、そうするためには古い理論から飛び出さねばならないのでしょうね。

回答ありがとうございます。

つい最近、テレビで粘菌大好きの小学生が出てました。粘菌をケースの中で繁殖させて、それぞれの粘菌に名前をつけてかわいがっているという、ちょっと変わった小学生でした。その小学生のお父さんが、「本人は疑問に対する回答がそれほど重要じゃなくて、次々と生まれる疑問そのものに関心があるようです。」というようなことをおっしゃっていました。

とかく大人とか世間は、すぐに答えを求めがちで、次々生成される不思議そのものを、楽しめなくなっているように思います。そういう意味では、懐疑主義であっても、それを楽しめるくらいであれば、健全なんじゃないかと思いました。

可能ならば、子供のような健全な懐疑主義ってことに、なりそうです。でも、これもまた、大人の結論ですね。

といことで、健全な懐疑主義者による質問です。お願いします。

「「論考」のウィトゲンシュタインは二値論理を採っていますが、排中律は認めない反実在論に近い立場でした。そのため、ウィトゲンシュタインは、無限も、無限を含む集合論も認めません。」は、

「「論考」のウィトゲンシュタインは二値論理を採っていますが、(「論考」以降のウィトゲンシュタインは二値論理を採っていないので、)排中律は認めない反実在論に近い立場でした。そのため、ウィトゲンシュタインは、無限も、無限を含む集合論も認めません。」

( )という理解で、読んでいいでしょうか?


taatooさん、こんにちは。

「ウィトゲンシュタインが二値論理を採っていた」という表現があまり適切でなかったのかもしれません。分かりにくかったですね。
前期ウィトゲンシュタインは、無限や集合論など、真偽に振り分けられないような内容を含んでいる言明をナンセンスな擬似命題として、その言語論から排除しました。真偽に振り分けられないような内容を排除したのだから、残ったものは真偽が決定できてかつ排中律を認めないという内容になりました。これが、「「論考」のウィトゲンシュタインは二値論理を採っていますが、排中律は認めない反実在論に近い立場でした。そのため、ウィトゲンシュタインは、無限も、無限を含む集合論も認めません。」で言いたかったことです。
後期のウィトゲンシュタインは二値論理の立場から外れ、さらに、直観主義論理に近い見解を取ります。ですので、やはり、排中律も、無限も、無限を含む集合論も認めませんでした。

回答ありがとうございます。

すいません。かなり初歩的な質問と思いますが、お願いします。

二値原理と排中律は、同じと思っていましたので、「二値原理は採るが、排中律は認めない。」が、どういう状況なのか、わかりません。そもそも、二値原理と排中律は、どうちがうのでしょうか?

taatooさん、こんにちは。

二値論理と排中律が同一というのは、一般的にはそのとおりですから、「ウィトゲンシュタインが二値論理を採っていた」という僕の表現の方がやはりまずかったかも知れません。
「真偽が決定できる要素命題の組合せによってあらゆる命題が構成され、全ての命題の真偽は要素命題の真偽によって決定する。世界はこのシステムによって全て語り尽くされるので、このシステムから外れる内容はナンセンスな擬似命題でしかなく語り得ない」というのが「論考」の論旨でした。「論考」によると語り得る全ての命題は真偽のいずれかに決定可能ですから、二値論理になっていると表現したのです。
一方、排中律に関して「論考」は語り得ない内容として切り捨てています。「フェルマーの最終定理は真か偽かのいずれかである」はナンセンス擬似命題で有意味ではないとされ、真偽に振り分ける対象から外されてしまいますから、そのことを「排中律を認めていない」と表現しました。しかし、命題ではないとして言語事項から外されたものに対して排中律が当てはまらないと言っていることになりますから、「あらゆる命題が排中律を満たすわけではない」とは違う内容を言っていることになります。だから、僕の「ウィトゲンシュタインが排中律を認めない」という表現の方ががおかしかったとすべきなのかも知れません。
二値論理と排中律を語るのに、それぞれ別々のフィールドで別々の対象について語ってしまったので混乱させてしまいました。

回答ありがとうございます。

二値論理と排中律は、同一じゃないですね。

二値論理は演繹的で、排中律は帰納的。
二値論理は絶対的で、排中律は相対的。
二値論理は公理的で、排中律は定理的。
二値論理は容器で、排中律は中身。
二値論理は語り得るが、排中律は語り得ない。
二値論理は論理で、排中律は律。

でも、一般では同一という不思議。

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