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2014年8月30日 (土)

反実在論者が排中律を拒否できるわけ<意味の意味Ⅱ−5>

ダメット「実在論(1963)」を読む4

xとyの長さが同じであることを測るためにはその測定をする前からそれが真なのか偽なのかその真理値が決まっているものと仮定しなければ測定自体が真偽の意味を持てなくなってしまう。xとyの個数が同じであることをテストするにはそのテストをする前から既にそれが真なのか偽なのか真理値が決まっていると仮定しなければテストが真偽の意味を持てなくなってしまう。何らかの概念が意味を持つためには、その概念が世界と対応しているのかしていないのかが判別できねばならない。概念がそのような意味を持つためにはその真理値が真か偽かのどちらかであると仮定されなければならないのだ。だから、言明が有意になるためには排中律が必要になることになる。
前節で考えたこの考察が正しいのなら、反実在論が排中律を認めないこと自体が間違っていることになるのではないか。本節ではこの問題を考える。

 

この問題を世界了解のファーストステップの問題として考えてみる。
簡単のために、世界にxとyの2つの対象のみがあるとする。自分自身の身体さえ存在しないとするのだ。そして、xとyが同じ長さであるかどうかを調べるのに、その2つを合わせて長さを比べてみる。(自分自身の身体がないのにどうやって2つを合わせるのかなどということを疑問に思ってはいけない。身体なんかなくてもとにかく比べられることにしてしまう。)
で、とりあえず、何の前提も無く、まだ何物でもないxとyだけが存在するという世界を思おう。そして、xとyの長さを比べてみる。xとyが同じ長さであるかどうかを比べたい。でも、長さの概念がまだ定められていないので同じ長さかどうかを比べるということがどういうことなのかが分からない。
だから、長さの概念が分かったことにしてしまおうというすごい認知トリックを持ってくる。つまりそれが、「xとyの長さに関する限りでの比べ方をする」と意図することであり、「xとyがテストをする前から長さについての決まった値を持っている」と仮定することであり、「xとyの長さが同じであるか否かのどちらかである」と仮定することである。これは言いかえれば「長さの概念があると仮定してしまうことによって、とにかく長さの概念があることにしてしまう」という、トリックとも呼べないほどのトリックにしか過ぎない、無茶苦茶なシステムなのだが、これが「長さ」とは何かという語の意味を決定するためのシステムになって、長さの概念ができてしまうという結果が得られることになるのだ。

このトリックによってxとyが同じ長さかどうかが確認できるようになる、とするなら、xとyは同じ長さになると言えることになるのだろうか。また、xとyは常に同じ長さか同じでないかのどちらかであると言うことができるようになるのだろうか。
長さの概念を確定させるために長さについての排中律が必要とされたのだから、「ある物の長さが同じかどうか」を問えるということはその長さが同じか同じでないかのどちらかであるということができるということではないか。

しかし、ここで、「常に」というのが「テストの終わったあとでも」という意味だとしたら、「時間」という新しい物差しを取り入れないといけないことになる。そして、時間概念を導入するのなら、「xとyの長さは同じであるかないかのいずれかである」と仮定していたところを、「xとyの長さは、テストをする時刻t1において同じであるかないかのいずれかである」と言い直さねばならないことになる。そう仮定し直しておいて時刻t1にテストを実施することで、xとyは時刻t1において同じ長さであると確認できることになる。
しかし、時刻t1だけに話を限定するようなそんな面倒な仮定をするのではなく、初めっから「xとyの長さはいつでも常に同じであるか否かのいずれかである」と仮定しておいちゃえばいいのじゃないかという気もする。
そして実際「いかなる時刻でもいかなる対象でも2つの対象が長さを持つならそれは同じ長さか否かである」と仮定してしまうことができると考える人がいる。できると考える人が言語論的実在論者だ。
そして、そんなことはできないと考える人もいる。できないと考えるのが言語論的反実在論者だ。言語論的反実在論者はそんな無限に仮定を広げてはダメだと言う。言論的反実在論者にとって長さが同じか同じでないかを言えるのは、そのテストが行われるその場面に限った「xとyの長さがt1において同じか同じでないかのどちらかだ」と限定された排中律によって確立された長さの概念において、「xとyがt1について同じ長さである」という限定された結論が得られるということになる。そして、t1とはまた別のt2においてxとyが同じ長さかどうかを測るには、その都度いちいちt2においても実在論的仮定をし直すしかないとするのである。
言語論的反実在論者といえども確かに排中律を認めざるを得ない場面もある。しかし、その排中律認定は限定的なものでしかなく、テストから外れるような言明については排中律を認めないままであるとする反実在論の立場を許すのだ。
「xとyの長さは同じであるかないかのいずれかである」という実在論的仮定をしてテストをしたとしても、それが永遠の時間についての仮定で、かつ永遠の時間についてのテストでなければ、「xとyは常に同じ長さか否かのいずれかである」と言うことができないはずなのである。だから、「xとyの長さは同じであるかないかのいずれかである」と仮定したからといって必ずしも永遠の排中律が確定させられてしまうとは限らないのだ。実在論的仮定の一部を認めたからと言って、すべての言明の排中律を認めなければならないことにはならないので、反実在論者は実在論的仮定を認めながら排中律を拒否することができるのだ。

そして、そんな「テストされたときに限定された排中律」なんてややこしいものを持ち込んだりしないで、最初から、「テストをしなくってもAか非Aである」というような限定のない排中律で考えればいいじゃないか、と訴える実在論者に対して、反実在論者は、限定のない排中律を確保できるだけの語の意味そのものを確定させることができない、とする。テストをしたその時点の事態について、「そのテストに関してAか非Aか」という限定した排中律を持ち込むのは、そのテストが為され得たという事実自体がテストが可能であることの根拠になって、可能である。しかし、まだテストが為されていない未来についてはそのテストが可能であるとか限らないのだ。xもyもまだ長さなどという性質を持っていないかもしれないのである。限定されない排中律を認めることは、テストをする前からテストが可能であることを認めてしまうことに他ならないのだ。世界のすべてのものが長さが測れるかどうかがまだ確定されたわけではないのだ。

そして、世界のすべてのものが長さが測れるかどうかがまだ確定されたわけではないということは、即ち、「長さ」という概念が確定されたものではないことを示している。反実在論者にとって、「長さ」の概念というものは、テストが可能だった事柄のみに限って意味のあるものであって、初めっから意味を確定させられているものではないのだ。あらゆる世界記述はその記述を確かめるテストが実施可能である場合に限って、意味を持ち得る。それを初めから、テスト可能だと仮定してしまうのは気が早すぎると、反実在論は考えるのである。それゆえ、反実在論者は限定した排中律のみを認め、テストの可能性に関わらないような、限定されない排中律を認めないのである。

ダメットはこの、テストがそのまま直接世界記述を為しているのか、それとも間接的な記述になっているのかという分類の仕方をして、この問題をさらに考察し、言明の真偽と意味の問題に深く切り込んでいく。それはまた次節で見ていこう。

 

つづく

意味の意味Ⅱ

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コメント

>言語論的反実在論者といえども確かに排中律を認めざるを得ない場面もある。しかし、その排中律認定は限定的なものでしかなく、テストから外れるような言明については排中律を認めないままであるとする反実在論の立場を許すのだ。

ぐっときます。ラインマーカーしたいところですね。

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