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2014年8月26日 (火)

ダメットによるヴァイスマン批判と排中律が必要なわけ<意味の意味Ⅱ-4>

ダメット「実在論(1963)」を読む3

世界了解のためのファーストステップを考える

ダメットは世界を記述するための言語システムの中で実在論的仮定というある種の跳び越え過程が必ず必要になると考えている。そして、ヴァイスマン(Friedrich Waismann1896~1959)によるフレーゲ批判を批判をしながらこの問題を考察している。本節ではこの件について考える。
Waismann_4FregeDumett_3


フレーゲの「同数」の定義に対するヴァイスマンの批判

フレーゲの考えに対するヴァイスマンの批判、に対するダメットの批判、を読むわけで、かなり眉唾の話になってしまうだろうからそのつもりで読まないといけないのだが、なかなか興味深い話だからややこしいのを我慢して読んでもらいたい。
まず俎上に乗るのが、フレーゲによる「同数」の定義だ。「Gと同数のFが存在する」は「FはGに1対1対応しているというものだ。「りんごと梨が同じ数あるっていうのは互いに1つずつ対応させていって余りなく対応させられるっていうことだ」ということ。
これに対して、ヴァイスマンはフレーゲの定義が失敗だと否定する。「同数」の定義に数の概念を持ってきているから循環論法になってしまっているというのだ。その批判は次の3ステップで示されている。
(1)「Gと同数のFが存在する」を「FはGに1対1対応している」と定義することはできない。できたとしても、たかだか「FはGに1対1対応させることができる」を意味することだけ。
(2)その「できる」はどの与えられた文脈でもつねに「~に関する限りできる」と表現し得るものである。「FはGに対応させることができる」とは「FはGに、FとGの個数に関する限りで対応させることができる」を意味し得るのみである。
(3)ゆえに、フレーゲの「同数」の定義は「数」を用いたステップがあるので循環している。
以上が3ステップの大筋だ。少し補足しておこう。
「FはGに1対1対応している」との定義文はおかしい。なぜなら、その対応が現実に起こっていると言う必要はないからだ。「FはGに1対1対応させることができる」と可能であることが言えれば十分のはずだ。でも、その「できる」ってどういう「できる」なのか。「物理的に可能」という意味だろうか?そんなことは無い。りんごが火星にあって、梨が木星にあって実際に物理的に対応させることができなくっても1対1対応させて同数かどうかを測ることはできるはずだからだ。では、「論理的に可能」という意味だろうか?そんなことは無いはずだ。実際にりんごと梨の個数が違っていても論理的に同数であった場合を考えて1対1対応させることが可能であるのだから、論理的に1対1対応が可能であったとしても同数であるとは言えなくなってしまうのだ。結局、「FはGに対応付けることができる」というのは「FはGに、FとGの個数に関する限りの対応付けができる」ということを意味していることになっているだけじゃないのか。そうだとすれば、フレーゲは「同数」を定義するのに「個数」を用いて説明していることになってしまっている。だから、フレーゲは同数の定義に失敗している・・・というのがヴァイスマンの言い分だ。

 

ヴァイスマン論法がダメだとされるわけ

このフレーゲ批判に対して、ダメットは、ヴァイスマンの批判こそが失敗だとしている。しかし、失敗だとしながらも、その論の中には世界了解のステップを見る上ですごく大事な示唆を含んでいるとして、高く評価している。だから、ダメットが考えるヴァイスマンの失敗のわけというのは、論旨を見ていく上であまり重要ではない。だが、蛇足ながらまあ一応見ておこう。
「この論法が誤りであることは、それが任意の物理的関係をあるテストの結果によって説明する場合にも同様に適用できるという事実からも分かる。」(「実在論」「真理という謎」所載p103)
たとえば、「xとyの長さが同じであるとはxとyを余りなく重ね合わすことができるということだ」という「同じ長さ」の定義は問題なくその内容を指し得ている。ところが、この「重ね合わすことができる」というのは「物理的な可能」でも「論理的な可能」でもないのだから、ヴァイスマンの批判が正しいのなら「できる」は「xとyの長さに関する限りできる」を表しているという批判を受けなければならないことになってしまう。そして、「xとyを余りなく重ね合わすことができること」がxとyの長さが同じであることの定義だとするのは循環論法になるので、ダメ定義になってしまう。しかし、そんなわけがない。「xとyを余りなく重ね合わすことができる」は間違いなく正しい定義づけであるから、間違っているのはヴァイスマンの方である。だから、ヴァイスマンの論法は「同数」の定義が循環であることの証明に成功していないとダメットは結論付ける。
どうだろう?
本当に「同数」の説明は循環になってないのかなぁ?
僕にはヴァイスマンが失敗しているとは思えない。
確かに、フレーゲは同数の定義に数の概念を密輸入させてしまっていたということは言えるんじゃないかな・・・と思えるのだが、どうだろう?蛇足だからいいんだけど。

 

語に排中律が必要なわけ

でも、
まあ確かに密輸入は密輸入なんだけど、それは許されない密輸入ではなく。ダメットが言うように、定義ミスにならない密輸入なのではないかとも思える。密輸入してしまうことが正当な定義づけに必要不可欠になるような密輸入であって、そのような「論理の跳び越え」が世界了解のファーストステップには欠かせないのじゃないかとも、僕には考えられるのだ。そのような論理の跳び越えがあるからこそ、言語は言語として有意味な体系を形づくることができるのではないかと、僕には思えてくるのだ。って、この表現、多分伝わらないな。でも、ダメットが言っているのもそーゆーことだと思う。ここはダメットの表現の方が絶対上手で伝わりやすいな。こーゆーもの。少し長めに引用する。
「ヴァイスマンの論法は、テストの手続きを参照することによって『同数の』『同じ長さの』などを説明することに循環があること、の証明には成功してはいない。だがそれは、われわれが通常どこで実在論的な仮定=哲学的正当化が必要な仮定=をしているかというその場所を指し示している。われわれはある対象がある質量をもつとか、二つの対象の長さが等しい、といった言明を為すための基準を、特定の種類のテストに関連付けて決定する。が、そのテストがまだ為されていないときでも、そのような言明は確定した真理値を持つ、と仮定している。つまり、もしそのテストが為されたとしたらその結果はいかなるものであったろうか、という反実条件法的な問いに対して、つねに(しばしばわれわれには知られない)決まった答えが存在する、と仮定しているのである。そのテストはしたがって、われわれがそのテストを実際に行なうかどうかから独立に存在している事態についての、情報を与えるものと見なされている。われわれは質量テストや同じ長さであることのテストを行なうかどうかということから独立に、どの対象も任意の時刻において、ある決まった質量を持つとか、たとえば2枚のカーペットが同じ長さであるかないかのいずれかだ、と仮定しているのである。」(p104)
フレーゲの同数の定義づけには対象のモノが数を対応させ得るようなモノとして存在するという実在論的な仮定がひそんでいるとダメットは言う。そして、その実在論的仮定は、哲学的な正当化のために必要な仮定として、様々な語の定義の際にも現れてくる。「質量」の定義づけが為される場面では、ある対象の質量が測られるテストの前から既に決まった質量値を持っていると仮定されることによって、質量についての有意味な意義付けが為され得ることになる。「長さ」の定義づけが為される場面では、ある対象の長さが測られるテストの前から既に決まった長さの値を持っていると仮定されることによって、そのものの長さについての有意味な意義付けが初めて為され得ることになる。ある対象が、物理的に長くなったり短くなったり重くなったり軽くなったりする変動を実際にしているわけでもないのに、測るたびに長さや重さが変わったり、値が2つ以上出てきたりするモノがあるとしたら、そんなモノが質量の値を持っているとか長さを持っているとか言うことに意味がなくなってくる。語の定義づけは、ふつう、何かのテストに対してどんな結果が得られるかというように、テストと関連づけられるものだが、そのテストが為される前から既に、対象が決まった値を示すものだとして仮定されなければ、その語の概念は意味を持てなくなってしまう。そのため、語に意味を持たせるための必要条件として、言明は確定した真理値を持つと仮定しなければならないのだ。それは、2枚のカーペットが同じ長さであるかないかのいずれかだと仮定することであり、2つの対象が同数であるかないかのいずれかだと仮定することである。
そう考えると、語が意味を持つために排中律と二値論理が必須な考え方だと言えそうだ。語をきちんと意味づけてものを考えるためには、ある意味で排中律は絶対必要になるのだ。

 

でもそんなことを認めればおかしなことにならないか。
もしそれが本当だとすれば、排中律と二値論理を否定する反実在論の方を間違っていると考えなければならないのだろうか。
いや、そうでもない。話はもう少し複雑である。反実在論にとっては、やはり、全ての言明について排中律を認めるということはできない。そして、言明が意味を持てるようにするためには、上に見た理由によって、排中律を認めねばならないのはその通りである。だから、反実在論は困った状況に陥ることになりそうに思える。しかし、何も困らないのだ。この関わり合いについては次節で見ていきたい。

つづく

意味の意味Ⅱ

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