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2014年6月 8日 (日)

サールの志向性<意味の意味8>

サールの志向性論を考える
サールによると、クリプキの「意味の因果説」はサールの志向性論の一環に取り込んで考え得るそうだ。しかし、僕はこの「クリプキ‐サール論争」はサールの視点から見ればクリプキがサールに取り込まれるが、クリプキの視点から見ればサールがクリプキに取り入れられるという、「どっちもどっち論」でしかないのではないかと考えている。そこで、サールの志向性論を見た上で、この論争を総括できるような「メタ意味論」の視点を考えるにはどうすべきかを考えてみる。

 

サールの志向性とは何か

「志向性とは、世界内の対象や事態に向けられ、あるいはそれらに関わり、あるいはそれらについて生じているような、多くの心的状態ないし出来事の特性である」(「志向性」p1)
「いかなる志向的状態もある種の心理状態における表象内容なら成り立っている。志向的状態は発話行為が事態を表象するのと同じ意味で対象や事態を表象する。雨が降っているという私の言明がある事態の表象であるように、雨が降っているという私の信念は同じ事態の表象である。(信念は志向性状態の一つ)」(同p14)
「志向性状態であり得るいくつかの状態の例を挙げる。信じる、恐れる、望む、欲する、愛する、憎む、忌避する、好む、嫌う、疑う、訝る、喜ぶ、得意になる、気落ちする、心配する、誇る、後悔する、悲しむ、嘆く、罪悪感を持つ、歓喜する、苛立つ、困る、受け入れる、許す、敵意を持つ、可愛がる、期待する、怒る、賞賛する、軽蔑する、尊敬する、激怒する、意図する、願う、欲しがる、想像する、空想する、恥じる、肉欲を抱く、うんざりする、怨む、恐れる、嬉しがる、嫌悪する、切望する、面白がる、失望する。」(同p5)
要するに、志向的状態とは、世界内対象の何かに対して某かの状態になるということであり、世界内対象と対峙しているということである。世界内対象と対峙しているからこそ、志向性とは世界を立ち上げるキーポイントになり得るのだ。

 

サールの志向性は形式論的である

そして、サールの説明を見ると彼の志向性は形式論的である。
「充足条件という概念は適合方向の存在する事例の場合にごく一般的に発話行為と志向的状態の双方に当てはまる。たとえば、我々は、言明はそれが真なる時に限って充足されていると言い、命令はそれが順守されている時に限って充足されていると言い、約束はそれが守られた時に限って充足されているなどと言う。ところがこの充足概念は明らかに志向的状態に対しても当てはまる」(同p13)
カント形式論の、印象に対してカテゴリーなどの形式を当てはめることによって世界を立ち上げようとする論説と同タイプの論だという意味で、形式論的だと思うのだ。カントは彼が「印象」と呼ぶ「本質」に対して、「時空間、カテゴリー、法則」などという「形式」を当てはめた。一方、サールは彼が「知覚経験」と呼ぶものに対して「充足条件」なるものが満たされるか否かを確かめることによって、世界が認識可能になるとしている。カントの「印象」が形式なしでは理解不能だったように、サールの「知覚経験」も「充足条件」なしでは理解不能なものである。サールは「志向性」を一種の「心的状態」としているが、結局それは「知覚経験-充足条件」の組合せのことなのである。ただし、サールは知覚経験と充足条件が分割不可能なものだとしているから、「志向性」が形式論的だという見方をサール自身は否定すると思われる。

 

サールの志向性は現象主義的である

また、サールの志向性は感覚与件論的で現象主義的でもあるように見える。志向性論による知覚内容は、知覚とは別の何か形而上学的実在から生じるのではなく、知覚した内容自体を実在の対象だとして把握するものだからだ。しかし、サールは、彼の志向性が感覚与件論的で現象主義的あることも否定する。「視覚経験ないし感覚与件は物的対象の模写ないし表象であるとされる(表象説)」(「志向性」p80)と表象説を定義した上でこう否定する。「感覚与件と物的対象との間に類似を主張するにしてもその対象の項が定義上感覚に与えられないものである以上、両者の間の類似という概念も了解不可能なものとならざるを得ない」(同p80)サールの指摘は、つまり、「感覚与件と類似している別の対象」なるものを想定しようとしても、その想定の根拠は感覚与件にしかないのだったら、「類似している対象」をでっち上げてみても何の意味のないだろうと言うのだ。そして、「その対象は何らかの仕方でまさに感覚与件の集まりに他ならないとされる(現象主義)」(同p80)と現象主義を定義した上で、「現象主義に対する決定的反論は単にそれが独我論に帰してしまうということである。…感覚与件は常に私秘的なのである」(同p81)と言って、現象主義も否定する。
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では、それに対してサールの志向性論はどうちがうと言うのか。サールは、「志向性のネットワークとバックグラウンド」の働きによってであるとする。その働きによって、知覚体験の対象を実在しているとさせることができると言う点で感覚与件論や現象主義と異なるのだ。この捉え方をサールは素朴実在論で直接的実在論で常識的実在論になっていると言って、その構造を次のように説明する。

「視知覚は3つの要素を含んでいる。知覚者と視覚経験と知覚対象である。矢印が視知覚を表現しているということは、視覚経験が志向内容を有すること、すなわち視覚経験は志向対象に向けられており、その思考対象の存在が視覚経験の充足条件の一部になっている(図1)。視覚的幻覚の場合、知覚者は同じ視覚経験をするが志向対象は存在しない(図2)。素朴実在論者に従えば我々が見ているものは決して感覚与件などではない。」(同p78)
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「ある家の正面をそれが一軒の家の正面部であると見做しつつ見るときと、例えば映画のセットのように単なる書割に過ぎないと見做しつつ見るときとの差異を考えてもらいたい。たとえ、両者の光学的刺激は同一であっても、一軒の家を見ていると信じているときには、家の書割を見ているときとは実際に違った見え方をするのである。そして、視覚経験の実際の特性におけるこの差異は充足条件の集合における両者の差異へと反映されることになる。…両者の光学的刺激は同じかもしれないが、後者の場合にはまさにそこに一軒の家があるべきことが充足条件になっているのである。すなわち、私は決して家の書割的正面からその家の存在を推論するのではなく、端的に一軒の家を見るのである。」(同p74)

「志向的状態はもしその位置が他の志向的状態のネットワークの中で、かつまた、それ自体志向的状態でもその充足条件の一部でもない実践活動や前志向的諸仮定をバックグラウンドにして与えられているならば、その充足条件を決定するだけである。それゆえ、あるがままの状態にすぎない。」(同p25)

視覚経験とそれに対する充足条件は、その場の光学的刺激に対しての世界把握システムなのであるが、その場の光学的刺激のみで世界を決定するものなのではなく、それまでに得た様々な判断基準がバックグラウンドとしてあるのだ。そして、その様々な判断基準のネットワークの上に新たな世界把握のための充足条件が規定されることになる。このネットワークとバックグラウンドという、ホーリズム主義的言語ネットワークシステムの中で、充足条件の命題は命題として意味を持つことができるようになるのだ。それゆえ、それは、そのシステム内での存在対象を実在そのものとして表明し得る基準となり、実在世界を立ち上げる方法となるのである。
この志向性的世界観によると、世界はまさに素朴実在論的世界になる。「素朴実在論」とは「われわれが知覚し経験するとおりにものが在り,ものの実在性は知覚し経験するとおりに把握されているとみなす」(世界大百科事典)という実在論である。たとえば、映画「マトリックス」のように、この現実世界だと思っていたものが実はコンピュータのデータによって人類が見さされているヴァーチャル映像に過ぎなかったというような「メタ-リアル世界が実は存在してたのでした」的な場合でも、人類は知覚できるものだけを実在だとできるのである。この現実世界の人間がそんなメタ-リアルを考えることは不可能であるし、人類がそれを考えようとすること自体が無意味なことであるのだから、我々はこの現実世界のみを「リアル」だと考えていいのだし、それが唯一正しい方法なのだ。そういう世界観だからこそ、世界に対峙する心的状態が実在を語り得ることになり、それゆえ、独我論に陥らないことが可能になるのだ。

 

ミュンヒハウゼンのトリレンマに対してへっちゃらなわけ

そして、実はこの、知覚対象のみが実在になり得るとするこの「志向性的世界観」こそが、「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」と「知識のJTB説批判」と「所与の神話批判」に対するサールの答えになっている、と僕は理解している。
まず、「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」は「1.正しさには根拠が必要。2.原理・公理もそれ自体確実ではない。3.根拠づけが循環論になってしまうとその正当化は無効である」の3論点が正しければ、基礎付け主義が不可能になってしまうとする論説であった。これによって、知識の基礎付け主義は否定されるのだが、「志向性的世界観」に乗るとすれば、「私の見たものから立ち上がり得る世界がある」とするの「知識のネットワーク」だけが実在のなのであるから、その正当化が循環論だったとしても全然へっちゃらなのである。まあ、これは、「私の生においての真実であれば、それは十分有意義な真実であり、真に有意義な真である」というぐらいの感覚で捉えた「真なる知識」なのかもしれない。そして、これはその意味で「穏健な基礎付け主義」とも言えるものになっていて、それゆえ、基礎付け主義批判を乗り越えられるものになっている。

 

ゲティア問題にもへっちゃらなわけ

次に、「知識のJTB説批判」だが、これは、「Justified正当化された、True真なる、Belief信念、を知識だとする『知識のJTB説』に対して、ゲティアがこれを否定した問題」であった。「知識はJTBである」と一概にすることができないのだから、JTBを知識だとしていた「穏健な基礎付け主義」においてであっても、その知識を基礎付けることができないことになってしまうというものであった。しかし、サールの「志向性的世界観」においては、この問題もへっちゃらなのである。なぜなら、サールの言う世界の知識は、「True真」である必要がないからである。サールの世界では、自分の知覚経験に関するバックグラウンドとそのネットワークという、ホーリズム主義的言語ネットワークシステムの中で、充足条件の命題は命題として意味を持つことができるようになるのであって、そのホーリズム主義的言語ネットワーク内で意味を持つことが、真であることに他ならないからである。このことを問題のゲティア論文に即して言うなら、どうなるか。ゲティア論文とはこうだった。

『スミスとジョーンズがある就職採用に応募しているとする。そして、スミスは次の命題の論理積について強力な証拠をもっているとする。
(d)「ジョーンズは採用され、かつ、ジョーンズはポケットに10枚の硬貨を持っている。」
スミスの持っている(d)の証拠というのは、ジョーンズが最終的に選択されると会社の社長が請け負ったことにしてもよい。そして、スミスがジョーンズのポケットの硬貨を10分前に数えたことにしてもよい。そして、命題(d)から次の命題を導く。
(e)「採用される人はポケットに10枚の硬貨を持っている。」
スミスが(d)から(e)を演繹したとしよう。そして、強力な証拠を持つ(d)を根拠としてさらに(e)を受け入れたとする。このケースで、スミスは(e)が真であるとする信念をはっきりと正当化している。ところが、さらにこんな想像をしてほしい。スミスは自分で知らなかったのだが、採用されたのは、ジョーズではなく、彼自身だったのだ。そしてまた、スミスは自分で知らなかったのだが、彼はポケットに10枚の硬貨を持っていたのである。これで、スミスが推論のもとにした命題(d)が真でないのに、命題(e)が真になることになる。これはおかしい。このとき、私たちの例示において、次のすべては真である。(1)(e)は真であり、(2)スミスは(e)が真だと信じており、(3)スミスは(d)が真だと信じていることが正当化されている。しかし、(e)が真だということをスミスが知ってはいないことも、同様に明らかである。(e)はスミスのポケットの硬貨の枚数によって真である。しかし、スミスは自分のポケットに何枚の硬貨があるかを知らず、(e)がジョーンズのポケットの硬貨の枚数で決まるという信念を持っており、誰が採用されるか誤って信じているのである。』(エドムント・ゲティア「正当化された真なる信念は知識か?」より)

このゲティア論文の状況においても、サールの志向性的世界観に立つなら、スミスは真なる知識を持ち得ていると言えるのだ。なぜか。「スミスは自分で知らなかったのだが、彼はポケットに10枚の硬貨を持っていた」という世界把握は彼が知らないのだから、彼の知覚経験に関するバックグラウンドとそのネットワークという、ホーリズム主義的言語ネットワークシステムの中で、充足条件の命題は命題として意味を持つことが、あり得ないのだ。「スミスは自分で知らなかったのだが、彼はポケットに10枚の硬貨を持っていた」という状況は、志向性的世界観ではスミスの言語において実在的事実ではないのだ。つまり、サールの言う「真」は、JTBの言う「真」とは違うのだから、JTB説が崩されてもへっちゃらなのである。

 

所与の神話批判にもへっちゃらなわけ

3つ目の「所与の神話批判」についてはどうか。「所与の神話批判」はセラーズによる「感覚与件批判」であった。「1.ある感覚によって印象を持つこと」と「2.どう感じるかについての命題的内容の有る知識を得ること」は全く別の次元の話であるから、「1」から無根拠に「2」を導くことはできないはずなのに、感覚与件論は無根拠に「2」を導き出してしまっている、という批判であった。セラーズの批判はもっともである。私の世界のことを私の言語で語ろうとするときでさえも、言語化の根拠が必要なのである。だから、この批判は、サールの志向性的世界観に対しても真っ向からの批判になっているように見える。まさに「1.知覚経験という非言語的内容」と「2.充足条件という言語的内容」のギャップをサールの論は孕んでいる。しかし、へっちゃらなのである。それは、充足条件という言語的内容が、無制限な公的言語において無制限な意味を持つものではないからである。この充足条件は、知覚者個人の小さな言語においてその小さな言語ゲームの中だけで意味を持つものだからである。知覚者個人の言語とは、知覚者個人の知覚経験に関するバックグラウンドとそのネットワークという、ホーリズム主義的言語ネットワークシステムの中で、充足条件の命題は命題としてはじめて位置を持てるというものであり、この局所的ホーリズムの中での位置だけが命題の意味だとするものだからである。たしかに「知覚経験という非言語的内容」と「充足条件という言語的内容」は全く別のものだが、ホーリズムの中での位置をその意味だと考えると、はっきりと言語化の根拠を持ち得るのだ。

こう考えると、サールの志向性はそれまでの知識論の問題を一挙の解決するような、すばらしいアイデアに思えてくる。ただし、サール自身は「局所性ホーリズム」という表現はしていない。僕の「志向性」の理解に対して、おそらくサールは否定するんじゃないかと疑っている。彼は「志向性」がそんな局所的なホーリズムの中でだけしか意味を持ち得ないものだとは認めないかも知れないと。しかし、彼の「志向性」が本当に問題を乗り越えるためには、局所的ホーリズム内での意味論と理解する以外ないし、彼の「志向性」という書を率直に読むとそう理解する以外ないように、僕は考えている。だから、ここで僕が解説したのは僕の理解した「サールの志向性」でしかないのかも知れない。でも、まあそれを語るしか僕にはできないので、これで勘弁してもらいたい。

ところが、サールの「志向性」をこのように理解すると、サールが批判していたフッサールの「現象主義」とあまり違わないものになってしまっているとも言える。個人的で局所的な言語に頼ることによって、知識を意味あるものとしただけであって、けっこう独我論的でもあるし、サールの言うほどオールマイティーなアイデアとは言えないかも知れない。

それでも、サールはこのすばらしいアイデアに自信を持っていて、クリプキの言う「意味の因果説」もサールの志向性論の中の話でしかないと、豪語する。「クリプキ説は記述説の一形態に過ぎない」と言って、すべての意味論が「志向性」のアイデアによって総括できると考えている。しかし、クリプキとサールの論争は、個人的で局所的な言語の視点に立つとサールが優位になり、公的で一般的な言語の視点に立つとクリプキが優位になるというだけの「どっちもどっち論」でしかないと、僕は考えている。そして、どちらの視点がどれだけの意味を持ち得るかという「メタ意味論」を考えるにはどうするべきかを考えるべきだと考えている。でも、それは、また次節で。

つづく

意味の意味

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コメント

クリプキとサールの論争は、難しいと思ってました。けど、師匠の話だと概観できます。いつも、少し賢くなった気分です。

サールの議論も、志向性なんですね。フッサールにきっと近いですね。カントも認識論の構えは似てると思いますが、カントの場合で、志向性にあたるものは何だと思われますか?カテゴリだけでは、認識はできても、認識の持続は難しいと思います。カテゴリを組合わせていく際に、何か動因が必要と思うのです。言語ゲームの話でもそうです。言語ゲームが持続するあるいは持続させるための力はどこから来るのでしょうか?それとも、そもそも動因の必要はないんでしょうか?あるいは、永遠のオートマティックなのでしょうか?

taatooさん、こんばんは。

認識の持続ですか。それがどういうことを差されているのか、語の意味が掴みきれません。
「昨日の世界の主体たる昨日の私が、昨日見た世界」と「今の世界の主体たる今の私が、今見ている世界」が如何にして同一のものとされるか。・・・というような問いなのでしょうか。

だとしたら、昨日の私と今の私という区別も、感性が時間という形式を当てはめた結果として、後付けで、生じたものではないか、・・・というようなことがお答えになるかと思いますが、そのような回答では的はずれでしょうか。

町が台風で洗われています。熱い日本を必死で冷やそうとしてくれてるみたいです。台風は、学校がお休みのイメージで好きです。亡くなる方もおられるので、不謹慎ですが。

持続も時間というカテゴリに分類されるということですね。私は志向性という概念には、動的な力が含まれているように思うのです。何かを志すとか、何かに向かうとか。カテゴリに分類された結果ではなくて、新たなカテゴリを生んだり、カテゴリとカテゴリを組み合わせたり、書き換えたりする、原動力のようなものは、どこから来るのか?この疑問もカテゴリや言語ゲームに分類されるんでしょうけど。何か力が働かないと、「感性が時間という形式を当てはめる」ことさえできないのではないかと。カントは、カテゴリという道具を手にして、何に向かっていたんでしょうか?

 カントの場合は、カテゴリーの他に「先験的統覚(=自己意識)」という道具立てもあり、それがサールらの志向性に当たるのではないでしょうか?

ウラサキさん、コメントありがとうございます。
taatooさん、大阪は暴風大雨洪水警報がでて、台風らしい空模様になってきました。taatooさんも西日本にお住まいですか。

taatooさんの問いは、カテゴリが概念を生んだり、それが組合わさったりするときに、そのシステムが働くために必要なのが、システムが存在することだけではなく、システムを働かせるための主体性やシステムを働かせるための時間性もあるのじゃないか、・・・という問いだと考えていいですか。
面白そうな問いですね。
一つの答えはウラサキさんのいうように「それは統覚だ」とするものだと思います。発話者・知覚者が発話するときにその主体性は、カテゴリなどの認知システムとは独立のものとして働き得ます。また、その主体性の話は認知対象とは別の次元の話なので、時間性というものを持たない。それでも、その主体が主体として働くためには主体自身が時間性を持つ必要があるように思われるかも知れません。しかし、それは主体を、知らず知らずのうちに客体として見てしまったための勘違いに過ぎないのではないか。・・・というのが、僕の考えです。

どうでしょう。人に納得してもらえるような説明にはなってないでしょうね。あるいは僕がまだtaatooさんの問いを理解し損なって、検討外れな回答をしてしまったでしょうか。

いつもありがとうございます。私の住む町は、海の近くの小さな町です。大阪には、かなり遠いです。ウラサキさんにも、コメント頂きまして恐縮です。

いくら師匠の話でも完全な納得は難しいと思います。師匠がパーフェクトでも人は決してそうではありませんから。ただ、いつも、気まぐれなあつかましい質問につきあって頂いていることに、とても感謝しています。

なるほど先見的統覚ですね。感覚をまとめるアプリオリな主体ですか。時間や持続についての師匠の回答は、わかったように思います。ただ、主体性や時間制はあくまでも結果であり、最初の質問は、その背後にある力のようなものが何かという趣旨のつもりでした。持続の話は余分だったかもしれません。

統覚が認知システムと独立していて、認知システムに働き得るということが、なるほどそういう世界観なんだってことは、わかったように思います。独立しているが、密接な関係があるような感じですか。

統覚は志向性の始点ですよね。志向性を考える時、私はベクトルをイメージするので、終点をどうしても考えてしまいます。フッサールは、終点をエポケーしたけど、カントは終点を見つめていたと思います。カントが見つめていたものは何か。先見的始点からの先見的終点というベクトルは、いったい何から何に向かっているのか?もちろん、単なる勘違いということも、十分考えられます。

taatooさん、こんばんは。

>最初の質問は、その背後にある力のようなものが何かという趣旨のつもり・・・

僕の想像で考えると、それは「世界が存在する」という奇跡でしょうか。あるいはウィトゲンシュタインが「論考」で言っていた「生」でしょうか。しかし、そんなものは結局、私的言語でしかないものでしょうから、何物かが「ある」として言い得たり知り得たりするはずがないものを、「ある」と勘違いしたものでしかないのではないかという気がします。捉まえ得たと思えたとしても、捉まえたものは結局、客体としての、「世界内の私」とすり替わってしまった残滓でしかないのではないかと思えるのです。

>カントが見つめていたものは何か。

この問いはtaatooさんが問われているものが分かりません。カントが見つめていたものは「決して到達することのできない物自体の印象」…ということを問われているのではないのでしょう?

私的言語とか妄想を記述する時は結構気持ちいいのですが、後から読むとかなり恥ずかしいですね。しかし、恥ずかしいことから得られることもあったように思います。

背後にある力というのも、かなり恥ずかしいです。ただ、そんなに深い話ではありません。例えば、パソコンを立ち上げる時、電源を入れます。パソコンのシステムを利用するためには、電力が必要なわけです。認識システムにも、何らかの力が必要じゃないかと。フッサールには志向性という力があるけど、カントには何があるかな、と考えていたという次第です。

分析的明晰性は、確かに快感を伴い、それが力になることあり得るでしょう。ただ、それこそが大いなるトートロジーなんじゃないかと思うのです。トートロジーから抜け出すベクトルがどこかに無いのだろうか。あ、また妄想の世界です。申し訳ありません。

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