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2014年6月22日 (日)

クリプキ‐サールの外在内在どっちもどっち論争<意味の意味9>

クリプキ対サールの外在内在論争

クリプキの言語観では、直示的に名を名指し得る。対象の性質に頼って名の対象を選び出すのではなく、直示的な名指しというものが名指しの本質であるとする。この言語観では、名付けの命名儀式まで因果的に辿っていって、そこで経路となるような言語社会全体が一つの言語を持ち得ることになる。直示的に名指し得るのだから、名の意味は社会的に共有し合うことができ、原則的に言語は社会の言語である。社会が語の意味を持つのであるから、語の意味は個人の頭の中にあるのではなく、個人の知識内容も個人の頭の中身だけで決定できるものでもない。

サールの言語観では、名は対象の性質を提示されることによって意味を持つものであり、それによって初めて名指され得るものであって、直示的な名指しに頼るのではなく、内包によって為される名指しが名指しの本質だとするのである。この言語観では、名の意味はその語を用いる一人一人によって何を指そうとしているのかが示されるものであるのだから、語の意味は個人の頭の中にあると言い切ることができる。また、知識の内容も個人の頭の中だけにあると言い切ることができる。つまり、ここでいう言語の捉え方は、社会で共有されているとは限らず、個々人によって違っている可能性を許すものであり、言語は原則的に個人の言語なのである。

 

クリプキの「直示・因果説」のダメなわけ

サールの立場から見ると、クリプキはずいぶん無茶でダメな意味論を立ち上げているように思える。様々な極限状況を、たとえば、「瞬間転送と私の死」のページで見たような状況を考えたときに、クリプキ説では名指し理論としては全然役に立たないからである。転送装置によって私が私Aと私Bに分裂する場合において、装置に入る前の私が語「私」でもって私と同一のものを名指しているのは、「私A」なのか「私B」なのか、クリプキの固定指示説ではこれを決定することができない。どうしてかと言うと、固定指示という作業が人間の生来的な特性に依るものなのだがそれは想定内の状況にしか対応できないものだからだ。
語「ニクソン」が対象ニクソンを指す。この指示作用がどのように働くのかという仕組みについて、クリプキの理論では、命名儀式で名付けられた「それ」が語の対象であってそれのみが語の基本的意味「外延」である。命名儀式における「それ」が一定時間経過した後における如何なるものと同一であるのかという問いにどう答えるか、その定め方については何一つ示されていない。命名儀式において名付けられた語の対象は、語の対象としていつ如何なる時でも同一の外延を指示することがすでに前提として決まっており、おおよそ人間は、或る時刻に外延が直示されたならば別時刻においてどの対象物がその外延にあたるのかを、人間としての生来的な特性として決定してしまうのである。
生れたときに命名された赤ちゃんは死ぬまで、否、死んでもその名が指示する対象として固定されるというのである。この固定は、だから、理由づけを必要とする固定ではない。端的に固定されるのだ。なぜか知らないけど、理由なんかあるわけじゃなく、端的に、命名された赤ちゃんをその名の下に指示される対象として固定してしまうという芸当を人間は為してしまうものなのだ。
ただし、その「端的な固定」も想定内で常識的な可能性の範囲内でだけの話であって、想定外の状況には対応できない。さっきの転送装置の話などが出てきたら人間はもはや対象を端的に固定できるとは限らなくなってしまう。私が二人になってしまうような、非常識で言語的に想定外の状況では、二人のうちのどちらが「本当」の私なのかという問いに、クリプキの「固定性」は「端的に」答えることができない。
そのような想定外の状況が生じてしまうと、何をもって「私」とするかを決めるためのルールをその場で新しく作って、新しい言語を打ち立てる以外にはない。この新しい言語は語「私」がどんなものであるかという語の内包としての「性質」によって決まるものである。そして、この新しい言語は人間社会がすでに持っている言語とは別のもので、その場で個人個人が「とりあえず」立ち上げる言語でしかないものであって、個人の言語である。また、私が立ち上げた私の言語によって意味を確かめているのだから、語の意味は個人の頭の中にすべての内容があると言える。つまり、これはサールのいう志向的意味理論である。

こう考えると、クリプキの名付け理論は完璧なものだとするには程遠い。想定外の状況が生じるたびに、サール理論のいうように「語が外延を定めるための条件、つまり、内包」が必要になるのだから、サール理論の助けがないとクリプキ理論は成立しないのだ。だから、サールはクリプキ説がサール理論の一形態に過ぎないと結論付ける。

「因果論者の、名の獲得と命名される対象との間に因果的結合が存するとする反論に対して答えるならば、その答えの第一は、名の使用を教えるような種類の因果結合は直接的な志向的因果関係であり、決して外在説的因果関係ではない、ということである。このようなケースにおいて打ち立てられる因果的結合は記述的な因果結合なのである。私が『バクスター』と言うとき、私が言おうとしているのは私がバクスター『として認知する』ことのできる人か、私にバクスター『と紹介された』人か、私がバクスターと命名されているのを『見た』人のことであるが、これらの内のどの場合であろうと『として認知する』『と紹介された』『見た』という言葉が含意している因果的要素は、志向的因果関係である。どの場合でも、その因果条件が、名前と結びついている志向内容の一部を成している。そして、重要なのは、私が言語的記述を行うという事実ではなく、志向内容が存在するという事実である。」(サール「志向性」邦訳p335)

サールは、最初の命名儀式でも、その後で順に名が受け渡されるつなぎ目でも、結局は、その因果結合は志向的なものでなければならないと言う。「私がバクスターとして認知できる人」を「バクスター」という名で他者に伝達するとき、その「サールがバクスターとして認知することのできる人」という志向的充足条件が言語的内包として伝わるのであり、語を伝達された人はその記述的内容をもって「バクスター」の意味をはじめて理解できるのである。志向的充足条件による、語の記述的意味内容の理解があるからこそ語を意味あるものとして共有し、伝達し得たのであるのだから、記述説が成立して初めて因果説が言えるようになるのであって、だから、因果説は記述説の一形態に過ぎないと言えるのだ。そして、語の意味はその語を理解する一人一人が各々の頭の中で理解したものだとしていいのだ。

どうだろう。サールの文書を読むと、尤もだと頷いてしまいたくなる気もする。しかし、サールの言い分が一方的に優位だというわけではない。クリプキの視点に立ってみるとやはり反論がある。それは、直示的にサールと対話者が「バクスター」を名指すときにその対象を内包によって記述しきってしまうことが不可能だという点である。

 

サールの「記述説」のダメなわけ

語「バクスター」が何を指すのか。それは「サールがバクスターとして認知することのできる人」という条件に当てはまる対象だと考えたとして、この充足条件は、充足条件のみでその他は無条件に対象を満たしているか否かを言い得るのだろうか。
そんなことは無いはずである。だって、或る条件「A」から某かの対象を対応させるという規則は、規則のパラドクスによって如何ようにでも解釈可能なはずだからである。条件「A」は対象AにでもBにでも何でも対応させられてしまうのだ。だからと言って「条件『A』は対象Aに対応する」という追加条件を加えてもダメである。追加条件A´は、条件「A」を対象Aに対応させることを意味していると解釈することも、「実は」対象Bに対応させることを意味していると解釈することもでき、やはり如何ようにでも解釈可能になってしまうからである。だから、追加条件を付けたすとすればどこまでも無限に付け足さなくてはならなくなり、しかし、それでもその解釈はどこまでも自由に解釈できることが可能なように、制限がどこまでも後退し、パラドクスが開かれてしまうのだ。
そして、これは、セラーズの「所与の神話批判論」に対応する。つまり、或る感覚所与センスデータがあることと、それが或る文によって表現されることとの間には、果てしない断絶が有るという問題と対応するのだ。「サールがバクスターとして認知することのできる人」という認知条件が立てられることと、対象が指示されて「語」と対象が結合されていることとの間には果てしない断絶があるのであり、或る「語」から或る「対象」が確定的に指示され得るとするような、絶対的な条件付けはできないはずなのである。

 

では、どうすれば、或る語と或る対象を結び付け得るようになるのか。

 

答え、端的に結び付ける以外ない。

 

ルール設定によって指示を確定させることができないのだから、ルールとは別に「何だか知らないけど、何故かそーなってんだよねー。」と、理由づけることなど無視して、端的に結びついていると言い切るしかないのだ。
これは、クリプキ説の直示的結合そのものである。
サール説の、内包による指示も、それを支えているのは、結局のところ、「語」が端的に外延を指示しているという直示的結合なのである。だから、クリプキの視点で言うなら、記述説はクリプキ理論の一形態に過ぎないと言ってしまえるのである。
サールから見ればクリプキ説はサール説の下の一形態に過ぎず、クリプキから見ればサール説はクリプキ説の下の一形態に過ぎない。
この、サール対クリプキの「内在外在論争」はどっちもどっちな論争でしかないのだ。

この論争をきちんと整理するためには、サールからも、クリプキからも一段上に離れた場所から見直す必要がある。たとえば、「言語とは何か」なんていうメタ言語論をさらに考察することがその一方法だろうと、僕は考えていて、デイヴィドソンの意味論などを考察したいと思っている。それについてはまた次節で紹介していこう。

 

つづく

意味の意味

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