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2014年5月11日 (日)

亡き母に花を届け得るか

今日、母の日、亡母に花を捧げていた人をNHKが報じている。

「亡き母に花を届け得るか」
それは有意味な発言で可能だと言う人がいるだろう。
有意味だけど不可能だと言う人もいるだろう。
そんな問いは無意味で不可能に決まっていると言う人もいるだろう。
いやいやそんな問いはナンセンスで可能か不可能か問うことに意味はないと言う人もいるだろう。

どの答えが正当で正しいかということを決めるのは、どの答えを正答とする言語ゲーム上での問いであったかという点にかかっているのではないだろうか。「亡き母に花を届け得るか」というこの問いは、その答えを異にする人同士を違う言語の使い手にしてしまうのではないだろうか。
つまり、そのような言語観に立つとすれば、「亡母に花を届け得る」という人は「亡母に花を届けることが可能である」との前提を有している言語において「亡母に花を届け得る」と言っているのであり、「亡母に花を届け得ない」という人は「亡母に花を届けることが不可能である」との前提を有している言語において「亡母に花を届け得ない」と言っているだけなのだろう。結局、いずれにしてもトートロジーの無意味な発言でしかないのじゃないか。

しかし、そうだとすれば、「生きている他者に花を届け得るか」という問いには有意味に確定した正答があると言えるのだろうか。その問いは有意味で、その答えは「可能だ」とするのが、一般的なのだろうが、だからと言って「生きている他者に花を届けるなんてことは不可能に決まっている」という言語があり得ないとすることが、絶対だとすることもできないだろう。「亡母に花を届け得るか」が有意味か無意味かがどちらが絶対的な答えではないのと同様に「生者に花を届け得るか」という問いに絶対的な答えはないのじゃないだろうか。その二つの問いは同じ地続きのものでしかないのではないか。
そして、この言語観は、「生者に花を届け得るか」という問いがこれに対して「是」と答えても「非」と答えても結局、トートロジーで無意味な問いでしか無い、とするものになってしまう。

この言語観は、すべての言説をトートロジーで無意味にしてしまう。
「今、目の前に赤い花が見えている」のは僕が感じていることを「今、目の前に赤い花が見えている」という表現で表現できる言語で表現しているのだからそれは、やはり偽にはなり得ないトートロジーになってしまう。

しかし、そんな言語観は変だろう。

僕はどこかで間違っているのだろうか。

 

思いつきの言々

大阪哲学同好会へのお誘い

 

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