フォト
無料ブログはココログ

« ストーカーの信念をどう糺せるか | トップページ | 亡き母に花を届け得るか »

2014年5月 6日 (火)

クリプキの「群概念批判」と「指示の因果説」<意味の意味7>

クリプキの群概念批判と指示の因果説を考える。

Kripke
当初は「クリプキの固定指示子と必然‐偶然<意味の意味1>」のページのすぐ後で、ここにくるつもりだったのだが、考察のためのフィールド整備をしようと思ってずいぶん遠回りをしてしまった。少しは状況をはっきりさせることができただろうか。

意味論は、プラトンの「知識のJTB説」にもとづいた基礎付け主義とそれに対する反論に始まり、やがてそれは、内在主義対外在主義の論争に発展した。

 

内在論と記述説

Mill
J.S.ミルの説によると、固有名には内包がなく外延のみがある。一般名には外延がなく内包のみがある。「アリストテレス」という固有名が指すのはアリストテレスその人そのものであって、その人が偉大な哲学者だから「アリストテレス」その人であるわけではなく、アレクサンダーの教師だったから「アリストテレス」その人であったわけではない。アリストテレスを指す内包によってその人が「アリストテレス」であると決定されるのではなく、単に「アリストテレスその人」という外延を指すものとして「アリストテレス」という語があるとする。

Russell Frege
このミルの説に対する反論が、ラッセル・フレーゲの記述説である。ラッセル・フレーゲによれば、ミルが固有名としたものは、単に確定的に一つのものを記述する名辞「確定記述」である。たとえば「アリストテレスがいる」という内容はミル説に従って定式化するとすれば、

「∃a」(「∃」は存在を示し、「a」がアリストテレスを示す)

となる。しかし、それに対し、記述説に従って定式化するなら

「∃x(Ax)」(「A」はそれがアリストテレスであることを示す)

となる。つまり、「或るxが存在して、xはアリストテレスである」ということを示すものである。

(ここでは話を単純化するために「∃x(Ax)」と省略した形で示したが、正しくは「∃x(Ax・(y)(Ay→y=x))」としなければならない。つまり「或るxが存在して、xはAである。そして一方yがAであるならそのyはxに他ならない。つまり、Aであるものは単一のxのみである。」というものである。)

Photo

Putnam
クリプキは、パトナムと同じく外在主義的に語の意味をとらえて、記述説を批判する。

「『アリストテレス』がアレクサンダー大王を教えた男という意味であるとしたら『アリストテレスはアレクサンダー大王の教師だった』と言うことは、単なるトートロジーだろう。…したがって、アレクサンダー大王の教師であることは、その名前の一部ではありえない。この困難からの一般的な抜け道は『名前を特定の記述で置き換えられないのは日常言語の弱点ではない。我々が名前に実際に結びつけているのは記述の集団なのだ』と言うことである。この好例は『哲学探究』の中で家族性類似性が導入され大きな力を振るう箇所にある。」(クリプキ「名指しと必然性」p34)

ある固有名が何らかの内包を持っていて記述説が正しいのなら、その内包の内容を道標として世界中の様々な対象からただ一つの「それ」を見つけ出すことができるはずである。しかし、どんな内包を持ち出してもただ一つの対象に辿りつけないという状況が確かにある。だから、記述説は間違いであるとクリプキは指摘する。そして、その批判に対して「家族的類似性」のアイデアを持ち出すと批判をくぐり抜けられると言うかもしれない・・・として、ウィトゲンシュタインの「家族的類似性」を紹介した上で、さらにこれが記述説擁護にならないことを示す。

Strawson
クリプキが批判するのは、ストローソンPeter Frederick Strawson(1919~2006)によって定式化された「群概念理論」である。「群概念」は内包の集団によって意味を確定させる記述説であり、「家族的類似性」をも含んでいるとクリプキは考えている。(ただし、ここに「家族的類似」のアイデアが含まれるという理解は偏っている、と僕は考えている。本ブログ記事「家族的類似性の基準と徴候≪「探究」を探求する14≫」は、クリプキの批判が「家族的類似」には当てはまらないことの主張でもあるのでできればそちらも参考にしてほしい。)

 

名前の群概念

「名前の群概念理論」は次の6つのテーゼで示される。

(1)あらゆる名前または指示表現「X」に対して、一群の諸性質、すなわち語り手Aが「φX」であると信じるような性質φの集団が対応する。
(2)それらの諸性質のうち一つが、あるいはいくつかが結合して、ある個体をただ一つだけ選び出す、とAは信じている。
(3)もしφのほとんど、あるいは重要なφのほとんどが、唯一の対象yによって満足されるならば、yは「X」の指示対象である。
(4)もし投票が唯一の対象をもたらさないならば、「X」は指示を行わない。
(5)「もしXが存在すれば、Xはφのほとんどを持つ」という言明は、話し手によってアプリオリに知られている。
(6)「もしXが存在すれば、Xはφのほとんどを持つ」という言明は、(話し手の個人言語において)必然的真理を表している。

この6つがストローソンの群概念理論を示すものであるが、クリプキはこの(1)以外はすべて間違っているとする。

テーゼ(1)について
「テーゼ(1)(あらゆる名前または指示表現「X」に対して、一群の諸性質、すなわち語り手Aが「φX」であると信じるような性質φの集団が対応する。)は正しい。ただの定義だからである」(同p74)

テーゼ(2)について
「一般に最初の命名儀式のような稀な事態においてのみ、テーゼ(2)~(5)は真となる」(同p94)
クリプキによるとテーゼ(1)は正しい。しかし、名付けの場面などの特別な事態以外では、テーゼ(2)~(5)も、後で説明されるテーゼ(6)も正しくない。

たとえばテーゼ(2)では、その反証例として次のようなものを挙げている。
「ファインマンの理論の内容を述べて他の物理学者から彼を区別するような能力を持たない、一般の市井の人でも、やはり『ファインマン』という名前を使えるだろう。問われれば『物理学者か何かだ』としか答えられず、その答えによって誰か一人だけを選び出すことができない。それでも、彼は『ファインマン』という名をファインマンの名前として使っている。」(同p96)この、ファインマンの業績を言及することができないがゆえに、ファインマンという人物を特定させることができないような人でも「ファインマン」という名を使えるという事実は、テーゼ(2)(指示表現「X」に対して語り手Aが「φX」であると信じるような諸性質のうち一つが、あるいはいくつかが結合して、ある個体をただ一つだけ選び出す、とAは信じている)を満足せず、テーゼ(2)が偽であることを示している。

テーゼ(3)について
「多くの人が『ペアノ』について知っているのは『ペアノの公理』の発見者だということであろう。しかし、この公理はデデキントによって発見されたのだ。…それゆえ、もしφのほとんどが唯一の対象yによって満足されるならばyはその名前の指示対象である、ということが成り立つとは思われない。それは端的に誤りだと思われる。」(同p102)

テーゼ(4)について
「ファインマンの事例でみたように、投票は唯一の対象をもたらさないことがある」(同p102)しかし、その人でもきちんとファインマンを指示するものとして「ファインマン」という語を使い得る。それゆえ、テーゼ(4)(もし投票が唯一の対象をもたらさないならば、「X」は指示を行わない)は偽である。

テーゼ(5)(6)について
「(3)と(4)がたまたま真であるような場合でさえ、テーゼ(5)の理論が要求するように、典型的な話し手はそれらが真であるとアプリオリの知ることはほとんどない、ということに注意しよう。私は自分のゲーデルに関する〔ゲーデルが不完全性定理を発見したという〕信念は実際に正しいものであり、『シュミット』物語〔実は不完全性定理はゲーデルが発見したのではなくシュミットが発見したものをゲーデルが横取りしただけ〕はただの空想に過ぎない、と考えている。しかし、この信念はとてもアプリオリな知識を構成するものではない」(同p104)

「つまるところ我々は、自分たちがその人物を同定するために使う性質のうち、どれが正しいかを実際に知っているわけではない。」(同p108)
「たとえファインマンを一意的に同定できないとしても、彼はファインマンを指示しているのである。・・・それは、彼が自分の書斎でこっそりと「『ファインマン』によって私はこれこれ云々のことをした男を意味しよう」という儀式を行うことによって確立されたわけではない」(同p109)

だから、「もしXが存在すれば、Xはφのほとんどを持つ」という言明は話し手によってアプリオリに知られたり、話し手の勝手な個人言語によって必然的真理だと表されたりするようなことは、ふつう無いのだ。

テーゼ(2)~(4)は結局、確定記述によってただ一つの対象を選び取れるとする理論「∃x(Ax・(y)(Ay→y=x))」
を示すものになっている。しかし、実際の実用的言語においてはこの確定記述は穴が多いのである。つまり、これらの群概念理論はつまり記述説理論であり、記述説理論であるがゆえに間違いだと、クリプキは言うのだ。

「私が特に否定したいのは、個体はそれが何を意味するにせよ諸性質の束以外の何ものでもないという考えである。もし性質が抽象的対象であるならば諸性質の束はさらに抽象度の高い対象であって、およそ個体ではない。哲学者たちは語った両刀論法を通して、これとは反対の見解に到達した。彼らは、対象は諸性質の束の背後にあるのか、それとも対象はそれらの束以外の何ものでもないのかと問うたのである。どちらでもありはしない。このテーブルは木製で茶色で部屋の中にある、などなど。このテーブルはこれらの性質のすべてを持っているのであり、性質を持たずに性質の背後にあるようなものではない。しかし、だからと言ってそれはその性質の集合または『束』と、またその本質的諸性質の部分集合とも同一視されるべきではない。別の可能世界において、このテーブルをその性質以外にどうやって同定することができるのか、などと尋ねないでもらいたい。私はテーブルを手にしており、それを指すことができる。そして、それは別の部屋にあったかもしれなかったかどうかを問う時、私は定義によってそれについて語っているのである。それは別に望遠鏡で覗いてからそれを同定する必要はない。」(同p60)

 

指示の因果説

そして、クリプキは
「自分たちがその人物を特定するために使う性質のうちどれが正しいのかを実際に我々が知っているわけではなく、それらの性質が唯一の対象を選び出すことを我々が知らないのだとすれば、何が私の使う『キケロ』を彼の名前にするのだろうか。」
と問うて、記述説的な解答の見取り図とクリプキが考える見取り図を示す。

記述説による意味付け見取り図
「記述群理論へと導く見取り図は次のようなものである。ある人が一人きり部屋にいる。他の話し手たちの集団やその他一切のものは消えても構わない。そして「『ゲーデル』によって私は、誰であろうと算術の不完全性を証明した男を意味することにする」と言うことによって、自分自身のために指示対象を決定する。もしそうしたいなら、しても構わない。…だが、我々のほとんどは、そんなことはしていない。」(
同p108)

クリプキが示す名の意味付けの見取り図:
「誰か、例えば一人の赤ん坊が生れたとしよう。その両親は彼をある特定の名前で呼ぶ。両親は彼のことを友人たちに話す。他の人々が彼に会う。様々な種類の会話を通じて、その名前は結節点から結節点へとあたかも鎖のように広がっていく。この連鎖の末端にいて、市場かどこかでたとえばリチャード・ファインマンのことを聞いた話し手は、たとえ最初に誰からファインマンのことを聞いたのか、あるいはいったい誰からファインマンのことを聞いたのかさえ思い出せないとしても、リチャード・ファインマンのことを指示することができるだろう。」(同p108)
「一つの理論としては、おおよそ次のように言えるだろう。最初の『命名儀式(baptism)』が起こる。ここでは、対象は直示によって命名しても構わないし、また名前の指示は記述によって固定しても構わない。名前が「結節点から結節点へと受け渡される」時、名前の受け手はそれを伝えてくれた人と同じ指示でそれを使うことを意図しなくてはならない。」 (同p115)
Photo_2
クリプキの説く意味論はこの「指示の因果説」である。命名儀式から順々に社会の中にその名が伝わっていき、その社会が語の意味を持っていてくれる。だから、話し手がその名のみによって名の対象を特定することができなかったとしても、その社会での名の意味の使われ方を確かめることによって名の対象をはっきりさせることができる。まさしく、語の意味が自分だけではわからなくても社会に確かめればはっきりするのだから、クリプキのこの理論はパトナムの説く「語の言語的分業」とがっちりと組み合って外在論を主張する。

 

指示の因果説によって問題の解決が図れるのか

一般的な語の日常的な用法から見れば、このクリプキらの意味の外在主義は至極当たり前の意味論を語っているように思える。

しかし、語の意味の極限的状況を考え、語の意味のはじっこはどこまで有効なのかを突き止めようとするときに、この理論は全然役に立たないように思える。僕は意味の端の端を突き詰めたいのだ。

クリプキ・パトナムの論は社会が同じ言語を使っていることを前提としている。同じ言語を使っているから、命名儀式から鎖がつながっていろいろな人が同じ言葉を使い得て、自分では特定できないような外延も社会の力を得て特定できることになるのである。しかし、そんな簡単に社会が同じ言語を使えることを前提にしてしまってはいけないのじゃないだろうか。クリプキは「名前の受け手はそれを伝えてくれた人と同じ指示でそれを使うことを意図しなくてはならない」としながらも、それを等しくなるためにはどうなればいいのかを考慮していない。名前の受け手と伝え手が同じ指示対象を指していることを確かめるには、社会の手助けを乞わねばならない。しかし、その社会の言語を認めているということはすでに受け手と伝え手が同じ対象を指していることを受け入れていなければならない。つまり「名前の受け手はそれを伝えてくれた人と同じ指示でそれを使うことを意図しなくてはならない」ことは、ある意味で前提でなければならないのだ。だから、指示の因果説では「社会が語の意味をどうやって持てるか」「自分が語の意味をどうやって確定し得るか」という疑問に対して、ぎりぎりまで突き詰めることができないのだ。

 

群概念批判が成功していないわけ

群概念批判にしても、クリプキは名の意味を定義によって文法的に決めてしまうとするだけで解決を図っているともいえる。結局、指示の因果説によって、指示理論が支えられているだけで、それ以上の論拠はないのだ。指示の因果説が論拠として使えないとすると、この問題は、どうやって指示対象を同定するかについて何も答えてはくれないことになってしまう。たとえば、語「ニクソン」によってニクソンを同定しようとする場合、ラッセル・フレーゲ・サール派の内在論的記述説によれば、様々な世界中の対象物の中から人間でないものを排除し、男性でないものを排除し、アメリカカリフォルニア州で1913年に父フランシスと母ハンナの6人兄弟の第2子として生まれていないものを排除し、アメリカ第37代大統領にならなかったものを排除し、ウォーターゲート事件で失脚しなかったものを排除し、最後に残ったものが該当の対象だと断定できる。これに対し、クリプキ・パトナム派の外在論によれば単に文法的形而上的にニクソンの対象がただ一人だけいて端的に決定できるとするのだ。ではどうやって決定できるのかと聞いてはいけないのだ。このような外在論では、語の意味の同定方法の真偽や正否を云々するだけの論議材料が決定的に欠けているとも言えるだろう。結局、記述説否定を前提として上での群概念否定でしかないのではないだろうか。

 

それでは、サールの説く内在説に頼らなければ、意味の意味の本当の意味は探れないのだろうか。僕はサール説に対しても否定的に考えているのだが、それはまた次節で。

つづく

意味の意味

大阪哲学同好会へのお誘い

twitterはじめました

« ストーカーの信念をどう糺せるか | トップページ | 亡き母に花を届け得るか »

コメント

どうやらアバター下のつぶやきは勝手にニフティへとリンクがついてしまうみたいですね。問い合わせました。笑
でもこのクリックの手間でフォローされないのはもったいない!日本屈指ですよカップ麺さんは!広めたい!
そこで以下のご提案です。
超大~~っきなお世話なので、ご面倒でしたらスルーしてくださいませ。

-----

■ご提案
こんなtwitterリンクボタンをサイドバーに表示させてみませんか?♪
https://jsfiddle.net/8zbx0qab/

■方法

➀:リンクの表示

ブログ管理画面に【サイドバーへのHTML入力はこちら】などの入力欄があれば、そこに上記ご提案の左上の枠の中の3行くらいの文字を全てコピペすれば「twitterはじめました」という文字のリンクが表示されます。


➁:リンクをボタンっぽく表示

ブログ管理画面に【サイドバーへのCSS入力はこちら】などの入力欄があれば、そこに上記ご提案の右上の枠の中の12行くらいの文字を全てコピペすればOKです。(下記12行のことです。)

.tw-link a {
background-color: #1DA1F2;
color: #FFF;
font-weight: bold;
display: inline-block;
border-radius: 5px; /*角を丸いのがイヤならこの行を削除*/
padding: 5px; /*ボタンを大きくしたければこの数字を大きくする*/
}
.tw-link a:hover {
opacity: 0.8;
transition:0.3s
}

SHIROさん、まあ、このご親切たいへんありがたく恐縮しています。

でも残念なことに、パソコンをいじることにも見ることにも分からないことが多く、SHIROさんのせっかくの親切がよく分かっていません。
たぶん、なのですけどniftyとの契約が最も安いタイプのものになっているので、ブログの形式を自分でいじることができないようです。
【サイドバーへのHTML入力はこちら】も【サイドバーへのCSS入力はこちら】も見当たらないのです。
サイドバーに好きなものを貼り付けるには契約をグレードアップしないとだめかもしれません。
でも、せっかくなので、本文に「twitterはじめました」を貼りました。最近の数枚と目次だけですが。サイドバーに貼っておいた方が見てもらえるでしょうが本文最後尾でも無いよりはましでしょう。
ありがとうございました。

とんでもないです。誰がか「本を書くことは社会へのギフトだ」みたいなことを言ってました。こちらのブログもまさにそうです。学び手としてほんの気持ちくらいお返しさせてくださいませ。

ところでコメント欄があっちこっちへ飛んでしまい申し訳ございません。
削除しておいて頂ければ幸いです。m(__)m
こんな余計なコメントでせっかくのブログを汚したくないですww

SHIROさん、もしよろしければ削除せずに置いておかせてもらえませんか。折角教えてもらえたボタンの設定しかたですから、もしかしていつかサイドバーがいじれるようになったときのために残しておきたいです。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/548679/59592018

この記事へのトラックバック一覧です: クリプキの「群概念批判」と「指示の因果説」<意味の意味7>:

« ストーカーの信念をどう糺せるか | トップページ | 亡き母に花を届け得るか »