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2014年5月22日 (木)

言語とはデータのデジタル化システムだ

言語とは何か。辞典を引いてみた。

げん-ご【言語】①人間が音声または文字を用いて事態(思想・感情・意志など)を伝達するために用いる記号体系。また、それを用いる行為。(広辞苑)

うーん、そこまで限定されなきゃならないのかなあ。僕は、もっと広義の意味で言語と非言語のぎりぎりの線引きラインを知りたいんだ。
用いているのが人間じゃないと、それが言語だと言うことは本当に不可能だろうか。否。そんなことはないだろう。宇宙怪獣が日本語を操ることは十分考え得る。いやもっと言語なるものの意味を広げて、犬が尻尾を振るのだって、言語の範疇に入れることができるのじゃないだろうか、と僕は疑っているのだ。
また、用いられるのが音声または文字じゃないと、それが言語だということは不可能だろうか。否。そんなことはないだろう。狼煙だって言語だと言えるだろうし、いや、それより、クジャクが求愛するのだって、言語の範疇に入れることができるのじゃないかと、僕は疑っているのだ。逆に、それがインクの染みとしか判断できないイタリアの幼児にとっては、それが本当の漢字だったとしてもそれは言語ではあり得ないだろう。
それが言語であるか否かの重点は、だから、「人間が用いているかどうか」とか「文字や音声が用いられているかどうか」の方ではなく「事態(思想・感情・意志など)を伝達するために用いる記号体系であるかどうか」という方にあるのだろう。

でも、「事態を伝達するための記号体系」という表現でも、僕はまだ限定されすぎているという気がする。「犬の尻尾が振られる」というようなことでも、言語の本質を有していると僕は思うのだ。広辞苑の前の版では「伝達をするため」だけじゃなく「伝達したり理解したりするため」となっていた。コミュニケーションじゃなくても自分で状況を「判じる」ための記号体系になってさえいれば、それは言語であるとしていたのだ。僕の求めている「言語と非言語を分ける、広義の線引き」の意味では、こちらの方が「言語」の意味に適していると言える。
「状況を判じるための記号体系」。この言語定義で、かなり言語の本質に近づいてきた感じがする。
しかし、言語の本質はその定義の中でも「判じるためのシステム」という側面にあるのじゃないだろうか。「Aか非Aかを判じるためのシステム」が存することが言語のポイントであるのだ。
犬がご主人様に対して尻尾を振るっていうのは、その犬がその眼前に見える対象を、ご主人様として認識していた対象と同一のものであると「判じ」、何物でもなかった対象をご主人様なるデータか否かのいずれかのデータとして決しているということを示している、この点において、この「尻尾振り」は言語の本質を持っている、と言えるのだ。
いくら一般的に有意味な音声だとされる空気の振動であっても、それによって何物もデータとして「判じ」られず、「デジタル化」されなければ、それは言語ではないだろう。
何の文字言語も音声言語も記されていない「映像写真」であっても、それが愛する人が笑っていることを判断させるような内容を持っているとき、それが「判じ」られ、データがデータとしてデジタル化されるのならば、「写真」も言語の本質を持っていると言えるのだ。

「文字であるかどうか」「音声であるかどうか」が言語の本質でないというだけでなく、「コミュニケーションツールであるかどうか」ということさえも言語の本質ではないのだ。
「何らかのデータを0か1かどちらかの値のものとして決し、データをデータとしてデジタル化すること」こそが言語の本質なのだ。
というのが僕の言語観である。

どうだろう。偏った言語観だろうか。

思いつきの言々

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コメント

師匠 お元気ですか?しばらくお休みしていましたが、お久しぶりです。

1と0と言えば、コンピュータのプログラムですね。確かに動画も音楽もパソコン上で楽しめる時代ですし、視覚、聴覚においてそうなのだから、痛みとかの知覚や味覚や臭覚もたぶん機械の上に置きかえることができるようになるのかもしれません。とすれば、センスデータは、全て1と0ということになり、センスデータ=言語ってことになると思います。

ただ、師匠が言う言語は、最初に言語ありきなんですよね。所与じゃなく、言語が与えるというか。

とすると、1と0が何かの形になっていくのに、勝手に形になっていくんでしょうか。何らかのベクトルがないと、形になっていかないような気がするんです。どうでしょうか。

taatooさん、こんにちは。お久しぶりです。お元気でしたか。コメントありがとうございます。

僕が考えている「言語のデジタル化性」というのは、世界の対象をAか非Aかを判じるためのシステムとして働く形式の性質です。世界の対象が「赤い」か「赤くない」かを判じるためのシステムとして、語「赤い」があって、その語「赤い」を当てはめることで世界が「赤い」に対して真か偽かを判じるための物差しが得られるようになる、というものです。
本文の主張は、そういう、当たり前と言えば当たり前の言語観を定式化しようとしたものに過ぎないものですので、taatoodさんがお考えのような、対象と形式が絡まったみたいなものではないと思います。
しかし、自分でもしっかりと理解できているかというと心許ないものでしかありませんので、分かりにくい表現になっていたかもしれません。

ひょんなことから、日本の神様がおもしろくなって、ちょっとハマってました。

師匠の言う「世界の対象」は、主観からのセンスデータですか、客観の確信から来るセンスデータですか、それとも唯物的客観ですか?

taatooさん、神様はあまり知らないのですが、神道とか道祖神とか八百万神とかですか。

僕の言う「世界の対象」は、主観に対する客体です。センスデータと言ってしまうと現象学や還元主義と解釈されてしまいそうで、いやなのですが、それは、私的言語ではない意味での(カントの言葉づかいで言うところの)「印象」にあたるものです。
そして、それを言語ゲームの対象として考えようとするという立場に立ちたいので、それは唯物論的客観とも私的なセンスデータとも違うものになる、と思います。

日本の一番古い文献である古事記に登場する神々の中で、一番最初に登場した神様をご存知ですか?「天之御中主神」です。宇宙の中の主ということでしょうか。日本の神様も、なかなかすごいです。

回答ありがとうございます。あつかましいですが、もう少し。言語から言語ゲームへの展開は、どこが違いますか?あるいは何が加味されますか?主観が複数になるということですか?そして個々の主観に解釈が生まれ、間主観とか、コミュニケーションとかに、つながりますか?


taatooさん、
質問していただいてありがたいです。自分の考えを振り返りまとめる良い機会になります。

以下は、僕が理解している「言語ゲーム」と「言語ゲームが還元主義じゃないわけ」です。僕の言語ゲーム解釈は必ずしも他者とのコミュニケーションを要しないなどとかなり偏った理解ですので眉唾で読んでください。

或る主体Aが「台石」「板石」「梁石」「柱石」という語に対応する石を選び出す場面を考えます。
還元主義的な捉え方では「Aがもっている台石・板石のセンスデータ」にそれぞれ対応する語として語「台石」「板石」があり、世界に台石があるのか板石があるのかをその語が教えてくれます。センスデータを100%語に還元できるとするタイプの還元主義では、語とセンスデータは完全に対応します。一方、言語ゲーム的な捉え方では、「台石」「板石」と言って石を取り上げたときにそれが台石や板石だと判断されてしまったらそれが台石や板石になります。
還元主義と言語ゲームのどこが違うのかと言えば、還元主義では語に先だってセンスデータがありそのセンスデータに対応する語が持ってこられるのに対して、言語ゲームではまず語がありそれに対応する対象が選ばれます。
だから、台石か板石かどっちか判断されていないものがあったときに、そのセンスデータに対応する語を選び出してきてそれを「台石」と名付けるのが還元主義で、その対象を「台石」の範疇に当てはまるものだと判断してそれを「台石」と名付けるのが言語ゲームです。
還元主義では語の意味はセンスデータの中味を指示することになるでしょうが、言語ゲームではどの対象とどの対象が同じ「台石」の範疇に入れられて対処されるかがその意味となります。

どうでしょう。ニュアンスの違い、伝わったでしょうか。

古事記は戦時のナショナリズム高揚に利用されたと聞いていたのであまり近しく感じていなかったのですが、詳しく勉強すると面白そうですね。

回答ありがとうございます。

サンプルが複数になることで意味が生じ、主体とサンプルのキャッチボールで意味が明確になる。

必ずしも他者は必要ではないって、すごいです。

師匠 お元気ですか?しばらくお休みしていましたが、お久しぶりです。
だいぶ前の自分のコメントを読むのは、かなり照れくさいと改めて感じます。
しかし、懲りずに「ベクトル」について。

先日、NHKの「こころの時代」という番組をたまたま見てたら、脳外科の浅野孝雄医師という人が出ていて、ネット検索したら、PDFがあって、だいたいの趣旨が確認できました。

特に「志向性」(ベクトル)のところが興味深くて、今まで現象学の「志向性」より、より深い「志向性」みたいです。終わりのほうでは「言葉」についても触れられていて、ヴィトゲンシュタインの論敵のポパーに好意的なまとめになっていますが、「志向性」については、私にとって、かなりしっくりと語られていりように思います。

ぜひ、師匠にも読んでもらって感想を聞かせてほしいです。お願いします。

www.tci.ac.jp/smj/wp-content/uploads/A-1浅野氏発題原稿.pdf

taatooさん、読みました。というか、きちんと読めずに目を通しただけになりました。
正直なところよくわかりませんでした。
でも、哲学的な思索対象としての「知覚」や「表象」が実験的な研究対象になりえるかもしれないもので、サイエンスと地続きなところにある問題かもしれないという気がして興味深かったです。面白いネタありがとうございました。

ただ、「現象学」の「志向性」を取り入れれば、「表象」と物理的身体の繋がりはもともと語りえるものであるのだから、単に、その応用だと考えれば良いのですよね。
メルロポンティとか難しい話がたくさんでよく分からなかったのですが。

師匠、コメントありがとうございます。いまひとつだったようですね。

私が興味深かったのは、志向性には、2つあるという話です。
①大脳(顕在・人間・理性)の志向性
②脳幹(潜在・動物・本能)の志向性
フッサールは①だけで、メルロ・ポンティは②まで踏み込んでいると見ているようです。

現象学と仏教と脳科学は、物語として親和性が高そうですね。

taatooさん、
とりあえずの感想を書きましたが、正直今まだ、あまりきちんと読めていません。仕事が今きつくて、精神的にも脳の許容量的にも、きちんと読書できる状態ではないので、申し訳ないです。
その「顕在」と「潜在」という視点にはすごく興味があって、それで、ドゥルーズを読もうとしているのですが、それも今ちょっと休止してしまっています。すこし仕事が落ち着いたら、またちゃんと読もうと思っています。

師匠、仕事上、偉くなられたのですか。皮肉ではなく、リアルが充実され何よりです。

大学の哲学の先生とか、羨ましいですよね。ある意味、詐欺のような。

復活こころ待ちにしております。

taatooさん、心配してくださってありがとうございます。
ずいぶん更新できてなくて申し訳ないです。確かに2月は精神的に「エラ」かったのですがようやく少し復活できました。でも、ずっと哲学してなかったわけではなくて、ちょっと手を広げすぎて収集つかなくなってる状態です。デリダからドゥルーズへ興味が移って「差異と反復」を読んでいるのですが、これがたくさんの引用にまみれた本なので、その元ネタを調べならが読まなくちゃならないのです。それで4ヶ月かかって、5章まであるうちのやっと1章が読めたところです。で、今、ドゥルーズを読むために「ツァラトゥストラ」を読んでるところです。

ドゥルーズを軸にして、プラトン、アリストテレス、ライプニッツ、カント、ハイデガー、ニーチェなどを絡めながら、思考を一本の線にしたいというのが、今狙っているところです。膨大な目標を立ててしまったので、ネタをものにするのにまだ時間がかかりそうです。でも、少しずつ進んではいますから、いつかは記事にできると思っています。もう少し(?)お待ちください

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