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2014年4月13日 (日)

パトナムの「双子地球の水」<意味の意味6>

パトナム「『意味』の意味」

パトナムHilary Whitehall Putnam(1926~)の外在主義的意味論を考える。
Putnam_2
パトナムの双子地球の思考実験はかなり有名なのに、それが載っている論文「『意味』の意味」の邦訳はあまり知られていないみたいだ。紀伊國屋書店「パットナム哲学論文集『精神と世界に関する方法』」藤川吉美訳の中に入っているのだが、Wikiでもいろいろな本屋のサイトでも調べても分からなかった。僕も大阪哲学同好会ウラサキさんに教えていただいて初めて邦訳の存在を知った。古くてあまり上手な訳ではないがもう少し知られてもよい本だと思う。かなり興味深くて面白かった。本節ではこの「『意味』の意味 ‘meaning’ of meaning」 を読んでいく。
語の意味に関する論議は、誰かが語の意味を知っているか否かという視点で論じることになるので、知識に関する論とぴったり重なることが多い。パトナム等の説く外在論は、そのため「意味の外在論」とも「知識の外在論」とも呼ばれる。前節までで「JTB論」などの「知識論」を考え、本節では「『意味』の意味」からパトナムの「意味論」を見ていくが、本質は同じ問題であるので了承してもらいたい。

 

 

パトナムの外在論

パトナムは「伝統的意味論」が示す次の2つのドグマの両方が同時に成り立つことはあり得ないとする。
「1.語の意味を知ることは、ある心理状態にあるということである」
「2.語の意味はその外延を決定する」

ある知識を示す心理状態がある語の意味であって、それが同時にある外延を決定することはない…と言うのである。だからつまり、語の外延はその人の頭の中を調べただけで決定することはできないとする論で、意味を頭の外に求めなければならないことになる。それゆえ、「外在論」とか「外在主義」などと呼ばれる。

 

 

双子地球の水

パトナムはこの「意味の外在論」を説明するために「双子地球」というアイデアを提示している。こういうものだ。
「銀河系のどこかに双子地球と呼ばれる惑星があるとする。双子地球はこの地球とそっくりである。実際、人々は英語を話す。自分のドッペルゲンガー(全く自分と同じコピー)がいると考えてほしい。双子地球に住むアメリカ人やカナダ人や英語人と自称する人は英語を話すが、ほんのわずかの相違がある。双子地球での違いは「水」と呼ばれる液体はH2Oではなく、もっと複雑な化学式の別な液体であるということである。この化学式を簡単にXYZと略記することにする。」(パトナム「『意味』の意味」より)
XYZは無色透明で、H2Oのような味がし、渇きをいやし、海を満たし、雨になって降る。見た目においてH2Oと全く区別がつかない。そして、現実の地球上にいるオスカー1と、素粒子まで完全に同一なオスカー2が双子地球上にいる。(オスカー1とオスカー2の脳成分にも水が含まれるはずだから、水の成分がH2OとXYZで違うのなら、オスカー1とオスカー2が同一だなんておかしいという気もするが、そこには目をつむって、人体に水が含まれないということにでもしておこう。)
そして、もし内在主義が正しいのであれば、オスカー1とオスカー2の脳状態が同一である時、この2人の言う「水」は同じ意味を持つはずである。しかし、オスカー1の言う「水」の外延はH2Oであり、オスカー2の言う「水」の外延はXYZであるのだから、この2人の言う「水」の意味は違っている。だから、内在主義が間違いだと分かる。(もちろん、水の分子構造をH2Oだと知っていたり、XYZだと知っていたりすると、この2人の脳状態にわずかな差ができてしまい、完全に同一だとは言えなくなってしまうので、分子構造がまだ明らかにされていなかった1750年ごろまでの時代の話だとする。)
オスカー1とオスカー2の2人とも水の分子のことは知らないけれど、オスカー1の「水」の外延と、オスカー2の「水」の外延が別物なのだから、人の脳状態や心理状態だけで語の外延を決定することはできない…と言うのである。

 

 

双子地球論への疑問

しかし、素直に考えると、このパトナムの論は妙な話だ。2人が水の分子構造をを知らないのなら、(そして、H2OとXYZが分子構造以外の点で全く見分けがつかないくらいそっくりなものであったなら、)オスカー1にXYZを見せてもそれを「水」だと言うだろうし、オスカー2にH2Oを見せてもそれを「水」だと言うだろう。だから、オスカー1の「水」の外延を直ちにH2Oのみだとしたり、オスカー2の「水」の外延を直ちにXYZのみだとすることはできないのではないか、という疑問が起こる。
この疑問に対して、パトナムは3つの答え方をしている。
1つ目が「語の言語的分業」、2つ目が「語の文脈依存性」、3つ目が「オスカーが分子構造を教えられたなら『水』をH2Oだと判断するだろう」という予想である。

 

 

言語的分業

1つ目の「語の言語的分業」はこういう話だ。
パトナムは自分で「ニレ」と「ブナ」の区別の仕方を知らないと言う。
Photo ニレ  Photo_2 ブナ

でも、パトナムの言う「ニレ」の外延はニレそのものであり、彼の言う「ブナ」の外延はブナそのものであって、完全に「ニレ」と「ブナ」の2語は別のものを指している。パトナム自身の目の前にブナを示されて「ニレ」だと言われたとしてもそれが嘘だと分からないのだが、パトナムにとってそれはやはり「嘘」なのである。自分で見分けて区別することができなくても、パトナムにとって「ニレ」はニレ、「ブナ」はブナなのである。
「<言語的分業仮説>ある語に結びついた『判定基準』がその語を習得している一部の話者のみに知られており、他の話者がその語を使用するには一部の専門家の組織的協力にもとづかねばならないような語を、どの言語社会も所有している。」(パトナム「『意味』の意味」より)
自分ではニレとブナが見分けられなかったとしても、自分が所属している社会の中にその専門家がいて見分けてくれるのなら、「ニレ」がニレを意味し、「ブナ」がブナを意味するとすることができるのだ。だから、双子地球の話でも、実在の地球のオスカー1が水分子について何も知らなくても、後世の専門家が見分けてくれるのであれば、オスカー1の「水」がH2Oを指すことになり得るのだ…とパトナムは言う。

 

 

語の文脈依存性

2つ目の論拠「文脈依存性」についてパトナムはクリプキの固定指示子のアイデアを使って説明している。
実在の地球にH2Oが水として存在し、想像上の可能世界の地球にXYZが水として存在していると考えてみる。この場合で、実在の地球にいるオスカー1が「水」と言えばその語はH2Oを指していると考えられる。実在の水がH2Oだからだ。この例からパトナムは、様々な語が、文脈によって外延を変える性質「文脈依存性indexicality」をもつとする。
「私」「今」「ここ」のような語はその言葉だけでは外延を決定することができない。横山信幸が2014年4月13日にブログ「独今論者のカップ麺」上で「私が今ここに書いた文」と言えば「私」は「横山信幸」を、「今」は「2014年4月13日」を、「ここ」は「独今論者のカップ麺」を指す。このように語が語られる場の状況によって、外延の中身が左右されるので、「私」「今」「ここ」などの代名詞などは文脈に依存していると言われる。
ところが、この文脈依存性は代名詞だけでなく一般名詞にもあるとパトナムは言う。
現実世界でオスカー1が「水」と言えば「H2O」を指し、別の可能世界でオスカー2が「水」と言えば「XYZ]を指すというように、どんな語もそれが固定指示子であれば、外延は必然的に文脈に依存するのである。
それゆえ、語の意味はそれを語る人の頭の中だけで決められるものではないのだ…とパトナムは言う。

 

別視点で何を言おうとしていたのかを振り返る

そして、分子構造を知らないオスカー1の言う「水」がなぜH2Oを指すのかという疑問に対する3つ目のポイントは、オスカー1の言おうとしていた「水」とはH2Oのことであろうということが、オスカー以外の視点から見て言えるのであれば、その「水」はすなわちH2Oを指していたのだということができる、ということである。つまり、オスカー1が後から「水とはH2Oのことであった」ということを教えられたときに、自分が言おうとしていた「水」がH2Oだったと判断するのだったら、そこから遡って、オスカー1はH2Oを知らなかったとしても「水」でH2Oを指していたと言える、ということである。
たとえば、パトナムはアルブリットン(1923~2002)という哲学者が考案したSF話を例に挙げている。すべての鉛筆が実は有機体で、電子顕微鏡で見ると神経や諸器官が発見され、卵を産むことが知られたとしよう。実に馬鹿げた空想であるが、論理的に可能な話ではある。この話で、鉛筆が実は有機体だということが後から分かったからと言って、それが判明する前に誰かが言った「鉛筆」という語が「生きている鉛筆」という意味だったかと言えばそうでは無いはずだ。鉛筆が実は生き物だったということを聞いても、その人は「生き物としての鉛筆」を指示しようとしていたとは認めないだろうからだ。彼が指示しようとしていたのは「無機物としての鉛筆」でしかなかったのだから、それが実は生きていたということが判明しても、「鉛筆として通っていたものは実は鉛筆ではなかった」というような言い方をすることになるはずなのだ。

そう考えると、語の意味はそれを語っている人の心理状態と、実際に外延として指示されているものの、両方を調べないとはっきりさせることができないと言える。

 

 

意味の4構成要素

そこで、パトナムは、語の意味を決定させるための4つの要素を挙げている。
「語の意味の構成要素には次のものが確実に含まれていなければならない。
1.統語論的マーカー
2.意味論的マーカー
3.(もしあれば)ステレオタイプ
4.外延」 (「『意味』の意味」より)

1.の統語論的マーカーとは構文的な分別の標識で、たとえば「抽象名詞」とか「形容詞」などの構文上の品詞などのこと。

2.の意味論的マーカーとは意味を分別する標識で、意味論的にカテゴライズするような分類記述である。たとえば、「動物」とか「期間」などのカテゴリーを示す。

3.のステレオタイプとはその語に対する固定観念である。「ステレオタイプとは、Xは何に見えて、何のように行動し、何であるか、に関する規約的概念である。」たとえば、「虎」のステレオタイプは「縞模様がある」とか「4本足である」などというもの。ここで注意すべきは、意味マーカーが確実に真であることを要求するのに対して、ステレオタイプは思い込み的な固定観念であるがゆえに絶対的な規約ではない。虎が「虎」の意味マーカーの「動物」でなくなってしまったら、それはもはや「虎」では無くなってしまうが、虎が「虎」のステレオタイプの「縞模様」が失くなってしまっても、「4本足」で無くなっても、単にホワイトタイガーになったり3本足の虎になったりするだけで、やはり「虎」であり得る。
それゆえ、ステレオタイプには「もしあれば」という注釈が付いているのである。

これらの意味の構成要素、1.2.3.は、話者の頭の中の概念によって決まるものである。しかし、その内在論的な要素だけではダメだとするのが、双子地球の話である。そのため、4つ目の構成要素、「外延」が必要になるのだ。

たとえば、
「水」の意味の4要素は、
1.統語論的マーカー:物質名詞、具象名詞
2.意味論的マーカー:液体
3.ステレオタイプ:無色透明、無味、渇きをいやす…
4.外延:H2O

等のようになって、この4つが総じて「水」の意味になるのだ。

この4つの要素がそろってはじめて語は意味を持つことができるのだ。
そして、だから、「語の意味を知ることがある心理状態であり、かつ、語の意味はその外延を決定できる」という伝統的意味論は否定されることになる。意味は人の頭の中にあるわけでは無いのだ…とパトナムは説く。

パトナムは至極あたりまえの意味論を説いているようにも思える。しかし、僕はこのパトナムの説は根本的に間違っていると考えている。どこが間違っているのか、サールによる批判とともに、次節以降で考えていきたい。

 

 

「パットナム哲学論文集『精神と世界に関する方法』」は面白くお勧めの著作であった。しかし、訳が古くさかった。固定指示の「固定性rigidity」は「厳格さ」と訳しているし、「ステレオタイプstereotype」は「規格型」、「文脈依存性indexicality」は「指標性」と今はあまり使われていない訳語で訳してあるので注意が必要だった。

また、クワインの「求心性centrality(中心性?)」の話も出てくるのだが、クワインの求心性なるものが分からなくて、僕は理解できなかった。もしご存知の方がいれば教えてください。

つづく

意味の意味

大阪哲学同好会へのお誘い

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