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2014年3月20日 (木)

穏健な基礎付け主義とゲティア問題<意味の意味4>

穏健な基礎付け主義と、ゲティア問題によるその否定を考える。

 

穏健な基礎付け主義

基礎付け主義とは、知識の正当化を図って根拠づけることによって正当な知識を得ようとする考え方であった。基礎付け主義の中でも特に演繹的推論によって、正当化を根拠づけようとする試み方を古典的基礎付け主義という。
前節では、ミュンヒハウゼンのトリレンマと演繹情報量非増加の原理によって、この古典的基礎付け主義が否定されたところをみた。(くりかえし断っておくが、「演繹情報量非増加の原理」なんて名称はその原理の名前を知らない僕が急遽でっち上げたものだから、他では通用しない。他言しないように。)

基礎付け主義者が、このミュンヒハウゼンのトリレンマと演繹情報量非増加の原理の批判をすり抜けることは、できないのだろうか。できるのである。たとえば、推論は帰納によるもので良いことにすれば良いのだ。だって、ミュンヒハウゼンのトリレンマも、演繹情報縮小の原理も、演繹によって推論されることを前提とした批判だからだ。演繹ほど条件がきつくなくて、緩い推論でも許されることにすると、情報量を推論のたびに減らさなくてもよくなるし、根拠を求めて無限の遡行をしようしなくても良くなったり、絶対根源の基礎根拠なるものを掲げることだってできるようになったりするかもしれない。
そこで、演繹より「緩い」推論条件でもOKすることにして、ミュンヒハウゼンのトリレンマや演繹情報量非増加の原理をすり抜けようとしたのが、「穏健な基礎付け主義」だ。
戸田山和久は「知識の哲学」で「穏健な基礎付け主義」を次のように紹介している。

【穏健な基礎付け主義】基礎的信念は、不可謬である必要はない。他の信念による推論的な正当化以外の仕方で、他の信念を正当化できる程度に正当化されているような信念が、正当化の遡行プロセスを打ち切って他の信念を基礎付ける。このような条件を満たす基礎的信念があるという考え方を穏健な基礎付け主義という。(知識の哲学p40)

つまり、すべての根拠となる基礎的な信念というものだって、絶対確実なものでなくてもいい。他の信念を正当化できる程度の正当性があれば大丈夫ということにしよう、と言うのだ。「絶対」の正当性でなくても「多分、大丈夫」の正当性で良しとする。だから、演繹的な推論でなくて、帰納的推論でも認められることになる。
演繹的推論では、例えば、

<前提「AならばB」と「A」から、結論「B」が得られる。>

という推論がある。この推論では、前提より結論の方が情報量が大きくなることはあり得ない。正当性は完璧だけれど、その正当化作業はどこまでも遡行しなくちゃあいけない。
ところが、帰納的推論では、例えば、

<前提「a1はP」と「a2はP」から、結論「すべてのaはP」が得られる。>
<前提「aはP」と「bはaと似ている」から結論「bはP」が得られる。>
<前提「a」と「Hと仮定すると、aがうまく説明される」から結論「H」が得られる。>

などという推論がある。これらの推論では正当性は不十分なものでしかない。必ずしも結論が正しいとは限らない。ところが、情報量は前提よりも結論の方が大きくなることもあり得る。だから、「絶対正しい」というような完全な判断を諦め、「多分正しい」という不十分な正当性で良しとする代わりに、世界に関する様々な情報を紡ぎだすことができるようになるのだ。それ以上のことを望んでも仕方がないのだから、それで十分としなければならないし、不十分な正当性でも結構使える正当性なのだ・・・と穏健な基礎付け主義者たちは考えた。

こうして、この穏健な基礎付け主義の立場をとるなら、ミュンヒハウゼンのトリレンマと演繹情報縮小の原理の批判をかわせることになる。ラッセルなどがこの方法を取ろうとした。

 

ゲティア問題

しかし、ダメだったのである。
ゲティア問題によって、JTB説と、穏健な基礎付け主義もろとも基礎付け主義が否定されることになるのだ。
ゲティア問題とは、エドムント・ゲティア(1927~)の論文「正当化された真なる信念は知識か?」によって、JTB説への反例が示されたことに関する論議である。
Gettier
JTBとはこうであった。

(J)Justifiedその命題を信じる人が真実に足る理由を持つ(信念が正当化されている)
(T)Trueその命題が真である
(B)Beliefその命題が信じられている
このJTBが(J)かつ(T)かつ(B)の場合に、そして、その場合に限り、その命題は知識となる。

ゲティアは、このJTB説の知識の捉え方を否定する。この「JかつTかつBの場合に、知識を持っている」という命題が、真になるとは限らないという反例を挙げたのだ。

(反例Ⅰ)
スミスとジョーンズがある就職採用に応募しているとする。そして、スミスは次の命題の論理積について強力な証拠をもっているとする。

(d)「ジョーンズは採用され、かつ、ジョーンズはポケットに10枚の硬貨を持っている。」

スミスの持っている(d)の証拠というのは、ジョーンズが最終的に選択されると会社の社長が請け負ったことにしてもよい。そして、スミスがジョーンズのポケットの硬貨を10分前に数えたことにしてもよい。そして、命題(d)から次の命題を導く。

(e)「採用される人はポケットに10枚の硬貨を持っている。」

スミスが(d)から(e)を演繹したとしよう。そして、強力な証拠を持つ(d)を根拠としてさらに(e)を受け入れたとする。このケースで、スミスは(e)が真であるとする信念をはっきりと正当化している。ところが、さらにこんな想像をしてほしい。スミスは自分で知らなかったのだが、採用されたのは、ジョーズではなく、彼自身だったのだ。そしてまた、スミスは自分で知らなかったのだが、彼はポケットに10枚の硬貨を持っていたのである。これで、スミスが推論のもとにした命題(d)が真でないのに、命題(e)が真になることになる。これはおかしい。このとき、私たちの例示において、次のすべては真である。(1)(e)は真であり、(2)スミスは(e)が真だと信じており、(3)スミスは(d)が真だと信じていることが正当化されている。しかし、(e)が真だということをスミスが知ってはいないことも、同様に明らかである。(e)はスミスのポケットの硬貨の枚数によって真である。しかし、スミスは自分のポケットに何枚の硬貨があるかを知らず、(e)がジョーンズのポケットの硬貨の枚数で決まるという信念を持っており、誰が採用されるか誤って信じているのである。(エドムント・ゲティア「正当化された真なる信念は知識か?」より)

「正当化された真なる信念は知識か?全訳.pdf」をダウンロード

上の例で、スミスは完全に「J正当化された、T真なる、B信念」を持っている。だから、JTBの定義からするとスミスは(e)の「採用される人はポケットに10枚の硬貨を持っている」を知っていることにして良いはずである。しかし、スミスは(e)の意味を誤解しているので、どう考えても「知っている」とするには無理がある。スミスの推論にはミスは無い。しかし、その結論を知っていることにならないのだ。ということは、JTBの方がおかしいと言うことだ。やはり、JTBは間違っていたのだ。
このことから、知識は「正当化された真なる信念」であるとは限らない、と結論付けられるだろう。

そうすると、JTBもろとも「基礎付け主義」も一緒くたに破壊されてしまう。なぜなら、基礎付け主義はJTBの上に打ち建てられた楼閣だからだ。だって、演繹的推論によって基礎付けようとした古典的基礎付け主義も、演繹的推論では条件が厳しすぎて基礎付けられなかったから帰納的推論によって基礎付けしようとした穏健な基礎付け主義も、その推論によって正当化を図ろうとしたものだったからだ。そうやって頑張って工夫して正当化を図ったところで「正当化された真なる信念」が知識だとは限らないのだ。頑張っても知識につながるとは限らない「意味のない基礎づけ」でしかなかったのだ。

ここで否定された基礎付け主義はJTB説によって知識を考えていた。JTBは個人がどのように知識と向き合うかという視点で考えるので、個人の頭の中で知識を捉えようとする立場に近い。知識が個人の頭の中にあるとする立場を「内在論」と言うが、JTBが否定されたことによって、「内在論」も至極きびしい立場に追いやられることになってしまった。
この点については、次節で詳しく考えたい。

つづく

意味の意味

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コメント

Justified True Belief

正当化がうまくいった、真だと思い込もうとしている信念、ということですね。
正当化がうまくいっても、真だと思い込もうとしても、信念はしょせん信念にすぎない。

Justified True Love

真実の愛なら、正当化する必要ないし、正当化するから嘘くさくなる。

信念にも愛にも、理由はいらないのだ。 とか。


taatooさん、コメントありがとうございます。

taatooさんのコメントには愛を感じて本当にたいへん嬉しく思っています。でも、愛の意味ってどうやって人から人へ正しく伝わるのか、不思議で凄く興味深い言葉ですね。本当に僕は愛の意味を知っているのかな、とかね。でもそう考えると、正当化しなくてどうやって意味を掴むのだろうって、さらに不思議になります。

さて、「正当化がうまくいった、真だと思い込もうとしている信念」というtaatooさんのJTB解釈は、JTBのうちのTがJに含まれるとする解釈なのではないかと思います。実は、その解釈に僕も賛同する気持ちが強いのですが、議論のために少し反論を考えてみました。

本節で取り上げたゲティア論文で次のような一文があります。「it is possible for a person to be justified in believing a proposition that is in fact false.(実際には偽であるような命題に対する信念の正当化が、ある人にとって可能である)」(この訳でどこまで正しいか心許ないのですが、ゲティアは多分そんなことを言ってます。)
つまり、ある人がAという事柄について、十分に証拠が揃っていてしっかり正当化できていた信念があった状況だったのに、後からそれが間違ってたということがあり得て、後からの視点で「あの時、私はAについて知っていたとは言えないよね」って言えるということです。TがJに含まれるとしてしまうと、これが言えなくなってしまうので、困ったことになる・・・ように思います。

どう思われますか。

なるほどです。私は、JはBにかかり、TはBにかかったと考えても、句として一体になっているので、JがTBにかかったと考えるのと、そんなに変わらないと考えていました。それよりも、BにJやTという形容詞をつけることに違和感を感じて、BeliefとLoveを変えてみたら面白かった、くらいです。

ただ、「it is possible for a person to be justified in believing a proposition that is in fact false.」で思ったのは、「be justified」の主格は、「a person」です。つまり、Jされるのは、Bではなく、「a person」だということだと思います。となると、「誤った命題を信じている人を正当化することは可能である。」つまり「誤った命題を信じている人を許しあげてもいいんじゃないの。」くらいの意味になるんじゃないでしょうか。

全体の文章の文脈の中での整合性を確認する必要はあると思いますが。


「it is possible for a person to be justified in believing a proposition that is in fact false.」は文脈から言うと、「誤った命題を信じている人を許しあげてもいいんじゃないの」という意味とは考えにくいです。この文章、けっこう長かったので一部分を取り出したのです。関連の文はこうです。
原文
「I shall begin by noting two points. First, in that sense of 'justified' in which S's being justified in believing P is necessary condition of S's knowing that P, it is possible for a person to be justified in believing a proposition that is in fact false. Secondly,・・・」

僕の訳
「私は次の2点に注目するところから始めなければならない。1つ目は「正当化」の意味についてである。SのPに対する信念を正当化することがSのPを知っていることの必要条件であるということについての、正当化の意味であり、実際には偽であるような命題に対する信念の正当化が、ある人にとって可能であるような場合の、正当化の意味である。2つ目は・・・」

ずいぶん意訳です。でも、内容はそれほどずれていないかと思っていたのですが、どうでしょう。でも、語学はホント苦手で自信がありません。

「誤った命題を信じている人を許しあげてもいいんじゃないの。」は、明らかに誤訳です。
「誤った命題を信じている人を正当化することは可能である。」は、文法的には正しいと思うんですけどね。

師匠の訳と変わらないと思いますが、再度、意訳してみました。
『ある命題が誤っていたとしても、人がその命題を信じるに「値する理由がある」とすることは、ありうることだ。』
どうでしょうか。ダメかな~。

久しぶりの英文解釈。けっこう楽しかったです。

それから、最初の師匠の疑問ですが、句としては解りにくいですが、文としては明らかにfalseはbelievingにかかり、believingはa personにかかります。また、be justifiedも
a personにかかります。つまり、a personを媒介にして並列にかかっているので、句としてのJustified True Beliefも、それに準じて考えるべきなのではないかと思います。

本当の愛と偽りに愛以外に、本当とか偽りとかと無関係な愛があると、信じたいです。

taatooさん、

後から偽だと判明した命題について「あの命題を知っているって言ってたのは間違いだった」と言えなくなるから、知識の3条件JTBのうち、「真である」と「正当化されている」を一つにしてどちらかをどちらかに含意させる訳にはいかない。・・・という論点について

taatooさんはこれに合意されますか。僕の訳の具合には興味をもってもらえたようですが、この点についてはあまり興味を持たれなかったでしょうか。

僕は自分で説いておきながら、この主張には反対です。taatooさんの言われていた「真だと思い込もうとする」、と「実際に真である」は、その命題が偽だと判明した後からの視点がないと判別できないからです。その命題が「真である」というのと「正当化されている」の2視点を、その時点において峻別することができないのなら、「真である」などという条件はいつまでたっても、今の言明内容を知っているか否かを判別する基準にはなりえないと思われます。
つまり、後から間違いだったという場合のことは考えないで、JとTは同じ条件と捉える以外ないんじゃないかということを主張したいと考えています。そうすると、今の自分の「知っている」についての言葉遣いと、後からその命題が偽だと判明した時点の自分の言葉遣いに、整合性が欠けることになってしまいますが、言葉なんてそんなものだと、諦めるよりほかに仕方ないのではないかと考えています。

僕の引っ掛かっている点を、わかってもらえるでしょうか。

私の句に対する疑問は、文にa person を見つけた時点で、解消されました。
justified が、believingではなく、a person にかかるということ。
うまく言えませんが、このことは私にとっては、文法上の問題以上に重要に思えます。
この私のポイントと師匠の論点が、つながっているのではという怪しい直観でした。


師匠の論点は、J(相対的)とT(絶対的)という話であり、J(実在論)とT(独我論)という話でもあるということでいいのでしょうか?

そして、JとTはBを形容する。

言葉という砂でできた楼閣。それでも、人は砂場で何回も何回も楼閣を作る。

後からの視点を考えないということは、独今論的な話になりますか?

基本的に私は師匠の思考を支持しています。

ご支持ありがとうございます。

>師匠の論点は、J(相対的)とT(絶対的)という話であり、J(実在論)とT(独我論)という話でもあるということでいいのでしょうか?

相対的絶対的、実在論的独我論的という理解が当てはまるというのはおっしゃる通りだと思います。ただ僕の感覚では、Jの方が独我論的で、Tの方が実在論的に感じます。大差ないことですが。

>後からの視点を考えないということは、独今論的な話になりますか?

もしかするとそうなのかもしれませんが、独今論は僕の念頭にはありませんでした。それより、その場その場の場当たり的で即時的な働きが言語の本質であるという考え方をしているものです。ブログ本章でサール、パトナム、クリプキ、デイヴィドソンの思考を追いながらこの視点について考えを深めたいと思っています。場当たり的な言語がどこまで意味を持てるのかについても考えていきたいと考えています。

>そして、JとTはBを形容する。

taatooさんはこの、形容している、修飾している、係っているという視点を結構重要視していらっしゃるようですが、それがどれほど重要なのかよく理解できません。
上のゲティア論文でも、「正当化された真なる信念」という表現は表題にこそ出てきますが、本文では
「 SがPを知っているとは、以下のとき、かつ、そのときに限ってである。
(ⅰ) Pは真であり、
(ⅱ) SはPと信じていて、
そして、
(ⅲ) SがPと信じていることを正当化されている」
と表現しており、(順番もTBJで、)3つが並列にあつかわれています。
表題で「正当化された真なる信念」と言ってJとTがBを形容している形をとっているのも単に表示の簡単のための省略ではないかと思います。
ゲティア論文に限らず、プラトン以来のJTBのとらえ方は、知識の条件が並列で3つあるというものだと思います。どうでしょう。

「JTBのうちのTがJに含まれるとする解釈なのではないかと思います。」という師匠のコメントで、師匠は3つの関係性を考えているのだと思い込んで、その後の「かかる」にこだわったコメントになってしまった経緯だったと思います。

それから、JTBについての背景についてよく理解できていないままでも、英語の文法による単語間の関係の正確な把握によって、一部から全体を言い当てることは可能だ、という妙な自信が影響していると思います。

文法による文の解釈は、哲学の解釈に役立つのではないか、と思うのです。いかなる哲学表現も言語による表現であり、そうである以上、その言語の文法に嫌でも拘束されていると思うからです。

もちろん、今回それが成功しているとは決して言えませんが、たかが英文法、されど英文法だと思うのです。


僕の書き様が曖昧で混乱させましたね。
了解して、気をつけたいと思います。がんばってわかりやすい表現を心がけないといけないですね。

師匠 こちらこそ申し訳ありません。
夜書いた手紙を朝読み返すと、とても恥ずかしい、あの感じがします。
不謹慎にも飲酒しながら、コメントしてることもありますし、居酒屋で管を巻いているオヤジと一緒です。

哲学的な話が好きですが、まだまだ師匠と対等に議論できるレベルではありません。
師匠からの問いかけがうれしく、かんばってみましたが、力不足を痛感しています。これからも、日々精進を重ねていく所存です。 

「J(正当化された)、T(真なる)、B(信念)」のうち、JとTが、ミュウヒハウゼンの話とゲティアの話せいでダメになった。つまり「正当さと真実さなんて、決めらんなくね?」と。こうして古典的基礎付け主義は破壊された。

そこに穏健な基礎付け主義がやってきて、「もうさ、正当さと真実さなんて、aboutで決めておけばよくね?」と言って、aJaTBにした。

このaboutさを現代では外在論によって示している。

…こんな理解でよろしいでしょうか?


もしこの理解がOKでしたら、「ゲティアの話が穏健な基礎付け主義も破壊した」と仰る部分がちょっとわかりませんでした。

>基礎付け主義はJTBの上に打ち建てられた楼閣だからだ。

とのことですが、古典的な基礎付け主義がそうして破壊されてしまうだけであって、穏健な基礎付け主義はむしろ、「aboutでいこうぜ!」とか「JTBをaJaTBにしようぜ!」という解決策を示したものであって、破壊されてはいないんじゃないかなって気がしてしまいます。

些細な疑問ですけれど、理解を深めたいので、よろしければ「穏健な基礎付け主義も破壊された」という部分について、ご指導いただけませんでしょうか?(>_<)

SHIROさん、興味深いご質問だと思います。ありがとうございます。

穏健な基礎づけ主義がアバウトでもOKだということにして、JTBをaJaTBと捉えたのでミュンヒハウゼンのトリレンマを解消できたというのは、その通りだとおもいます。でも、ゲティア問題の方は解消できたとして良いのでしょうか。その点は疑問です。

ゲティア問題で、知識の定義について「アバウトに正当化されていて、アバウトに真実らしくて、本人がそうだと信じている」場合にそれを「知っている」とするとします。すると、その定義でも、件のスミスは、文「採用される人はポケットに10枚の硬貨を持っている」が正しいことを「知っている」ことになってしまいます。
この例において、知識をaJaTBで定義づけることは失敗していると言えると思います。

だから、穏健な基礎づけ主義をきちんと使える知識の物差しとして用いるためには、JTBでもaJaTBでもないような、新たな基準が必要になる。
という風に僕は理解しています。どう思われますか。

ご返信まことにありがとうございます。返信慣れしておられるのでしょうか笑、いつもすごい分かりやすいです。

>この例において、知識をaJaTBで定義づけることは失敗していると言えると思います。

失礼いたしました。
aboutさとは何か、について同意を得る必要がありますもんね。僭越ながら下記にちょっと書いてみますので、読んでいただけると嬉しいです。

ゲティアが提起した問題は
「単なる偶然の一致を正当さと真実さの根拠にしていいの?」
ということだと思いますが、
「もしダメなら何回一致すれば根拠にしていいの?」
ということも示唆しています。

しかしこの示唆はミュンヒハウゼンによってアウトなわけです。

でも、私たちが正当さと真実さを感じるのは、
「今まで一致した回数」ではなく、
「これからも一致するであろう予測が立つこと」だと思います。

なので、aboutさの根拠を、後者の「これから~であろう~」の方に置いてみます。

さて、「採用される人はポケットに10枚の硬貨を持っている」という考えはどっちが根拠かというと、「今まで~」を根拠に置いていることが分かります。

とまぁこんなわけで、aboutさというのを、「これから~であろう~」ということだ。にしちゃえば、どうでしょうか。

まず、スミス考えは、正しいことを「知っている」ことにはならず、やっぱり間違いになります。
そして、aJaTBであれば、知識の物差しにしちゃってまぁいいでしょう。となるのではないでしょうか。

難しすぎて何を言われているのさ分かりませんでした。

>aboutさというのを、「これから~であろう~」ということだ。にしちゃえば

たとえば、その立場で、何かの知識を確かめるとすればどうなるのですか。具体例を挙げて示してもらえませんか。

段差トバしてるなぁとは思いながら、長くなるのもアレなので、そのまま投稿してしまいました。申し訳ございません。(>_<)

「これから~であろう~」というのは、「これからも一致するであろう予測が立つこと」のことです。

aboutさについて、「今まで一致しただけ」のものは認定せず、「これからも一致するであろう予測が立つこと」だけを認定することで、aJaTBを知識認定しましょうよ。という試みです。

具体例を4つ挙げてみます。

■「採用される人は、ポケットに10枚の硬貨を持っている」
これは「一度だけ偶然一致したもの」です。
よって知識には認定しません!

■「採用される人は、ハーバード出身」
これは「何度も一致するけれど、これからもそう予測が立つことではない」です。
これもダメ!

ただし、「そういう人はかたっぱしから採用じゃ」と社長が言っていれば、「これからも一致するであろうこと」なので、正しい知識です。

■「採用される人は、ハーバード出身で、候補者のうち最優秀」
これは「これからも一致するであろう予測が立つこと」です。
よって正しい知識!

■「水に電気を流すと水素と酸素になる」
これも「これからも一致するであろう予測が立つこと」です。
よって正しい知識!

(1)「採用される人は、ポケットに10枚の硬貨を持っている」は、「一度だけ偶然一致したもの」だから知識には認定しない。
(2)「採用される人は、ハーバード出身で、候補者のうち最優秀」は、「そういう人はかたっぱしから採用じゃ」と社長が言っていれば、「これからも一致するであろうこと」なので、正しい知識。
(1)と(2)の違いは、それが正しいと考えられる根拠がより確からしいものになっている、ということだけのように思えるのですが、二者には確からしさの量的な違いがあるだけだと理解して良いですか。もし、質的な違いを提案されているなら、理解できていないです。

そして、もし、量的な違いでしかないのであれば、それがゲティア問題を解消しているとは考えられません。
ゲティア問題はどれ程厳密に確からしさの精度を高いものにしようとしても、それが真実ではない可能性が原理的に残るものであることを示した、質的な問題を問うているものだと僕は考えているからです。
理解が鈍くて申し訳ないですが、僕に答えられるのはこれが精一杯です。

そして、もし、穏健な基礎づけ主義がそのような、正当性と信頼性の確からしさを量的に緩和するだけでなく、真実をどう捉えるかという点を質的に変えるというのであれば、そのときにゲティア問題は解消されると思います。
つまり、たとえば、後からその判定が覆されることがあったとしてもその時点で確かであればそれを「正しい知識」だということにしていまう、というような質的な「知識」の変質です。たとえばJTBをJBにしてしまうような、知識の定義の変更を、ゲティア問題は要求しているのだと考えています。

しかし、「穏健な基礎づけ主義」が知識の定義を(JTBから真実性のTを抜いて)JBにしてしまうとしても、それはもはや「基礎づけ主義」ではなくなってしまうと思われます。

>(1)と(2)の違いは、それが正しいと考えられる根拠がより確からしいものになっている、ということだけのように思えるのですが、二者には確からしさの量的な違いがあるだけだと理解して良いですか。

なるほど。量的、質的、についての見解が食い違っちゃってるんですね。
僕はこれを質的な違いだと考えておりました。

なぜなら、ゲティアの問題提起は、

>ゲティア問題はどれ程厳密に確からしさの精度を高いものにしようとしても、それが真実ではない可能性が原理的に残るものであることを示した、質的な問題を問うているものだと僕は考えているからです。

ということではなく、

「偶然の一致」を正当さとか真実さの根拠にしていいのか?

というだけのことだと思っていたからです。

後者の視点で考えていたので、偶然が量的に何回一致してもダメじゃん。だって量的だもん。でも、これからも一致するであろう予測が立てば、質的にOKだよね。

という意見を申し上げた、と、まぁそんな次第でした。
またいろいろ教えてくださいませ。

はい、いつでもお越しくださいませ。興味深い論点を挙げていただいて、楽しく議論できました。ありがたいです。

あっつい中たびたび失礼いたします。どうかどうか、もう一度採点していただけませんでしょうかっ?笑
こうすれば、質的に解決できるかもしれません。

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答えを書きます
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正当な根拠であるために、『そのときの観測能力をフル活用して導いた根拠であること』を条件にする。

すると、ゲティアの話はこの条件をクリアしていないため、正当性がなく、知識とは呼べない。が、一般的な知識はこの条件をクリアしている。


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詳しく書きます
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>ゲティア問題はどれ程厳密に確からしさの精度を高いものにしようとしても、それが真実ではない可能性が原理的に残るものであることを示した、質的な問題を問うているものだと僕は考えているからです。

仰る通り、"真実ではない可能性" が残るかぎり、いかなる命題も正当性が持てず、知識ではないことになってしまう。というのがゲティアの問題提起でしたね。

そこでまず、"真実ではない可能性" とは、どういう場合か?を【あ】【い】に分類してみます。


………
【あ】当時の能力をフル活用して観測したけど真実じゃなかった場合
・ニュートン力学
→観測能力が上がると、もっと根っこに原因を発見できた
・白鳥は白い
→時間を経ると、ブラックスワンが出てきた。

【い】当時の能力をフル活用しなかったから真実じゃなかった場合
・採用される人はコイン10枚持ってる
→ちゃんと観測してない勘違いだった。
………


いかがでしょうか。

まず【あ】は観測能力をフル活用してます。
この場合は、"真実ではない" となっても、まぁ間違っちゃいるけど、「昔の知識だね」と言われます。

でも【い】は観測能力をフル活用してません。
この場合は、"真実ではない" が分かったとたん、「知識じゃない」と言われます。

そんなわけで上述の答えに戻りまして、『観測能力をフル活用すること』を条件にすれば、バッチリOKになりませんでしょうか?

SHIROさん、面白いですね。

「SHIROさんの【あ】で、ゲティア問題をクリアして、なおかつ、穏健な基礎づけ主義を守っている」と解釈することも可能だとする考え方もあるかもしれません。

しかし、僕の独善的な考え方では、そこには、2つの問題があると思われます。

1つめの問題は、【あ】と【い】がやはり程度の差でしかないという点です。【い】もスミスがその時点で得られる情報としてはそれ以上のものがあり得なかったという点では、ブラックスワンを未発見だった時代の人と、推量の正当性では大差はないと言えると思います。

2つめは、(こちらの方が大きな問題だと思いますが、)僕の考えでは【あ】でもゲティア問題の解消ができないということです。
たしかに、【あ】と僕が言う「JTBをJBにする」のとはよく似ていますが、その本質は大きく違っていると思います。
僕は、【あ】が「発言の時点での正当性をもつ、許容できる誤差の範囲の真理」のことだと考えました。しかし、ゲティア問題が問うているのは、「任意の発言時点で、それぞれに正当な真理がある」などとするような真理観の捉えなおしをしなければならないということではないかと思っています。
この2者は次の点で違います。
つまり、SHIROさんが言われるように【あ】は「アバウトな真理」であって、それは「何か『本当の真理』なるものがどこかにあって、それに近しいものであるなら、それを真理の許容範囲としよう」とするような真理の捉え方だと思います。
それに対して、「任意の発言時点で、それぞれに正当な真理がある」というのは、「『本当の真理』なんてものは誰も見つけられる可能性はないのだから、『本当の真理』に近いとか遠いとかという判断には何の意味もない。ただ、その発言時点での正当性だけが「それが正しい知識かどうか」を定め得る唯一の要素だ」という視点の真理の捉え方です。
そして、ゲティア問題でのスミスの発言時点での正当性と、ブラックスワン未発見の時代の人の正当性との間に程度の差しかないのであれば、ゲティア問題が問う問題の本質は、後者の「任意の発言時点で、それぞれに正当な真理がある」という視点こそにあると、僕には思えてなりません。

まず、いったんチョイと私の主張と逆のことに同意を示したいです。

>ただ、その発言時点での正当性だけが「それが正しい知識かどうか」を定め得る唯一の要素だ」という視点の真理の捉え方

このご意見、めっちゃくちゃ、ものすごーく同意です♪♪
無限に掘る問題については、自分こそがゴール(とすることが合理的)ですよね。
これについていろいろ書きたいのですが、長くなっちゃったので我慢しておきます。笑

しかし!!しかしですね…

今回のように無限を掘らなくて済むような問題に限っては、やはり何らかの手段で客観性を確保しようよ、というのが、私の主張なのです。

では、どうやって客観性を?という話ですが、やっぱり「当時の観測能力の限界」でならOKじゃないか、というのが、私の主張なのです。笑

閑話休題。まず1つめの問題についてです。

>【い】もスミスがその時点で得られる情報としてはそれ以上のものがあり得なかったという点では、ブラックスワンを未発見だった時代の人と、推量の正当性では大差はないと言えると思います。

コインの場合は、虫眼鏡を使ったり、ポケットに手を突っ込んだり、ズボンを洗濯したりして、いくらでもコインを探すことが可能なわけです。

他方で、ブラックスワンの場合は、観測能力(人工衛星とかCIAのエスパーとか)をフル活用しても、アマゾンの奥に隠れていたり、そもそもまだ産まれてなかったりすれば、見つけることは不可能なわけです。

この可能か不可能か、という差は、やっぱり大差アリだと思います。
そして、可能か不可能かをジャッジするのは当時の科学技術になるので、客観性も確保できるんじゃないかなって、そう思うんです。


そういうわけなので、2つめの問題についてですが、

>そして、ゲティア問題でのスミスの発言時点での正当性と、ブラックスワン未発見の時代の人の正当性との間に程度の差しかないのであれば、

という部分も、やっぱり大差アリだって思っています。

よって、以降の

>ゲティア問題が問う問題の本質は、後者の「任意の発言時点で、それぞれに正当な真理がある」という視点こそにある

という部分にも、僭越ながらイマイチ同意できず仕舞いの、そんな夏の夜なのでした。
(ま、横山さんも書いていらっしゃるとおり、人ぞれぞれってことですよね。笑)

でも、冒頭に戻りますけれど、無限に掘る問題については、「それぞれに正当な真理がある」というご意見に、めっちゃくちゃ、ものすごーく同意です♪♪

SHIROさん、「できない」と「しない」には、そこに鮮やかな断絶というものはなく、なだらかなグラデーションとしての違いがあるだけではないか、と僕は感じています。
たとえば、僕はADHD傾向が強くて、部屋を移動するときに振り向いて忘れ物がないかのチェックをすることがとても難しいですが、他への集中を捨てて忘れ物チェックのことだけに集中していれば、それはできないこともないです。ですが、日常生活では普通忘れ物チェックよりも大事なことがたくさんあってそればかりに気を取られることは現実問題としてできません。なので、僕にとって忘れ物チェックは或る意味では「していないだけ」とも言えますが、或る意味では「できない」とも言えます。
たとえば、或る実験装置があれば或る法則が正しいか否かが分かるという状況で、その装置の設置に巨額の費用が必要で現実的に実験することができない場合、その確かめは或る意味では「していないだけ」とも言えるでしょうし、或る意味では「できない」とも言えるでしょう。
或いは、ブラックスワンがアマゾンの奥地にいたり、まだ種として出現していなかったりてたとしても、ブラックスワンが種としてあり得ないと言うことしかその時点でできないかというと、微妙なところがあるような気がします。場合によっては未来に発生する可能性がある種を言及することが可能になることも有り得ると思われるからです。

だから、スミスの例とブラックスワンの例とに大差があったとしても、その差をきちんと分別する基準を作ることはできないのではないかと疑っています。

>なだらかなグラデーションとしての違いがあるだけではないか

忘れ物や実験装置のお話しで、「できない」と「しない」の区別がグラデーションであるのは、私もそう感じます。

しかし、それはどちらも【い】だからです。【あ】とは大差や断絶があります。

今回私が「できない」と「しない」を区別するために設けた基準は明確です。
「科学技術の限界までやったんかい!?」ということ。
これ、明らかな区別ができる方法だと思われませんか?('_')

忘れ物と実験装置のお話なら、その確認や購入は科学的に不可能なことではないので、「科学的にできない!」ではありません。「科学的にはできるけど、俺はできない!」ですし、「科学の限界まではやってない!」です。

スーパー重度のウッカリ症候群で、科学的にも忘れ物を確実にしてしまうような人がいたとしても、忘れ物矯正マシン(?)とかアラームとか外部の科学に頼れば大丈夫です。

たしかに、「しない」と「できない」は日常的には混同されがち。そのままでは大差や断絶を見出すのは難しいです。グラデーションです。

そしてそうであるからこそ、【あ】と【い】の区別において、「科学的にどうか」という基準を設けてみたわけです。
明らかな区別がつくし、大差や断絶たりえると、私はやっぱり思います。
そしてこうして客観性をもたせれば、根拠の正当性も人々が合意できるんじゃないかなっ!?ということなのです。

昨日のコメントでは「観測能力の限界」と書いていたせいで、「しない」と「できない」が日常的なあいまいな区別のままの印象を与えてしまったのかもしれません。すみません。
「科学技術の限界による、観測能力の限界」なので、明らかな区別はできると思います。

うーん。やっぱり、思われませんでしょうか!?

いったん、ポイントを絞らせてくださいませ。

POINT1
科学による観測の可否は、明確に判断できると思いますか?
→NOなら、よろしければ例外を挙げてほしいです。
→YESなら、POINT2へ。

POINT2
科学による観測の可否は、客観性を持たせることができると思いますか?
→NOなら、よろしければ例外を挙げてほしいです。
→YESなら、POINT3へ。

POINT3
科学による客観性は、正当な根拠たりえると思いますか?
→NOなら、よろしければ例外を挙げてほしいです。
→YESなら、ビール飲みにいきましょう。笑

例外を挙げろ挙げろと何様だという感じなので、まず私から例を挙げておきます。

(例1)
ガガーリンが「地球は青かった」と言ったとき、実は彼は宇宙船の窓に張り付いた青いシールを地球だと思って言っただけ。しかし、実際に地球は青いし、彼は信じているし、根拠もある。
→この場合、シールかどうかは能力の限界までちゃんとフル活用して調べれば分かった問題です。なので、根拠はあっても、不当な根拠となります。よって「地球は青い」はガガーリンにとって知識たりえません。

(例2)
花子ちゃんがルーブル美術館でモナリザの部屋に行ったとき鳥肌が立った。彼女は「モナリザを見て鳥肌が立った」のだと思った。しかしモナリザはそのとき同じ部屋の金庫の中にしまわれており、彼女は見ていなかった。
→この場合、鑑定士を同伴させて真贋を見極めていれば分かった問題です。以下同文。

あ。もちろん議論の主導権は横山さんにございますので、私ごときが敷いたPOINTなんぞに沿わず、ご自由にご意見いただければ幸いでございます。m(__)m
これまでも話がトンだりしてて分かりにくいのは私だけですし。笑

POINT1
>科学による観測の可否は、明確に判断できると思いますか?

→NOです。
明確に断ずることができない理由は2つ。
①その時点における最良の科学的見地というものについては、さまざまな捉え方があり、どの捉え方をとるにしてもグラデーション的な差異が続くものであるので、何かをその時点でもっとも適切な科学的見地だとする基準はどうしても恣意的にならざるを得ない。
②いかなる観点での科学的検証を必要とするかという点においても、さまざまな視点でその検証の正当性と有効性は変わり得ます。それゆえ、検証方法についても恣意的な判断なしで明確な判断はできないと考える必要があると思われます。
たとえば、スミスの場合はポケットの中を確かめれば良いのか、社長の意図を聞き取れば良いのか、社長の正直さも検証すべきなのか、社長自体が勘違いをしている可能性も検証しなければならないのか、スミスの認知機能の検証も必要なのか、そもそも、その検証装置の有効性も検証しなければならないのかならないのか、などなどの、検証方法はどこまで遡って確かめれば良しとするのか。可能な限りということであればこの検証作業は無限の工程を必要とすることになるように思われます。なので、検証に意味を持たせるためには、その工程のどこかで「ここまでしらべたら、もう十分だ」と判断しなければならないはずで、その判断は恣意的にならざるを得ないはずです。


POINT2
>科学による観測の可否は、客観性を持たせることができると思いますか?

→その客観性の判断が恣意的なものでよければ、YESです。
そうでなければ、NOです。
ポイント1で言いましたように、客観的か否かどちらを判断するかということには無条件で明確な断絶はないとおもいます。でも、個人的な判断や恣意的な判断でよければ、観測方法が2つあった場合はどちらが客観的かという判断はできると思います。
「そんな言葉遣いはおかしい。客観とは個人的見解や恣意性に頼らないものであるはずだ」と言われるかもしれませんね。そのような意味で客観性をお考えなのでしたら、答えはNOになります。

POINT3
>科学による客観性は、正当な根拠たりえると思いますか?

→ある程度、YESです。
たとえ、その客観性が恣意的なものであったとしても、正当な根拠の一つになると思います。でも、もちろん、客観性だけが正当性の根拠になるとは思いません。

うむむ、降参でございます。m(__)m

けっきょく、客観なんて存在しない、というところに行きつきますものね。
アバウトな客観にするのであれば、じゃそのアバウトさは何をもって決めればいいのやら。どうやって恣意性を含む客観を適切な客観だと言い張ればいいのやら…
ひと眠りして考えてみましたが、まったく無謀な挑戦であったことを後悔しております。笑

たびたびのご返信、本当にありがとうございました!!

SHIROさん、
面白い論点を挙げてコメントしてくださったので、とても興味深い思索ができました。どうもありがとうございました。
また、いつでもいらしてください。

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