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2014年3月 2日 (日)

クリプキの固定指示子による同一説批判<意味の意味2>

クリプキの固定指示子による同一説批判を考える。
心の哲学で心が脳状態と同一であるとする「心脳同一説」に対して、クリプキは固定指示子を用いてこれを否定している。本節ではその批判について考える。

クリプキは次のように同一説を否定する。
「『A』を特定の痛みの名前とし『B』をそれに対応する脳状態…だとする。Bが存在しながら(ジョーンズの脳がまさにその状態にありながら)、ジョーンズが何の痛みも感じない、つまり、Aが現前しないということは、少なくとも論理的に可能であるように見える。同一性論者は、この可能性を認めてから論を進めるというわけにはいかない。無矛盾性と固定指示子を使った同一性は必然的であるという原理がそのような道を認めないからである。もしAとBが同一であったならばその同一性は必然的でなければならない。…つまり、同一性論者は、痛みでないC繊維刺激やC繊維刺激でない痛みはありえないという見解に立つことを迫られるというわけである。」(クリプキ「名指しと必然性」邦訳p170)

固定指示子というのは、考えられる可能世界のすべてで同じ一つの対象を指示する名辞のことであった。固定指示子をそのようなものとして設定すると、「痛み」や「C繊維刺激」という語は固定指示子になる。あらゆる可能世界で誰かが「痛み」を感じているのかいないのかを決定することができるような言葉として、「痛み」の語があるからであり、あらゆる可能世界でそれが「C繊維刺激」であるか否かを決定できるような言葉として、「C繊維刺激」の語があるからである。
そして、「痛み」と「C繊維刺激」がそれぞれ固定指示子であることから、この二者が同一であるとは「必然的に同一」であることになる。あらゆる可能世界で、形而上学的にも文法的にも、「痛み」も「C繊維刺激」もそれらが何であるかは決定しているのだから、あらゆる可能世界のうちでそれが同一でない世界が一つでもある場合には「この二者が同一である」などとは言うことができないからである。あらゆる可能世界で同一である事柄だけが「同一」のものだと言えるのである。それゆえ、「痛み」とそれに対応する「脳状態」が一致しない可能世界が存在するような可能性があるのであれば、これはもう「同一」だとは言えないのだ。そして、まさに、一致しない可能世界が存在する可能性があるのだから、「痛み」と「脳状態」は同一ではないと結論付けないといけないのである。だから、心と脳状態は同一ではないと、クリプキは結論付ける。

しかし、こんな説明で「同一ではない」と言えるのだろうか。こんな説明で良いのだったら、「熱」が「分子運動」と同一だとされるのも否定されてしまうのではないだろうか。この疑問について、クリプキは次のように答える。

「『熱』は固定指示子だが、この指示子の指示対象のもつ偶然的性質によって、すなわち、我々の内に感覚Sを生じさせるという性質によって決定されたという考察であった。それゆえ、ある現象が熱の現象と同じ仕方で固定的に指示され、その指示対象も感覚Sによって選び出されながら、その現象は熱ではなく、したがって分子運動ではないということが可能なのである。他方、痛みはその偶然的性質に一つによって選び出されるわけではない。むしろ、それは、痛みそれ自身であるという性質によって、すなわち、その直接的な現象学的性質によって選び出されるのである。したがって痛みは熱と違い『痛み』によって固定的に指示されるだけではなく、その指示子の指示は指示対象のもつ本質的性質によって決定されるのである。」(同p179)

「熱」と「分子運動」が必然的に同一なのだとしてしまうと、感覚として感じる「ほとぼり」まで必然的に同一だと考えないといけないような気がするかもしれないが、そんなことはない、とクリプキは言う。「熱」の場合は、感覚として感じる「ほとぼり」が「熱」の本質ではなく「分子運動」だけを本質だとして意味づけることが可能だからである。「熱」と「分子運動」を必然的な同一だとしながら、感覚として感じる「ほとぼり」をたまたま偶然的に「熱」と一致した物だとすることができるのである。しかし、他方、「痛み」は感覚として感じるモノこそがその本質であって、だから、「痛み」という語と「感覚として感じる感じ」を偶然的に一致するものであるとすることはできないのである。
つまり、「熱」はその本質を「分子運動」だとすることができるので、「熱」と「分子運動」が同一だとすることはできるのだが、「痛み」はその本質が「感覚として感じる感じ」であって、「C繊維刺激」だとすることができないので、「痛み」と「C繊維刺激」を同一だとすることはできないのである。

……というのが、クリプキの説明である。

どうだろう。ちゃんと筋の通った説明になっているだろうか。確かに分かりやすくて間違ってはいない。しかし、僕には、こんな論点先取の説明では説得力がないように思えてしまう。
クリプキの言う通り、「痛み」の本質が「感覚として感じる感じ」でそれだけを「痛み」の必然的な意味とすべきだとするのであれば、「痛み」という語は話者だけが特権的に知ることができるようなものであることになる。
しかし、それは本当だろうか。
もしクリプキの説明が正しいのならば、「痛みの表出の内に感じられているもの」という言葉を考えたときに、「痛みの表出の内に感じられているもの」を「痛み」と本質的に同一だとすることができなくなるのではないだろうか。「痛みの表出」があっても「痛み」そのものが無いような可能世界が存在し得ると考えられるからである。しかし、そんな、あらゆる「痛みの表出の内に感じられるもの」とは別のものとしての「痛み」など、あり得るのだろうか。それは結局、「痛み」という私的言語を自分で捉え得るとしているような、私的言語擁護論に過ぎないのではないだろうか。

クリプキの説は、「痛み」が私的に特権的な語彙であって外的な状況から意味を決定することができる語ではないということを理由にして、心脳同一説が認められないと言っているものである。結局、「痛み」は個人的で内的な言語だから「脳状態」には還元できないと言っているに過ぎない、と僕は捉えている。そう考えて、僕は、クリプキのこの同一説批判をあまり評価していない。

クリプキは、この「同一説批判」の記述において、意味の外在説をとるか、内在説をとるかを明言していない。しかし、一般的な語については外在説派に与し、感覚的な語については内在説派に与しているのかも知れない。「C繊維刺激」と「痛み」の関係は、それぞれ外在説的に捉えた語と、内在説的に捉えた語の噛み合わなさを考えたものという構図として見ることができるのかも知れない。
そこで、次節では、意味の内在説と外在説についての論争見ていくことで、語の意味についてさらに考えてみたい。

前節の最後に「群概念理論」を考察することを予告したが、それは内在外在の問題を考えた後に回すことにする。

つづく

意味の意味

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コメント

師匠質問です。お願いします。

前半の議論は、可能世界間の同一性と可能世界内の二者間の同一性を一緒にしてるからおかしい、という理解でいいのでしょうか?

それから、「論点先取り」は、トートロジー的なニュアンスですか?

taatooさん、ご質問ありがとうございます。

前半の疑問は、可能世界の同一性とその中の物の同一性の区別ができていない、ということではなく、単純に、文法的に心と脳を同一だとできないとするのなら、熱と分子運動もできないのではないかという疑問です。

それから、論点先取というのは、トートロジーだという意味です。固定指示子の議論は結局、文法的な語の位置付けにかんする論でしかないと思ったのです。

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