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2014年2月12日 (水)

クリプキの固定指示子と必然‐偶然<意味の意味1>

ソール・クリプキSaul A.Kripke(1940~)の「必然-偶然」と「固定指示子」のアイデアは、独創的で、チャーミングで、かなり使える。
しかし、「名指しと必然性」の著作では行き過ぎた考察で単なる論点先取に陥っている点もあるというのが、僕の読みである。本節では、このアイデアの優れた有用性とその考察の妥当性に対する疑問を考えていく。

Kripke  

アプリオリとアポステリオリ

彼以前は「アプリオリ」と「必然」が同一視されていたものを、「アプリオリ‐アポステリオリ」と「必然‐偶然」がまったく別の視点であることをはっきりさせたのがクリプキである。

クリプキによる「アプリオリ」の定義はこうである。
「アプリオリな真理とはいかなる経験にも依存することなく知ることが可能になるものである。…誰にとって可能なのか。神にとってか、火星人にとってか、…特定の人または認識者がアプリオリな証拠に基づいて何かをアプリオリに知っている、という問題に焦点を絞るのが得策だろう」(「名指しと必然性」邦訳p38)
「アプリオリ」とは経験によらず知り得ることであり、逆に、経験によって初めて知り得るようなことは「アポステリオリ」な知と言う。
クリプキのアプリオリ観によると、誰の視点で考えるかによって、それがアプリオリか否かが変わってくることになる。たとえば、ニクソンを1970年のアメリカ大統領として初めて知った人にとっては、「ニクソンは1970年のアメリカ大統領である」はアプリオリな言明である。この人にとって、「ニクソン」はその語に関する認識の中に「1970年のアメリカ大統領」が含まれているのだから、それ以上ニクソンについての情報を経験しなくても、ニクソンは既にしてもともと1970年のアメリカ大統領なのだからである。
しかし、ニクソンを子どもの頃から知っていた友人にしてみると彼が大統領になったことは新しい経験としての知識であるから、「ニクソンは1970年のアメリカ大統領である」はアポステリオリな言明になる。誰の視点によるかで「アプリオリ」な言明か「アポステリオリ」な言明かは変わるのである。

 

必然性と偶然性

対して、クリプキによる「必然‐偶然」の定義はこうである。
「必然性の概念は…認識論上の概念ではなく、形而上学の概念である。あることが真であったかもしれないとか偽であったかもしれないとか問うが、もしあることが偽であれば明らかにこれは必然的に真ではない。もし真ならば、それは真でないこともあり得たであろうか。世界がこの点に関して現にあるあり方と違っていたことが可能であるかと言う問いに対して、もし答えが『否』であればこの事実は必然的なものである。もし答えが『然り』であればこの事実は偶然的なものである」(同p40)
現実に世界とは違う別の可能世界を考えても、現実と違うことが有り得ないような事実は「必然的」な事実と言い、可能世界において現実と違うことが有り得るような事実を「偶然的」な事実と言う。この、必然性なるものは、世界が実際にどうなっているかを経験的に認識して分かるようなものではなく、経験を顧みないでも分かるものであるので、「アプリオリ」の概念に似ている。しかし、「アプリオリ‐アポステリオリ」がその言明に関する話者の経験の必要性の有無によって決まるものであるのに対し、「必然性-偶然性」は言わばその言語が設定する可能世界との関連で決まるものである、「アプリオリ‐アポステリオリ」が認識論的概念であるのに対し「必然-偶然」は形而上学的概念なのである。

だから、クリプキ以前には「アプリオリであれば即ち必然」「アポステリオリであれば即ち偶然」と考えられていた常識をくつがえし、「アプリオリな偶然」や「アポステリオリな必然」があり得ることになるのだ。下の表の○印はもともと認められていた概念で、※がクリプリの編み出した概念である。

アプリオリ

アポステリオリ

必然的

1.○(分析的)

3.※

偶然的

2.※

4.○

 

固定指示子 (rigid designator「厳格指示子」と訳される場合もある)

このように可能世界を考え、クリプキは「固定指示子」という概念を導入する。
「ある言葉があらゆる可能世界において同じ対象を指示するならば、それを固定指示子と呼ぼう。もちろんわれわれは対象がすべての可能世界に存在することは要求しない。もしニクソンの両親が結婚しなかったらニクソンは存在しなかったかもしれない」(同p55)
ニクソンとは、アメリカカリフォルニア州で1913年に父フランシスと母ハンナの6人兄弟の第2子として生まれ、のちにアメリカ第37代大統領になり、ウォーターゲート事件で失脚したリチャードニクソンのことである。この「ニクソン」という語が固定指示子であるのなら、どんな可能世界であっても同じ男を指すことになるはずだ。それは本当だろうか。たとえば、ニクソンの両親が結婚していなかったならどうか。ニクソンは存在しなかったかもしれないが、それでも「ニクソン」という語はニクソンを指しているのであって、指示の意味は固定されているのである。だから、固有名はかならず固定指示子になる。では、フランシスとハンナの第2子が女だったらどうか。この女性は固定指示子「ニクソン」が指示するものになるのだろうか。どうだろうか。おそらく違うのではないだろうか。この女はおそらくリチャードとは命名されず、時代的にも大統領にはならないだろう。それでも彼女が「ニクソン」によって固定的に指示される「対象」だと考えることはできないわけではない。しかし、「ニクソン」はこの世界では存在しなかったと考えることもできそうである。どちらを取るかは、その固定指示子の定義によるかもしれないし、この問題を考える人次第かも知れないし、この日本語の常識的判断によるのかも知れない。クリプキはそのどれに当たるのか、答えを書いていないが、いずれにしても固定指示子はその意味が固定されて可能世界にまで及ぶのである。そして、この、固定指示子によって可能世界でも意味を固定できるとするアイデアは、固定的にとらえられた言語によって語の意味を固定できるとするクリプキの言語観を示し、また同時に、固定された同一の意味においてあらゆる可能世界において対象が指示できるという固定された言語観を示していると言える。

 

「アプリオリ-アポステリオリ」と「必然-偶然」の具体例

「アプリオリ-アポステリオリ」と「必然-偶然」の関係を、例をあげて見てみよう。

1.○「アプリオリ」で「必然的」な言明
「独身男性は結婚していない」
(熱が分子運動にあると発見されてから以降において)「熱は分子運動である」
(光が光子の流れであると発見されてから以降において)「光は光子の流れである」

2.※「アプリオリ」で「偶然的」な言明
「メートル原器は1メートルの長さである」
「水の沸騰点は100℃である」

3.※「アポステリオリ」で「必然的」な言明
「エベレストはゴーリサンカーである」
「ヘスペラスはフォスフォラスである」

4.○「アポステリオリ」で「偶然的」な言明
(ニクソンの旧友にとって)「ニクソンは1970年のアメリカ大統領である」

 

1.「熱が分子運動である」が「アプリオリな必然」のわけ

「独身男性は結婚していない」の「独身男性」はその語の中に「結婚していない」という意味を含んでいるから分析的な言明である。そして、それゆえ経験を顧みることなしにその正しさを知ることができ、その言葉を我々の言葉の意味で判断する上において、どんな可能世界でも独身が結婚していることはあり得ないので、「分析的でアプリオリで必然的」な言明であるといえる。
しかし、「熱は分子運動である」や「光は光子の流れである」は一見「必然的」でないように思われないだろうか。現実とは違って熱が分子運動でなかったり、光が光子の流れでなかったりする可能世界が考えられるように思われる。ところが、これはクリプキによると勘違いだとされるのである。熱が分子運動であると発見されている現代の言葉づかいにおいて、熱はすでにして文法的に分子運動と同一のものになってしまっていると言うのである。確かに、熱く感じるその感じが分子運動によるものではないような可能世界を考えることは可能である。しかし、そのことをもって「熱が分子運動ではない可能世界がある」と言った場合の「熱」という語は、現在の熱が分子運動にあると発見され確認されている状況においての「熱」の概念と同じではない、とクリプキは言う。今、熱が分子運動にあると発見され確認されている状況において「熱は分子運動である」というとき、この言語世界ではいかなる可能世界でも「熱」は「分子運動」として指示されることになるので、「熱は分子運動だ」というのは必然なのである。
どうだろうか。納得できただろうか。僕はこの「必然」という概念はとても便利な発明だと思う。でも、単に文法的な概念でしかないことをしっかり見据えておかなければ、混乱を呼ぶと思う。クリプキが言っているのは、熱が分子運動だとするような言語の上では「熱は分子運動だ」と言えるという、それだけのことである。このことから、別の新しい言語体系においてまで「熱は分子運動だ」という言明を導けるなどと考えてはならないのだ。だから、たとえば「手に感じるほとぼりとしての熱は分子運動だ」は当然ながら必然ではないのだ。つまり、固定された言語内での文法的「必然」として捉えるとクリプキに「必然」はすっきり理解できるようだ。

 

2.「メートル原器は1メートルの長さである」が「アプリオリな偶然」のわけ

パリにあるメートル原器はもともと時刻t0において1メートルの長さの定義だとされたのだから、厳密に1メートルの長さであるはずだ。そう考えると、メートル原器が1メートルでない可能性などあるわけがない。だから、「メートル原器は1メートルの長さである」は必然的言明であるはずじゃないか。ところが、クリプリはこれを偶然的な言明であるとする。
「『1メートル』という句は『t0におけるS(メートル原器)の長さ』という句と同義であると言っているのではなく、むしろ『1メートル』とは実際にt0におけるSの長さであるような長さの固定指示子であると約定することによって、われわれは『1メートル』という句の指示と決定したのだ。」(同p64)
つまり、クリプキによると、可能世界の「1メートル」というのは、現実世界での1メートルという長さをそのまま1メートルの長さとするような、その言語においての可能世界での「1メートル」を指すものなので、「1メートル」が違う長さになる可能性はないと言うのである。しかし、これに対して、可能世界でメートル原器の長さが1メートルでないことは十分にあり得る。だから、「メートル原器の1メートルの長さである」は偶然的な言明だと言えるのだ。
クリプキの言語観においては、語はすでに共有されてしまっているその言語内において、意味を確定され得るのである。だから、いかなる可能世界でもこの言語世界内なのであり、1メートルはこの言語制度が意味する固定指示子として必ず1メートルなのである。

 

3.「ヘスペラスはフォスフォラスである」が「アポステリオリな必然」のわけ

「ヘスペラス」は宵の明星で、「フォスフォラス」は明けの明星である。どちらもその指示する対象は「金星」である。ヘスペラスもフォスフォラスも固有名であるから、いずれもその言語内において固定指示子である。それゆえ、この両者は必然的に同一である。固定指示子が指示する対象は、その言語において一つずつの対象に固定されるのだから、それが同一であるのならどの可能世界でも必ず同一であることになるからである。そして、また一方で、この認識は経験的に知識として後から得ることができるような言明である。明けの明星と宵の明星が同じ金星だとは知らなかった人が、経験的にそれを同一だと知ることはできるからである。このことから、「ヘスペラスはフォスフォラスである」が「アポステリオリ」で「必然的」な言明だと言えることになる。

4.「ニクソンが1970年のアメリカ大統領である」がニクソンの旧友にとって「アポステリオリな偶然」のわけは、すでに上で説明したので省略する。

クリプキの言語の固定性

このような「必然-偶然」や「固定指示子」という道具立てによってクリプキは「2+2=4」や「猫は動物である」が必然的な言明であると言う。また、「ユニコーンが存在したかもしれなかった」とは言えないとする。
「一角獣は存在したかもしれなかったと言われる。ある状況のもとでは、一角獣は存在したであろうと言う訳である。私の考えでは正しくは、一角獣が存在し得ないことが必然的であるというと言うのではなく、如何なる状況のもとでなら一角獣が存在しているのかわれわれにはわからないと言うべきなのである。われわれが一角獣神話によって知っている一角獣に関する事柄のすべてを満たす動物の存在を決定的に証明する化石が発見されても、それは一角獣がいたことにはならない、と私は思う。」(同p27)
「2+2=4」は必然である。当然ながら「2+2=5」となるような新しい数学をでっち上げることは可能ではある。しかし、それは別の言語圏内の話なのである。われわれの言語においては「2+2」は必然的に「4」を指示するのである、とクリプキは言う。
「猫は動物である」は必然なのである。たとえば世界中のすべての猫が映画「MIB」の猫ロボットのようなものであったというような、トンデモの可能性をでっち上げることは可能ではある。しかし、それはわれわれの言語における「猫」ではないとクリプキは言う。そのMIBの猫モドキを「猫」だとするのは別の言語圏の話なのである。われわれの言語においては「猫」は必然的に「動物であるもの」を指示するのである、とクリプキは言う。
「どんなものが一角獣として実在するのか」という文法がわれわれの言語には無い。だから、われわれの言語において「一角獣が実在」することはあり得ないのだ。

Mib_2
「猫はインベーダが操縦するロボットだった」の「猫」は猫じゃない?

クリプキの言語観においては、語は固定的に意味を定められる。それゆえ、その意味から反するような事柄が言えなくなってしまったり、常識的な判断しかできなくなってしまったりすることがある。ある意味で、クリプキの言うことは理解できるし、もっともだとも思う部分も大きい。この「必然」と「固定指示子」というのはかなり便利な道具立てだと思う。しかし、このことから、「2+2≠4」になるような新しい言語が否定されたり、「世界中の猫がロボットだった」ということが有意味になるような新しい言語までもが全部否定されたりしてはいけないと、僕は思う。現にこのクリプキ的な考えからそのような非常識なアイデアが言語的に間違っていると考える人は少なくない。
そして、それだけじゃなく、言語自体がクリプキの言うように固定されたものとして捉えてはいけないのじゃないかとも、僕は考えている。
つまり、今までの言語と地続きの言語として「2+2≠4」が言えたり、「世界中の猫がロボットだった」と言えたりすることも可能だろうと考えているのだ。

しかし、あせって結論付けることは止そう。

次節、ストローソンがウィトゲンシュタインの「家族的類似」を定式化させた「群概念理論」について、クリプキがこれを間違っているとしている点について考察する。その中でこれらの点も明らかにしていきたい。

つづく

意味の意味

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コメント

師匠お元気ですか?

表のところで、1枠に分析的とありますが、2枠は分析的、3枠、4枠は総合的でいいのでしょうか?

イラストのクリプキは穏やかな顔してます。南の海で哲学とか忘れてのんびりしてるのかな~。

その通りです。
「アプリオリかつ必然」が「分析的」で、「アポステリオリまたは偶然」が「総合的」な知識になると、クリプキは考えているはずだと解釈しています。

なるほどです。2枠を単純に分析的としていたので、間違ってました。

2枠が面白いです。アインシュタインは、神はサイコロをふらないと言ったらしいですが、2枠は神の領域(アプリオリ)でサイコロをふる(偶然)可能性を示しているような気がします。それとも、神の領域は、1枠だけなのでしょうか?

また、固定指示子は4つの枠に共通するという理解でいいのでしょうか?固定指示子はこの表のどこに現れるのでしょうか?


taatooさん、

クリプキの用例から見る限りではクリプキは「固定指示子」を名詞として考えていたようです。
一方、必然偶然アプリオリアポステリオリの表の1〜4の区別は、命題に対するものです。そのため、固定指示子はそのままで、必然だとか、アプリオリだとかに分けることはできません。
ニクソンは必然的にニクソンですから、固定指示子がその指示対象を指示することは必然で、その意味では必然的(表の1や3的)だと言えるかも知れません。
でも、ニクソンが存在しないこともあり得たとも言えますから、固定指示子の指示対象の存在は偶然的(表の2や4的)だとも言えます。

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