フォト

ウェブページ

無料ブログはココログ

« 「語り得ないこと」の向こう側はいかようにも語り得ないか | トップページ | 意味の内在説と外在説<意味の意味0> »

2014年2月 2日 (日)

言語ゲームに他者は必要か<意味の意味-1>

「語の意味はたまたま言語ゲームが形成されたときに後付けされるのだ」という考え方について考える。

 

HAL

NHK「プロフェッショナル」でHALという肢具を見た。HALは、筑波大学の山海嘉之(さんかいよしゆき)が開発したハイブリッド支援肢具システムで、皮膚に貼ったセンサーによって生体電位信号を読み取り筋肉の動きを予測してモーターで運動の補助をするという装置である。いちいち命令を与える作業をしなくても、足を動かそうと思うだけで勝手に機械がその意思を読み取って足を動かしてくれるというものだ。HALはもともと運動機能の補助装置として考案されたものだが、コミュニケーションツールとしてもその有用性が大いに期待されている。重篤なALS患者などのコミュニケーションにはこれまで視線と文字盤を合わせるなどの方法が工夫されてきたが、HALの使用によって飛躍的に速く多くの情報交換ができるようになっている。
番組では、意識が有るか無いかさえ分からないような男性の皮膚に電位センサーを貼って、その意識を汲み取ろうと奮闘する様子を伝えていた。男性の好きだった音楽を聴かせて電位値を見ると一定のリズムで電位変化があった。男性の意識を拾ったかとも思われたのだが、単なる生体反射でしかないものだった。男性は何の振舞いもしてくれないだけでなく、有意な電位変化でさえもほとんど見られない。コミュニケーション交流にはかなり不利な状況であるが、有意味な電位変化が出現する可能性があるのならコミュニケーションが図れる可能性があるのだ、として努力を続ける・・・というお話であった。
僕がこの番組を見て興味を持ったのは、この男性の意識の有無を判断したり汲み取ったりするための「決め手」を得るのが難しいだろうという点だった。そして、その難しさは一般的な普通の人相手でも程度の差はあれども原則的には同じだろうという点だった。そして、その男性の考えていることと研究者の考えていることはどこまで同調させ得るのかという論点と、その男性はどこまで自分の考えていることが自分で分かるのかという論点は全く違うものだが、どうも一緒くたにして考えてしまいがちになる。この点の整理ができそうに思えて興味深かったのだ。

 

意識の有無の分からない人を相手にどうすれば言語ゲームが作れるか

順番に考えてみよう。
この男性はどんな時に言語ゲームを成立させ得るのだろうか。たとえば、彼の腕に電位センサーを付けておいて、「手を上げてください」と声を掛けるたびに挙手パターンの反応電位値が認められるのなら、そこに言語ゲームが成立していると言えるだろう。逆にどんな指示を出しても無反応かランダムで無意味な反応しか返ってこなかったとすれば、そこには言語ゲームは成立しなかったと言えるだろう。では、言語ゲームが成立しているか、していないか、はっきりしない中途半端な場合ではどうだろうか。意味のある反応なのか否かがはっきりさせられないような、中途半端にランダムで中途半端に有意味っぽい反応の場合。有意味か、無意味か、そのままでは決められない。そこで仕方がないから、反応に対して読み方のルールを勝手に設定する。反応の読み方の基準を自分から設定しないと読み方がないような、中途半端な有意味反応という設定なのだから、勝手にルールを押しつけて読み取る以外方法がないのだ。たとえば、「AABAABAABという反応は無意味な反射で、AABAABBABという反応は有意味なのだ」なんていうように彼の意識と電位反応の関係に関する仮説を立てるのだ。
Hal1
では、この仮説はどのように実証されるのか。もちろん何かの手掛かりがあれば実証させられるのだろう。しかし、ここで考えているのはその手掛かりが手掛かりであると判断できるか否かが微妙な時に限っての話なのだから、どこまで行っても仮説は仮説のまま、実証されることがない。この状況では、「その自分勝手なルール設定、自分勝手なルール解釈がある程度正しいと思われるけど、ある程度は間違っていると思われる。しかし、その<本当>のところは分からない」という中途半端な状況になってしまわざるを得ない。「この男性はおそらく水を欲しているのだろう。多分正しいがどこまで正しいかは怪しい。」ってね。

   

言語ゲームが成立するぎりぎりの境界

さて、このとき、この男性自身はどこまで内的言語を持ち得るのだろう。
彼がすでに過去に言語を習得していてそのあとで昏睡になってしまった場合、内言語はあり得る。「腕を上げて」と言われたときにどうすることが「腕を上げようとすること」なのかが分かっている。だから、そう言われたときに「上げようとしているよ」とか「めんどくさいな」などと思うことが可能で、自分で何を思っているのかが分かっていると言える。
しかし、彼が生まれつきの昏睡で最初から何一つ言語を習得していなかった場合はどうか。この場合、「腕を上げて」と言われるだけでは言語ゲームが成立するはずが無い。だから、言語を教え込むところから始めないといけない。たとえば、「水がほしいなら手を上げろ」と彼に語りかけ、体内の水分量が足りない時に実際に介助して腕を上げる動作を経験させてから水分を与える、という状況をつくり、そこから、彼が手を上げようとする反応をセンサーで拾い上げるたびに水を与えるようにする。そして、手を上げようとすることが水を欲している意思表示とする。このような言語ゲームを作り上げるようにすることは場合によっては可能だろう。もし生まれつきの昏睡でも、<1.「水がほしいなら手を上げろ」という声が聞こえる、2.そのときに手を上げようとする、3.水がもらえる>というゲームを、この昏睡の男性と介助する側とで共有することもできるはずだ。ただし、それを可能にするためにはいくつかの条件がある。彼に声が聞こえ、その声を有意味な音声として同定できることや、「手を上げる」という語と体内の水分量とに関連付けて腕の筋電位を変化させられること、などなど。この条件がだんだん少なくなっていくと、その分言語ゲームが成立する可能性が小さくなっていく。そして、どこかで臨界の領域が来て、それ以上になるとゲームの成立が不可能になるという、そのぎりぎりを考えてみたい。
ずいぶん長い前振りであったが、ここまでが僕が今日考えてみたいことの前提である。

   

手探りゲーム

言語ゲームが成立するかしないかはっきりわからないぐらいのぎりぎりの境界域においてはどんな言語活動が可能なのだろうか。有るか無きかのゲームをどうにかして成立させようとしている手探り状態なのではないだろうか。「もしかして、ゲームが成立しているとすれば」と仮の前提を立てておいて、手探りでルール解釈しそれをとにかく実行するしかない、という状態だろう。ぎりぎりの境界という前提だから、昏睡の患者の考えを外から見て介助する側にとって、患者の考えをはっきりさせるだけの情報は無いのだけれども、全くないわけではなく、「もしかすると、彼は水を欲していることを腕の電位信号で伝えられているのかも知れない」というように言語ゲームのルール解釈をしてしまうことで何とか言語ゲームが出来ているかも知れないという状況が作れると言えば作れる。何とも歯切れの悪い言い方だが、言語ゲームの限界領域の話をしているのだから仕方ない。外側の介助者側が「彼が水を欲している電位信号」という解釈をして「水を与える」という実践を実行する。昏睡の彼は昏睡の中で違うルール解釈をして彼なりの別の言語ゲームをしているのかも知れないが、<本当のこと>なんてものは直に知り得るわけではないのだから、自分勝手ながらでも某かのルール解釈をして、実行してみるしか仕方がないのだ。行動してみてうまくいけば言語ゲームが成立できたと判断できてラッキーだということになるし、それでダメなら、新しく仮説を立て直し、ルール解釈を変えてみて手探りを続けることになる。まさに手探りゲームだ。

   

語の意味は後付けされる

しかし、この言語ゲームの限界領域というのは本当に言語ゲームの有意味無意味をスッパリと区切り得る境界線になり得るのだろうか。その前後ではっきりと言語ゲームになるかならないかを分けるような断絶があるのだろうか。そんな断絶など存在せず、ゆるやかなスペクトラムで徐々に言語ゲームが可能になっていき難しくなっていく勾配があるだけではないのだろうか。だから、ある意味で、明らかに成立していると思われる言語ゲームであっても、それは絶対的に有意味なのではなく、手探りゲームでしかないとも言えるのじゃないだろうか。普段の生活でよく知っている間柄の相手に対してでも、言語ゲームを行うときには個々人がその場その場で自分なりのゲーム解釈をしてみて、とりあえず語ってみて、とりあえず実践してみているだけじゃないのか。そのゲームのルール解釈が相手と一致しているかどうかという問題はしょせん事前に明らかにすることができるものなどではなく、実践してみて結果的にうまくいったなら後から「今のゲームは相手とルールが共有できていた」と分かるものでしかないのではないだろうか。そして、そのルール解釈を事前に相手と一致させることはできないのだし、いつだって一致しない可能性はなくならない。
語の意味はたまたま言語ゲームが形成されたときに後付けされるのだ。

   

個人的言語ゲームが他者とのゲームに先行する

ここで僕が面白いと思うのは、言語ゲームの成立に必ずしも他者が必要ではないことになることだ。他者との言語ゲームの意味があとづけで決まるのであって、自分の個人的なルール解釈がそれに先行しているのであるのだったら、他者との言語ゲームとは別に、個人的な言語ゲームというものがあることになるからだ。それだったら、個人的な言語ゲームなんてものが可能なのだろうか、それは私的言語なのではないか、私的言語だからナンセンスなのではないか、という疑問が起こる。ところが、個人的な言語ゲームと私的言語は違うものとして有意味に存在するのだ。たとえば、生まれつきの昏睡患者が何の反応も出せないままという状況での「手を上げようとする」などという文は、確かに自分が言っていることの意味を自分で確定させることができないような、ナンセンスな言語モドキでしかない。しかし、「手を上げようとする」という文を「水分を補給してもらう」というルール解釈として理解することは、あり得る。たとえば、昨日「手を上げようとする」という文を「水分を補給してもらう」と解釈し、「水が欲しいから手を上げようとする」ということをやってみていて、また今日も「手を上げようとする」という文を「水分を補給してもらう」と解釈し、「水が欲しいから手を上げようとする」ということを昨日と同様にやってみることができるのであれば、それは私的言語ではない。他者とゲームを共有することができる可能性がはっきりとあるからだ。しかし、私的言語でないからと言って必ずしも他者とゲームが共有できるとは限らない。個人的なルール解釈で終わってしまう可能性が必ずある中で、ダメ元で実践してみたらたまたまゲームが共有できたというものが、他者との言語ゲームだからである。そういう意味で、個人的な言語ゲームは他者の言語ゲームに必ず先行しているのだ。
こう考えてみると、語に意味を同定させるためには必ずしも他者や社会が必要ではないとも考えられそうぢゃないだろうか。

 

 

これらのアイデアは、「語の意味の同一性をどう同定するか」「意味はどこまで社会的なものなのか」「語の意味は場の状況にどこまで依存するのか」等というさまざまな視点で、さらに検討を深めないといけない問題だと思う。今日はとりあえず、取っ掛かりだけを考えた。
この問題を深めるためには、やはり、ウィトゲンシュタインとデリダとデイヴィドソンだと思う。そこで、その関連を図書館からいろいろ借りてきて読み漁っている。しかし、こいつらをきちんと読み込むにはもう少し時間がかかりそうだ。

つづく

意味の意味

思いつきの言々

« 「語り得ないこと」の向こう側はいかようにも語り得ないか | トップページ | 意味の内在説と外在説<意味の意味0> »

コメント

工藤さん

1.
>僕が、考えた?? ―あれれ、オカシイですね。ダマは見苦しいだけですよ。>僕が、考えた?? ―知的誠実とは何か。

工藤さんは僕が工藤さんのアイデアを盗用して自分の考えたように見せかけているということを仰っているのでしょうか。でも、どの点を持ってそんな思いが出てくるのか全く見当がつきません。もともと、「言語ゲームに他者は必要か」というのも、「電柱に痛みを感じることができる」というゲームを行うのにいちいち社会の承認を得なくても自分ででっち上げても有意味なゲームになり得る…ということを言いたいがために考えたことでもあります。だから、工藤さんからはこの内容は全否定だろうと思っていたのですが、逆に自分のアイデアから取ったみたいに思われるなんて驚きです。

>僕のコメントを理解して頂けたようで嬉しく思っております。

についても、工藤さんのコメントのどこと僕の考えが結びついているのか全然わかりません。
【僕としては、逆に心外に感じています。どの部分についてどこから僕の考えでないとお考えになったのか、一般の人にも納得できるように詳細を明らかにしてもらえませんか。】
それとも、僕の勘違いで、盗用とかそういうことを仰っているのではないのでしょうか。


2.
>数だけで【表現されている】―ならば、何故それが【建築図面】と呼ばれるのか

その指示に従って建築を仕方を一意的に決められて、建築の為の見本となりえるからです。


3・
>横山さんの仰る「個人的な言語ゲーム」を為し得る者、或は生まれつきの昏睡患者に対して「(横山さんの仰る)解釈」を与える者は【何処で】【誰から】言葉を学んだのでしょうか?

言葉を学ぶのは工藤さんの好きな「自得」でしかありません。どこかで誰かから教えてもらったのでしょうが、それは誰かの言語をそのまま与えられたのではなく、状況に合うように自分で発明したものがまたま他者と通じ合ったときコミュニケーションツールになるというだけのことではないでしょうか。・・・こういうことをお聞きになっているのではないのでしょうか。質問の主旨が分かりにくかったので偏った回答になっていたらごめんなさい。

>確認ですが、【横山さんの想定における「部屋の中の私」は①有機体(ヒト)であり②言語ゲームの成員(日本語話者)として認められた人物】ですよね。・・・云々・・・指示に従う(従わない)ことも出来る筈だetcというトリビアルな指摘で、サールの思考実験をナンセンスだと決め付けるのは早計でしょう。

というのは僕の文を誤解されているとしか思えません。理解できないので回答できません。

わかるひとを相手になさってはいかがですか。僕にはさっぱりわかりませんし、理解してもらおう努力している表現にも見えません。相手を非難しようというのなら、その非を説明しなければ話になりません。わかるひとに分かればいいと言うことでしたら、どうぞよそでやってください。そしてその、僕には理解不能な盗用騒ぎで人を馬鹿にするのも、よそでやってください。
ここでやる限りは、どこがどう盗用だと言うのか、万人が納得するような説明をしてください。それが他人が罪人だと非難にしようとする人の責任です。それもできないで「分かる人には分かる」では無責任です。
僕は全く盗用していませんから、それができないなら謝ってもらいたいです。

僕のどの表現が、工藤さんのどの表現からアイデアを盗んだとお考えなのか、それをはっきりしてほしいと言っているのです。

〉僕が考えた??―知的誠実とは

という工藤さんの表現を問題にしています。上の本文が僕が考えたものではなく、人が考えたものだと仰るのなら、誰のどの表現からアイデアを持ってきたものと考えているのかを、明らかにしてもらいたいのです。
それができないなら、
〉僕が考えた??―知的誠実とは

などと言って、僕を馬鹿にしたことを認めて謝って下さい。

残念ですが、工藤さんのコメントを参考にして、作文した箇所は全くありません。どこをどのように参考にしたとお考えなのか、以前の僕のブログを読んでもらえれば工藤さんを参考にしていないことははっきりするでしょう。
また百歩譲って参考にしていたのだとしても、
〉僕が考えた??―知的誠実とは

という表現には問題があることは認めなければならないのじゃないですか。100パーセント工藤さんのアイデアを持ってきたような馬鹿に仕方。

以前、デイヴィドソンの三角測量を紹介してもらいましたけど、僕はそれを批判的に読んで哲学的考えを進められました。
この点は参考になりました。
参考になったこで思い当たるのはそのくらいでしょうか。
それで知的誠実を責められても、かないません。

人の誠実を責めるのに、自分は謝らないというのですね。

工藤さんの考え方を理解することができたように思ったので、その説明に対するお礼を述べたことはありますし、ブログ本文が誤解を呼ぶ書き方であることが、工藤さんやウラサキさんのコメントから分かったので、その誤解を「参考」にして文章を書き替えたことはあります。その点についてお礼を申し上げたことが、哲学的思索の参考になったと勘違いさせたのかも知れません。紛らわしい表現があったことをお詫びします。
また、知らず知らずの内に様々な影響を受けているでしょうから、その点に関してもお礼を申し上げます。
しかし、残念ながら、工藤さんのコメントから新しいアイデアをいただいたことはありませんし、それを自分のアイデアのように偽って作文したこともありません。
ですから、自分が考えたという発言が誠実さを欠いていたような物言いに対しては、撤回して謝罪してもらいたいです。

> >上の本文が僕が考えたものではなく、人が考えたものだと仰るのなら、誰のどの表現からアイデアを持ってきたものと考えているのかを、明らかにしてもらいたいのです。

僕の「スワヒリ語の部屋」に対する工藤さんのコメントから、僕がアイデアを得たとお考えのようですが、そのコメントは僕には未だに意味不明で盗用するも何も最初から意図の分からないものとしてしか考えていませんでしたので、無意識にでも拝借していたという可能性もありません。

ご指摘の内容をどこからもらったのかというご質問ですが、それは当然ウィトゲンシュタインです。「探究」です。わざわざ、工藤さんから貰わなくても、一般的で古典的なアイデアですし、本文でも本論のための準備の序論、「前提」でしかないとかいていたはずです。そんな常識的なアイデアまで自分発信だなどと言われるのなら、何も言えなくなります。
工藤さんは自分の考えだしたアイデアだとお考えだったのですか。

 横山さん、楽しんでおられるのなら別に良いのですが、返答に義務感を感じておられるのなら、時間と労力の無駄遣いですよ。

 

ウラサキさん

ありがとうございます。
ご忠告に従うことにします。

工藤さん

残念ですが、撤回も謝罪もされるつもりがないということでしたら、入室を拒否します。どうぞよそで理解ある方とやりあってください。

「個人的な言語ゲームと私的言語は違うものとして有意味に存在するのだ。」

そうじゃないかな、と思ってました。

私とか普通の人は、privateについて、私的言語と個人的な言語ゲームを一緒にしていて、私的言語が無いというと、privateが無くなってしまうような感じがして、違和感を感じるんだと思います。

ただ、私的な言語ゲームではなく、個人的な言語ゲームと言うところが、あくまでも任意なんだというところなんですね。

taatooさん、コメントありがとうございます。

たしかに、重度のALSでコミュニケーションが難しくて、他者との意思交換や意思確認ができなくても、個人的な思考は可能なのだろうと考えてはいます。

ただし、このあとに但し書きを入れて考える必要があるということを問うていこうと考えています。

ただし、こうです。

この患者が記憶障害をもっていて以前考えたことと今の思考を比べたり、5分前に使っていた自分の言葉づかいと今の言葉づかいとを比べたりするという次元の比較さえも難しいほどの、狭い思考世界に閉じ込められていたとしたら、この人の言語は意味を持つための確認の場を保持できなくなってしまい、その人の言語は私的でナンセンスなものでしかなくなってしまうのではないでしょうか。

そうであると、他者なしでプライベートな思考が為し得るかという問いは、肯定しがたくなってくるのではないかと考えられます。
つまり、一般的な他者だけでなく、過去の自分までを「他者」として考えることにするのなら、ということなのですが、そう考えると言語に意味を持たせるには「他者」が必要だと言っても間違いではなくなってきます。

この先、デイヴィドソンやデリダを読みながら、そのあたりを考えていきたいと思っています。

 結果報告、哲学同好会でもお持ちしております。

ウラサキさん、ありがとうございます。

大阪哲学同好会での発表、同好会の皆さんがよろしければ、6月か7月くらいにさせてもらいたいと思います。
サール対クリプキパトナムとセラーズの論争、あるいは、できればデイヴィドソンもからめて、「世界を知る」とは如何なることなのかを考えたいと思っています。

デリダデリダと言っていますが、デリダはなかなか読めていません。この内在外在論争を僕なりの「差延」理解に繋げたいと目論んでいます。

 5月が空いてますが、まだ早いでしょうか?

 あまり内容豊富だと参考図書読むだけでも大変そうですので、出来れば小分けに発表していただいた方が良いかと(^^;)

 個人的にはサールVSクリプキ辺りが特に興味あるところです。パトナムは学生の時、"the meaning of meaning "を読む授業にちょっとだけ出たことがあります。デイヴィドソンやセラーズ名前は知ってますが1行も読んだことがありません。デリダはちょっと抵抗感があります(^^;)スルーしていただいても良いのではないかと、、、。

ウラサキさん、

申し訳ないのですが、5月は自信がありません。4月から職場が変わるのですが、転勤した4、5月はいつも精神的余裕をなくしてしまいますので、発表の準備するのがきつくなると思えます。ワガママですみませんが、6月7月でお願いします。
内容はサール対クリプキパトナムあたりに絞ったものにします。それなら、サール「志向性」1冊で網羅できます。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 言語ゲームに他者は必要か<意味の意味-1>:

« 「語り得ないこと」の向こう側はいかようにも語り得ないか | トップページ | 意味の内在説と外在説<意味の意味0> »