フォト
無料ブログはココログ

« 2014年横山が当面の勉強したいこと | トップページ | 言語ゲームに他者は必要か<意味の意味-1> »

2014年1月13日 (月)

「語り得ないこと」の向こう側はいかようにも語り得ないか

taatooさん、興味深い質問ありがとうございます。すごく興味深いので、回答を新しいブログページとしてアップさせてもらいました。

まず僕が
「僕の立場で言うと、「私的言語」によって世界を捉え得るかという「観点」はあり得ません。「私的言語」自体が有るかという「観点」はナンセンスです。しかし、「私的言語」と「言語」の境界を考えようとする「観点」は有意味になる可能性があります。」
というコメントを挙げたのに対して、
taatooさんが
「境界は向こう側を想定するからこそ、境界じゃないですか。向こう側を否定するなら、境界も必要ないことないですか。潔く「私的言語」は無い、でいいのでは。「私的言語」と「言語」の区別は無く、在るのは「言語」だけ。けど反転して、それが「私的な言語」だったりして。」
と反論したことに対して回答する。

たとえば、「ヘンピオ」という文字列について「語り得ないことについての推論1」を考える。
「ヘンピオ」はいかなる言語ゲームでどのように働くかという使用法が決まっていないのだから、「『ヘンピオ』にどんな意味が有るのか」と問われたとしても答えようがない。だから、「ヘンピオ」はナンセンスである。
しかし、
「『ヘンピオ』という文字列は言語ゲーム上で使用法が決まっていないのでナンセンスである」と発言してしますとすると、パラドクスに陥る。なぜなら、その発言の中で「ヘンピオ」は言語ゲームに乗ってきちんと使用されているからである。
それゆえ、「語り得ないこと」の向こう側についてはいかようにも語り得ないことになってしまう。それが語り得た時点でそれは「語り得ないこと」ではなくなってしまうからだ。
以上。「語り得ないことについての推論1」

さあ、この推論1は正しいだろうか。僕は間違っていると思う。「ラッセルのパラドクス」と同じ混乱があるように思う。
「3・333 関数自身をその関数の入力項にすることはできない。…関数F(fx)が自分自身の入力項になり得たと仮定してみよう。そのとき「F(F(fx))」という命題が存在することになる。ところがこの命題において外側の関数Fと内側の関数Fは異なる意味を持っているのでなければならない。…かくして、ラッセルのパラドクスは片付く。」(ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」)
「ラッセルのパラドクス」では、その内容を{x|x∉x}のように集合として考えると「自分自身の中に自分自身を含まない」と読まれてしまい、そして、この「自分自身」という言い方が「自分が自身に代入され、それが無限に循環し続ける」というイメージにつながってしまい、パラドクスになる。しかし、これを、F(Fx)のように関数として読むと、「某かのことを2回施す」と読まれることになる。xに対して内側のFが働いてFxにし、さらにそのFxにそとがわのF( )が働いてF(Fx)にするという意味に読まれるのだから、これは無限に循環するイメージには、ならない。
詳しくは「集合と関数はどう違うか」http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/7-71db.htmlのページを参照。
「ラッセルのパラドクス」では、集合として考えると無限循環に陥ってパラドクスになるが、関数として考えれば(矛盾になる場合があったとしても)パラドクスは生まないのだ。
同様に「『A』という文字列は言語ゲーム上で使用法が決まっていないのでナンセンスである」という発言についても、「A」の意味が語り得ないと言っているその意味を集合的なものとして捉えるとパラドクスになってしまうのだが、語の意味は「初めからすでにして決定しているような集合的なもの」ではないと考えるべきなのだ。「『A』という文字列は言語ゲーム上で使用法が決まっていないのでナンセンスである」という発言をしたときにそれまでになかった新しい言語ゲームが生まれたと考えるべきであって、この発言においての「『A』の言語ゲーム」なるものには、この発言自体が適応されないと考えなければならないのだ。

だから、「「語り得ないこと」の向こう側についてはいかようにも語り得ないことになってしまう。」とは限らない。新しい言語ゲームを生み出したなら「語り得ないこと」の向こう側は語ることができるからだ。しかし、そこで語り得たことは最初の「語り得ないこと」とは別物になるのではないかという指摘をされるだろう。その指摘は正しい。だが、それでも、「ヘンピオ」はナンセンスであり、「『ヘンピオ』はナンセンスである」ということは有意味であり、さらにこれが有意味だということも有意味だとできるのである。
それゆえ、語り得ることと語り得ないことの境界を考えることは、確かに有意味な作業として立ち上げられるのである。

以上、質問に対する回答。おわり。

taatooさんどうでしょう、肩透かしになってしまってないでしょうか、ちゃんと答えられてたでしょうか。
とても面白い論点を提出してもらって大変ありがたかったです。この論点はさらにもっと考えると面白いアイデアが出てきそうな気がします。引き続き考えてみたいと思います。

横山

« 2014年横山が当面の勉強したいこと | トップページ | 言語ゲームに他者は必要か<意味の意味-1> »

コメント

随分ややこしい言い方をしてしまいましたが、
要は、「ヘンピオ」自体はナンセンスだったとしても、「『ヘンピオ』はナンセンスだ」がナンセンスになるとは限らないから、有意味とナンセンスとの境界を引くことは問題なくできるということを言いたかったのです。

ありがとうございます。反論になってなかったですね。くりだしたけど、かすりもしてないって感じです。

境界は、究極的には二元論を導くと思います。師匠の言う一元論なら線を引くのはおかしいと思ったのです。

集合では矛盾するが、関数では矛盾しない。つまり、関数という言語ゲームでは矛盾しないという話ですよね。私は、世界は関数より集合に近いように思います。矛盾だらけです、世の中。哲学は数学とイコールではないってことは、言えるんじゃないかと思います。

それに「ジャイアンツが大好きで、アンチジャイアンツ」だって、阪神ファンにとっても、きっと矛盾じゃないかと思うんですけど。


「巨人が大好きだけど、巨人の敗戦を望んでいる」という状況は一見奇妙でアブノーマルだけど、矛盾してはいないですよね。
「『A』なる文がナンセンスだったとしても、『Aはナンセンス』なる文は有意味である」って状況も一見奇妙だけど、矛盾してはいないのじゃないか、と思うわけです。

僕は阪神の優勝を望んでいる、ノーマルな阪神ファンですが。

 哲学の場合、「興味あり」ってのと「説に賛同・納得できる」の間にはかなり差があるように思います。私もそうなのですが横山さんも永井均の説に興味はあれども賛同・納得するには程遠い、ってのが実情ではないでしょうか?

 かつて養老孟司が大森荘蔵について「批判もしたし、皮肉も言ったが、それさえもしたくない、ってのが通常の哲学なのである」って書いてたけど、私は例えば鷲田清一や内田樹なんかを、敢えて批判する気にはなれません。永井均は何故か批判したくなりました。

アンチって実は鏡に映った私。映っているけど実は私はいなくてアンチだけ。

「G大好き」は意味論的で絶対的。「アンチG」は論理的で相対的。それが一緒になった文を、意味論的に見るとアブノーマルだけど、論理的に見ると矛盾じゃない。

かわいさあまって憎さ百倍とか、いやよいやよも好きのうちとか、愛と憎しみの反転とか。これは、違いますね。

「数学では<無限>という語は避けるべきであろうか」
然り。この言葉の意味が先ず計算から得られるのではなく、この言葉が計算に意味を授けるように見えるところでは。
―ウィトゲンシュタイン


計算の中に<無限>が見出せなかったからといって、失望したように振舞うのは、無論どうかしている。
翻って、我々に「無限」という語の意味を与える日常的な使用は如何なるものか、又この語とこれらの数学的計算との関係はどうか―と問うのは、少しもおかしなことではない。
―ウィトゲンシュタイン


有限主義と行動主義は全くよく似た動向である。両者共「ここにあるのは~に過ぎない!」と言う。両者共、或る混乱から脱出する為に或るものの存在を否定する。
―ウィトゲンシュタイン


彼らは【我々の日常的な言語ゲーム】を拒否しようとしているのであるから。-略- 件の(有限な、或は行動に関する)言明は、我々の言語ゲームにおいて、「内的」状態とか無限を含む数学的「関数」について語る【言明が演じる役割】を肩代わりすることは出来ないのである。―クリプキ

指示・伝達・並列不可能な[固有名を与えられた身体から開けた生]を永井均氏の言う 身体や自己意識との関係が偶然的な<この私>(なる概念的構成物)と混同している人達もいるようですが・・・

アレレのレ~

指示・伝達・並列不可能な[固有名を与えられた身体から開けた生]を永井均氏の言う 身体や自己意識との関係が偶然的な<この私>(なる概念的構成物)と混同している人達もいるようですが・・・

指示・伝達・並列不可能な[固有名を与えられた身体から開けた生]を永井均氏の言う 身体や自己意識との関係が偶然的な<この私>(なる概念的構成物)と混同している人達もいるようですが・・・

いったい何のゲームのされているのか。僕にはさっぱりわからないのですが。
嫌味にならないように丁寧に哲学的な問題点をはっきりさせるように、お互い努力をしていきましょうね。

工藤さん、

「指示・伝達・並列不可能な[固有名を与えられた身体から開けた生]」が永井の<私>ではないのなら、たとえばハイデガーの「現存在」に近いものだったりするのですか。

これまで、何度も使ってこられたフレーズですが、僕はずっと<私>に近いものだと思っていました。「指示・伝達・並列不可能な[固有名を与えられた身体から開けた生]であり、<私>ではないもの」というだけでそれを理解しないことを非難する、というのは些か無茶ぢゃないかと思ってしまいます。さらなる説明を求めます。

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


>「指示・伝達・並列不可能な[固有名を与えられた身体から開けた生]であり、<私>ではないもの」というだけでそれを理解しないことを非難する、というのは些か無茶ぢゃないかと思ってしまいます。さらなる説明を求めます。


「指示・伝達・並列不可能な[固有名を与えられた身体から開けた生]であり、<私>ではないもの」というだけでそれを理解しないことを非難する?? ―あれれ、これは完全な事実誤認、捏造ですね。それとも知らぬ振りを決め込んでおられるのでしょうか?

これまで僕が語ってきたこと(以下はその一部に過ぎません)
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-8021.html#comment-82417387
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79760625
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79764030
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79765580
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79767695
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79770734
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79821553
を読めばお解り頂ける筈なのですが・・・

現に知人のK君やT氏やFさん・・・は僕の話を僕の意図した通りに理解してくれます。

(既に縷言した筈ですが・・・念の為)
様相的文脈における一人称代名詞の使用―例えば、「私は今現に横山信幸だが、クレオパトラやヒトラーや(白熊クヌート)でもあり得たし、横山信幸が存在しても私が存在しないこともあり得た」―から身体的存在者や自己(反省的)意識との関係が偶然的な《私一般》~<この私>なる形而上学的存在者―概念的構成物―が仮構されるわけです。主体概念の内容的規定である《私一般》と<この私>が相補的な在り方をしている―我々・君たち・彼ら(各々の私)、君・彼(他の私)、私(この私)―ことは以前お話ししたと思います。

翻って、指示・伝達・並列不可能な[工藤庄平なる身体から開けた生]

工藤庄平以外の存在者も見たり触れたり出来る工藤庄平なる身体的存在者
は不可分です。

工藤さんの意図した通りに理解してくれる理解者がおられますか。しかし、残念ながら僕には理解できていません。
理解できていないのは残念ですが、揶揄されるべきことではないと思います。
理解されていないと思われた場合に揶揄するのではなく、さらなる説明の方法を探るようにしてもらえるとありがたいです。

それとも、揶揄ではなかったのでしょうか。これまでにも、このコメント欄では相手の不理解を理由に人を馬鹿にすることは慎んでもらいたいと訴えてきました。再度、確認しあいたいと思います。

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


>工藤さんの意図した通りに理解してくれる理解者がおられますか。しかし、残念ながら僕には理解できていません。


理解して頂けないのは残念ですが、↓事実に反する主張

>「指示・伝達・並列不可能な[固有名を与えられた身体から開けた生]であり、<私>ではないもの」というだけ

は頂けないですね。

http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-8021.html#comment-82417387
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79760625
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79764030
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79765580
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79767695
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79770734
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79821553

師匠、申し訳ありません。私は見かけほどは永井信者でないということを、周りの方々にわかって頂きたかったのです。

そこで、工藤さんに質問をさせて頂きたいと思います。工藤さんは以前、クリプキの本を片手に、自分はスピノザ主義者だと告白されていましたが、スピノザと言語哲学がどのような線で工藤さんの内でつながっているのか、ご教示頂ければと思います。

私は、工藤さんの「あれれ」が、とても好きで、久しぶりに「あれれ」を見て感動致しました。

先日の横山さんの↓コメント(2014/1/21・22)
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-2d19.html#comment-86377010
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-2d19.html#comment-86379453
>「指示・伝達・並列不可能な[固有名を与えられた身体から開けた生]」が永井の<私>ではないのなら、たとえばハイデガーの「現存在」に近いものだったりするのですか。これまで、何度も使ってこられたフレーズですが、僕はずっと<私>に近いものだと思っていました。
>工藤さんの意図した通りに理解してくれる理解者がおられますか。しかし、残念ながら僕には理解できていません。

過去の↓それ(2012/11/25)(2013/2/18)
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-df6f.html#comment-74695436
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-df6f.html#comment-74698644
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-881e.html
>工藤さん、早速の回答ありがとうございます。
<私>の形而上学を解消する ―《私》の文法的構成と<私>なる錯誤―
http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20111207/1323255564
の永井批判についてと
「唯独性」についてとは、おかげで、おぼろげに理解できました
>本はその中に書かれている物語や思想の内容がその本質であろう。本の表紙がなくても、紙がなくても、文字がなくても、その中味が読者の心に届くのであれば、その本は存在意義があると言えるだろう。
しかし、文字なくして、紙面なくして、装飾なくして、その内容は読者に伝わることはない。豊かな装幀を持つ本はその中味を豊かに読者に伝え、豊かな時間を持たせてくれる。
それゆえ、本はその中味だけが本質だというのは誤った思い込みなのだ。装幀があってはじめて本はその本質的な意味を持ちえるのだ。
装幀があってはじめて一冊の本なのだ。
人間の生命は、その精神、ものを思い、感じる内容がその本質であろう。人間の髪の毛がなくても、手足がなくても、脳がなくても、思考や感情が存在するのであれば、その生命は存在意義があると言えるだろう。
しかし、視覚なくして、皮膚感覚なくして、世界を実感することはできない。豊かな感覚を持つ身体は自然環境を豊かに感じることができ、豊かな時間を持たせてくれる。
それゆえ、人間の生命は精神だけが本質だというのは誤った思い込みなのだ。身体があってはじめて生命はその本質的な意味を持ち得るのだ。
身体があってはじめて一人の人間なのだ。

を読み比べて頂きたい。

http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-2d19.html#comment-86378310
知的誠実とは何か?

>工藤さんは以前、クリプキの本を片手に、自分はスピノザ主義者だと告白されていました


僕は所謂「スピノチスト」ではないと思いますが、『エチカ』を[現実=諸事物のネットワーク]に即した哲学に鋳直したという自負はあります。


>スピノザと言語哲学がどのような線で工藤さんの内でつながっているのか


事物観察・内省・概念分析によって真知へ至る途、です。

ありがとうございます。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/548679/58941012

この記事へのトラックバック一覧です: 「語り得ないこと」の向こう側はいかようにも語り得ないか:

« 2014年横山が当面の勉強したいこと | トップページ | 言語ゲームに他者は必要か<意味の意味-1> »