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2014年1月12日 (日)

2014年横山が当面の勉強したいこと

遅ればせながら、明けましておめでとうございます。

今年もウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」と「私的言語批判」を軸にして言語論と存在論について思索を深めていきたいと思っています。本ブログもちょうど切りよく心の哲学についてひと段落出来ましたから、新年は「言語が意味を持つことと、他者と、時間について、その関係性」を考えていきたいと思い、デリダを読んでいます。でも、デリダを読むには、その前提としてフッサールやハイデガーなどを理解していないといけないので、大陸哲学周辺をいろいろと読み漁っているところです。

しかし、デリダにしても、フッサールにしても、ハイデガーにしても、どうしてこの系統に人たちは独りよがりな言葉づかいに走るのでしょうか。フッサールの「Sinn」と「Bedeutung」はフレーゲの位置づけた意味とは全然違うみたいですし、ほかの人も勝手な言葉遣いをしているようで読みにくくてしょうがありません。読むのにずいぶん時間がかかってしまうのは、それそれの哲学のユニークさのせいもあるでしょうが、表現のユニークさのせいの方が大きいように思います。それで、このブログを書き足していけるようになるにはもう少し時間がかかりそうです。

本ブログの今後の方向性として具体的には、ウィトゲンシュタインのいう「私的言語」がどこまで不可能なのかを考えるために、言語と他者の問題をフッサールの「現象学」やデイヴィドソンの「三角測量」の視点から考える。そして、言語と他者とのかかわりにおいて、「他者とは何か、過去の自分はその意味での他者たり得るのか」という視点でデリダの「差延」を読んでいく。そして、過去の自分を振り返ることができれば、私的言語に陥らずに言語を意味付けして世界を捉えられるようになるのか、を考えてみたいと思っています。

そのために今読んでいるのが次の資料です。他にも良いものがあれば教えてもらえるとありがたいです。

立松 弘孝「フッサールセレクション」
竹田 青嗣「超解読! はじめてのフッサール『現象学の理念』」
ジャック デリダ「声と現象」
ジャック デリダ「有限責任会社」
東 浩紀「存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて」
ジェフ コリンズ「デリダ」
高橋 哲哉「デリダ」
宮坂 和男「哲学と言語―フッサール現象学と現代の言語哲学」
ヘンリー ステーテン「ウィトゲンシュタインとデリダ」
古東 哲明「ハイデガー=存在神秘の哲学」
ドナルド デイヴィドソン「主観的、間主観的、客観的」
 

では、今年もよろしくお願いします。

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コメント

あけましておめでとうございます。いつもしょうもない質問に回答いただきありがとうございます。本年もこりずによろしくお願いします。

デヴィッドソンの本は普通の図書館には無いので、野矢さんの航海日誌を読んでいます。個人個人の解釈、個人個人の言語ゲームがあるみたいで、結構自由ないい感じです。

しかし、やっぱり「私的」という観点は、無いんですかね。横山さんが、何かを語る時、視点とか観点とかのスペースは、想定しないんですか?仮の「私」とか?交換可能な「私」とか?言語とか記述そのものとか?

自分が自分にならないで誰が自分になる。(byみつお)

  横山さん、あけましておめでとうございますm(_ _)m

横山さんも哲学関連の好奇心旺盛で喜ばしい限りです。成果の一端を又、大阪哲学同会にて発表していただければ幸いです。

 取り敢えずは次回1月19日(日)「誤診の誤診」期待しております。

taatooさん、コメントありがとうございます。

今年もよろしくお願いします。

「デヴィッドソン」は「デイヴィドソン」という表記で登録されていることが多いので、もしかするとそちらで検索するとヒットするかもしれません。一度試してみてください。

「私的」についての有無の問題は「私的」という言葉の差す内容によって変わる微妙な問題だと思います。
僕がいつも考えようとしている「私的」は、ウィトゲンシュタインが
「そのような言葉はそれを話している者だけが知り得ること。それゆえ他人はこの言語を理解することができない」
と示した意味での「私的」で、原理的に他者に伝えることができないものです。
そして、他者に伝えられないような語の意味内容は自分自身でも捉えられないという論拠において、誰もその意味を知らない言語もどきでしかない、とするのが僕の立場です。

たとえば、永井均が「『私』と『今』とは同じものの名前」と言ったり、ハイデガーが「事実的生経験」と言ったりした内容は、かなり私的な内容に切り込んではいるが他者にとっても理解可能であるのだから、その意味では僕の言う「私的言語」には当たりません。しかし、永井やハイデガーがそれらの言葉によって本当に意味したかったものは、おそらく他者に伝わりえないさらなる「私的」な内容だったでしょうから、そこまで突っ込んでその意味を捉えようとするとそれらは「私的言語」と言っていいものになるでしょう。ただし、その内容は永井やハイデガー自身でも捉えられていなかったはずだというのが、僕の立場ですが。

「自分が自分にならないで誰が自分になる」という表現においても、どこまで他者に伝わりえるか、どこからは原理的に伝わりえないのかという、境界から向こう側が僕の言う「私的言語」です。
横山が、何かを語る時、視点とか観点とかのスペースや、仮の「私」や、交換可能な「私」や、言語とか記述そのものとかを、もちろん想定します。しかし、その内容において原理的に他者に伝達可能なことがらについては、自分でも何を考えているか掴み得るけれども、原理的に他者に伝達できないような内容は自分でも何を考えているか掴み得ないような内容でしかないという立場です。

こうした「私的言語はその理解不能性ゆえに言語ではない」という理由から、私的言語に意味があるとか無いとかいうのは、ナンセンスだと考えてはいます。でも、言語においてどこまで有意味であり、どこから無意味になったりナンセンスになったりするかと考察すること自体は、有意味だと思います。

僕の立場で言うと、「私的言語」によって世界を捉え得るかという「観点」はあり得ません。「私的言語」自体が有るかという「観点」はナンセンスです。しかし、「私的言語」と「言語」の境界を考えようとする「観点」は有意味になる可能性があります。

この3つ目の観点を追っていきたいというのが、現在僕の目指しているところです。

ウラサキさん、

ありがとうございます。今年も大阪哲学同好会でもよろしくお願いします。ちょっとごたごたした「道場」の方ともいっしょに盛り上がっていけるような年にできたらいいですね。

ウラサキさんの「ここが変だよ!永井均」も楽しみにしています。
上のtaatooさんへのコメントの返事でも触れましたが、永井のいちばん「変」なところは自分でも語りえないと認めながらも私的言語的な独我論内容を語りつづけたり、私的言語が有意味だと公言したりするところにあるように思います。
僕は実は「永井大好き派」なのですが、でも同時に「反永井派」ですので、「ここが変だよ」はすごく楽しみにしています。

「デイヴィドソン」ですね。承知しました。それから、「byみつお」は「byみつを」でした。訂正致します。

さて、年始早々、師匠に反論です。

境界は向こう側を想定するからこそ、境界じゃないですか。向こう側を否定するなら、境界も必要ないことないですか。潔く「私的言語」は無い、でいいのでは。「私的言語」と「言語」の区別は無く、在るのは「言語」だけ。けど反転して、それが「私的な言語」だったりして。

横山さんの「永井大好き派」で「反永井派」っていうのが、わかるように思うんですけど、「ジャイアンツ大好き」で「アンチジャイアンツ」って、無意味な気がするんですが、どうでしょうか?いや、これこそ反転かも。

師匠、さすがですね。宮坂さんの本、面白そうです。読みたくなりました。

ドイツの現象学の大御所で、ロム・バッハという人がいます。そのロム・バッハとフッサールとソシュールを合わせて、科学論を展開している西條剛央という人がいます。西條さんの「構造構成主義とは何か」という本は読んだことがあります。

デリダは出てきませんが、現象学周辺としては面白いと思います。ソシュールも出て来ますし。

taatooさん、ありがとうございます。

「構造構成主義とは何か」ですね。残念ながら私の町の図書館には無かったので他を当たってみます。

「ロム・バッハ」ではなく「ハインリヒ・ロムバッハ」でした。すいません、訂正致します。きっとバッハの親戚筋だと最初思いこんだのがいけませんでした。

つい最近まで、「にしだきたろう」を「にしだいくたろう」と読んでいました。これも最初まさかあの「鬼太郎」と同じ読み方じゃないだろう、という思い込みからでした。

どうして、すんなり皆と同じ記憶にならないんだろうって、哲学やわ~。

きっと、お前の能力の問題やろって言われますね。

①「私は他人の痛みを感じることが出来ない」→「私」「痛みを感じる」「他人」という語の内容的規定に基づく文法的不可能性。

②「島朗氏は永井均氏の痛みを感じない」→前言語的な[事実=事物の在り方]に基づく。

*①文法的注釈と②存在論的な事柄を混同している人もいるようですが・・・

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