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2013年12月 1日 (日)

「言語論的一元論」と「存在論が言語論に頼らないとダメなわけ」<心は実在するか20>

ウィトゲンシュタインに傾倒している僕にとっては存在論が言語論に因っているのは当然の話である。ところが僕のまわりには、言語論に頼らない存在論があり得ると考える人が結構いて、僕を驚かす。

彼らは、言葉によって語ることができないような「本当」のことが有ると考えているらしい。言葉によって語ることができないような「本当」のことが有るなどと語ることにどんな意味があるのだろうか。彼らは、人間には検証ができなくても神ならばその正しさを判別できるような「本当のこと」があると言うのだ。しかし、ここで言う「本当のこと」に意味が有ると考えるのは誤解だ、と僕は考えている。人間には本当かどうかを確かめられないから意味がない、と言っているのではない。何が本当のことだと言っているのか自分でも分かっていないから意味がない、と言っているのだ。

私的言語は、言語にはならず語り得ないが何物かを指示していると考える人がいる。しかし、私的言語は言語ゲームにおいて何もその同一性を担保する基準がないので、自分でも何を言っているか分からないような「言葉モドキ」でしかないと、僕は訴えているのだ。

たとえば「クオリア」、「反省的に言語化することができないような現象的意識の質としてのクオリア」この言葉に意味がないことを「クオリアとゾンビと現象判断のパラドクスがダメなわけ」のページで考えたが、同一性を担保するための機能性をその語が持たないのであればその語の意味する対象は有るとも無いとも言うことのできない、ナンセンスでしかなくなってしまうのだ。「クオリア」は有るとも無いとも言えないようなものなのだ。(しかし、この「クオリア」を「クオリアを捉えているから私はゾンビではない」と言って自分がゾンビではないことを確かめたことに意味を持たせることにするような「ゲーム」を「言語ゲーム」として捉えるのであれば、その「クオリア」は有意味である。ただし、このクオリアは「言語化可能で機能のあるクオリア」に成り下がってしまってはいるのだが。)

たとえば「自由意志」、「仮に他の行為をしようと思っていれば他の行為をすることができていたという意味での自由意志」この言葉には意味がないことを「運命からの自由を問うてはダメなわけ」のページで考えたが、その真偽を検証する具体的な方法を持たないような語はどんな時に真でどんな時に偽になるのかを誰も知らないような語だと言える。つまり、その語が真であるとは如何なることかを誰も知らず、もちろん話者本人も知らないようなナンセンスでしかないのだ。(しかし、この「自由意志」を「しようと思ったからできた」とか、「しようと思ったらできる」とかと言って自分に自由意思があることを確かめたことに意味を持たせることにするような「ゲーム」を「言語ゲーム」として捉えるのであれば、その「自由意思」は有意味である。ただし、この自由意思は「後付けの意味での自由意思」や「常に確認できてしまうような自由意思」でしかないものに成り下がってしまってはいるのだが。)

では、ウィトゲンシュタインのいう言語ゲームによる解釈での「心の哲学」はどんなものになるのだろうか。前節までで唯物論批判の8つのアイデアがダメなことを考えてきた。唯物論批判がダメだというのだから唯物論が正しいということだろうか。そうではないのだ。ウィトゲンシュタインの「心の哲学」は唯物論でも唯心論でもなく言語ゲームから一元的に捉えられるべきものだと考えなければならないと、僕は考えている。これを「言語論的一元論」と僕は呼んでいる。

言語ゲームだけが語に意味を持たせ語を語として働かせ得るのだ。その視点で見てみると、「『本当は』世界は物質だけで出来ている」とか「『本当は』世界は心的存在なのだ」などと、「本当」の世界を取り出そうとすることはナンセンスである。確かに「本当は世界は物質だけで出来ている」とか「本当は世界は心的存在なのだ」などと言い合う言語ゲームを為すことも可能ではある。しかし、そんな言語ゲームにおいての「本当」など、何の意味もないか或いは「その想定で話をするような文法も可能である」というような意味のものでしかない。全然「本当の世界」の記述なんかにならないのである。

そして、この言語ゲームによって意味を形成した語は、言語ゲームとともに組合わされ世界を作り上げていく。この組合せは「論理哲学論考」で示された真理関数[p,ξ,N(ξ)]によって可能世界の範囲を広げ、その真偽の組合せによって様々な有意味命題を作り上げることになる。(言語ゲームの射程は命題のみでなく様々な言語形態を含むが、世界の有り様や心と世界の関係を問うときには命題のみを対象とするだけで足りるので、「論考」と「探究」の世界が互いに補完し合い、反発し合わないで済むと、僕は捉えている。)

言語ゲームの数が有限であるなら有意味命題も有限でしかなく、そこにある言語ゲームから作り上げられる世界は有限な命題によって語りつくされてしまう。その有限の命題から外れてしまうような世界は、単にナンセンスでしかなく。有るとも無いとも言うことができないような、何物でもなく、何物でもないのでもないものなのである。

世界が世界として存在するには言語が必要なのである。言語なしで世界の存在自体に意味が有るなどと考えたり、言語が無くても「本当のことが有り、世界は存在する」などと考えたりするとき、その「本当のこと」を、知らず知らず無意識に、自分の言語においてでっち上げているのである。言語ゲームなしでは「世界がある」ということさえ有意味にしたり理解したりすることはできないのだ。

だから、存在論は言語論に因らなければならないのだ。

 

「でも君は、痛みを伴った痛みの振舞いと、痛みのない痛みの振舞いとの間に、差異のあることは認めるだろう」認めるだって?これほど大きな差異がどこにあり得よう!「それでも、君はいつも繰り返し、感覚それ自体は何物でもない、という結論に達している」いや、そうではない。感覚は何かではないが、しかし何物でもないのでもない!結論は単に、何物でもないものが、何も言明できない何かと同じような働きをするであろう、ということであるにすぎない。我々は、ここで我々に迫ろうとしている文法を斥けたにすぎない。(ウィトゲンシュタイン「哲学探究」304節)

語り得ないことについては沈黙せねばならない。(「論理哲学論考」7.節)

つづく

<心は実在するか>

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コメント

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"あなた"=[横山信幸なる身体から開けた生]は今現に[痛み]を感じていなくても①「私は痛みを感じている」という文と②その文を真にする[横山信幸なる身体において生起する痛み]の差異を【理解している】のではないか?
ここで思いっきり力を込めて頬っぺたを抓ってみてください。
"あなた"=[横山信幸なる身体から開けた生]は①と②の差異を理解していることと今現に[横山信幸なる身体において生起している痛み]との差異を【自得している】のではないか?―という言語ゲーム。

面白く読ませていただきました。

哲学者の考えるクオリアとは、いったい何なんでしょうね。それが全く解らないのに、議論を深めていても何にもなりません。デカルトの「我あり」もそうですが、所詮、何かについて語っているつもりになっているだけのことです。問題はそこ(話すこと)にあるわけではありません。科学ではそれを具体的に現実に、ある仮定の元に実現する営みです。だから、どうしても知ることができない解らないとか、私秘的なものだとか議論することではなく、現実に「クオリア」を作らなければならないのです。だから、それをどうしたならば実際に作り出すことができるかを考えなければなりません。そして、仮にも「赤を見た」とか「痛い」とかという実現可能な構造を考えてそれを作り出したならば、それが実際の赤色や痛みでなくとも最初の一歩は踏み出せるのです。その後は逐次いいものを作り出せばいいだけです。パソコンや携帯をみればその進歩のあり方というものが解るでしょう。意識についてはあなたが取り上げている人たちよりも、ラマチャンドランとかニコラスハンフリーとかの方がより現実的で実際のクオリアについて語っているように思いますがいかがでしょうか。
日本では、下條信輔や武野純一や東畑一郎の本を一度読まれてはいかがでしょうか。

neoさん、こんばんは。コメントありがとうございます。

哲学なんか単なる言葉遊びで何の役にも立たない・・・という気分に僕もよく陥りますし、それよりも心理学や脳科学のような検証可能な学問でないと無意味だと仰るのもよく分かります。そして、それはおそらく正しい判断だろうとも思います。
でも、僕には、言語の限界というものへの興味が、科学への興味よりも強いのです。
脳科学にも興味はありますので紹介していただいた方の本にも機会があれば挑戦したい気持ちもあるのですが、今はまだ哲学で手一杯です。
「脳の中の幽霊」より「機械の中の幽霊」なのです。
哲学ではおそらく、「意識」についての現実的な知識を前進させることができないでしょう。でも、自分が何を考えているのかを問うことを問い直し、問うことの意味を考えるこで、自分の立っている場を見直し踏み固めることはできるような気がしています。

師匠の回答を美しいと思いました。美しいものを美しいと感じる瞬間にクオリアを感じます。「もどき」と言うには、あまりにも美しい何か。その美しさは、たとえ現実的でなくても、無用ではないと思っています。

taatooさん、高い評価ありがとうございます。

ある感じの中に、言語化不可能な、クオリアと言わざるを得ないような、私的な知覚が確かにあること。それがあまりにはっきりしていて、言語化不可能な事柄なのに、その存在が疑い得ないような感じがする、ということですよね。とてもよく分かって共感します。僕もよくそういう感覚を持ちます。
でも、言語化不可能な知覚が存在するというのは、検証可能で言語化可能な知覚と言語化不可能なナンセンスとを混同してしまった混乱だと、僕は考えています。
例えば、taatooさんが昨日感じた美しさのクオリアは今感じる美しさのクオリアと同じだとかどの程度違うだとかと言って比較することは可能でしょうか。比較できるのなら、それは言語化可能な対象であって言語化できない何かではないはずです。少なくともチャーマーズが示したクオリアではありません。チャーマーズの言うクオリアは今日突然生じたなどという想定もできてしまうもので、しかもその突然生じたことに自ら気づかずずっとクオリアがあったと答えてしまうようなものだからです。
そして、今日のクオリアと比べられないのであれば、自分で何を指してクオリアだと言っているのかを分かっていないことになります。明日同じクオリアがわきおこったとしても自分でそれと同定できないような認識しか持てていないからです。

言語化可能な知覚を拾い上げるときに一緒に言語化不可能な「それ」を拾えるような気がするのですが、それは原理的に不可能で、「それ」なんてものは自分で何を指しているか分かっていないナンセンスでしかないのではないでしょうか。

師匠殿

夢ってとても私的で非現実的で支離滅裂で自分で何を指しているか分からないこともあると思います。ただ、なんとか同定され言語化されているようでもあります。

夢は、「言語化可能な知覚」に分類されますか?


taatooさん、

夢が、私一人に優越的に開かれているというときの「私秘性」には、2つのレベルで考えられるようなものがあると思います。

一つは、現実的には他者の夢を知ることはできないけれど、しかし原理的な不可能ではないというレベルの私秘性A。例えば、他者の夢をそっくりそのまま体現できるような装置が発明されたという設定をすると、この私秘性Aは公共のものにされると考えられます。現実的には無理だけど原理的にはできるということです。

もう一方は、原理的に公共のものになりえない私秘性Bです。他者の夢をそっくりそのまま体現できるような装置が発明されたとしても、この私秘性Bは隠されたままというものです。

そこで、私秘性Aがウィトゲンシュタインの「私的言語」を指示することはありません。私的言語が原理的に共有できないとしたウィトゲンシュタイン定義に反するからです。

そして、私秘性Bは、夢だからこそあるような、夢による私秘性ではありません。夢でなくても原理的に共有できないような、他者と共有できないがゆえに、自分自身でも持ち得ないような私秘性だと言えるものだと思いからです。

だから、私秘性Aは言語化可能な知覚で、私秘性Bは言語化不可能な「知覚もどき」であろうと思います。

夢の私秘性Aでは、ウィトゲンシュタインが言う意味での私的言語を立証することはできないと、
そして、夢でない場合でもいい私秘性Bでは、これまで言ってきた理由で、私的言語が不可能なことが導かれると、僕は考えています。

夢と言えば、土屋賢二が、裸で何も言わない看護婦の夢を見た話をかいていました。
裸で何も言わないのになぜ看護婦だと分かったのか。これが現実の話であれば、看護婦だとする判断が正しかったのか間違いだったのかを問うことには意味がありますが、夢の内容について本当はどっちだったのかを問うことに意味はありません。
夢の内容がどこまで有意味かという問いはかなりスリリングで興味深いと思います。
その看護婦を看護婦だと考えるのは、真偽の意味に欠けるという意味で、無意味よりナンセンスというべき言葉づかいでしょう。
「円い四角」のような何を指示しようとしているのかは分かるけど矛盾しているから対象の存在はありえない「無意味」ではなく、「緑はあるいはである」のような何を指示しようとしているのかが不明な「ナンセンス」に近いように思います。
「看護婦」って、意味がはっきりしている言葉であるはずなのに夢というシュチュエーションの中では意味を失ってしまうことがあるというところにスリリングを感じます。


お尋ねの内容とはまったく関係なかったかも知れませんが、「夢」から連想したこととして書いてしまいました。

いつも懐の深い丁寧な回答をありがとうございます。

土屋さんの話、とても面白いです。無意味とナンセンスの違いを今一度確認できて、よかったです。

夢と現実が交錯するような幼児やある種の精神的疾患を持つ人にとっては、無意味とナンセンスは一緒なんでしょうね。たぶん私は、その人たちに近いのかもしれません。ただ私でなくても人は多かれ少なかれ境界線からそれほど遠くないところに生きているように思います。

すごく会いたい人がいて、現実には会えない。安いドラマのような話ですが。あまりに想いが募ると夢に見ることがあります。夢から覚めた時の失望感は大きいですが、目が覚めてからも夢での幸せな気持ちの余韻は続き、本当にその人に会ったのに近い充足感を持つことがあります。つまり、ナンセンスや錯覚でも有用なこともあるという話ですが、そんな時の夢は、きっと現実に近いんでしょうね。


taatooさん、

「夢と現実が交錯するような人にとっては無意味とナンセンスは一緒」「人は多かれ少なかれ境界線からそれほど遠くないところに生きている」

これ、とても面白い着眼ですね。意味の内在説外在説に関して一つの展望を拓く可能性があるように思いました。
僕はいまデリダ周辺を読んでいますが、それは、意味の内在外在を越えた意味論を考えるヒントがあるように思うからです。あのデイヴィドソンでさえ、内在説を否定するために外在説をとりました。僕はその内在外在のどちらも間違っているのではないかということを、本ブログの次のレポート群で考えていきたいと考えています。固定した意味論としての内在外在ではなく、その場その場の言語ゲームの立ち上げが必要で、固定されない意味論を考えなければならないとする論です。

僕はtaatooさんのアイデアからそのような意味論の考察を深められる可能性を思いました。しかし、もっと他にも色々な発展の可能性のあるすごく興味深いアイデアだと思います。

ありがとうございます。少しはコメントになったようで、何よりもうれしいです。今年も、師匠を北極星とし、航海していきたいと思っています。

久しぶりにグーグルで「永井均」を検索してみたら、永井さんがツイッターを始めてました。少しだけ森岡正博さんと「夢」についてのやりとりをしています。偶然にも師匠と「夢」の話をしたばかりだったので少し驚きました。永井さんは「人生そのものが夢」に対して森岡さんは「人生が夢であるかないかの差異はない」と応答して終わっています。森岡さんは「私的言語と公的言語の区別は無くて公的言語だけ」と言っているのに対して永井さんは「私的言語と公的言語の区別は無くて私的言語だけ」と言っていて、同じことを違う名前で呼んでだけのように見えるのですが。師匠はどう思われますか。

瞑想と色即是空とか、最近仏教へ傾倒されているんでしょうかね。

taatooさん、

例えば、「君に見えている赤は、本当は、僕に見えている緑かもしれない」という言い方をするときの「本当は」というのは私的言語を意味しようとしているように思うことがあります。
そして、この言葉の意味が取れるから私的言語も有り得るように思われるときがあります。でもそれは勘違いだというのが、僕の考えです。
例えば、僕に見えている色感覚と他者に見えている色感覚を、脳状態を比べることによって、比べるというのは可能だと思います。しかし、私的言語容認派の人は、「脳状態が同じであっても、僕に見えている色感覚と他者に見えている色感覚が本当は違うかも知れない」という発言が可能なのだということを主張するでしょう。
永井が私的言語を認めるとき、この「本当」のことを掴まえ得るように考えているのじゃないかと僕は疑っていて、だから、永井が間違っていると考えています。
僕は、森岡が意味の捉え方について書いたところを読んだことがないので、「私的言語が公的言語に一元化される」というのがどういった意味なのかを知りません。私的言語を否定 しているという点ては賛同しますが、意味の外在説の立場から語の意味を超越的に確定し得ると解釈されているのだとすれば、taatooさんの仰るように、同じ穴のむじなのように思えるので、賛同できないかも知れません。

ざっと<心は実在するか>の話題に関して横山さまの文章を読ませていただきました。
私は生命科学を少々学んだだけの人間であり哲学には明るくありませんが、読んでおかしいと思ったことについて反論させていただきたいと思います。

私が考える自由意志の定義は以下のようです。
行為者が行為そのものの内容をいかなる制約もなく選択することができる。
ということです。

しかし今日の生命科学的な定説では生命現象とはすなわち物理現象でもあります。よって意思が形成されることそのものは物理現象であると考えるのが主流だと思われます。

これらの仮説が成立するためにはいくつかの条件が真である必要があります。私に思いつくものを列挙します。
①この世界は物質により構成されている。
②物質は因果によらない振る舞いをしない。

これらの条件を世界が満たしているのならば決定論が真でなくとも自由意志が成立する余地はないと私は考えます。理由は意思を形成する主体の構成成分はやはり物質になってしまうため、意思決定直前の周囲と自身の因果のみで意思が構成されてしまうからです。
そして①、②を否定する根拠はほとんどないように思います。

過去の記事で「私がその行為をしようと思ったから、その行為をすることができた」
と考えることにより、行為者性の自由が担保されれば意思の自由が存在すると述べていましたが、私には詭弁にしか聞こえません。上述のように意思を決定する際に私が関与し、その意思を決定するには超常現象を持ち込むしかないように思えます。
つまり
「私がその行為をしようと思ったから、その行為をすることができた。」
という文章は、 「私がその行為をしようと思った」という部分が私の意思による決定、および動作ではないためこの文章の一連の動作は自由意志の発露ではないと考えられるということです。この動作が本当に自由であるのならば私がその行為をしようと発想することそのものが自由でなければ自由ではありえません。文章を読み、私は横山さまはどうも意思が肉体や行為から独立したものだと考えているように思いました。
しかし人間を含め、生物にとって体はハードウェア、意思はソフトウェアのようなものだと私は思っていますし、このようなたとえは現在の生物科学上の定説から大きく外れるものではないと思います。

求道者さん、コメントありがとうございます。
とても興味深いコメントをいただけてうれしく思います。

求道者さんの言われる「自由意志の定義:行為者が行為そのものの内容をいかなる制約もなく選択することができる。」の意味が少し分かりません。
それは、もしかすると「行為者が行為そのものの内容を因果によらないで選択することができる」という意味ですか。
そうであるなら、自由意志は「②物質は因果によらない振る舞いをしない」という条件とは必然的に重ならないと思いますから、求道者さんの言われるのは誠にもっともでその通りというほかありません。
ただ、「やろうと思ったらできる」という「僕の言う自由意志」に対する批判としてはちょっと違う話になってしまっているような気がしています。
僕の自由意志論は、求道者さんの言われているような「因果との関係を問うた、真っ当な自由意志論」を、真っ当に考えないで、ずらしたものに過ぎません。
しかし、そんな真っ当な考え方をして、「因果によらない選択をすることが自由意志だとして、因果によらない振舞いができないとすると、自由意志など無い」などという当たり前すぎる結論を出してみても仕方がない・・・・と思ったのです。で、「やろうと思ったことができると、もうそれで自由意志があるって言えることにしても良いじゃないか」と僕が訴えているのも、もちろん、当たり前の話と言えば当たり前なんですが、でも、一般の自由意志論をずらすことで、その一般の自由意志論のトートロジー性の批判をしたかったのです。
「因果によらない選択をすることが自由意志だとして、因果によらない振舞いができないとすると、自由意志など無い」と同様に「やろうと思ったことができたなら我々には自由意志がある」ってのもトートロジーとも言えるかもしれません。ただ、前者が人生を生きる人にとって本当に無意味な言葉遊びであるのに対して、後者は言葉遊びから人生に引き戻すような力があるように感じるのです。
いかが思われますか。

返信ありがとうございます。
おっしゃりたいことはなんとなくわかりましたがやはり納得はいきません。
主観世界で自由がある(やりたいと感じたことができる)ことと物質世界で自由でない(何をやりたいと思うかが自由でない)ことは矛盾しませんが、実際現在の社会では同一視されており、弱者の処遇や犯罪者の刑罰には本人の選択可能性が関係します。(責任能力のあるなし、弱者は努力を拒否しているという世論、等)。

主観の世界(共有された常識や私的な認識の世界)こそわれわれが生きている世界だというのであればなんら問題がないかもしれません。しかし現実にわれわれの肉体と精神が存在している世界は物質世界であり、そこに自由がないにもかかわらず人々が主観の認識を信頼しているならば、その齟齬を世の中に対し詳らかにすることにより人類はもっと幸せになれると思います。なぜなら、自己に降りかかる理不尽や不幸は人のせいではなく世界がそういうポジションに自分を配置してしまったせいであると実感することにより誰も呪ったり責めたりする必要がなくなるからです。
 対して主観世界の認識(やりたいことを選択できるから自由である)をそのまま素直に受け取り続けることにより得られるメリットは個々人のやる気を挙げることであると考えられています。根拠としては複数の人間に自由意志が存在しないという旨の科学論文を読ませる前後で単純作業の効率が変化した実験があるそうです。(池谷裕二著 脳には妙なクセがある より)
どちらがいいのか私にはわかりませんが、少なくとも今の世の中の人々の常識(犯罪、格差は個人の意思決定により生み出され、一般の人々は犯罪者or弱者になりえず潔白であるという考え)は私には耐え難く不快です。
 

すみません
いいたいことばかり書き連ねてしまい申し訳ありません。

私が言いたかったことは横山さまの認識のとおりです。

求道者さん、

自由意思がないから責任もないというニヒリズムは、ある意味正しいと思います。でもそれは何の情報量もない無意味な正しさだと思います。
また、犯罪に対する刑罰は、物質世界における自由(選択可能性)が無いものに対する罰だから不適切だと、仰る説は間違っていると思います。

「選択可能性が無い」というのがトートロジーで意味がないということを了解した上で言葉遊びをされているだけなら否定しませんが、そこから「刑罰が不当」等という有意味な結論を導こうとするなら、それは違います。
「選択可能性が無い」の「無い」が有意味であるためには「有る」場合を提示できなくてはなりません。「有る」場合があり得ないような対象はそれが「無い」のは単に文法の問題でしかなく、無意味な「無い」でしかありません。
「選択可能性が有る」と示し得るような状況があるでしょうか。僕には無いと思われます。だから、「選択可能性が無い」という発言も「物質世界における自由が無い」という発言も、「刑罰は不当だ」という発言も何の意味ももたないと思われるのです。

「有る」でも「無い」でもないような意味のない無さが、「選択可能性」の「無さ」だと思うのです。
運命を覆すことが可能であるとか不可能であるとか言おうとすることが無意味な言葉遊びであるように、物質世界における自由が無いと語ることも意味のない言葉遊びに思えてなりません。

ふむー
すみません勉強不足でおっしゃることの意味が理解できていないみたいです。
一度本格的に勉強してみます。

少し質問させてください。

「本当の世界を取り出そうとすることはナンセンスである。」
ということですが、その「本当」というのは一体なんでしょうか?
どこからがナンセンスで、どこまでがナンセンスでないのか。

がみさん、こんばんは。

言われてみれば、自分でも「本当」という言葉をあやふやにしか捉えていませんでした。
ちゃんと時間をかけて考えてみたいと思いますが、取り合えず今思いつく答えは、
「それがどんな言語ゲームに乗っているかにかかわらないで、かつ、アブリオリで、かつ、総合的な、真実であること」
というようなものです。

がみさんは京都にお住まいなら、大阪は近いですよね。6月22日に難波で意味論についての発表・討論をしますので、大阪哲学同好会にいらっしゃいませんか。歓迎いたします。

直接横山さんにお会いして、色々教えてもらったりしたいなとは思うんですけど、僕はとても恥ずかしがり屋なので、おそらく上手くしゃべれないです。いつかその恥ずかしいという気持ちを超えるほどに興味がわけば、お邪魔させていただくかもしれません。

僕は今言語ゲームについて、色々調べています。が、釈然とせず、疑問ばかりが浮かびます。
そこで横山さんに質問させてもらったわけです。
「本当」を取り出そうとするのはナンセンスだ、と言うならその「本当」というのは前提されていて、どこからが「本当」に該当するのか判断できなくてはいけないんじゃないだろうか?と。
その判断基準ってなんだろう?と考えると、僕がまず思い浮かぶのは「この世界(独我論的な世界)」から外れるか否かです。他人の世界とか、死後の世界など。
そうすると、言語ゲームというのは独我論を基礎に置いていることになってしまわないか?言語ゲームを一元論として掲げたりできなくて、独我論と対にならなければならないんじゃないか?と思ったんです。

言語ゲームという概念がよく分からないので、その不理解からくる下らない質問なのかもしれません。

がみさん、
では、大阪哲学同好会への来訪を気長にお待ちしています。いつでもウェルカムです。

「論考」の前期ウィトゲンシュタインが独我論的で内在論的であるのに対し、「探究」の後期ウィトゲンシュタインは実在論的で外在論的だと評されることがあります。でも、僕は「言語ゲーム」を単なる実在論や外在論として捉えるのも、もちろん独我論や内在論として捉えるのも、的を射た議論ではないのじゃないかと思っています。今、内在外在論争を勉強していまして、その「言語ゲームが内在外在論を超えた議論として捉えるべきである」という論点を、本ブログでまとめていこうとしているところです。
もしかすると、がみさんが引っ掛かっている内容と僕が考えようとしていることは近いかもしれませんね。

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