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2013年11月 7日 (木)

「意識の生物学的自然主義」がダメなわけ<心は実在するか17>

「脳過程がすべてのクオリアの原因だ」は有意味文か

サールの「意識の生物学的自然主義」の根本思想は、脳の過程が意識のメカニズムそのものだとするものである。ただ、表現レベルの問題として、脳の過程を語るときのレベルと意識を語るときのレベルとはまったく異なる。だから、「脳過程」という表現と「意識」という表現を相互に交換することができるわけではないので、「脳が意識そのものである」という言い方をすることはできない。それでも、脳過程によって意識は完全に決まるというのが、サールの考えた、意識の根本法則である。そして、サールがこの「意識」を「意味論的に世界を捉えうる存在」として考え、さらに、その意味論を言語化できない私的なものとして捉えていることを、前節で見てきた。つまり、サールは、言語化できないような私的な意識も含めて意識のすべてが脳過程によって生じ決定するのであって、脳過程がすべてのクオリアの原因だと言うのだ。
僕はこのサールの捉え方に否定的である。「意識」を私的なものと捉えるのでなければ十分に有用で、かなり魅力的な世界観であると思うが、「意識」を私的なものと考えると無理で無茶な世界観といわざるを得ないと、僕は考えている。そこで、本節では、サールの考えたような「意味論の対象として意識を捉えながら、かつ、その意識が脳過程によって完全に決定される」とする世界観がどこまで有意味であるのかを点検し、その不可能性を明らかにしたい。論展開の順番は、まず、「法則」が世界を有意味に語るものであるためには検証が必須であることを考え、それから、クオリアや非機能的な現象的意識はたとえ自分自身のものであっても検証できないことを考える。

 
科学的法則は有意味でなければならない。

「意識が脳過程によって決定する」というのが科学的な法則だとサールは考えている。しかし本当にそうだろうか。カール・ポパー(1902~1994)によると、科学的法則とは、「仮説を立て、実験観察によって検証し、不具合があれば修正を加える」という世界理解の方法においての「仮説」に他ならない。もしその正しさが絶対的であって偽になる可能性が無いような「文」であったならば、それはどんなに正しかったとしても法則ではない。たとえば「速度=距離÷時間」なる言明は絶対正しいが、これは定義であって法則ではない。言葉の意味を説明しているだけで世界がどんなであるかについては何も語ってはいない。「雲のない日は天気が良い」も「妻は独身だ」も同じく世界の様子については何も語っていない。「雲のない日は天気が良い」はどんな場面でも必ず真になる恒真文トートロジーであり、「妻は独身だ」は必ず偽になる矛盾である。トートロジーも矛盾も、当然ながら、世界を振り返ることによってその真偽を確かめることはできないのだから、世界のあり方とは無関係な文であって、世界に対して有意味な文ではないのだ。だから、トートロジーも矛盾も科学的法則にはなり得ない。
(でも、「妻は既婚だ」という文は世界を記述しているのじゃないかという気もする。実際に私には妻がいて、妻は結婚しているのだけれども、仮想世界においては妻が私と結婚しておらず、妻が未婚であることも考えられるからだ。しかし、これは誤解である。「妻が未婚だったことも考えられる」などと言うのは、その「妻」という語を「配偶者であるところの不特定の誰か」という意味でなく、「現実世界で実際に私の配偶者になった特定の個人K」という意味で考えているからである。その意味でなら「妻(と呼ばれている或る個人)は既婚だ」は全然トートロジーなんかじゃない。だから、十分有意味に世界を語っている文だと考えて大丈夫なのだ。そして、「妻」を個人特定しない一般名としたときの、「私と結婚している誰かは結婚している」という意味での「妻は既婚だ」はやはり、トートロジーであり、世界を語っている文ではないと言えるのだ。)
恒真文は世界を記述する文ではないのだ。逆説的ではあるが、世界を語る「法則」であるための条件は反証される可能性があることなのである。世界のあり方を振り返ったときに偽となる可能性があるからこそ、世界を語る文として意味と価値を持つのである。だから、「意識は脳過程によって決まる」という文も科学的法則であるためには、世界の事実と照らし合わせて確かめられることが必要条件なのだ。

 
「科学的法則」は主語・述語の両方が検証されなければならない

「A=B」という文の真偽を確かめるには、主語Aと述語Bの両方を一挙に確かめないといけない。Aだけを確かめても、Bだけを確かめても、一方だけしか確かめられないのなら「A=B」の正しさが確かめられるわけがない。つまり、「脳過程が意識の原因である」という文の真偽を確かめるためには、脳の状態と意識の状態の両方を確かめないと検証にはならない。未来の科学力を用いてものすごく精密に脳状態が調べられるようになったら分かるのではないかと考える人がいるかもしれないが、Aだけをどれほど精密に調べてもA=Bが検証できるわけがないのである。当然ながら、意識が直接確かめられないからと言って、脳状態からそれを測ろうとしてはいけない。意識を確かめようとして脳状態を調べ、それによって意識を確かめたこととした上で、さらにそれを脳状態と比較するのであれば、結局、脳状態と脳状態を比べていることにしかならず、確かめとしての価値は一切ない。朝刊の記事の信憑性を確かめるために、同じ朝刊の記事を見るようなものなのだ。

 
問題は「クオリア」の確かめ方

では、「脳過程が意識の原因である」という文の真偽はどうやって確かめればいいのだろうか。
「脳」と「意識」の両方を調べればいいのだが、まず、「脳」の方は、たとえば外科的な実験観察によってその状態を確かめることができるはずだ。問題は「意識」の方である。この「意識」が、その人物の行動や身体的物理的機能によって原理的には外的に測れるものと捉える立場に立つのなら、何の問題もない。たとえば「赤さを感じる」という発言によって意識を測れるとするのであれば発言によって意識を測れるのだし、痛そうな振舞いによって意識を測れるとするのであれば振舞いによって意識を測れるのだから、大丈夫だ。しかし、厄介なのはそうでない場合だ。「意識」の中でも機能性を有しない「非機能的な現象的意識」や「クオリア」の測り方である。そして、サールの言う「意識」がこの意味であることを前節で確かめた。だから、問題は機能の無いクオリアをいかに測るかということが問題の焦点になるのだ。

 
クオリアをどう検証するか

クオリアをどうやって確かめればいいのだろうか。クオリアの変化を見ればいいのだろうか。たとえば、或る第三者に赤い表示を見せて、心の中に「赤」のクオリアを起こさせる。そして、適当な脳外科手術をして視覚に異常を起こし、同じ赤い表示を見ているのに「赤」以外のクオリアを感じるようにさせる。この人物に視覚上の色の質感を聞いてみると「視覚がおかしい。赤かったクオリアが青くなった」と答えたとする。このような検証方法で「脳状態がクオリアの原因である」ということを確かめられるだろうか。無理だ。サールがクオリアを持たないと結論付けた「人工知能ロボット」を相手に同じ検証をしてみても、同じ結果が得られるからだ。たとえば、ロボットのカメラに赤い表示を撮らせ誰からも見えない内部の秘密のディスプレーにその映像が映るようにする。そしてその上で、コンピュータのデータ解析機械を弄って映像データに異常が起こるようにし、秘密のディスプレーに「赤」の映像が映らないようにする。このロボットに、心の中で表象を構成する質感を聞くと「視覚がおかしい。赤かった質感が青くなった」と答えるだろう。クオリアが変化したことを答えさせてクオリアが確かめられるとするのなら、クオリアを持たないと前提したロボットでも「クオリアが変化した」ということが言い得るのである。…と、無茶苦茶な話になってくる。だから、この方法でクオリアを確かめることはできない。ロボットや第三者を相手にクオリアを確かめる方法はないのだ。何らかの機能的な外部反応で確かめる以外に確かめる方法があるはずもなく、だから、第三者の「非機能的な現象的意識」や「クオリア」の測り方なんてものがあるわけはないのだ。そのため、第三者の「クオリア」は私自身のクオリアを基準にしてそこから類推して考えるほかないのだ。

 
自分自身の昨日のクオリアなら検証できるか

そこで、私自身のクオリアの検証方法を考えねばならないのだが、私自身の場合であれば、本当のクオリアを確かめ語れるのだろうか。実は、これも意味のある言葉で語ることができず、自分で確かめることができないのである。語に意味があるとは、何かの対象に対してそれを指示しているか否かを定めるための指標として働き得ることである。何かを確かめるとは何かの対象に対してある指標が当てはまるか否かを見極めることである。たとえば、「『赤』の意味を理解している」とは「何かの対象が『赤』であるか否かを決定できる」ということに他ならない。この視点で語の意味を捉えるとすれば、自分自身のクオリアでさえ語り得ないのだ。自分自身の「クオリア」同士でさえ比較しあうことができず、語の同一性を保つための基準が持てないならである。
順に見てみよう。まず、「昨日見えていたクオリア」について語ることはできるかを考えてみよう。昨日見た赤のクオリアと今見ている赤のクオリアが同じであることは、どうすれば確かめられるのか。自分のクオリアなのだから、記憶から引き出せば確かめられるのではないかと思われる。しかし、それって、昨日見た赤色をそのまま保って今まで記憶しているということなのだろうか。それとも昨日見た赤色とは別に、今新しく「昨日見たはずの赤色のクオリアの記憶」を作り出しているというように考えるべきなのだろうか。あるいは、どっちでも同じなのか。昨日見た赤色のクオリアをそのまま保てているのであれば、「昨日作った昨日のクオリア」と「今作った今のクオリア」を比べることができる。しかし、今新しく「昨日のクオリア」を作っているのだとしたら、「今作った昨日のクオリア」と「今作った今のクオリア」を比べることになってしまって、比較の意味が薄れてくる。この問題をよく考えてみると、「昨日作った昨日のクオリア」の記憶というものを今のクオリアと比較しようとすると、どうしても「『今再度作り直した』昨日のクオリア」を比べる以外には不可能であることが分かる。
こういう理屈である。仮に一つの思考実験を考えてみる。機能面では何ら変わるところはないのだけれども、非機能的な現象的意識やクオリアだけが昨日から今日にかけて突然逆転したとする。このことに自分で気づくだろうか。機能面で変わるところがないのだから、どうしても気づくことはできないはずだ。もし昨日のクオリアの記憶を今日までそのまま記憶して保っておくことができるのだとすれば、昨日のクオリアと今日のクオリアを比較して逆転していることに気づけるはずだ。しかし、それが気づけるってことはそこに機能が働いていることになってしまい、機能的ではないクオリアを考えていたという前提に反してしまう。だから、昨日のクオリアでさえ今新しく作られたと考えなければならないのだ。そこで、現在のすべての物理的状況だけを取り出して考える必要が出てくる。時間的に0秒間の現在の1点だけを取り出すのである。そこにはちゃんと記憶があり、昨日のクオリアの記憶もあり、今のクオリアもある。昨日のクオリアが逆転していたことなどにはまったく関係なく、昨日の機能的な赤と今日の機能的な赤とを、逆転などしていない同じクオリアとして感じることができるのだ。現在の物理的状況だけで「今作られた過去のクオリア」と「今作られた現在のクオリア」が比較できるのである。・・・というか、「現在の物理的状況においての今作られたクオリア」でしか、過去のクオリアと現在のクオリアなどというものを比較することはできないのだ。今の私のクオリアと、記憶から今の私が再度作り直したクオリアとを比較するしかないのだ。原理上、文法上、過去の私のクオリアそのものと現在の私のクオリアそのものを「同時に」比較することなどできないのだ。だからそれは、結局、「私の」「今の」クオリア以外は語り得ず、昨日のクオリアは検証できないということなのだ。
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自分自身の今のクオリアなら検証できるか

しかし、私の今のクオリアなら語り得るのだろうか。
語の同定をするとき、語の同一性を担保するための基準が必要になる。この基準を確保できるなら、私の今のクオリアは理解可能で語り得るといえるだろう。しかし、基準が用意できないのなら、それが何であるかを理解することも語ることも不可能だろう。たとえば、A、B、C、D、4つの対象があったとして色が同じ赤色であるとか、違うとか、自分で比較して判断することは実際にできるのだから、自分のクオリアなら比較できるような気もする。しかし、それは、(サールがクオリアを持たないとした)人工知能AIでも言うことができるような、統語論的な内容でしかない。私は「赤い」と言う語で何を語れるのだろうか。統語論では無いような意味論的な内容を語れるのだろうか。私が「赤い」と言って意味論的な内容について語ろうとするには、そのクオリアが何か他の比較対象と(例えば他のクオリアと)比べられて、同じだとか違うとか判断できなければ、語の機能が果たせないので語が意味を持ち得ない。ところが、その機能が果たされてしまうと、それは機能を持つ「統語論的なクオリアもどき」でしかなくなってしまう。今、ここに見えているこのクオリアを「赤のクオリア」と呼ぶことにして、そこの意味があると考えてしまうのは、その「赤のクオリア」という語が明日になっても同じ意味を持ち続け、今の自分が言う「赤のクオリア」と明日の自分が言う「赤のクオリア」が同じ意味を持つことができると錯覚しているのである。
しかし、今問うているのは、そのように何かと比較して語れるような「統語論的なクオリアもどき」ではなく、何とも比較しなくてもそのままで意味を持っているような「ここにある、この本当のクオリア」なのである。ところが、そんなものがあると思うのは錯覚なのである。他の何とも比べられないような語は私的言語でしかなく、語っているつもりになったとしても、それは公的で統語論的に言えるような内容を語っているのを本物のクオリアを掴まえたと勘違いしただけのことなのである。
語の意味とは、何かの対象に対して語がそれを指示しているか否かを決めるための指標なのだと考えるなら、クオリアは指標になることなどできるはずがなく、語の意味を持つことなど不可能なのである。
私的クオリアは定義上いかなる機能も持たない。それゆえ、機能面においてはその指標になることはあり得ない。クオリアは機能を持たないのだから、同一性を測るための「仕事」などできるわけがないのだ。

 
検証可能なのであれば「クオリア」ではない。「クオリアもどき」だ。

そのために、日常の言語ゲームの中でクオリアを問われた場合には、その矛盾を押して、クオリアの機能を発揮させてしまい、クオリアという語の意味を同定するという間違いを犯すのだ。それゆえ、クオリアを機能として捉えるしかない点では、私も一般の人間も哲学的ゾンビも同じことになってしまうのだ。そして、ゾンビだって「自分にはクオリアがある」などと答えられることになる。もし、自分自身が本当にゾンビだったとしても、そのことには気づき得ないのだ。
それでも、現に今、私の眼前にクオリアがありありと感じられるじゃないかと言いたくなる。クオリアはこんなに確かに存在するのだと。しかしこれは勘違いだ。間違えないでほしいのは、僕はクオリアが無いと主張しているわけではない。語り得ず、同定することができず、その存在を確かめる方法がないようなナンセンスであって、無いわけでも、有るわけでもないと言っているのだ。そして、「クオリアはこんなに確かに存在してるのに」と言ってクオリアを同定できたと思っているのは、それは知らず知らずのうちにクオリアもどきの機能面を捉えていると言っているのだ。機能性のない本物のクオリアなんて、(機能がないのだから、)どんな人間だって、ラプラスの魔だって、たとえ神であっても、原理的に同定できないのだ。
だから、今の自分自身が今見ているクオリアであろうと、非機能的な現象的意識であろうと、そんなものは語り得ず、それが何であるかを確かめられず、それゆえ、それが存在するか否かも確かめられないのだ。
いま眼前にありありと見えているクオリア、これが言葉にして語り得るようなクオリアであり、それが何であるかが掴めているクオリアなのであれば、それは統語論的な「クオリアもどき」でしかない。語ることができる「質感もどき」、それが何であるかを確かめえるような「質感もどき」、それがどんなものかを確かめ得るような「質感もどき」が脳の物理的過程から生まれるという話であれば、サールの「意識の生物学的自然主義」は十分に有意味であり、かなりの説得力を持つ魅力的な説だと言える。しかし、その場合、意識とは統語論的なものとして捉えるべきものになるので、デジタルコンピュータが意識を持ち得ないとする、サールの説は受け入れられないことになる。クオリアを意味論的で私的なものとして考えても、統語論的で公的なものとして考えても、どっちにしてもサールの説全体としては上手くいかないのである。

また、自分自身のクオリアが存在しているという前提から、他者のクオリアや人間一般のクオリアが存在することと、それが脳の物理的状態によって決定することが推測されていたわけだが、自分自身のクオリアでさえ存在するとは言えないし、その上クオリアとは何なのかさえ分からないのだ。だから、そんなものが人間にあるとかロボットに無いとか言うことに意味があるわけがないのだ。

 
「意識の生物学的自然主義」は現実世界の記述ではない

サールは、意識を意味論的で言語化できない私的なものとして捉えた上で、脳の過程が意識のメカニズムそのものであるとした。ところが、これは科学的な法則ではない。他者の私的な意識を検証することができないだけでなく、過去や未来の自分の私的な意識も検証できない。そして、今のこの瞬間眼前に見えている「本物のクオリア」と呼びたくなるようなこれでさえ、それが一つのクオリアであることをその同一性を担保しつつ検証することが原理的にできないからである。だから、「脳の過程が意識のメカニズムだ」という文は検証することも反証することもできないのだ。その人間の脳の過程がその人間の意識のメカニズムだと前提してしまうと、もうそれを反証することはできず、前提ゆえに絶対的に必然的にそれは真になってしまう。
サールは「脳の過程が意識のメカニズムだとすると、脳の過程が意識のメカニズムだ」というトートロジーでしかないような主張をしていたのだ。世界の事実と照らし合わせることでその真偽が分かるような言明ではなかったのだ。結局、「意識の生物学的自然主義」は科学的法則でも科学的仮説でも現実世界を記述するような言明でもなかったのだ。世界そのものがどんなものであるかという内容を語り示すことはできないのだ。だから、「意識の生物学的自然主義」は心身問題の解決方法として役立つものではないのだ。

 

(私信。ある唯物論者(異邦人)さん、本節はサール批判でしたが、そのほとんどが異邦人さんの唯物論に対する批判でもあったと思います。反論楽しみにしています。)

 

つづく

<心は実在するか>

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コメント

横山信幸さん。

#「意識の生物学的自然主義」がダメなわけ<心は実在するか17>」について

>表現レベルの問題として、脳の過程を語るときのレベルと意識を語るときのレベルとはまったく異なる。だから、「脳過程」という表現と「意識」という表現を相互に交換することができるわけではない

少なくとも私の唯物論ではどちらも物理的現象ですから相互に交換可能です。
意識は脳の生み出す情報処理空間上に存在します。
完全な物理的現象です。

>つまり、サールは、言語化できないような私的な意識も含めて意識のすべてが脳過程によって生じ決定するのであって、脳過程がすべてのクオリアの原因だと言うのだ。

私もこのサールの主張に賛成です。意識の全ては物理的現象です。
原理的に私秘的な現象は存在しません。

>「意識が脳過程によって決定する」というのが科学的な法則だとサールは考えている。

サールが科学的な法則だと述べているとすれば、それは意識が物理的現象であることを主張しているだけだと考えるのが妥当です。
サールの説は存在論の説であり自然科学の説ではありませんから。
存在論の説に対して自然法則か否かを問うのは筋違いです。
サールの説に関して言えば「意識が確かに物理的現象であるのか否か」を問えばよく「科学的な法則か否か」と問うのは意味がありません。
もし「この世界は物質のみより成る」という唯物論の前提が正しいならば「意識が脳過程によって決定する」というのはそれだけで真実になります。
サールの説は唯物論ではありませんが「意識を決定するのは物理的現象のみである」と考えている点では唯物論と共通しています。
もし「意識が脳過程によって決定する」という主張を否定したいのであれば「意識を決定するのは物理的現象のみである」という前提を否定する必要があります。
横山信幸さんの論述はサールや唯物論に対する有効な批判にはなり得ていません。

>厄介なのはそうでない場合だ。「意識」の中でも機能性を有しない「非機能的な現象的意識」や「クオリア」の測り方である。そして、サールの言う「意識」がこの意味であることを前節で確かめた。だから、問題は機能の無いクオリアをいかに測るかということが問題の焦点になるのだ。

私の唯物論では現象的意識もクオリアも機能性を有するのでこのような問題は一切生じません。
サールの場合は現象的意識やクオリアを非機能的であると考えていると思うので、その存在論的還元つまり意識を脳過程に還元することはできない/しないとしていると思います。
サールの場合「意識が脳過程によって決定する」というのは機能的意識についてのみで現象的意識/クオリアについては「脳過程からは決定できない」と考えていると思います。
それが「存在論的還元は出来ない」と主張していることの意味だと思います。

横山信幸さんはサールが現象的意識/クオリアについても「脳過程によって決定する」と主張しているものと見做して批判を行っているようであるが私には的を外しているようにしか見えません。

>たとえば、ロボットのカメラに赤い表示を撮らせ誰からも見えない内部の秘密のディスプレーにその映像が映るようにする。そしてその上で、コンピュータのデータ解析機械を弄って映像データに異常が起こるようにし、秘密のディスプレーに「赤」の映像が映らないようにする。このロボットに、心の中で表象を構成する質感を聞くと「視覚がおかしい。赤かった質感が青くなった」と答えるだろう。

「秘密のディスプレーにその映像が映るようにする」というのはクオリアの表現としては全くの的外れです。
「その映像が映る」ならそれは機能的意識であってクオリアではありません。
「映像として映ることは無い」のがクオリアです。
喩え「誰からも見えない内部の秘密のディスプレー」であろうと事情は変わりません。

>ロボットや第三者を相手にクオリアを確かめる方法はないのだ。

少なくとも私の唯物論では原理的には自然科学的方法で客観的に確かめることが可能です。
「確かめる方法はないのだ」と断定することは出来ません。

>結局、「意識の生物学的自然主義」は科学的法則でも科学的仮説でも現実世界を記述するような言明でもなかったのだ。

何故、存在論の説に対して「科学的法則や科学的仮説であるか否か」を問うのですか?
存在論の説に対して「科学的法則や科学的仮説であるか否か」を問うのは的外れであると思います。
存在論の説は存在論の説であって自然科学の説ではないのですから。
サールの説は存在論の説でありカール・ポパーを持ち出して批判するのは筋違いであると思います。

その意味で下記の二つの主張は何れも的外れであると思います。
>科学的法則は有意味でなければならない。
>「科学的法則」は主語・述語の両方が検証されなければならない

異邦人さん

丁寧な長文のコメントありがとうございます。

1.異邦人さんの唯物論は全体として恒真文である。正しいですか。

2.恒真文が現実世界の記述ではないことは論理的に必然です。

3.だから、異邦人さんの唯物論は現実世界の記述ではない。

これが、本文の論旨です。
異邦人さんのいう「存在論」は「科学的でない」うえに、「宗教的」という意味での悪しき「原理主義」に見えます。
正しいか否かを現実とすり合わせないような「原理主義」です。

横山信幸さん。

>1.異邦人さんの唯物論は全体として恒真文である。正しいですか。

存在論の説はどのような説であれ全体として「恒真文である」ことはあり得ません。
存在論の説はどのような説であれこの世界に関する記述であり全体として恒真文になることはあり得ません。
私も唯物論も当然同様です。

>3.だから、異邦人さんの唯物論は現実世界の記述ではない。

私の唯物論がこの現実世界の記述であることは自明です。

>正しいか否かを現実とすり合わせないような「原理主義」です。

私の唯物論は明確な現実の記述です。

私の説が「原理主義であるか否か」、横山信幸さんの説が「原理主義であるか否か」は第3者の評価に任せるしかありません。
ここで議論して結論の出せるような問題ではありませんので。

<私のサール理解>
サールの主張を私の理解で簡単に纏めます

現象的意識(一人称)は存在論的に還元できない。
機能的意識(三人称)は存在論的に還元可能である。

言い替えれば、
現象的意識は脳過程によって決定出来ない。
機能的意識は脳過程によって決定出来る。
以上がサールで主張の概略であると考えます。

私の唯物論では現象的意識も機能的意識も存在論的に還元可能であり、何れも脳過程によって決定可能であるので、サールの主張とは異なります。

<カール・ポパーと反証可能性>

存在論の説に対して科学的法則か否かを問うのは無意味ですが、反証可能性は存在論の説に対しても有効であり重要です。
存在論の説に対しても反証可能性は求められます。
存在論(特に実在論)に於いて反証可能性を妨げているものには下記があります。
霊魂(二元論)、神(有神論)、霊的性質(性質二元論)・・・
私の唯物論にはこれらの反証可能性を妨げるものが含まれていませんので存在論の中では最も反証可能性が高いものと思っています。
反証条件はこの世界についての「整合的で過不足なき説明可能性」です。
観念論の場合に反証可能性をどのように考えるべきかは難しい問題です。
観念論の場合について今回は保留にしておきます。

異邦人さん、

投稿: ある唯物論者(異邦人) | 2013年11月 1日 (金) 17時56分>>「現象的意識やクオリアが脳状態によって完全に決定される」は、経験的に世界を振り返らなくてもそれが真であることが分かるような言明である。>;>その通りです。

これは、この「現象的意識やクオリアが脳状態によって完全に決定される」という文がいつでも真であって、否定されることがあり得ないということではないですか。
つまり、恒真文であり、かつ、反証可能性がない、ということだと僕は理解していますが、間違っていますか。

横山信幸さん。

>>「現象的意識やクオリアが脳状態によって完全に決定される」は、経験的に世界を振り返らなくてもそれが真であることが分かるような言明である。
>>その通りです。

この言明は唯物論の前提「この世界は物質のみより成る」を認めた上での結論であることに注意する必要があります。
唯物論の前提を認めれば、この言明は必然的に導かれ、この言明を導くのに経験を必要としません。

>これは、この「現象的意識やクオリアが脳状態によって完全に決定される」という文がいつでも真であって、否定されることがあり得ないということではないですか。

唯物論の前提を認めた上でこの言明を否定することは出来ません。

>つまり、恒真文であり、かつ、反証可能性がない、ということだと僕は理解していますが、間違っていますか。

唯物論の前提自身は仮説であり反証可能です。ですので恒真文ではありません。
上の言明を否定するには唯物論の前提を否定する必要があります。
唯物論の前提を突き崩さない限り上の言明を否定することは出来ません。
また実在論自体も反証可能です。
実在論を否定すれば自動的に唯物論を否定でき、上の言明も否定できることになります。

唯物論の前提は経験(自然科学的知見を含む)から導いた推定です。
その推定を仮説として「整合的で過不足なき説明可能性」の条件に照らして検証しその真実性を推し量ろうというのが私の唯物論の考え方の道筋です。
私が検証した限りでは反例を見つけることが出来ませんでした。
ですので私は私の唯物論を真実として受け入れています。
真実として受け入れているとは言えあくまで仮説であり絶対的真実でないことは断るまでもありません。

唯物論の前提に対し、それを否定するような反例を私は見つけることが出来ませんでした。(ですから私は唯物論を真実として受け入れているわけです)
横山信幸さんは唯物論の前提に対する反例を見つけることが出来ますか?
または実在論が誤りであることを論証できますか?
それが問われている訳であり、それが今回の問題の核心です。

但し唯物論や実在論を反証することは簡単なことではありません。
もし仮に反証が簡単に出来るものとすれば、誰も唯物論や実在論を主張するハズがありません。
唯物論や実在論を主張する人が実際にいる以上それを反証するのは簡単でない事は確かです。

<唯物論と自然科学の関係>

物理学(自然科学)は「自然世界が何であるか」を明らかにします。
唯物論(存在論)は「精神世界が何であるか」を明らかにします。
ではどのようにして明らかにするのか、と言いますと、
物理学(自然科学)は自然世界を物質と物理的現象に還元することによって「自然世界が何であるか」を明らかにします。
唯物論(存在論)は精神世界を物質と物理的現象に還元することによって「精神世界が何であるか」を明らかにします。

物理学(自然科学)と唯物論(存在論)は車の両輪となってこの世界の全て(自然世界+精神世界)を明らかにします。

異邦人さん、

(あ).或る文が現実世界に照らし合わせて偽であると判明できる可能性
(い).前提を否定できる可能性

反証可能性とは、(あ)であって、(い)ではありません。
異邦人さんの唯物論は(あ)の意味での反証可能性はありますか。

あるのであれば、どうすれば、異邦人さんの唯物論が偽であると「立証」できるのか、その方法を挙げてください。僕はそんな方法がないという意味で、異邦人さんの唯物論が反証可能性を持たないと主張しているのです。

横山信幸さん。

>(あ).或る文が現実世界に照らし合わせて偽であると判明できる可能性
> 異邦人さんの唯物論は(あ)の意味での反証可能性はありますか。

およそあらゆる自然科学と存在論の理論はこの世界に対する言明であり反証可能性を持ちます。もちろん(あ)の意味での反証可能性です。
唯物論も然りです。
唯物論の前提は下記の通りです。
「物質のみが実在である」「この世界は物質のみより成る」
この言明はこの世界この現実世界についての言明であり反証可能です。

反証方法を下記に挙げてみます。
<反証方法1>実体二元論による反証
霊魂が実在であることを証明すれば反証は成立します。
<反証方法2>性質二元論による反証
物質に物理的性質以外に霊的性質も備わっていることを証明すれば反証は成立します。
唯物論では物質に物理的性質以外の性質は無いことが想定されていますので、その方法で反証になります。
<反証方法3>有神論による反証
神の存在を証明すれば反証は成立します。
<反証方法4>観念論による反証
この世界が客観的存在ではなく心の生み出す一種の幻影のようなものに過ぎないことを証明すれば反証は成立します。

このようにさまざまな反証方法が存在しますし、それ以外にも色々な反証方法が存在するハズです。
但し何れの反証方法も有効ではありません。
私が検討した限りでは有効な反証方法を見つけることが出来ませんでした。
だからこそ私は唯物論を真実であると考えているわけです。
横山信幸さんはその唯物論を反証しようとしているわけですから、有効な反証方法を見つけるのは横山信幸さんの仕事であって私の仕事ではありません。

もしどうしても有効な反証方法が見つからないのであれば唯物論が真実であることを認めるのが妥当であるものと思います。
それでもどうしても唯物論が真実であることを認められないのであれば、それを認められない理由が有るハズです。
その認められない理由をよくよく検討されればそこに反証条件が見つかる可能性があります。
もし反証条件が見つかったならば再度反証を試みて下さい。

<反証の困難性>

あらゆる自然科学や存在論の理論は反証可能ですが、だからと言って簡単に反証できる訳ではありません。
反証可能な理論は棄てられ既に過去の理論になっています。
現在生き残っている理論は何れも有効な反証の見つかっていない理論ばかりです。
現在生き残っている理論は容易に反証できない理論ばかりです。
反証可能だからと言って簡単に反証できるということにはなりません。
唯物論もそのような現在生き残っている理論の一つです。
これまで誰も唯物論の有効な反証には成功していません。
これまで誰も有効な反証を見つけることが出来なかった唯物論に横山信幸さんは挑戦している訳ですからそれが簡単にうまくいくハズがありません。

例えば相対性理論や量子力学やマクスウェルの電磁方程式も自然科学の理論ですから反証可能です。
横山信幸さんはこれらの理論に対して反証できますか?
唯物論の反証の前にこれらの自然科学理論の反証に挑戦されてみては如何ですか?
そうすれば反証が如何に困難であるかお分かりになるものと思います。
唯物論に対する反証もそれに匹敵する(?)困難性があると思います。

異邦人さん、

かなり残念な不理解が2点あります。

1。
僕の主張は、異邦人さんの唯物論が偽だと言っているのではなく、恒真だと言っているのです。それゆえ、異邦人さんの唯物論は現実世界の記述ではないということを主張しているのです。
僕の主張は、異邦人さんの唯物論には反証可能性がなく、反証の方法がないというものです。
だから、その僕の主張を否定しようと思われるのなら、反証の可能性があることを示すために反証する方法があることを示すべきだと言っているのです。
あらゆる科学的法則は反証可能ですから、どうすれば反証できるのかがはっきりしています。質量が勝手に変化する粒子が発見されれば質量保存則を反証できますし、光速より速い有質量粒子が発見されれば相対性論が反証されます。粒子の位置と運動量をプランク定数以下まで厳密に確定させられれば量子論を反証でき、重力が突如斥力に変わればニュートン則が反証されます。
世界を記述することができている法則は現実と異なることもできるからこそ、世界の記述たり得るのです。
異邦人さんの唯物論が反証可能性を持つのなら、反証ができないとしても、どうすれば反証できるのかの方法は示せるはずです。
それを示すのは、異邦人さんの唯物論が偽になり得ないと言っている僕ではなく、反証可能性があると言っている異邦人さんです。


2。
「反証可能性を示す」と「反証する」は違います。「反証可能性を示す」は反証するための方法を示すことです。横山は「反証せよ」と言っているのではなく、「反証可能性を示せ」と言っているのです。

### 訂正 ###

<反証の困難性>の3行後

(訂正前)反証可能な理論は棄てられ既に過去の理論になっています。
(訂正後)反証の出来た理論は棄てられ既に過去の理論になっています。

異邦人さん

付け加え。

もちろん、反証の方法を挙げてもらいたいのは、「唯物論」の方法ではありません。
「脳状態の一部がクオリアだ」を反証する方法です。

横山信幸さん。

唯物論の前提はこの世界についての言明ですから反証可能であることも自明ですし、恒真でない事も自明です。
自明であるにも拘らず、反証可能性が無いとか恒真であるとか仰る理由が私には理解できません。

さらに、反証可能であることを反証方法を具体的に挙げて証明しているにも拘らず反証可能性が無いと仰る理由が私には理解できません。

尤も、証明など不要です。証明は無用な付け足しにしか過ぎません。
「この世界についての言明である」というこれだけで必然的に反証可能ということになり、恒真で無いということになりますから。

>もちろん、反証の方法を挙げてもらいたいのは、「唯物論」の方法ではありません。 「脳状態の一部がクオリアだ」を反証する方法です。

「脳状態の一部がクオリアだ」というのは唯物論の前提から必然的に導き出される命題です。
唯物論の前提を反証することがこの命題についての反証になります。
今回問題となった様々な命題は唯物論の前提から必然的に導かれる命題です。
ですのでこれらの命題に反証するためには唯物論の前提を反証する必要があります。
唯物論の前提は唯物論の全ての根本です。
先ずこれを反証しないことには何も始まりません。
唯物論の様々な主張に反証しようと思うのであれば、先ずこの唯物論の前提に対して反証することから始めなければなりません。
唯物論の前提に対して反証せず、個々の主張に対して反証しようとしても決して成功しません。

異邦人さん、

失礼しました。話を急ぎすぎて、異邦人さんが挙げた4つの反証方法が反証方法として不適切であることを説明するのを忘れていました。

適切でないという理由はどれも同じです。その反証方法自身が反証も検証もできないものだからです。検証して確かめられないものを、某かの証拠にすることはできませんから。
「霊魂が実在であることを証明すれば」「物質に物理的性質以外に霊的性質も備わっていることを証明すれば」「神の存在を証明すれば」「この世界が客観的存在ではなく心の生み出す一種の幻影のようなものに過ぎないことを証明すれば」

ね。どれも証明も反証もできないでしょう。物理的にその真偽が証明できるのであれば、それは物理的な存在を語っていることになってしまうから矛盾です。物理的でない証明なんて、どんなものになるのか僕にはさっぱり解りません。何か意味のある証明になるとは思えません。

そんな証明方法があるのであれば、教えてください。

それから、異邦人さんが挙げた反証方法が「物理状態の一部がクオリアだ」を反証し得るというのも、無理な論理だと思います。普通の物理的法則は関連しあってはいますが、どれか一つが否定されたからって全体が崩壊するわけではありません。物理法則全体を否定できるような基本則があるとすれば、因果律と矛盾律ぐらいなものじゃないでしょうか。

横山信幸さん。

>失礼しました。話を急ぎすぎて、異邦人さんが挙げた4つの反証方法が反証方法として不適切であることを説明するのを忘れていました。
>適切でないという理由はどれも同じです。その反証方法自身が反証も検証もできないものだからです。検証して確かめられないものを、某かの証拠にすることはできませんから。

どうもなかなかご理解頂けないようですが、私の挙げた4つの反証方法は反証可能性を示す条件としては何れも完全に適切な方法です。
冗談でも何でもありません。完全に適切な反証方法です。

どうも私には横山信幸さんが「反証可能」という語の意味を誤解されているか、或いはそもそも理解されていないように感じます。

<「反証可能」という語の意味>

(命題X)「もし仮に命題Aが真ならば命題Bに対する反証が成立する」
任意の命題を命題Aに当てはめて命題Xが真となるように出来るならば命題Bは反証可能である。
或いは表現を変えて、
命題Xを真と出来るような任意の命題Aが存在するならば命題Bは反証可能である。
さらに表現を変えれば、
命題Xを真と出来るような如何なる任意の命題Aも存在しないならば命題Bは反証可能ではない。

これが「反証可能」という語の意味です。
これが命題Bが反証可能である/ない、ということの意味です。

この命題A、命題Bに具体例を当て嵌めてみます。
(命題X)「もし仮に神が存在するが真ならば唯物論の前提に対する反証が成立する」
この命題Xは明らかに真です。
従って唯物論の前提が反証可能であることは明白です。
ここで大事なのは命題Xの先頭に「もし仮に」という条件が付いている事です。
ですので命題Aを実際に証明できる必要性は全くありません。

私が反証可能であるということは実際に反証できるということを意味しない、ということを繰り返し説明しているにも拘らず、横山信幸さんはご理解されていないように感じます。

以上で説明しましたように唯物論の前提は反証可能な命題であることを明らかにしましたが、これと比較する意味で反証可能でない命題の例を挙げてみます。

(命題B2)「A=BかつB=CならばA=Cである」
この命題は恒真命題であり反証可能でない命題です。
この命題を命題Xに当て嵌めてみます。
(命題X)「もし仮に命題Aが真ならば命題B2に対する反証が成立する」
この命題Xは命題Aにどのような任意の命題を当てはめても真になることはありません。
このような命題(命題B2)こそが恒真命題であり反証可能でない命題です。
唯物論の前提の場合とは明白に違います。

しかしそもそも繰り返し述べているようにそのような議論など全く不要です。
それというのも「この世界についての言明である」というだけで必然的に反証可能になるからです。
それ以上の議論など全く無用です。
繰り返し述べているにも拘らず横山信幸さんが軽視されているのは不可解です。

>そんな証明方法があるのであれば、教えてください。

証明する必要は全くありません。
「ですので命題Aを実際に証明できる必要性は全くありません」
と述べた通りです。

>それから、異邦人さんが挙げた反証方法が「物理状態の一部がクオリアだ」を反証し得るというのも、無理な論理だと思います。普通の物理的法則は関連しあってはいますが、どれか一つが否定されたからって全体が崩壊するわけではありません。

唯物論の命題の中には唯物論の前提まで遡らないと反証できない命題もあれば唯物論の前提まで遡らなくても反証できるような命題もあります。
今回議論となった「現象的意識/クオリアの存在に関する命題」や「現象的意識/クオリアと脳状態/脳活動に関する命題」は何れも唯物論の前提と深く結びついている命題であり唯物論の前提まで遡ること無しには反証不可能な命題です。

異邦人さん

反証方法自身が検証も反証もできないものだったとしても反証方法になり得る、とお考えだということですか。
それとも、「神が存在する」が検証したり反証したりできるということですか。

横山信幸さん。

>反証方法自身が検証も反証もできないものだったとしても反証方法になり得る、とお考えだということですか。

反証方法自身が検証も反証もできないものだったとしても「反証可能」の条件としては十分に有効です。
それが「反証可能」という語の意味するところです。

>それとも、「神が存在する」が検証したり反証したりできるということですか。

「神が存在する」を検証したり反証したりできる必要は全くありません。
「神が存在する」を検証したり反証したりできなくても「反証可能」の条件としては十分であり有効です。
「もし仮に」という条件をつけて真なる命題の役目を果たせればそれで十分です。
実際に真であること(または偽であること)を証明する必要は全くありません。
それが「反証可能」という語の意味するところです。

以下に反証可能な命題の例を挙げてみます(実際には反証できない)。

<例1>太陽系には地球が存在する。
<例2>東京の面積は日本の面積よりも狭い。

上記命題が「反証可能」であることの証明を下記に示します。

<例1>もし仮に「太陽系に地球が存在しない」ならば「太陽系には地球が存在する」という命題の反証が成立する。
<例2>もし仮に「東京の面積が日本の面積よりも広い」ならば「東京の面積は日本の面積よりも狭い」という命題の反証が成立する。
(以上、証明終わり)

これと比較する意味で反証可能でない命題の例を挙げてみます。

<例1>太陽系には地球が存在するかしないかの何れかである。
<例2>東京の面積は日本の面積より狭いか等しいか広いかの何れかである。

これらの命題はこの世界についての言明の形を採っていますがこの世界について何も語っていない命題であり、恒真命題です。
(但しここでは太陽系、日本、東京が存在することが暗黙の前提です)

「反証可能」であるが実際には反証できない命題はいくらでも存在します。

異邦人さん、この頃はずっと夜8時30分コメントですね。

異邦人さんの唯物論は科学的法則でも科学的仮説でもないのでしたね。つい、それを忘れて、「物理法則として世界を語る」ような内容では無いことを指摘しようとしていました。
物理法則ではないのだから、「反証可能」というのも一般的な科学哲学の言葉ではなく、別の方面の言葉だったのでしょうか。

> 「この世界についての言明である」というこれだけで必然的に反証可能ということになり、恒真で無いということになりますから。

その理屈が通るのなら、「この世界のすべての少女は女性である。これはこの世界の言明である」という発言も「物理的に確かめる方法はないけれど確かに存在を感じるものがあるとき、それは存在している。これはこの世界の言明である」も「神は実在する。これはこの世界の言明である」も必然的に反証可能であることになります。

>「神が存在する」を検証したり反証したりできなくても「反証可能」の条件としては十分であり有効です。「もし仮に」という条件をつけて真なる命題の役目を果たせればそれで十分です。実際に真であること(または偽であること)を証明する必要は全くありません。

確かに、実際に真であること(または偽であること)を証明する必要はありません。しかし、実際に真であり「得る」こと(または偽であり「得る」こと)を証明する必要はあるのじゃないですか。

少なくとも僕は、「「この世界についての言明である」というこれだけで必然的に反証可能ということになり、恒真で無いということになる」ような「反証可能性」は知りませんし、「反証方法自身が検証も反証もできないものだったとしても「反証可能」の条件としては十分に有効で、それが「反証可能」という語の意味」というような「反証可能」は知りません。異邦人さんの自信満々さから、異邦人さんが言われているような「反証可能」がどこかにあるに違いないとは思うのですが、どこかで勉強されたのでしょうか。どこかの本に載っていたのでしょうか。そんなトンデモ本があるのなら興味深いです。紹介してほしいです。
しかし、もし異邦人さんがご自身の唯物論を、きちんと科学哲学の方法において位置づけて整理しようと思われるなら、トンデモではないちゃんとした「科学哲学」の書を読んで、語の用法などを見直された方がいいと思います。

横山信幸さん。

「反証可能」という語の意味の理解がお互いに大きく異なっているようです。
「反証可能」という語の意味について、
私の理解がトンデモであるのか否か、横山信幸さんの理解がトンデモであるのか否か、は第3者の評価に任せるしかありません。
お互いの理解が大きく異なるのでこれ以上の議論の続行は難しいものと思います。

しかし私から横山信幸さんへの質問が残っていますのでもう少しお付き合い願います。

>異邦人さんの自信満々さから、異邦人さんが言われているような「反証可能」がどこかにあるに違いないとは思うのですが、どこかで勉強されたのでしょうか。どこかの本に載っていたのでしょうか。そんなトンデモ本があるのなら興味深いです。紹介してほしいです。

特にどこかの本に載っている訳ではありません。
私が一般常識として理解している事柄の一つです。
同様に『「この世界についての言明である」というこれだけで必然的に反証可能になる』というのも私が一般常識として理解している事柄の一つです。
横山信幸さんが理解している「反証可能」という語の意味はどのような本に載っているのかご紹介頂けますでしょうか?
(どのような本か興味深いです。トンデモ本でないことを祈ります)

>>投稿: 横山信幸 | 2013年11月11日 (月) 21時40分
>僕の主張は、異邦人さんの唯物論には反証可能性がなく、反証の方法がないというものです。
だから、その僕の主張を否定しようと思われるのなら、反証の可能性があることを示すために反証する方法があることを示すべきだと言っているのです。
あらゆる科学的法則は反証可能ですから、どうすれば反証できるのかがはっきりしています。質量が勝手に変化する粒子が発見されれば質量保存則を反証できますし、光速より速い有質量粒子が発見されれば相対性論が反証されます。粒子の位置と運動量をプランク定数以下まで厳密に確定させられれば量子論を反証でき、重力が突如斥力に変わればニュートン則が反証されます。
世界を記述することができている法則は現実と異なることもできるからこそ、世界の記述たり得るのです。
異邦人さんの唯物論が反証可能性を持つのなら、反証ができないとしても、どうすれば反証できるのかの方法は示せるはずです。
(引用終わり)

横山信幸さんの主張を確認させてください。

(1)「もし仮に」質量が勝手に変化する粒子が発見されれば質量保存則を反証できます。

この主張は「もし仮に」という条件付で反証できる、という主張ですよね?
それとも「もし仮に」という条件など全く無しで、反証可能とお考えなのでしょうか?

(2)「もし仮に」光速より速い有質量粒子が発見されれば相対性論が反証されます。

この主張は「もし仮に」という条件付で反証できる、という主張ですよね?
それとも「もし仮に」という条件など全く無しで、反証可能とお考えなのでしょうか?

(3)「もし仮に」粒子の位置と運動量をプランク定数以下まで厳密に確定させられれば量子論を反証できる。

この主張は「もし仮に」という条件付で反証できる、という主張ですよね?
それとも「もし仮に」という条件など全く無しで、反証可能とお考えなのでしょうか?

(4)「もし仮に」重力が突如斥力に変わればニュートン則が反証されます。

この主張は「もし仮に」という条件付で反証できる、という主張ですよね?
それとも「もし仮に」という条件など全く無しで、反証可能とお考えなのでしょうか?

以上が横山信幸さんの主張の確認です。次は私からの質問です。

(5)「もし仮に」神が存在したならば、神の存在を証明することは私は可能だと思いますが横山信幸さんは如何お考えでしょうか?
少なくとも私は全く証明できないとは断定できないと思いますが、横山信幸さんは如何お考えでしょうか?

(6)「もし仮に」霊魂が存在したならば、霊魂の存在を証明することは私は可能だと思いますが横山信幸さんは如何お考えでしょうか?

(7)「もし仮に」物質に物理的性質以外に霊的性質も備わっているとしたら、物質に物理的性質以外に霊的性質も備わっていることを証明することは私は可能だと思いますが横山信幸さんは如何お考えでしょうか?

以上が私からの質問です。

異邦人さん、

>私の理解がトンデモであるのか否か、横山信幸さんの理解がトンデモであるのか否か、は第3者の評価に任せるしかありません。お互いの理解が大きく異なるのでこれ以上の議論の続行は難しいものと思います。

第三者の評価というのであれば、せっかく思索を深めた先人が図書館にはいっぱいいるのですから、これを使わない手はないのではないですか。僕は、戸田山 和久の「科学哲学の冒険」と「知識の哲学」が分かりやすくて良かったです。サミール・オカーシャの「科学哲学」が評判良いので今図書館で予約しています。異邦人さんもぜひ何か読んでください。そして、いい本があれば紹介してください。本を読まれて「帰納と演繹」や「狭義帰納とアブダクションなど」の科学哲学の知的アイテムを使えるようになると、異邦人さんの唯物論ももっと整理できるはずだと思います。


>>(1)「もし仮に」質量が勝手に変化する粒子が発見されれば質量保存則を反証できます。>この主張は「もし仮に」という条件付で反証できる、という主張ですよね?それとも「もし仮に」という条件など全く無しで、反証可能とお考えなのでしょうか?

「質量が勝手に変化する粒子が発見されれば質量保存則を反証できる」はもちろん「もし仮に」という条件付きの文です。僕は「もし仮に」の文であるからダメだとか、「もし仮に」だけで十分だとか、そういうことを言っているわけではありません。「もし仮に」は今の議論にはあまり関係ありません。僕が考えているのは、「質量保存則」を反証するには「もし仮に質量保存則が正しかったとしたら」と仮定するだけでは不十分であり、「質量が勝手に変化する粒子が発見されれば反証できる」などの具体的で実証可能な「反証方法」が提示できることが必要だということなのです。「物理状態のある一部がクオリアである」を反証するのに「もし仮に神が存在したら物理状態のある一部がクオリアであることは否定される」と仮定文にするだけでは不十分であるだけでなく、全く的外れな回答になってしまっています。どうすればそれが検証できるのかという具体的な「方法」を提示できるか否かが問題なのに、何も提示できていないからです。問題は「方法」があるか否かなのです。


>(5)「もし仮に」神が存在したならば、神の存在を証明することは私は可能だと思いますが横山信幸さんは如何お考えでしょうか?少なくとも私は全く証明できないとは断定できないと思いますが、横山信幸さんは如何お考えでしょうか?

真剣に力を入れて回答します。
以前僕が話したニューニュートリノを覚えていらっしゃいますか。「もし仮に」ニューニュートリノが存在したならば、ニューニュートリノの存在を証明することは可能でしょうか。不可能ですよね。不可能どころか、そんな前提はナンセンスです。「神」も「霊魂」も「物理的性質以外に霊的性質」も一緒だと思います。ここでの議論の流れから言って「神」も「霊魂」も物理的作用の対象外だと考えていいでしょう。物理的作用の対象であるのなら、それは物理的理論の内部での事物でしかなくなって、唯物論の否定に結びつくような「反証の証拠」にはなり得ないからです。そして物理的作用とは現在発見されている作用「核力」「弱い力」「強い力」「電磁力」「重力」だけを差すのではありません。ある検査器具に対して未知の作用が働いたことが見つかったとしても、物理的作用から外れた非物理的な事物が見つかったことにはなりません。なぜなら、まさしく既知の作用以外の新たな物理作用が発見されたことになるだけだからです。もし、そこに作用があったのなら、それは物理の中に取り込まれて物理的作用になってしまうのです。たとえば、「幽霊」を見つけたいときに「仮に」幽霊が見えたり幽霊に触れたりしたとしたなら、「幽霊」を見つけたと言って良いのかもしれません。でもそれは所詮「物理的な現象としての幽霊」でしかないので、唯物論を否定するような(本当に問題にすべき)「幽霊」はやはり見つけられていないままなのです。
唯物論を否定できるような非物理的な存在とは、世界を検証しようとする「私たち」と物理的な相互作用を持たないはずです。相互作用があるのならそれは物理的存在だからです。でも「私たち」と物理的な相互作用を待たないものなんて、所詮「ニューニュートリノ」なのです。在るとは言えないのです。結局、非物理的とは見つける「方法」が無いということなのです。だから、非物理的な「神」も非物理的な「霊魂」も「物理的性質以外の霊的性質」もそれは見つける方法はないものだということのはずなのです。だから、「神」も「霊魂」も「仮に在ることにする」ということは「ニューニュートリノが仮にあることにする」と同様にナンセンスなことなのです。
だから、「もし仮に」神が存在したとしても、神の存在を証明することは不可能です。そして、それだけでなく、「神」が非物理的な存在なのであれば「もし仮に神が存在したとすること」自体がナンセンスな前提になると横山は考えています。

横山信幸さん。

恐らく哲学書の読書量や知識量は横山信幸さんにとても及びません。
最近の読書はもっぱら哲学以外で、哲学書に取り組む余裕がありません。
最近、哲学に関しては殆どネット検索です。

<クオリアが脳状態であることについて>

唯物論の前提が「この世界についての記述である」ことから必然的に反証可能であることが導かれ、唯物論の前提から導かれる「クオリアが脳状態である」という命題も必然的に反証可能であることになります。
それ以上の証明は全く不要です。何一つ「的外れな回答」ではありません。

<ニューニュートリノと神、霊魂、霊的性質の存在について>

「ニューニュートリノ」はもともと「物理的作用を持たず、物質と相互作用しない」と想定された存在です。そんな存在など問題外です。
「神、霊魂、霊的性質」はもともと「物理的作用を持ち、物質と相互作用する」と想定された存在です。「ニューニュートリノ」と一緒には出来ません。
そのような「神、霊魂、霊的性質」が「もし仮に」存在したとすれば、物質との相互作用を通して自然科学的方法で検出可能であるハズです。
勿論、「もし仮に」という条件の下での話ですから実際にどのような方法で検出可能であるかは分かりません。
「もし仮に」という条件の下で話す以上、実際に検出方法を示す必要は全くありませんし、実際に証明する方法を示す必要も全くありませんし、実際に検証する方法を示す必要も全くありません。
それが「もし仮に」という条件の下で話すことの意味ですから。

「もし仮に」という条件は大事な条件です。どうでもいい条件ではありません。
「反証可能」という語の意味を成立させている重要な条件です。

異邦人さん、

1.
>唯物論の前提が「この世界についての記述である」ことから必然的に反証可能であることが導かれ、唯物論の前提から導かれる「クオリアが脳状態である」という命題も必然的に反証可能であることになります。

つまり、「反証可能であると前提したのだから反証可能である」という理解でいいですか。完全に演繹であって帰納的推論ではないですね。演繹では世界についての記述はできません。異邦人さんの推論が、科学ではなく「宗教的なという意味での悪しき原理主義」でしかないという証左の一つです。


2.
>「神、霊魂、霊的性質」はもともと「物理的作用を持ち、物質と相互作用する」と想定された存在です。「そのような「神、霊魂、霊的性質」が「もし仮に」存在したとすれば、物質との相互作用を通して自然科学的方法で検出可能であるハズです。

仰るように、「神、霊魂、霊的性質」が「物理的作用を持ち、物質と相互作用する」と想定されたのであれば、自然科学的方法で検出可能であると、僕もそう思います。しかし、

> >異邦人さんの唯物論は
>霊魂が実在であることを証明すれば反証は成立します。
>物質に物理的性質以外に霊的性質も備わっていることを証明すれば反証は成立します。
>神の存在を証明すれば反証は成立します。

この話題に出てきた、「霊魂」「霊的性質」「神」は「物理的作用を持ち、物質と相互作用する」と想定されたものであってはいけないのではないですか。異邦人さんは、「物理的作用を持たず、物質と相互作用しない」との想定だから「異邦人さんの唯物論の反証」になるとして提示できたのではないですか。だから、物理的作用を持たないという点でニューニュートリノと変わらず、検証不可能なのです。


3.
>「もし仮に」という条件の下で話す以上、実際に検出方法を示す必要は全くありませんし、実際に証明する方法を示す必要も全くありませんし、実際に検証する方法を示す必要も全くありません。

「検証・反証」の捉え方について仰っていることが、僕には全然わかりません。「もし仮に」と語れば「検証方法の示さなくても、正しい世界記述ができる」と仰っているのですよ。残念ながらかなりな「トンデモ科学哲学」です。「検証方法を示す必要がない」なんていう説は科学ではなく、やはり「宗教的なという意味で悪しき原理主義」です。異邦人さんは非科学的な言論が世界記述になり得ると仰っているように、僕には見えます。

でも、これについては異邦人さんの仰るように、僕たちの基本前提が違うのでこれ以上話し合っても無駄でしょう。第三者の視点が必要でしょうから、僕もまたいろいろな書を読んだり人に聞いてみたりしたいと思います。異邦人さんも是非「科学哲学」の書を読んでください。読まれてからまたご意見をください。お忙しくて読む時間がないのならここまでにするしかないでしょう。

横山信幸さん。

お互いの理解が大きく異なっているのでこれ以上の議論は難しそうです。
ここは一旦休憩タイムということにしましょう。
暫らくROMすることにします。(^^;;;

#訂正と補足#
休憩の前に一部訂正と補足をさせて頂きます。

<「クオリアが脳状態である」ことの反証可能性>

(訂正前)
唯物論の前提が「この世界についての記述である」ことから必然的に反証可能であることが導かれ、唯物論の前提から導かれる「クオリアが脳状態である」という命題も必然的に反証可能であることになります。

(訂正後)
「クオリアが脳状態である」という命題は「この世界についての記述」であり必然的に反証可能であることになります。

(補足説明)
唯物論の前提が反証可能であること、とは別に、それとは独立して、「クオリアが脳状態である」という命題は必然的に反証可能であることになります。

<「神、霊魂、霊的性質」の存在証明>

「神、霊魂、霊的性質」は「物質と相互作用する」と想定されている存在です。
「もし仮に」それらが存在するとすれば、物質との相互作用を通して自然科学的方法で検出可能であることが推定できます。
つまり「もし仮に」それらが存在するとすれば、その存在を証明可能であることが推定できるということです。
勿論、それはあくまで「もし仮に」という条件の下での話であり、実際には証明できませんし、証明できる必要も全くありません。
それが「もし仮に」という条件の下で語ることの意味ですから。
「もし仮に」という条件の下で語る以上、「もし仮に」という条件の下で照明可能であることが推定できれば十分です。
実際に証明する必要も、実際に証明できる必要も全くありません。

「理論が反証可能であるとは、経験に照らしてテスト可能な、何らかの明確な予測が理論から導かれるという意味である。」サミール・オカーシャ「科学哲学」p14

#誤字訂正#

(訂正前)
「もし仮に」という条件の下で語る以上、「もし仮に」という条件の下で照明可能で
(訂正後)
「もし仮に」という条件の下で語る以上、「もし仮に」という条件の下で証明可能で

横山信幸さん。

>「理論が反証可能であるとは、経験に照らしてテスト可能な、何らかの明確な予測が理論から導かれるという意味である。」サミール・オカーシャ「科学哲学」p14

サミール・オカーシャの定義は「反証可能」という語の定義としては不十分な定義であると思います。
私の示した定義が最も根本的な定義です。
サミール・オカーシャの定義で「反証可能」とされた命題はその通り「反証可能」でしょうが、サミール・オカーシャの定義で「反証可能」とされない命題でも実際に反証可能な命題は幾らでも存在します。
例えば「唯物論の前提」や「クオリアは脳状態の一部である」という命題がそれに当たります。
このことからサミール・オカーシャの定義が部分的定義に過ぎないことが分かります。

如何に権威ある哲学者の言葉だからと言って鵜呑みにするのは間違っています。
如何に権威ある哲学者の言葉であってもまず疑って掛からなければなりません。
如何に権威ある哲学者の発言であろうとも批判精神を持って評価すべきだと思います。権威ある哲学者の発言を持ち出しただけでは何の説得力もありません。

自然科学や数学の権威であれば、それだけで高い価値があるものと思いますが、哲学(科学哲学を含む)の権威の価値はそれなりしかなくそれ以上ではありません。
少なくとも哲学の場合、権威に頼りすぎるのはあまり意味がありません。

僕が引用したのは哲学的考察ではありません。定義です。哲学において、権威だからと言ってその考察の内容が正しいと考えるのは馬鹿げています。しかし、言葉の定義は教科書に習うべきです。自分で考えた言葉の意味と違うからと言って、教科書の定義を否定するのは、権威だからと言ってその哲学的考察に無条件にひれ伏すくらい馬鹿げています。

> サミール・オカーシャの定義で「反証可能」とされた命題はその通り「反証可能」でしょうが、サミール・オカーシャの定義で「反証可能」とされない命題でも実際に反証可能な命題は幾らでも存在します。
> 例えば「唯物論の前提」や「クオリアは脳状態の一部である」という命題がそれに当たります。
> このことからサミール・オカーシャの定義が部分的定義に過ぎないことが分かります。


「サミール・オカーシャの定義が不十分であることの証明」
1.異邦人さんの定義によれば、「唯物論の前提」や「クオリアは脳状態の一部である」は反証可能である。
2.サミール・オカーシャの定義では、「唯物論の前提」や「クオリアは脳状態の一部である」は反証可能にはならない。
3.ゆえに、サミール・オカーシャの定義は不十分である。
証明終わり。

何かを証明するために、自分の定義によれば等という論拠を用いるのがアリならなんでも証明できちゃいます。自分がルールブックを書き替えながらゲームしてるようなものですからね。

A.「脳状態の一部がクオリアである」は反証可能である。

B.「脳状態の一部がクオリアである」は現実世界に関する記述である。

「AゆえにB」及び「BゆえにA」は、定義による循環論法でしかなく、有効な証明にはなり得ない。

それゆえ、「経験に照らしてテスト可能な何らかの明確な予測が理論から導かれなければならないこと」が、AやBを意義ある世界記述にするためには必須なのです。

自分で勝手に考えた「オリジナルの反証可能性論」を立ち上げられること自体は否定しませんが、それでも循環論法でしかないのではマズイでしょう。

<「反証可能」という語の真の定義>

ある命題(主命題)が「反証可能」であるとは下記の場合を言います。
「もし仮に」ある任意命題が真であるとすれば、主命題に対する反証が成立する。
以上が「反証可能」という語の真の定義です。
任意命題には任意の命題が代入できます。
主命題に対する反証を成立させる任意の命題が一つでも存在すれば主命題は「反証可能」であることになります。

ある命題(主命題)が「反証可能」でないとは下記の場合を言います。
「もし仮に」真である想定される任意命題の全てについて、主命題に対する反証が成立しない。
以上が「反証可能」でないということの真の意味です。
主命題に対する反証を成立させるような任意の命題が全く存在しない場合、主命題は「反証可能」でないことになります。
例えば恒真命題はそのような命題です。
恒真命題は「反証可能」ではない命題です。
「反証可能」でないとはその命題が絶対的真/真実であることを意味します。

「反証可能」の定義は下記の様に言い換えることも出来ます。
「もし仮に」ある任意命題が真であるとすれば、主命題が偽になる。

主命題が偽になるような任意命題が一つでも存在すれば「反証可能」ということになり、一つも存在しなければ「反証可能」でないということになります。

<「反証可能」な命題の例>

<例1>物質のみが実在である(唯物論)
「もし仮に」物質以外の実在が存在すれば「物質のみが実在である」という命題の反証が成立する。(証明終わり)

<例2>クオリアは脳活動の一部である
「もし仮に」クオリアが脳活動の一部ではないとした場合「クオリアは脳活動の一部である」という命題の反証が成立する。(証明終わり)

ある命題が「この世界についての言明」である場合、全てこのような形で「反証可能」であることを証明できます。

勿論その命題は恒真命題であってはなりませんし、言葉の定義に反するような命題であってもなりませんし、この世界についての有意味な言明でなければなりません。

私は<例1>と<例2>の命題について証明するまでも無く常識的に考えて「反証可能」であることは自明であると考えます。
これらの命題について「反証可能」でないと主張する人がいる、ということ自体が私には信じられません。私にとっては当に青天の霹靂です。

異邦人さん、

「異邦人さんオリジナルの反証可能性」の説明、分かりやすかったですよ。
でも、いくつか質問があります。

1.まず、ネーミングの問題。
異邦人さんの反証可能性は、「理論が反証可能であるとは、経験に照らしてテスト可能な、何らかの明確な予測が理論から導かれるという意味」とは、別物ですよね。別のものならば、別の名前が必要ですが、同じ「反証可能」と言うのでは煩雑で混乱の元です。(それに後から自分で考え出したアイデアに「真の」という形容詞を付けるネーミングセンスはいただけません。ま、趣味の問題ですが。しかし、「非機能的な現象的意識」の時もそうでしたが、自分の考えていた言葉の意味が一般的なものと別物だったときに「もともとあった言葉」や「テキストの言葉」を否定して自分の用語のみを「真の」と位置付けるのは、話し合いのルールをはみ出していると思いますよ。)
とりあえず、「異邦人さんの反証可能」という名前でいいでしょうか。できれば、「反証可能」ではなく違う名前を付けてもらいたいのですが。
そして、一般的な方の、「理論が反証可能であるとは、経験に照らしてテスト可能な、何らかの明確な予測が理論から導かれるという意味」の「反証可能」は「一般的な反証可能」という呼び名でいいですか

2.質問
「脳状態の或る一部がクオリアである」という理論は「一般的な反証可能性」を持っていないと認められますか。

3.質問
「脳状態の或る一部がクオリアである」という理論には「経験に照らしてテスト可能な、何らかの明確な予測」の具体例が無いと認められますか。

4.質問
ある命題が「この世界についての言明」である場合、全て「異邦人さんの反証可能」であることを証明できるということですが、
逆に、ある命題が「異邦人さんの反証可能」である場合、全て「この世界についての言明」」であることを証明できますか。問題になっているのはこちらの方の証明です。

異邦人さん

追伸

「もし仮に」ニューニュートリノが実在しないとすれば、命題「ニューニュートリノが実在する」が偽になる。
だから命題「ニューニュートリノが実在する」は「異邦人さんの反証可能性」において反証可能である。
ニューニュートリノは物理的相互作用を持たない物質であると設定されているが、実在するともしないとも設定されていないので、上記推論は妥当である。
正しいですか。

「もし仮に」円周率の数の並びに7が5つ連続する箇所が存在しないとすれば、命題「円周率の数のなかに7が5回連続する箇所がある」が偽になる。
だから、命題「円周率の数のなかに7が5回連続する箇所がある」は「異邦人さんの反証可能性」において反証可能である。
円周率のなかにまだ7の5回連続は発見されていないので、存在しない可能性はある。だから、上記推論は妥当である。
合ってますか。

また、単純に矛盾は「異邦人さんの反証可能性」があることになりますよね。
合ってますか。

僕には、どれも世界を記述している命題だとは思えません。しかし、異邦人さんの反証可能性においては反証可能になってしまいます。

<「反証可能」という語の意味(別バージョン)>

ある命題に対しそれを肯定する意見もあり否定する意見も存在する場合、その命題は「反証可能」であると言えます。
そのような命題は議論の対象になり得ます。

「反証可能」でない命題は絶対的真/真実であり、そのような命題は肯定するしかなく否定することは無意味です。
そのような命題は議論の対象にはなり得ません。

逆に言えば議論の対象になるのが「反証可能」な命題であり、議論の対象にならず肯定するしかない命題が「反証可能」でない命題です。

「物質のみが実在である」「クオリアは脳活動の一部である」「神は存在する」「霊魂は存在する」という命題は議論の対象になる命題であり、現に議論の対象になっている命題であり「反証可能」であることは自明です。

横山信幸さん。

サミール・オカーシャの定義は科学哲学に於ける定義であり、科学分野に適用するための定義です。
存在論分野に適用することを意図した定義ではありません。
その定義を無理やり存在論分野に適用しようとするのはカテゴリーミスであり明らかな誤りです。
私の定義は汎用的で最も一般的で最も根本的な定義です。
私の定義はあらゆる分野に適用可能です。
私の定義はサミール・オカーシャの定義を含みあらゆる分野に適用できます。

>異邦人さんの反証可能性は、「理論が反証可能であるとは、経験に照らしてテスト可能な、何らかの明確な予測が理論から導かれるという意味」とは、別物ですよね。

別物ではありません。この定義は私の定義に含まれます。
私の定義はこの定義を含む最も根本的定義であり、この定義は不十分な定義です。
根本的定義に「一般的定義」とネーミングし、不十分な定義には「部分的定義(科学分野専用)」とネーミングするのが妥当です。

例えば「霊魂は存在する」という命題を考えます。
(この命題が成立すれば唯物論を反証できます)
「もし仮に」霊魂が存在するものとすれば自然科学的方法でその存在を検証可能であることが推定できます。
自然科学的方法は当然「経験に照らしてテスト可能な」方法であり「何らかの明確な予測」をもたらす方法です。
それが可能であるのは霊魂が物質と相互作用すると想定される存在であるからです。
但し「もし仮に」という条件の下での話である以上、実際に検証可能である必要性は全くありません。

>2.質問
「脳状態の或る一部がクオリアである」という理論は「一般的な反証可能性」を持っていないと認められますか。

当然「NO」です。根本的意味での反証可能性があることは自明です。

>3.質問
「脳状態の或る一部がクオリアである」という理論には「経験に照らしてテスト可能な、何らかの明確な予測」の具体例が無いと認められますか。

当然「NO」です。原理的には当然具体例があります。
原理上は自然科学的方法により検証可能です。
自然科学的方法は当然「経験に照らしてテスト可能な」方法であり「何らかの明確な予測」をもたらす方法です。

>4.質問
ある命題が「この世界についての言明」である場合、全て「異邦人さんの反証可能」であることを証明できるということですが、 逆に、ある命題が「異邦人さんの反証可能」である場合、全て「この世界についての言明」」であることを証明できますか。問題になっているのはこちらの方の証明です。

逆が必ずしも成立しないことは自明です。(論理の初歩)
「この世界についての言明」以外にも反証可能な命題は幾らでも存在します。
そもそも逆命題は今回の問題の対象にはなっていません。
「問題になっているのはこちらの方の証明です」というのは全くの的外れです。

しかしそれにしてもなににしても、「物質のみが実在である」「クオリアは脳活動の一部である」という命題は常識的に考えても「反証可能」であることは自明であると思うのですが、その命題が「反証可能」であるのか否か、という議論の対象になること自体が信じられません。

「物質のみが実在である」「クオリアは脳活動の一部である」という命題が「反証可能」でないと主張することは、その命題が絶対的真/真実であると主張することと同じです。
唯物論批判者であるハズの横山信幸さんがそのような主張をすることは矛盾であり、拙いと思いますが。

異邦人さん、

1.ネーミングについて、
いくらなんでも、異邦人さんの反証可能を「一般的」というのはゴーマンかましすぎでしょう。認められません。「異邦人さんの反証可能性」と「オカーシャの反証可能性」で手を打ちませんか。


2.>別物ではありません。・・・について
「オカーシャの反証可能性」では「非物理的な神」や「非物理的な霊魂」や「非物理的なニューニュートリノ」は反証不可能です。
内包も外延も違っているのに別物ではないとは・・・・、「同一性」の意味さえ共有できないのでは困ったな・・・という感じです。


3.>サミール・オカーシャの定義は科学哲学に於ける定義であり、科学分野に適用するための定義です。存在論分野に適用することを意図した定義ではありません。・・・・について

僕は科学哲学という道具建てによって「異邦人さんの唯物論」が「この世界についての言明でない」ことを明らかにしようと主張しているのです。それを、受け入れないということは、「異邦人さんの唯物論」が科学哲学による批判には耐えられないと認められたと考えていいでしょうか。


4.>例えば「霊魂は存在する」という命題を考えます。(この命題が成立すれば唯物論を反証できます)「もし仮に」霊魂が存在するものとすれば自然科学的方法でその存在を検証可能であることが推定できます。自然科学的方法は当然「経験に照らしてテスト可能な」方法であり「何らかの明確な予測」をもたらす方法です。それが可能であるのは霊魂が物質と相互作用すると想定される存在であるからです。

この論はすでに予想して反論を前に説明していたのですが分かってもらえてなかったようですね。
唯物論を反証することができるような命題「霊魂は存在する」において、「霊魂」は非物理的なものでなければなりません。ところが上では、「霊魂が物質と相互作用すると想定される存在である」としています。そのような物理的作用を持つ物理的存在としての「霊魂」では唯物論の否定をすることはできません。「霊魂」の意味をいい加減に捉えたための混乱なのです。
 
 

5.>逆が必ずしも成立しないことは自明です。(論理の初歩)「この世界についての言明」以外にも反証可能な命題は幾らでも存在します。そもそも逆命題は今回の問題の対象にはなっていません。・・・について

参りますね。失礼ですが笑ってしました。僕は、「異邦人さんの唯物論」が「この世界についての言明ではない」と主張するためにその「反証不可能」を訴えているのだ、ということはすでに何度か説明しています。僕の主張の方向性を分かっていただいてなかったのでしょうか。「異邦人さんの反証可能性」によって「この世界についての言明である」ことが証明されるのでないと、「異邦人さんの反証可能性」はその論旨のための道具にはならないのです。だから、異邦人さんは、僕の主張を批判するために、「異邦人さんの唯物論」が「世界の言明である」ことを証明できる方の「オカーシャの反証可能性」によって、僕を批判すべきなのです。

横山信幸さん。

どうも平行線のようですね。
後は第3者の評価に任せるしかありません。
私はこれで休憩に入りROMすることにします。

第三者がどんな公平なジャッジをしても、その意見は聞き入れられないかもしれませんね。哲学の教科書という、一般的にはかなり公平だとされる審判でもダメだったのですから。

異邦人さん、

論戦がいったん休止ということですので、まだ、言えてなかった論点を言っておきたいと思います。

ことばの意味とはその言葉がどのように働くかという観点でも考えられます。その意味で、「どうやったらその真偽が確かめられるか」というのも語の意味の一種であります。「このトマトは旨い」という語の意味は、たとえば、「それを食べてみて本当に美味しかったら真で、不味かったら偽だと分かる」というのもその語の意味の一つです。
「脳の状態の或る一部がクオリアだ」という言葉の意味についても同様で、「どうやったらその真偽が分かるか」ということがその語の重要な意味の一つです。
いや、嘘です。
重要な語の一つというだけではその重要性は語れていません。言語ゲームの観点で言うと、「どうやったらその真偽が分かるか」が分からないなら、その語の意味の真偽が確かめられないのだから、語っている本人自身が語の意味を分かっていないとさえ言えるほどの重要な意味を欠いている、と言うべきなのです。
「脳の状態の或る一部がクオリアだ」という主張の意味を異邦人さんは自分で「理解している」と思い込んでいるでしょうが、それは私的言語的な「理解もどき」でしかなく、理解していると誤解しているだけなのです。


・・・・とこういう話をしようと思っていたのですが、急にこれだけのことを言っても理解できないでしょうし、きっと誤解されてしまうでしょうから、順番に説明していこうと思っていたのです。でも、休戦だということですからあまりゆっくり説明してられないので、誤解されるのを承知で言うだけ言っておきます。

>重要な語の一つというだけではその重要性は語れていません。言語ゲームの観点で言うと、「どうやったらその真偽が分かるか」が分からないなら、その語の意味の真偽が確かめられないのだから、語っている本人自身が語の意味を分かっていないとさえ言えるほどの重要な意味を欠いている、と言うべきなのです。
「脳の状態の或る一部がクオリアだ」という主張の意味を異邦人さんは自分で「理解している」と思い込んでいるでしょうが、それは私的言語的な「理解もどき」でしかなく、理解していると誤解しているだけなのです。


「語っている本人自身が語の意味を分かっていない」―そういうことですね。
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-8021.html#comment-82473429
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79828354
「ふうん、そんな事が本当に起こったのなら凄い話だね。だけど、そんな事が『あり得る』かどうか、或は僕が君の話を『信じる』かどうか以前に、抑も(僕も含めて)第三者が君の話に意味を見い出せるかどうか甚だ疑問だな。というか、実際は君自身も自分の言っていることがよく解っていないんじゃないか。君が冗談かホラを言っている(それともオツムがやられてしまったのか・・・)なら話は別だが。じゃあ、とりあえず、幾つか質問させてもらうよ」

工藤さん久しぶりです

>「語っている本人自身が語の意味を分かっていない」―そういうことですね。

その通りです。しかし、荒唐無稽な話だから自分でも何を言っているか理解できないと言っているのではありません。

「電信柱にトゲが刺さっていてそのトゲをぐりぐり動かそうとすると余計に痛みが激しくなる場合、そしてそれが繰り返し起こる場合、「電信柱が痛む」という判断をするのは妥当である。」
と以前述べたように、僕の語っていることは言語ゲームへの乗り方を示し得ますので、自分でどのような語の意味を言おうとしているのかは、ゲームへの参加方法を理解しているという意味で、理解しています。その意味で検証と反証が可能でもあります。
「どんな荒唐無稽な内容であろうと、ゲームへの参加方法があって、それを理解し、そのようにゲームすることができるのなら、その語には意味があると言える」僕は思っていますので、自分の意見を自分で否定してるわけではありません。

ご無沙汰しております。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


>電信柱にトゲが刺さっていてそのトゲをぐりぐり動かそうとすると余計に痛みが激しくなる場合
>どんな荒唐無稽な内容であろうと、ゲームへの参加方法があって、それを理解し、そのようにゲームすることができるのなら、その語には意味があると言える
>僕の語っていることは言語ゲームへの乗り方を示し得ますので、自分でどのような語の意味を言おうとしているのかは、ゲームへの参加方法を理解しているという意味で、理解しています。その意味で検証と反証が可能でもあります。


電信柱にトゲが刺さっていてそのトゲをぐりぐり動かそうとすると余計に痛みが激しくなる?? ―何度でも繰り返しますが・・・仮に横山さんの言う『電信柱』があの電信柱―我々の生活圏に存在し、見たり触れたり破壊したり出来る人工物―であるならば、件の文は理解不可能です。
ここで「私(横山さん)の言う『電信柱』はあの電信柱―我々の生活圏に存在し、見たり触れたり破壊したり出来る人工物―ではないのだ!」と仰るのであれば、『(横山さんの言う)電信柱』なる代物の内実を明確にして頂く他ありません。

http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-8021.html#comment-82473429
音の風―例えば、「正四角形の円が存在するか?」等々―を検証・反証することは出来ないのです。

(最早お答え頂かなくても結構ですが・・・)

時空的連続体の一部分から開けている【のではない】視点或は視野のようなもの、とは何か?
そのような視点或は視野のようなものすら欠いた映像の如きもの、とは何か?

件の状況において、『"Y氏"からのテレパシーを【ホントに】受信していることを示すデータ』とは何か?

件の状況において、『Y氏が"フォン・ノイマンの霊"と【ホントに】交信していることを示す第三者が確証し得る根拠』とは何か?

抑も彼らは何故"それ"が【他ならぬ】"フォン・ノイマンの霊"からのテレパシー【である】ことを【知っている】のか?

抑も何を根拠に【他ならぬ】"フォン・ノイマンの霊"からのテレパシー【である】と判断したのか?

抑も如何にしてそれを【確証し得る】のか?

>サールは、意識を意味論的で言語化できない私的なものとして捉えた上で、脳の過程が意識のメカニズムそのものであるとした。


完全な誤読ですね。彼の肩を持つ気は更々ありませんが、こんな読み方をされたのではサールも浮かばれません。

既に縷言した筈ですが、
①民間心理学的な説明体系と物理学的な説明体系の【文法的差異】
(*異なる説明体系をどちらか一方に還元することは出来ない)

②[工藤庄平なる身体に生起する神経発火]~工藤も第三者も視認可能な事象と[工藤庄平なる身体に生起する痛み]~工藤が感じる視認不可能な事象の【認識論的な区別】
(*認識論的には区別出来るが存在論的には区別されない)
ではないし、[工藤庄平なる身体に生起する痛み]は「反省的意識を欠いた現象的意識」「クオリア」などという代物(妄想)とは何の関係もありません。

工藤さん、久しぶりです。

突然の来訪に大量のコメント、いささかびっくりしています。
少しずつしか回答できないでしょうけど、気長に待ってください。

>電信柱にトゲが刺さっていてそのトゲをぐりぐり動かそうとすると余計に痛みが激しくなる?? >・・仮に横山さんの言う『電信柱』があの電信柱―我々の生活圏に存在し、見たり触れたり破壊したり出来る人工物―であるならば、

僕の言う電信柱は、我々の生活圏に存在し、見たり触れたり破壊したり出来る人工物である、あの、電線や電話線の支持用でコンクリ製の10m程の棒状の柱のことです。

>件の文は理解不可能です。

件の文というのは、「電信柱にトゲが刺さっていてそのトゲをぐりぐり動かそうとすると余計に痛みが激しくなる」という文が理解不可能だと仰っているのですか

以下、僕の「電信柱に痛みを感じる」のイメージです。理解不可能だと仰るのが、意味が分からない感じです。

何某かの対象が自分の体だと判断できるパターンにはいくつかのものが考えられる。たとえば、そこに感覚器官があって、そこから物理的刺激を感じる場合。たとえば、カメラを脳に結び付けて、カメラからの視覚刺激が得られるようにすれば、そのカメラを自分の体の一部だとする言語ゲームを組み立てることは可能だ。このときカメラと脳を有線でつながなければならないとは限らない。1万㎞離れた場所の風景を写すカメラと無線で繋がっていて、1万㎞先の風景を見ることができるのなら、そのカメラを自分の目だとするゲームを組み立てることは十分にできる。
たとえば、電柱に感覚器を付けてそれを脳に繋いだとき、電柱の感覚器を自分の体の一部だとする言語ゲームを為すことは可能だ。このとき、感覚器は必ずしも有線で繋がらなければならないとは限らない。無線で脳に繋がっていれば離れた場所の感覚を感じることが出来るようになることは可能であるので、離れた場所を自分の体だとする言語ゲームも為し得る。
また、この感覚器からどのようにして自分に感覚が送られてくるか、そのメカニズムが分からなかったとしても、その感覚器と自分が得る感覚とを関係付ける十分な状況データがあれば、そこに因果関係があると判断することは妥当になる。1万㎞先で自分に視覚刺激を送りつけてくるその対象が如何なるもので、なぜそこからの視覚刺激が得られるのかが分からなかったとしても、「それ」を自分の目だとするゲームは為しえるのだ。離れた場所の電柱にナイフが刺さった時に何故か痛みが走り、そのナイフをぐりぐりと動かすとその痛みがさらに激しくなる場合、もしかすると、その電柱にセンサーが取り付けられていてそのセンサーが拾った刺激情報がが無線で自分の脳に送られてくるのかもしれないが、そんなメカニズムなどまったくわからなかったとしても「そこ」に自分が痛みを感じているのだとするゲームは為し得るのだ。
だから、何某かの対象が自分の体だと判断するための条件としては、体の延長の連続性は必ずしも必要ではなく、そのメカニズムが明らかにされることも必要とは限らない。因果関係があると判断できるような十分な状況のデータがあれば、その対象を自分の体だとするゲームを為すことが可能になる、と言える。

以上です。いかがでしょう。理解不能ですか。

横山さん、お久しぶりです。


>突然の来訪に大量のコメント、いささかびっくりしています。
少しずつしか回答できないでしょうけど、気長に待ってください。


気分屋なもので・・・ふらりと現れふらりと消えて、を繰り返して居ります。

>僕の言う電信柱は、我々の生活圏に存在し、見たり触れたり破壊したり出来る人工物である、あの、電線や電話線の支持用でコンクリ製の10m程の棒状の柱のことです。
>件の文というのは、「電信柱にトゲが刺さっていてそのトゲをぐりぐり動かそうとすると余計に痛みが激しくなる」という文が理解不可能だと仰っているのですか
>以下、僕の「電信柱に痛みを感じる」のイメージです。理解不可能だと仰るのが、意味が分からない感じです。


http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/2013721-a380.html#comment-81840485
「私は手に地下三フィートに水があるのを感じる」という陳述に対して「それは何を【意味して】いるのか解らない」と答えたくなるなろう。しかし、水脈占師はこう言うだろう、「いや、確かにその意味を君は理解しているのだ。君は『地下三フィート』が何を意味するか知っているし、『私は感じる』が意味することも知っている筈だ!」と。これに対して私は答えよう、私は【或る文脈の中で】語が意味することを知っているのだ。-略-それは良く解った言葉の組み合わせだが、目下のところ我々には解らない仕方で組み合わされているのだ。
―ウィトゲンシュタイン『青色本』

>僕の言う電信柱は、我々の生活圏に存在し、見たり触れたり破壊したり出来る人工物である、あの、電線や電話線の支持用でコンクリ製の10m程の棒状の柱のことです。
>電柱に感覚器を付けてそれを脳に繋いだとき、電柱の感覚器を自分の体の一部だとする言語ゲームを為すことは可能だ。このとき、感覚器は必ずしも有線で繋がらなければならないとは限らない。無線で脳に繋がっていれば離れた場所の感覚を感じることが出来るようになることは可能であるので、離れた場所を自分の体だとする言語ゲームも為し得る。


http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79757061
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79757435
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79760625
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79765580
電柱に感覚器を付けてそれを脳に繋いだとき?? ―あれれ、オカシイですね。感覚器?を付けた段階で、既にそれは「我々の生活圏に存在し、見たり触れたり破壊したり出来る人工物である、あの、電線や電話線の支持用でコンクリ製の10m程の棒状の柱」ではありませんよね(見た目は電信柱とよく似た人工物に『電信柱』という固有名を付けることは出来ますが)。
率直に言って、抑も横山さんが【感覚器】【感覚器を電柱に取り付ける】【感覚器を取り付けた電柱と脳を繋ぐ】という語や文章で何を意味しているのか、僕には全く解らないのです。

工藤さん

電柱に感覚器が付いたかどうかというのは、文脈上で重要ではありません。お気に添わないようなら飛ばしてお読みください。状況をイメージしやすくなるかと思って書いただけのものですから。
重要なのは、メカニズムが如何なるものかではなく、メカニズムがどんなものかが全く解ってなくとも問題ないという点ですから。

それから、地下水を感じる話ですが、それまでの言語ゲームから外れてしまうような、状況を一新する出来事が起こったとき、それを語るために新たなゲームを創作する必要がでてきます。ただその新しいゲーム策定が有意味になるかたわごとになるかは、その「意味」を保証できるだけのゲームフィールド(ゲームを有意味にする状況)が必要になります。
ウィトゲンシュタインが「手に地下の水を感じる」という言をたわごとだとしたのも、それが非常識で既存のゲームから外れているからなのではなく、言葉やゲームの有意味性を保証する状況が無かったがゆえだと思います。もし、「水脈を感じる」と言われた所から次々と水が掘り起こされ、「感じない」と言われた所からは出てこないという状況が十分にあったなら、ウィトゲンシュタインも「水脈を感じる」をたわごとだとせず、ゲームの有意味性を認めるでしょう。

>それから、地下水を感じる話ですが、それまでの言語ゲームから外れてしまうような、状況を一新する出来事が起こったとき、それを語るために新たなゲームを創作する必要がでてきます。ただその新しいゲーム策定が有意味になるかたわごとになるかは、その「意味」を保証できるだけのゲームフィールド(ゲームを有意味にする状況)が必要になります。
ウィトゲンシュタインが「手に地下の水を感じる」という言をたわごとだとしたのも、それが非常識で既存のゲームから外れているからなのではなく、言葉やゲームの有意味性を保証する状況が無かったがゆえだと思います。もし、「水脈を感じる」と言われた所から次々と水が掘り起こされ、「感じない」と言われた所からは出てこないという状況が十分にあったなら、ウィトゲンシュタインも「水脈を感じる」をたわごとだとせず、ゲームの有意味性を認めるでしょう。


これも半端な理解ですね。ゲームフィールド(ゲームを有意味にする状況)は我々が共に含まれて在る[現実=諸事物のネットワーク]において生成する―言語ゲームがそうであるように―のであって、誰か(ex. 横山さん)が発した【音の風】ではないのです。


だが、もし水脈占師が(例えば)「特別な感じがしたら必ず水を求めて掘るというようにして得られたその感じと深さの【測定】との相関によって水の深さを見積ることを習ったのだ」と言ったとすれば、前述の困難を我々は感じなかったはずである。そこで【見積り方を習う】過程と[実際の]見積り行為との関係を検討しなければならない。
―ウィトゲンシュタイン『青色本』


ゲームフィールド(ゲームを有意味にする状況)は誰か(ex. 横山さん)の想像的思考の中に生成するのではありません。

工藤さん

○ >完全な誤読ですね。彼の肩を持つ気は更々ありませんが、こんな読み方をされたのではサールも浮かばれません。

できれば、工藤さんの考える正しい「サールの意識」に関する読みを教えてください。それなしで上のような非難をされては正当な批判として考えにくくなりますので。

○ 「音の風」はグーグルではヒットしませんでした。どういう意味ですか。教えてください。

○ 工藤さんが「青色本」から引いてくださった文は、[「水脈の実測と手の感じの相関を判断した根拠」を述べることによって占師はゲームフィールドを作ることができ、「手に地下水脈の在処を感じる」という文を理解可能にすることができる]ということを述べていると、僕には読めるのですが、違いますか。
同様に「電柱の釘をぐりぐりすることと痛みの感じの相関を判断する根拠」として、その相関が繰り返し起こると述べることによってゲームフィールドを作ることができ、「電柱に痛みを感じる」という文は理解可能になる可能性があると言える、と思うのですが、どうなのでしょう。(決して、理解可能になる必然性があるとは主張していません。唯ただ、理解可能になる可能性があると言えるだけのフィールドは作れていると思うということなのです。誰かがそんなゲームは認めないと言うのだったら、その人とはゲームの共有はできませんが、そのことによってすべての人とゲームが共有できなくなると決定されるのでは無いと思うわけです。)

僕の考えとしては、どんな自分勝手な規則であろうとその規則に従い得る可能性があるのなら、その規則は誰かと共有される可能性があり、自分でもその意味を理解し得ると言える、という至極当然のことを僕は主張しているつもりなのです。ただし、自分では規則に従っているつもりだけどその規則の範型を持っておらず規則への具体的な従い方を示すことができない場合にまで規則に従いえる可能性があると言っているわけでは決してありません。その従い方を示しえるような規則であるならば、自分勝手であってもそれは他者と共有できる規則になる可能性があると言っているのです。これは工藤さんの主張とは違っているのでしょうか。工藤さんが仰っているのは事前に規則の共有の確約が必要になるということなのでしょうか。
つまり僕の主張は、ある言語が何某かの意味を持ちえる可能性がある場合において、たまたま意味を共有できた時にはその語は言語ゲームを為し得るが、たまたま意味を共有できなかったならばその語はその場では言語ゲームを共有できない、という「『語の意味はたまたま言語ゲームが形成されたときに後付けされるのだ』論」です。
それに対して、工藤さんの主張は、「語の意味は、たまたまではなく必然的に形成されるべき言語ゲームにおいて、必然的に事前に付与されるのだ」ってことなのでしょうか。もしそうだとしたら、規則のパラドクスによってそんなことは有り得ないと僕は思ってしまうのですが。いかがでしょうか。


こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


>できれば、工藤さんの考える正しい「サールの意識」に関する読みを教えてください。それなしで上のような非難をされては正当な批判として考えにくくなりますので。


自分で考えてください。それが哲学の醍醐味というものですよ。とりあえず、『マインド』を読み返してみてはどうでしょう。

ヒント
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-8ee3.html#comment-86316399
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-8ee3.html#comment-86322386

解答
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-8ee3.html#comment-86320481
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-8ee3.html#comment-86321777
は与えておいた筈ですので。

○ 「音の風」はグーグルではヒットしませんでした。どういう意味ですか。教えてください。


↓既に示唆しておいた
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-9e8e.html#comment-86313198
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-8021.html#comment-82473429
音の風―例えば、「正四角形の円が存在するか?」等々―を検証・反証することは出来ないのです。

通りです。

音の風=意味不明な文字の羅列、とお考え下さい。

>工藤さんが「青色本」から引いてくださった文は、[「水脈の実測と手の感じの相関を判断した根拠」を述べることによって占師はゲームフィールドを作ることができ、「手に地下水脈の在処を感じる」という文を理解可能にすることができる]ということを述べていると、僕には読めるのですが、違いますか。
>同様に「電柱の釘をぐりぐりすることと痛みの感じの相関を判断する根拠」として、その相関が繰り返し起こると述べることによってゲームフィールドを作ることができ、「電柱に痛みを感じる」という文は理解可能になる可能性があると言える、と思うのですが、どうなのでしょう。


これまたポイントレスですね。ここでウィトゲンシュタインは「そこで【見積り方を習う】過程と[実際の]見積り行為との関係を検討しなければならない」と付け加えているのですよ。誰かが「水脈の実測と手の感じの相関を判断した根拠」を【述べる】だけではゲームフィールド(ゲームを有意味にする状況)は成り立ちません。

>それまでの言語ゲームから外れてしまうような、状況を一新する出来事が起こったとき、それを語るために新たなゲームを創作する必要がでてきます。
>もし、「水脈を感じる」と言われた所から次々と水が掘り起こされ、「感じない」と言われた所からは出てこないという状況が十分にあったなら、ウィトゲンシュタインも「水脈を感じる」をたわごとだとせず、ゲームの有意味性を認めるでしょう。


横山さんも認めておられるように、我々は①突飛で奇態な出来事が頻発するようになることと②そのような出来事について語る為に新たな言語ゲームを案出することの違いを理解しています。
ですが、↓以下の如き状況はあり得るし、また現に起こっている経験的事実でもあるでしょう。
或る人から聞いた話ですが、精神分裂病で入院した経験を持つ青年が「俺は地面に痛みを感じる!」と叫ぶようになった。その時誰かが地面を蹴りつける仕草をすると、彼は「痛い、止めてくれ!」と叫びながらのたうちまわる。そのような事が度々起こるようになったそうです。
彼を狂人と見倣す人、嘘吐きと断じる人、無視する人、彼の言動に付き合ってやる人etc様々な応接が考えられますし、実際その通りだったようです。
とはいえ、常軌を逸した思い込みが痛みとして感じられることもあり得るし、また現に起こっている経験的事実でもあるでしょう(彼がそのケースに該当するか否かは別にしても)。何れにせよ、このような状況であれば、理解不可能ではありません。
しかしながら、↓以下の思考実験

>たとえば、電柱に感覚器を付けてそれを脳に繋いだとき、電柱の感覚器を自分の体の一部だとする言語ゲームを為すことは可能だ。このとき、感覚器は必ずしも有線で繋がらなければならないとは限らない。無線で脳に繋がっていれば離れた場所の感覚を感じることが出来るようになることは可能であるので、離れた場所を自分の体だとする言語ゲームも為し得る。また、この感覚器からどのようにして自分に感覚が送られてくるか、そのメカニズムが分からなかったとしても、その感覚器と自分が得る感覚とを関係付ける十分な状況データがあれば、そこに因果関係があると判断することは妥当になる。1万㎞先で自分に視覚刺激を送りつけてくるその対象が如何なるもので、なぜそこからの視覚刺激が得られるのかが分からなかったとしても、「それ」を自分の目だとするゲームは為しえるのだ。離れた場所の電柱にナイフが刺さった時に何故か痛みが走り、そのナイフをぐりぐりと動かすとその痛みがさらに激しくなる場合、もしかすると、その電柱にセンサーが取り付けられていてそのセンサーが拾った刺激情報がが無線で自分の脳に送られてくるのかもしれないが、そんなメカニズムなどまったくわからなかったとしても「そこ」に自分が痛みを感じているのだとするゲームは為し得るのだ。

は理解不可能と言わざるを得ないのです。

>それから、地下水を感じる話ですが、それまでの言語ゲームから外れてしまうような、状況を一新する出来事が起こったとき、それを語るために新たなゲームを創作する必要がでてきます。ただその新しいゲーム策定が有意味になるかたわごとになるかは、その「意味」を保証できるだけのゲームフィールド(ゲームを有意味にする状況)が必要になります。ウィトゲンシュタインが「手に地下の水を感じる」という言をたわごとだとしたのも、それが非常識で既存のゲームから外れているからなのではなく、言葉やゲームの有意味性を保証する状況が無かったがゆえだと思います。もし、「水脈を感じる」と言われた所から次々と水が掘り起こされ、「感じない」と言われた所からは出てこないという状況が十分にあったなら、ウィトゲンシュタインも「水脈を感じる」をたわごとだとせず、ゲームの有意味性を認めるでしょう。


だが、もし水脈占師が(例えば)「特別な感じがしたら必ず水を求めて掘るというようにして得られたその感じと深さの【測定】との相関によって水の深さを見積ることを習ったのだ」と言ったとすれば、前述の困難を我々は感じなかったはずである。そこで【見積り方を習う】過程と[実際の]見積り行為との関係を検討しなければならない。
―ウィトゲンシュタイン『青色本』

ゲームフィールド(ゲームを有意味にする状況)は誰か(ex. 横山さん)の空想やその陳述の中に生成するのではありません。

○ >誰かが「水脈の実測と手の感じの相関を判断した根拠」を述べるだけではゲームフィールドは成り立ちません。

「成り立ちません」と仰るのは、成り立つとは限らないってことだけの話ですよね。成立し得ないってことではないですよね。そうだとすると、僕の主張と食い違いは無いかと思うのですが。占師の言を誰かに検討してもらうことで言語ゲームが共有可能になる「可能性」が生じるということを、僕は主張したかったわけですから。
(ただ、成立し得ないという話だったら食い違ってしまいますが。)

○ >たとえば電柱に感覚器を付けて・・・云々・・・は理解不可能といわざるを得ないのです。

「理解不可能」とは、その思考実験のメカニズム解釈かかなわないということでしょうか。あるいは、その「電柱に痛みを感じる」という文の意味の同一性に関する法則化の理由づけについて妥当性に欠けるからということでしょうか。それとも、その文がウンジンUnsinn(ナンセンス)だということですか。それとも、ウイダージンWidersinn(反意味)やジンロスSinnlos(無意味)だということでしょうか。
Unsinnは、たとえば「音の風」みたいに何ものも指示せず言語としての働きを一切持たない擬似言語の「ナンセンス性・無意味性」を指すものです。「ナンセンス」と訳されたり「無意味」と訳されたりします。フッサールは「緑はあるいはである」「アブラカタブラ」を例に挙げています。
Widersinnは、「正四角形の円」のように何ごとかを指示していて言語としての機能は有しているが、原理的文法的にその指示対象が存在することが不可能で、決して充実されることのないような言語の「矛盾性」を指すものです。「反意味」と訳されます。フッサールも「丸い四角」の例を挙げています。
Sinnlosは、「独身者は結婚している」や「独身者は独身である」のように言語機能はあるが世界の情報は何一つ示していないような言葉の「無意味性」を指すものです。「矛盾」や「トートロジー」を含んだ概念で、Widersinnも含まれます。野矢は「無意味」と訳しています。(「無意味」がUnsinnとSinnlosの両方で使われていて混乱しやすいのでここでは訳さずに使いました。)
「電柱に痛みを感じる」という語が、文法的に問題があるのなら、UnsinnかWidersinnかSinlosかのどれかに当てはまるのではないかと思います。文法的に問題が無くて常識的(あるいは現実的)に問題があるのなら、メカニズム解釈のあたりや、文の意味の同一性に関する法則化の理由づけについて妥当性に欠けるということの問題のあたりで理解不可能の原因があるのかと思ったのです。どこに工藤さんがおっしゃる理解不可能の原因があるのでしょうか。それとも、ぜんぜん違うところに問題があるのでしょうか。

○ >ゲームフィールドは誰かの空想やその陳述の中に生成するのではありません。

もちろん、僕も、ゲームフィールドは場の状況とその規則化との関連性において生成するのであって、空想の中だけでできるとは考えていません。しかし、その場の状況と規則化との関連の仕方は、どんな自分勝手で出鱈目なものであっても規則の範型を持ち、従い方を示し得るものであるならばその規則は誰かと共有できる可能性があることになり、自分でもその意味が分かることになると考えます。
これに対して、工藤さんが誰かの空想だけではダメだとおっしゃるのは、規則の範型を有し、従い方を示し得るだけでは言語化の条件として不十分であり、自分勝手で出鱈目な言語法則ではダメだということでしょうか。たとえば人間の習性に沿った法則化によって多くの人間が一致できるような法則化でなければ妥当な言語化とは言えないということなのでしょうか。

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


>占師の言を誰かに検討してもらうことで言語ゲームが共有可能になる「可能性」が生じるということを、僕は主張したかったわけですから。


占師の言を【誰かに検討してもらう】ことで?? ―あれれ、オカシイですね。僕の記憶に間違いがなければ、横山さんは先日のコメントで↓

>「水脈の実測と手の感じの相関を判断した根拠」を述べることによって占師はゲームフィールドを作ることができ、
>同様に「電柱の釘をぐりぐりすることと痛みの感じの相関を判断する根拠」として、その相関が繰り返し起こると述べることによってゲームフィールドを作ることができ、

その相関が繰り返し起こると【述べることによって】ゲームフィールド(ゲームを有意味にする状況)を作ることが出来ると仰っていた筈ですが。
言うまでもないと思いますが、①水脈占師が見積りを【述べる】ことと②我々が水脈占師の見積り方を習う過程と[実際の]見積り行為との関係を【検討する】ことは別の事柄ですよね。何故に詭弁と見紛うようなことを仰るのか・・・理解に苦しみます。


だが、もし水脈占師が(例えば)「特別な感じがしたら必ず水を求めて掘るというようにして得られたその感じと深さの【測定】との相関によって水の深さを見積ることを習ったのだ」と言ったとすれば、前述の困難を我々は感じなかったはずである。そこで【見積り方を習う】過程と[実際の]見積り行為との関係を検討しなければならない。
―ウィトゲンシュタイン『青色本』

>「電柱に痛みを感じる」という語が、文法的に問題があるのなら、UnsinnかWidersinnかSinlosかのどれかに当てはまるのではないかと思います。文法的に問題が無くて常識的(あるいは現実的)に問題があるのなら、メカニズム解釈のあたりや、文の意味の同一性に関する法則化の理由づけについて妥当性に欠けるということの問題のあたりで理解不可能の原因があるのかと思ったのです。どこに工藤さんがおっしゃる理解不可能の原因があるのでしょうか。それとも、ぜんぜん違うところに問題があるのでしょうか。


既に縷言したと思いますが・・・例えば、ウィトゲンシュタインなら↓以下のように

http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/2013721-a380.html#comment-81840485
「私は手に地下三フィートに水があるのを感じる」という陳述に対して「それは何を【意味して】いるのか解らない」と答えたくなるなろう。しかし、水脈占師はこう言うだろう、「いや、確かにその意味を君は理解しているのだ。君は『地下三フィート』が何を意味するか知っているし、『私は感じる』が意味することも知っている筈だ!」と。これに対して私は答えよう、私は【或る文脈の中で】語が意味することを知っているのだ。-略-それは良く解った言葉の組み合わせだが、目下のところ我々には解らない仕方で組み合わされているのだ。―ウィトゲンシュタイン『青色本』

答える筈です。

「電柱に痛みを感じる」―それは良く解った言葉の組み合わせだが、目下のところ我々には解らない仕方で組み合わされているのだ。

>「電柱に痛みを感じる」という語が、文法的に問題があるのなら、UnsinnかWidersinnかSinlosかのどれかに当てはまるのではないかと思います。文法的に問題が無くて常識的(あるいは現実的)に問題があるのなら、メカニズム解釈のあたりや、文の意味の同一性に関する法則化の理由づけについて妥当性に欠けるということの問題のあたりで理解不可能の原因があるのかと思ったのです。どこに工藤さんがおっしゃる理解不可能の原因があるのでしょうか。それとも、ぜんぜん違うところに問題があるのでしょうか。


何度でも繰り返しますが・・・僕の返答は↓以下
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79757061
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79760625
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-80378343
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-80379755
の通りです。

>それまでの言語ゲームから外れてしまうような、状況を一新する出来事が起こったとき、それを語るために新たなゲームを創作する必要がでてきます。
>しかし、その場の状況と規則化との関連の仕方は、どんな自分勝手で出鱈目なものであっても規則の範型を持ち、従い方を示し得るものであるならばその規則は誰かと共有できる可能性があることになり、自分でもその意味が分かることになると考えます。


横山さんも認めておられるように、我々は①突飛で奇態な出来事が頻発するようになることと②そのような出来事について語る為に新たな言語ゲームを案出することの違いを理解しています。
とはいえ、↓以下の如き状況はあり得るし、また現に起こっている経験的事実でもあるでしょう。
或る人から聞いた話ですが、精神分裂病で入院した経験を持つ青年が「俺は地面に痛みを感じる!」と叫ぶようになった。その時誰かが地面を蹴りつける仕草をすると、彼は「痛い、止めてくれ!」と叫びながらのたうちまわる。そのような事が度々起こるようになったそうです。
彼を狂人と見倣す人、嘘吐きと断じる人、無視する人、彼の言動に付き合ってやる人etc様々な応接が考えられますし、実際その通りだったようですね。
さて、ここで興味深いのは、彼の言動に付き合ってやった人が存在した、という事実です。これが↓横山さんの仰るような状況

>その場の状況と規則化との関連の仕方は、どんな自分勝手で出鱈目なものであっても規則の範型を持ち、従い方を示し得るものであるならばその規則は誰かと共有できる可能性がある

であるかどうかは別にしても、或る種のゲームが成立していたと見倣すことは出来るでしょう(常軌を逸した思い込みが痛みとして感じられることもあり得るし、また現に起こっている経験的事実でもあるでしょう。彼がそのケースに該当するか否かはともかく)。
何れにせよ、このような状況であれば、理解不可能とは思われません。
しかしながら、↓以下の思考実験

>たとえば、電柱に感覚器を付けてそれを脳に繋いだとき、電柱の感覚器を自分の体の一部だとする言語ゲームを為すことは可能だ。このとき、感覚器は必ずしも有線で繋がらなければならないとは限らない。無線で脳に繋がっていれば離れた場所の感覚を感じることが出来るようになることは可能であるので、離れた場所を自分の体だとする言語ゲームも為し得る。また、この感覚器からどのようにして自分に感覚が送られてくるか、そのメカニズムが分からなかったとしても、その感覚器と自分が得る感覚とを関係付ける十分な状況データがあれば、そこに因果関係があると判断することは妥当になる。1万㎞先で自分に視覚刺激を送りつけてくるその対象が如何なるもので、なぜそこからの視覚刺激が得られるのかが分からなかったとしても、「それ」を自分の目だとするゲームは為しえるのだ。離れた場所の電柱にナイフが刺さった時に何故か痛みが走り、そのナイフをぐりぐりと動かすとその痛みがさらに激しくなる場合、もしかすると、その電柱にセンサーが取り付けられていてそのセンサーが拾った刺激情報がが無線で自分の脳に送られてくるのかもしれないが、そんなメカニズムなどまったくわからなかったとしても「そこ」に自分が痛みを感じているのだとするゲームは為し得るのだ。

は理解不可能と言わざるを得ないのです。

そして、何度でも繰り返しますが・・・僕の返答は↓以下
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79757061
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79760625
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-80378343
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-80379755
の通りです。

工藤さん

或る人物が突然発狂して「私はこの電信柱に痛みを感じている!」と思い込んでいるケースで、彼の言動に付き合ってやる人が存在したなら或る種のゲームが成立すると見倣すことが出来る。しかし、「人間(有機体)が電信柱(無機物)に痛みを感じる」という文は明瞭な意味を全く持っていない。[事物]の在り方に反しているが故に無意味(Unsinn?Widersinn?Sinnlos?)である

というのが工藤さんのお考えですよね。
誰かが発狂者に付き合ってやることで言語ゲームが成立するのならば、「電柱に痛みを感じる」と言う者もそれに対応する者も両方が「電柱に痛みを感じる」ということが現実だと信じている場合でも言語ゲームは成立するはずです。でも、これを言語ゲームの成立と認めながら、「人間が電柱に痛みを感じる」という文が無意味であることも認めるとすれば、おかしなことになります。
「私は電柱に痛みを感じる」のは発狂者の思い込みで、本当は「人間が電柱に痛みを感じる」が無意味である…と判断する側の方が、なぜ自分勝手な思い込みをしているのではないと言えるのだろうかということです。結局どちらも独りよがりの思い込みでしかないと判断する以外無いのではないでしょうか。「私は電柱に痛みを感じる」という思い込みより、「人間が電柱に痛みを感じるというのは無意味だ」という思い込みの方が、妥当であったり正当であったり優位なアイデアであったりするとする判断が、なぜ正当だと言えるのかが僕にはわからないのです。
たとえば、多数であるほうが正しいと決めるのでしょうか。
たとえば、神のごとき絶対的視点を持ち出して超越的基準によって判断するのでしょうか。
それとも、それ以外に何かやり方があるのでしょうか。そんな方法があるのなら教えてください。

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


>誰かが発狂者に付き合ってやることで言語ゲームが成立するのならば、「電柱に痛みを感じる」と言う者もそれに対応する者も両方が「電柱に痛みを感じる」ということが現実だと信じている場合でも言語ゲームは成立するはずです。でも、これを言語ゲームの成立と認めながら、「人間が電柱に痛みを感じる」という文が無意味であることも認めるとすれば、おかしなことになります。


あれれ、オカシイですね。僕の記憶に間違いがなければ、横山さんの想定(思考実験)
では↓

>電柱に感覚器を付けてそれを脳に繋いだとき、電柱の感覚器を自分の体の一部だとする言語ゲームを為すことは可能だ。このとき、感覚器は必ずしも有線で繋がらなければならないとは限らない。無線で脳に繋がっていれば離れた場所の感覚を感じることが出来るようになることは可能であるので、離れた場所を自分の体だとする言語ゲームも為し得る。また、この感覚器からどのようにして自分に感覚が送られてくるか、そのメカニズムが分からなかったとしても、その感覚器と自分が得る感覚とを関係付ける十分な状況データがあれば、そこに因果関係があると判断することは妥当になる。1万㎞先で自分に視覚刺激を送りつけてくるその対象が如何なるもので、なぜそこからの視覚刺激が得られるのかが分からなかったとしても、「それ」を自分の目だとするゲームは為しえるのだ。離れた場所の電柱にナイフが刺さった時に何故か痛みが走り、そのナイフをぐりぐりと動かすとその痛みがさらに激しくなる場合、もしかすると、その電柱にセンサーが取り付けられていてそのセンサーが拾った刺激情報がが無線で自分の脳に送られてくるのかもしれないが、そんなメカニズムなどまったくわからなかったとしても「そこ」に自分が痛みを感じているのだとするゲームは為し得るのだ。

「電柱に感覚器を付けてそれを脳に繋いだとき」或は「無線で脳に繋がっていれば離れた場所の感覚を感じることが出来るようになることは可能である」という文章が示しているように【狂気や虚言etcのケースは問題にされていなかった】筈ですが。
何故このような詭弁を弄されるのか・・・理解に苦しみます。
抑も、先日のコメント↓
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-9e8e.html#comment-86424050
で僕が「地面に痛みを感じるようになった」と【述べる】ようになった青年のエピソードを紹介したのは、件のケースと横山さんの思考実験を比較検討することで後者の理解不可能性の所在を自得して頂く為だったのですが。

>「私は電柱に痛みを感じる」のは発狂者の思い込みで、本当は「人間が電柱に痛みを感じる」が無意味である…と判断する側の方が、なぜ自分勝手な思い込みをしているのではないと言えるのだろうかということです。結局どちらも独りよがりの思い込みでしかないと判断する以外無いのではないでしょうか。「私は電柱に痛みを感じる」という思い込みより、「人間が電柱に痛みを感じるというのは無意味だ」という思い込みの方が、妥当であったり正当であったり優位なアイデアであったりするとする判断が、なぜ正当だと言えるのかが僕にはわからないのです。


これも論点のスリカエですね。何故このような事を仰るのか・・・理解に苦しみます。
前回のコメントで示唆しておいた通り、我々は↓以下の事柄
①誰かが「地面に痛みを感じる!」と【言ってみる】こと(虚言・おふざけの可能性)
②精神に変調をきたした人物が地面に痛みを感じるようになること(常軌を逸した思い込みが痛みとして感じられることもあり得るし、また現に起こっている経験的事実でもあるでしょう)
②或る人間の身体と地面や電信柱や天竜川を繋いで?その人物が地面や電信柱や天竜川に痛みを感じるようになること―これが横山さんの想定(思考実験)ですね
を区別していますよね。

或る人から聞いた話ですが、精神分裂病で入院した経験を持つ青年が「俺は地面に痛みを感じる!」と叫ぶようになった。その時誰かが地面を蹴りつける仕草をすると、彼は「痛い、止めてくれ!」と叫びながらのたうちまわる。そのような事が度々起こるようになったそうです。
彼を狂人と見倣す人、嘘吐きと断じる人、無視する人、彼の言動に付き合ってやる人etc様々な応接が考えられますし、実際その通りだったようですね。
さて、ここで興味深いのは、彼の言動に付き合ってやった人が存在した、という事実です。それは彼の母親でした。彼が「地面が痛い!」と叫びながら暴れ狂っている時、お母さんは地面を撫でつつ「痛みはおさまったかい?」と息子に語りかけていたそうです。件の状況を省みれば、そこで或る種のゲームが成立していたと見倣すことは出来るでしょう(常軌を逸した思い込みが痛みとして感じられることもあり得るし、また現に起こっている経験的事実でもあるでしょう。彼がそのケースに該当するか否かは別にしても)。
何れにせよ、このような状況であれば、理解不可能とは思われません。
しかしながら、↓以下の思考実験

>たとえば、電柱に感覚器を付けてそれを脳に繋いだとき、電柱の感覚器を自分の体の一部だとする言語ゲームを為すことは可能だ。このとき、感覚器は必ずしも有線で繋がらなければならないとは限らない。無線で脳に繋がっていれば離れた場所の感覚を感じることが出来るようになることは可能であるので、離れた場所を自分の体だとする言語ゲームも為し得る。また、この感覚器からどのようにして自分に感覚が送られてくるか、そのメカニズムが分からなかったとしても、その感覚器と自分が得る感覚とを関係付ける十分な状況データがあれば、そこに因果関係があると判断することは妥当になる。1万㎞先で自分に視覚刺激を送りつけてくるその対象が如何なるもので、なぜそこからの視覚刺激が得られるのかが分からなかったとしても、「それ」を自分の目だとするゲームは為しえるのだ。離れた場所の電柱にナイフが刺さった時に何故か痛みが走り、そのナイフをぐりぐりと動かすとその痛みがさらに激しくなる場合、もしかすると、その電柱にセンサーが取り付けられていてそのセンサーが拾った刺激情報がが無線で自分の脳に送られてくるのかもしれないが、そんなメカニズムなどまったくわからなかったとしても「そこ」に自分が痛みを感じているのだとするゲームは為し得るのだ。

は理解不可能と言わざるを得ないのです。

そして、既に縷言したと思いますが・・・僕の返答は↓以下
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79757061
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79760625
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-80378343
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-80379755
の通りです。

工藤さん

狂気の場合と感覚器からの信号入力の場合とを区別して考えなければならないというご指摘ですが、その区別をどう付けるかという点にこそ僕の主張の要点が隠れているのではないかと考えています。
「メカニズムが分からなかったとしてもその感覚器(ここでは電柱のこと)と自分が得る感覚とを関係付ける十分なデータがあればそこに因果関係があると判断することは妥当になる」とか「メカニズムがどんなものかが全く解らなくとも問題ない」などと申し上げてきたように、僕の主張を主張する上では信号入力のメカニズム解釈はどうでもいいことであるとしています。ですので、ご指摘の「狂気の場合と感覚器からの信号入力場合」という区別は、「狂気の場合と何らかの不明の原因による場合」という区別として考えても議論上何ら差し支えは無いと思われます。
さてそこで、昨日の僕の発言「『電柱に痛みを感じる』と言う者もそれに対応する者も両方が『電柱に痛みを感じる』ということが現実だと信じている場合でも言語ゲームは成立するはずです」について考えます。そのような状況では、上の「狂気の場合」と「感覚器からの信号入力の場合」の区別は、「立場の区別」でしかないものになってしまいます。つまり、この状況で「狂気」というのは、当該の、「電柱に痛みを感じる」ことが現実だと信じている二人以外の誰かから常識的な判断をされた解釈であって、当該の二人自身の解釈ではないということです。当該の二人にとっては、「不明の原因によって電柱に痛みを感じられている」という解釈にしかならないはずです。そうすると、「『電柱に痛みを感じる』というのは発狂者の思い込みで、本当は『有機物が無機物に痛みを感じる』などという発言は無意味でしかない」などと判断する、当該の二人以外の側と、「実際に電柱に痛みを感じているのに人々は偏見に囚われて認めようとはしない」などと判断する当該の二人の側とがあるという話になります。
だから、勝手な思い込みをしているのがなぜ当該の二人の側だと判断できるのか、二人以外の側がなぜ自分勝手な思い込みをしているのではないと言えるのか、ということが問題になります。
「電柱に痛みを感じる」という思い込みより「『有機物が無機物に痛みを感じる』というのは無意味でしかない」という思い込みの方が妥当であったり、正当であったり、優位なアイデアであったりするとする判断が、なぜ正当だと言えるのか。
たとえば、多数決で決められるものと考えるのか。
たとえば、超越的基準を持ち出すのか。
それともそれ以外の方法があるのか。

工藤さんのお考えを教えてください。僕は「[事物]の在り方」というアイデアが超越的基準を引っ張り出してきたものでないかと疑っているのです。そして、決して詭弁ではありません。言語はたまたま規則が同調していた人と結果的に共有できるものでしかないとする、ある種のパラダイム転換を要求しているつもりなのです。

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


>狂気の場合と感覚器からの信号入力の場合とを区別して考えなければならないというご指摘ですが、その区別をどう付けるかという点にこそ僕の主張の要点が隠れているのではないかと考えています。


その区別をどう付けるかという点にこそ僕の主張の要点が隠れている?? ―あれれ、オカシイですね。僕の記憶に間違いがなければ、横山さんの想定(思考実験)
では↓

>電柱に感覚器を付けてそれを脳に繋いだとき、電柱の感覚器を自分の体の一部だとする言語ゲームを為すことは可能だ。このとき、感覚器は必ずしも有線で繋がらなければならないとは限らない。無線で脳に繋がっていれば離れた場所の感覚を感じることが出来るようになることは可能であるので、離れた場所を自分の体だとする言語ゲームも為し得る。また、この感覚器からどのようにして自分に感覚が送られてくるか、そのメカニズムが分からなかったとしても、その感覚器と自分が得る感覚とを関係付ける十分な状況データがあれば、そこに因果関係があると判断することは妥当になる。1万㎞先で自分に視覚刺激を送りつけてくるその対象が如何なるもので、なぜそこからの視覚刺激が得られるのかが分からなかったとしても、「それ」を自分の目だとするゲームは為しえるのだ。離れた場所の電柱にナイフが刺さった時に何故か痛みが走り、そのナイフをぐりぐりと動かすとその痛みがさらに激しくなる場合、もしかすると、その電柱にセンサーが取り付けられていてそのセンサーが拾った刺激情報がが無線で自分の脳に送られてくるのかもしれないが、そんなメカニズムなどまったくわからなかったとしても「そこ」に自分が痛みを感じているのだとするゲームは為し得るのだ。

「電柱に感覚器を付けてそれを脳に繋いだとき」或は「無線で脳に繋がっていれば離れた場所の感覚を感じることが出来るようになることは可能である」という文章が示しているように【狂気や虚言etcのケースは問題にされていなかった】筈ですが。

何故このような言い逃れをなさるのか・・・理解に苦しみます。

>「メカニズムが分からなかったとしてもその感覚器(ここでは電柱のこと)と自分が得る感覚とを関係付ける十分なデータがあればそこに因果関係があると判断することは妥当になる」とか「メカニズムがどんなものかが全く解らなくとも問題ない」などと申し上げてきたように、僕の主張を主張する上では信号入力のメカニズム解釈はどうでもいいことであるとしています。ですので、ご指摘の「狂気の場合と感覚器からの信号入力場合」という区別は、「狂気の場合と何らかの不明の原因による場合」という区別として考えても議論上何ら差し支えは無いと思われます。

(最早お答え頂かなくても結構ですが・・・)

時空的連続体の一部分から開けている【のではない】視点或は視野のようなもの、とは何か?
そのような視点或は視野のようなものすら欠いた映像の如きもの、とは何か?

件の状況において、『"Y氏"からのテレパシーを【ホントに】受信していることを示すデータ』とは何か?

件の状況において、『Y氏が"フォン・ノイマンの霊"と【ホントに】交信していることを示す第三者が確証し得る根拠』とは何か?

抑も彼らは何故"それ"が【他ならぬ】"フォン・ノイマンの霊"からのテレパシー【である】ことを【知っている】のか?

抑も何を根拠に【他ならぬ】"フォン・ノイマンの霊"からのテレパシー【である】と判断したのか?

抑も如何にしてそれを【確証し得る】のか?

>僕は「[事物]の在り方」というアイデアが超越的基準を引っ張り出してきたものでないかと疑っているのです。そして、決して詭弁ではありません。言語はたまたま規則が同調していた人と結果的に共有できるものでしかないとする、ある種のパラダイム転換を要求しているつもりなのです。


既述↓
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/22k721-7eae.html#comment-79543706
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/22k721-7eae.html#comment-79611718
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79757061
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79760625
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-80378343
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-80379755
の通り、[事物(の在り方)]と横山さんの仰る「超越的基準」は何の関係もありません。

カントは分析判断と総合判断の区別を導入している箇所でこう述べている。「全ての分析判断は矛盾律に完全に依存しており、それに実質的内容を供給する概念が経験的であろうとなかろうと、本性上アプリオリな認識である。-略-全ての分析判断はアプリオリであり、たとえ『金は黄色い金属である』の例のように、概念が経験的である時でさえそうなのである。というのも、このことを知る為に、私は黄色い金属という金についての私の概念以上の如何なる経験も必要としないからである。実際それは当に金の概念であり、それ以上調べなくても、それを分析するだけで事は足りる」と。-略-
「実際それは当に金の概念であり」は、ここでカントが恰も[金]は単に「黄色い金属」を【意味する】だけだ、と言っているように聞こえる。仮に彼がそう言っているのなら、甚だ奇妙なことであり、それ故それは彼が言っていることではない、としておこう。少なくともカントは、金が黄色い金属だということが金の概念の【一部】である、とは考えている。我々はこのことをアプリオリに知っており、それが経験的に偽であるような【発見】は凡そ出来ない、と彼は考えるのである。-略-我々が金という言葉の【意味】を変えて、金を黄鉄鉱(金によく似た外観をした黄色い金属)から区別する【何か他の規準を付加したからではない】―そう言うのは正しくないと私には思われる。つまり、我々は我々が最初に金を同定した標識に加えて、一定の性質が金について真であることを【発見した】のである。とすれば、金に特徴的であって黄鉄鉱については真ではないこれらの性質によって、黄鉄鉱は実際には金でないことが示されるのである。
―クリプキ『名指しと必然性』


何度でも繰り返しますが、横山さんの想定(思考実験)―③或る人間の身体と地面や電信柱や天竜川を繋ぐことによって??その人物が地面や電信柱や天竜川に痛みを感じるようになること―は[事物(の在り方)]を考慮せずには【その有意味性】を担保出来ないのです。

>「メカニズムが分からなかったとしてもその感覚器(ここでは電柱のこと)と自分が得る感覚とを関係付ける十分なデータがあればそこに因果関係があると判断することは妥当になる」とか「メカニズムがどんなものかが全く解らなくとも問題ない」などと申し上げてきたように、僕の主張を主張する上では信号入力のメカニズム解釈はどうでもいいことであるとしています。ですので、ご指摘の「狂気の場合と感覚器からの信号入力場合」という区別は、「狂気の場合と何らかの不明の原因による場合」という区別として考えても議論上何ら差し支えは無いと思われます。


「狂気の場合と感覚器からの信号入力場合」という区別は、「狂気の場合と何らかの不明の原因による場合」という区別として考えても議論上何ら差し支えは無い??
―オカシイですね。何故このような詭弁を弄されるのか・・・理解出来ません。
既に何度も述べたことですが、我々は↓以下の事柄
①誰かが「地面に痛みを感じる!」と【言ってみる】こと(虚言・おふざけの可能性)
②精神に変調をきたした人物が地面に痛みを感じるようになること(常軌を逸した思い込みが痛みとして感じられることもあり得るし、また現に起こっている経験的事実でもあるでしょう)
③或る人間の身体と地面や電信柱や天竜川を繋いで?その人物が地面や電信柱や天竜川に痛みを感じるようになること―これが横山さんの想定(思考実験)ですね
を区別している筈です。

工藤さん、
回答ありがとうございます。
しかし、
「狂気の場合と感覚器からの信号入力の場合とを区別して考えなければならないというご指摘ですが、その区別をどう付けるかという点にこそ僕の主張の要点が隠れているのではないかと考えています。」という物言いについて、そこに「最初から僕は狂気の場合を想定していた」とは言っていませんから、「言い逃れ」には全く当たりません。
「「狂気の場合と感覚器からの信号入力場合」という区別は、「狂気の場合と何らかの不明の原因による場合」という区別として考えても議論上何ら差し支えは無い」という論の展開から自分の主張につなげているのですから、「狂気の場合」が話に絶対必要なわけでもない趣旨で書いた文ですし、そのような文が書けたと理解しています。「言い逃れ」は撤回してくださるよう要望します。

今回もやはり合意は難しいようですね。
工藤さんのおっしゃる言語はその意味を使用の前に確定できるものでしょうが、僕の主張する語の意味は超越的基準を持ち込まずに考えようとするので使用の前に意味を確定できないものです。その意味では、僕の主張する「言語」はその有意味性を担保出来ないのかもしれません。しかし、言語の本質上、使用の前に意味を確定しようとするのは諦めるよりほかないというのが僕の主張です。

残念ですが、これ以上はこの件については平行線みたいですね。

>「メカニズムが分からなかったとしてもその感覚器(ここでは電柱のこと)と自分が得る感覚とを関係付ける十分なデータがあればそこに因果関係があると判断することは妥当になる」とか「メカニズムがどんなものかが全く解らなくとも問題ない」などと申し上げてきたように、僕の主張を主張する上では信号入力のメカニズム解釈はどうでもいいことであるとしています。


あれれ、オカシイですね。横山さんの思考実験に登場する人物が電信柱~感覚器~人体を結ぶ何らかの?経路【によって】電信柱によく似た外見の人工物―もしそれが今現に我々が『電信柱』と呼んでいるものでないとすれば、既に横山さんの想定は破綻しているわけですが―に痛みを感じているのでなければ、件の思考実験は完全に破綻します。例えば、電信柱~感覚器~人体を結ぶ何らかの?経路【によって】ではなく、常軌を逸した思い込みが痛みとして感じられていたケースを考えてみてください。

だが、もし水脈占師が(例えば)「特別な感じがしたら必ず水を求めて掘るというようにして得られたその感じと深さの【測定】との相関によって水の深さを見積ることを習ったのだ」と言ったとすれば、前述の困難を我々は感じなかったはずである。そこで【見積り方を習う】過程と[実際の]見積り行為との関係を検討しなければならない。
―ウィトゲンシュタイン『青色本』

「そこで【見積り方を習う】過程と[実際の]見積り行為との関係を検討しなければならない」―言うまでもなく?ここでウィトゲンシュタインが示唆しているのは【或る事象のメカニズムを解明することによって新たなゲームフィールド(ゲームを有意味にする状況)が成立する】ということでしょう。

>工藤さんのおっしゃる言語はその意味を使用の前に確定できるものでしょうが、


あれれ、オカシイですね。誰がそんな事を言ったのでしょう? 他人の話を歪曲するのは感心しませんね。


>僕の主張する語の意味は超越的基準を持ち込まずに考えようとするので使用の前に意味を確定できないものです。その意味では、僕の主張する「言語」はその有意味性を担保出来ないのかもしれません。


何度でも繰り返しますが、[事物(の在り方)]と横山さんの仰る「超越的基準」は何の関係もありません。

先日の横山さんの↓コメント(2014/1/21・22)
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-2d19.html#comment-86377010
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-2d19.html#comment-86379453
>「指示・伝達・並列不可能な[固有名を与えられた身体から開けた生]」が永井の<私>ではないのなら、たとえばハイデガーの「現存在」に近いものだったりするのですか。これまで、何度も使ってこられたフレーズですが、僕はずっと<私>に近いものだと思っていました。
>工藤さんの意図した通りに理解してくれる理解者がおられますか。しかし、残念ながら僕には理解できていません。

過去の↓それ(2012/11/25)(2013/2/18)
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-df6f.html#comment-74695436
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-df6f.html#comment-74698644
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-881e.html
>工藤さん、早速の回答ありがとうございます。
<私>の形而上学を解消する ―《私》の文法的構成と<私>なる錯誤―
http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20111207/1323255564
の永井批判についてと
「唯独性」についてとは、おかげで、おぼろげに理解できました
>本はその中に書かれている物語や思想の内容がその本質であろう。本の表紙がなくても、紙がなくても、文字がなくても、その中味が読者の心に届くのであれば、その本は存在意義があると言えるだろう。
しかし、文字なくして、紙面なくして、装飾なくして、その内容は読者に伝わることはない。豊かな装幀を持つ本はその中味を豊かに読者に伝え、豊かな時間を持たせてくれる。
それゆえ、本はその中味だけが本質だというのは誤った思い込みなのだ。装幀があってはじめて本はその本質的な意味を持ちえるのだ。
装幀があってはじめて一冊の本なのだ。
人間の生命は、その精神、ものを思い、感じる内容がその本質であろう。人間の髪の毛がなくても、手足がなくても、脳がなくても、思考や感情が存在するのであれば、その生命は存在意義があると言えるだろう。
しかし、視覚なくして、皮膚感覚なくして、世界を実感することはできない。豊かな感覚を持つ身体は自然環境を豊かに感じることができ、豊かな時間を持たせてくれる。
それゆえ、人間の生命は精神だけが本質だというのは誤った思い込みなのだ。身体があってはじめて生命はその本質的な意味を持ち得るのだ。
身体があってはじめて一人の人間なのだ。

を読み比べて頂きたい。

http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-2d19.html#comment-86378310
知的誠実とは何か?

>「メカニズムが分からなかったとしてもその感覚器(ここでは電柱のこと)と自分が得る感覚とを関係付ける十分なデータがあればそこに因果関係があると判断することは妥当になる」とか「メカニズムがどんなものかが全く解らなくとも問題ない」などと申し上げてきたように、僕の主張を主張する上では信号入力のメカニズム解釈はどうでもいいことであるとしています。


http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-9e8e.html#comment-86515879
抑も①感覚器?を取り付けた電信柱状の人工物?と②或る人体を繋ぐ?何らかの経路?の【メカニズムを解明することなしに】彼が電信柱状の人工物?に痛みを感じている―例えば、常軌を逸した思い込みが痛みとして感じられていたetcというのではなく―ことを確証し得るのでしょうか。

工藤さん

では、工藤さんの言語は使用の前にその意味を確定させることはできないのですか。

>工藤さんの言語は使用の前にその意味を確定させることはできないのですか。


工藤さんの言語?とは何の謂でしょうか。

http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82591772
言語ゲームも又、持続~推移しつつ在る[現実=諸事物のネットワーク=意味なき世界]においてその都度この今生成しているのですよ。

>「メカニズムが分からなかったとしてもその感覚器(ここでは電柱のこと)と自分が得る感覚とを関係付ける十分なデータがあればそこに因果関係があると判断することは妥当になる」とか「メカニズムがどんなものかが全く解らなくとも問題ない」などと申し上げてきたように、僕の主張を主張する上では信号入力のメカニズム解釈はどうでもいいことであるとしています。


http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-9e8e.html#comment-86515879
抑も①感覚器?を取り付けた電信柱状の人工物?と②或る人体を繋ぐ?何らかの経路?の【メカニズムを解明することなしに】彼が電信柱状の人工物?に痛みを感じている―例えば、常軌を逸した思い込みが痛みとして感じられていたetcというのではなく―ことを確証し得るのでしょうか。

工藤さん

僕の言動が不誠実だと思われているようですが、僕としては十分整合性のある言動をしているつもりです。僕の表現力が足りないと考えておくことにします。確かに「Xなる云々から開けた生」や「事物の在り方」を誤解していたということはありますし今も理解できていませんが、それは不誠実が故ではありません。僕の考えを手に取るように分かると言ってくださった工藤さんから誠実さなどという低次元の指摘を受けるのは残念です。

「感覚器を取り付けた電信柱状の人工物と或る人体を繋ぐ何らかの経路のメカニズムを解明することなしに彼が電信柱状の人工物に痛みを感じていることを確証し得るか。」について

僕の言語観では当然確証できると考えています。「痛み」の振舞いからその語を学んだものが「痛み」と断定できるdispositionがあればそこに意味は認め得ると考えています。
工藤さんは、語の同一性に関するdispositionが確認されるだけでは足りず、語の意味付けにはメカニズム解釈が不可欠だとお考えなのですか。
工藤さんは異端の言葉づかいを矯正しようとする「大人」の立場で語の意味を捉えようとしているのではないですか。だから、「有機物が無機物に痛みを感じる」を認めない。僕は「大人」と「子ども」の差はただ社会的に便利か否かというだけの差でしかなく、必然的な差ではないと考えています。だから「電柱は痛い」が認められるとしているのです。もしかすると、そういう問題なのではないですか。

おはようございます、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


>僕の考えを手に取るように分かると言ってくださった工藤さん


これまた論点のスリカエ
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/11-8d5c.html#comment-81895985
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/11-8d5c.html#comment-81902422
ですね。


先日の横山さんの↓コメント(2014/1/21・22)
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-2d19.html#comment-86377010
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-2d19.html#comment-86379453
>「指示・伝達・並列不可能な[固有名を与えられた身体から開けた生]」が永井の<私>ではないのなら、たとえばハイデガーの「現存在」に近いものだったりするのですか。これまで、何度も使ってこられたフレーズですが、僕はずっと<私>に近いものだと思っていました。
>工藤さんの意図した通りに理解してくれる理解者がおられますか。しかし、残念ながら僕には理解できていません。

過去の↓それ(2012/11/25)(2013/2/18)
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-df6f.html#comment-74695436
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-df6f.html#comment-74698644
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-881e.html
>工藤さん、早速の回答ありがとうございます。
<私>の形而上学を解消する ―《私》の文法的構成と<私>なる錯誤―
http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20111207/1323255564
の永井批判についてと
「唯独性」についてとは、おかげで、おぼろげに理解できました
>本はその中に書かれている物語や思想の内容がその本質であろう。本の表紙がなくても、紙がなくても、文字がなくても、その中味が読者の心に届くのであれば、その本は存在意義があると言えるだろう。
しかし、文字なくして、紙面なくして、装飾なくして、その内容は読者に伝わることはない。豊かな装幀を持つ本はその中味を豊かに読者に伝え、豊かな時間を持たせてくれる。
それゆえ、本はその中味だけが本質だというのは誤った思い込みなのだ。装幀があってはじめて本はその本質的な意味を持ちえるのだ。
装幀があってはじめて一冊の本なのだ。
人間の生命は、その精神、ものを思い、感じる内容がその本質であろう。人間の髪の毛がなくても、手足がなくても、脳がなくても、思考や感情が存在するのであれば、その生命は存在意義があると言えるだろう。
しかし、視覚なくして、皮膚感覚なくして、世界を実感することはできない。豊かな感覚を持つ身体は自然環境を豊かに感じることができ、豊かな時間を持たせてくれる。
それゆえ、人間の生命は精神だけが本質だというのは誤った思い込みなのだ。身体があってはじめて生命はその本質的な意味を持ち得るのだ。
身体があってはじめて一人の人間なのだ。

を読み比べて頂きたい。


「身体があってはじめて一人の人間なのだ」―横山さんご自身のお言葉です。

>工藤さんは、語の同一性に関するdispositionが確認されるだけでは足りず、語の意味付けにはメカニズム解釈が不可欠だとお考えなのですか。


メカニズム【解釈】?? ―あれれ、オカシイですね。僕は「メカニズムを【解明】する」と書いた筈ですが・・・当然ながら、ここで問題にされているような突飛な状況―『青色本』の水脈占い、横山さんの空想etc―においてはメカニズムの解明は不可欠でしょう。

だが、もし水脈占師が(例えば)「特別な感じがしたら必ず水を求めて掘るというようにして得られたその感じと深さの【測定】との相関によって水の深さを見積ることを習ったのだ」と言ったとすれば、前述の困難を我々は感じなかったはずである。そこで【見積り方を習う】過程と[実際の]見積り行為との関係を検討しなければならない。
―ウィトゲンシュタイン『青色本』

「そこで【見積り方を習う】過程と[実際の]見積り行為との関係を検討しなければならない」―既述の通り、ここでウィトゲンシュタインが示唆しているのは、想定された状況においては「水脈占い」なる行為のメカニズムを解明することなしに新たなゲームフィールド(ゲームを有意味にする状況)は成立し得ない、ということに他なりません。
最早誤解は無いと信じますが・・・この場合、ゲームフィールド(ゲームを有意味にする状況)=水脈占いゲームが【当に水脈占いゲームとして】意義を持つ状況です。

>「感覚器を取り付けた電信柱状の人工物と或る人体を繋ぐ何らかの経路のメカニズムを解明することなしに彼が電信柱状の人工物に痛みを感じていることを確証し得るか。」について
>僕の言語観では当然確証できると考えています。「痛み」の振舞いからその語を学んだものが「痛み」と断定できるdispositionがあればそこに意味は認め得ると考えています。


僕の言語観??「痛み」の振舞いからその語を学んだものが「痛み」と断定できるdispositionがあればそこに意味は認め得る?? ―またまた論点のスリカエですね。
既に示唆しておいた通り、我々は↓以下の事柄
①言語ゲームの成員と認められた人物が「痛い」と【言う】こと(虚言・巫山戯の可能性)
②言語ゲームの成員と認められた人間の身体と地面や電信柱や天竜川を繋いで?その人物が地面や電信柱や天竜川に【痛みを感じる】―単に「痛い」と【言う】だけではなく―ようになること(これが横山さんの空想ですね)
を区別していますよね。

そして、何度でも繰り返しますが・・・僕の返答は↓以下
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79757061
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79760625
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-80378343
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-80379755
の通りです。

(最早お答え頂かなくても結構ですが・・・)

時空的連続体の一部分から開けている【のではない】視点或は視野のようなもの、とは何か?
そのような視点或は視野のようなものすら欠いた映像の如きもの、とは何か?

件の状況において、『"Y氏"からのテレパシーを【ホントに】受信していることを示すデータ』とは何か?

件の状況において、『Y氏が"フォン・ノイマンの霊"と【ホントに】交信していることを示す第三者が確証し得る根拠』とは何か?

抑も彼らは何故"それ"が【他ならぬ】"フォン・ノイマンの霊"からのテレパシー【である】ことを【知っている】のか?

抑も何を根拠に【他ならぬ】"フォン・ノイマンの霊"からのテレパシー【である】と判断したのか?

抑も如何にしてそれを【確証し得る】のか?

工藤さん

>「身体があってはじめて一人の人間なのだ」―横山さんご自身のお言葉です。

ということは、工藤さんの「X云々から開いた生」というのは「体があってはじめて一人の人間」というときの「人間」のことなのでしょうか。でも僕のいう身体は電柱でも天竜川でもその範疇に入れられ得ますから、たぶん工藤さんの考えているものとは違うと考えています。


>我々は以下の事柄①言語ゲームの成員と認められた人物が「痛い」と【言う】こと(虚言・巫山戯の可能性)②言語ゲームの成員と認められた人間の身体と地面や電信柱や天竜川を繋いで?その人物が地面や電信柱や天竜川に【痛みを感じる】―単に「痛い」と【言う】だけではなく―ようになること(これが横山さんの空想ですね)を区別していますよね。

ということは、やはり工藤さんは、[事前に「言語ゲームの成員と認められた人物」]との言語の成立可能性を考えられておられるのですよね。つまり、工藤さんは、「語の意味は、たまたまではなく必然的に形成されるべき言語ゲームにおいて、必然的に事前に付与されるのだ」っていう捉え方をされているということではないですか。異端の言葉づかいを矯正しようとする「大人」の立場で語の意味を捉えようとしているのではないですか。対して、僕の主張は、ある言語が何某かの意味を持ちえる可能性がある場合において、たまたま意味を共有できた時にはその語は言語ゲームを為し得るが、たまたま意味を共有できなかったならばその語はその場では言語ゲームを共有できない、という「『語の意味はたまたま言語ゲームが形成されたときに後付けされるのだ』論」なのです。
だから、異端の言語ゲームを認め得ますし、メカニズム解明は必ずしも必要ぢゃありません。そしてそれは、「語の意味が必然的に事前に付与される」というのは、規則のパラドクスによってそんなことは有り得ないと考えているからです。

それから、その違いのために、(工藤さんは以下の僕の質問にていねいに答えてくださっているおつもりなのでしょうが、)僕には答えていただいている実感がないのです。

>「電柱に痛みを感じる」という思い込みより「『有機物が無機物に痛みを感じる』というのは無意味でしかない」という思い込みの方が妥当であったり、正当であったり、優位なアイデアであったりするとする判断が、なぜ正当だと言えるのか。たとえば、多数決で決められるものと考えるのか。たとえば、超越的基準を持ち出すのか。それともそれ以外の方法があるのか。

この点についてどうお考えなのでしょうか。


>(最早お答え頂かなくても結構ですが・・・)
の質問群には様々なパターンで僕の考えをお伝えしようと努力してきたつもりですし、これからもそうするつもりです。今回は「電柱の痛み」について語っていますが、テレパシーでも考え方は同じです。

>時空的連続体の一部分から開けている【のではない】視点或は視野のようなもの、とは何か? そのような視点或は視野のようなものすら欠いた映像の如きもの、とは何か?

については、想像していただきにくいかもしれませんが、世界の無数のあらゆる時空間的連続地点から無数のあらゆる方向に見られた視覚情報が得られる場合です。あるいはまったくパースベクティブを持たない視覚情報の場合です。その場合「世界中のすべてが私の目だ」とも言えますし「視点や視野を欠いた映像」とも言うことができるというのが僕の考えです。前にも申し上げた内容と一緒ですが僕の表現力では今はこれで精いっぱいです。

>工藤さんは、「語の意味は、たまたまではなく必然的に形成されるべき言語ゲームにおいて、必然的に事前に付与されるのだ」っていう捉え方をされているということではないですか。


必然的に事前に付与される?? ―あれれ、オカシイですね。誰がそんな事を言ったのでしょうか(少なくとも僕ではありませんが)。僕の考えは↓既に述べた
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-9e8e.html#comment-86518237
筈ですが。何故このような事を仰るのか・・・理解に苦しみます。

>工藤さんは、[事前に「言語ゲームの成員と認められた人物」]との言語の成立可能性を考えられておられるのですよね。


これまた論点のスリカエですね。「言語ゲームの【成員】と認められた人物」とは当に言語ゲームを営みつつ生きる我々のことであり、(例えば)赤ん坊や砂浜や地面etcを指しているのではありません。

>「感覚器を取り付けた電信柱状の人工物と或る人体を繋ぐ何らかの経路のメカニズムを解明することなしに彼が電信柱状の人工物に痛みを感じていることを確証し得るか。」について
>僕の言語観では当然確証できると考えています。「痛み」の振舞いからその語を学んだものが「痛み」と断定できるdispositionがあればそこに意味は認め得ると考えています。


僕の言語観??「痛み」の振舞いからその語を学んだものが「痛み」と断定できるdispositionがあればそこに意味は認め得る?? ―またまた論点のスリカエですね。
既に示唆しておいた通り、我々は↓以下の事柄
①誰かが「痛い」と【言う】或は【痛そうな身振りをする】こと(嘘・擬装・オフザケの可能性)
②誰かの身体と地面や電信柱や天竜川を繋いで?その人物が地面や電信柱や天竜川に【痛みを感じる】―単に「痛い」と【言う】或は【痛そうな身振りをする】だけではなく―ようになること(これが横山さんの空想ですね)
を区別していますよね。

そして、何度でも繰り返しますが・・・僕の返答は↓以下
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79757061
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79760625
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-80378343
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-80379755
の通りです。

>「電柱に痛みを感じる」という思い込みより「『有機物が無機物に痛みを感じる』というのは無意味でしかない」という思い込みの方が妥当であったり、正当であったり、優位なアイデアであったりするとする判断が、なぜ正当だと言えるのか。たとえば、多数決で決められるものと考えるのか。たとえば、超越的基準を持ち出すのか。それともそれ以外の方法があるのか。


既に縷言した筈ですが、的外れな想像から[事物(の在り方)]に即した思考へ・・・の一例として↓コレ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%99%BA%E7%94%9F%E8%AA%AC
を挙げておきます。

↓何度でも繰り返しますが、
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/22k721-7eae.html#comment-79543706
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/22k721-7eae.html#comment-79611718
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79757061
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79760625
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-80378343
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-80379755
[事物(の在り方)]と横山さんの仰る「超越的基準」は何の関係もありません。

>異端の言語ゲームを認め得ますし、メカニズム解明は必ずしも必要ぢゃありません。


【ここで問題になっているような状況】―『青色本』の水脈占い、横山さんの空想etc―においてはメカニズムの解明は不可欠でしょう。

だが、もし水脈占師が(例えば)「特別な感じがしたら必ず水を求めて掘るというようにして得られたその感じと深さの【測定】との相関によって水の深さを見積ることを習ったのだ」と言ったとすれば、前述の困難を我々は感じなかったはずである。そこで【見積り方を習う】過程と[実際の]見積り行為との関係を検討しなければならない。
―ウィトゲンシュタイン『青色本』

「そこで【見積り方を習う】過程と[実際の]見積り行為との関係を検討しなければならない」―既述の通り、ここでウィトゲンシュタインが示唆しているのは、想定された状況においては「水脈占い」なる行為のメカニズムを解明することなしに新たなゲームフィールド(ゲームを有意味にする状況)は成立し得ない、ということに他なりません。
最早誤解は無いと信じますが・・・この場合、ゲームフィールド(ゲームを有意味にする状況)=水脈占いゲームが【当に水脈占いゲームとして】意義を持つ状況です。

>想像していただきにくいかもしれませんが、世界の無数のあらゆる時空間的連続地点から無数のあらゆる方向に見られた視覚情報が得られる場合です。あるいはまったくパースベクティブを持たない視覚情報の場合です。その場合「世界中のすべてが私の目だ」とも言えますし「視点や視野を欠いた映像」とも言うことができるというのが僕の考えです。


全く理解不可能です。横山さんのゲーム?が単なるナンセンスに過ぎないのかどうか、僕以外の人―マトモな哲学者或は普段哲学に縁のない市井の方々―にも聞いてみては如何でしょう。

(最早お答え頂かなくても結構ですが・・・)

時空的連続体の一部分から開けている【のではない】視点或は視野のようなもの、とは何か?
そのような視点或は視野のようなものすら欠いた映像の如きもの、とは何か?
まったくパースベクティブを持たない視覚情報、とは何か?
世界の無数のあらゆる時空間的連続地点から無数のあらゆる方向に見られた視覚情報が得られる、とは如何なる状況であるのか?

件の状況において、『"Y氏"からのテレパシーを【ホントに】受信していることを示すデータ』とは何か?

件の状況において、『Y氏が"フォン・ノイマンの霊"と【ホントに】交信していることを示す第三者が確証し得る根拠』とは何か?

抑も彼らは何故"それ"が【他ならぬ】"フォン・ノイマンの霊"からのテレパシー【である】ことを【知っている】のか?

抑も何を根拠に【他ならぬ】"フォン・ノイマンの霊"からのテレパシー【である】と判断したのか?

抑も如何にしてそれを【確証し得る】のか?

工藤さん

>だが、もし水脈占師が(例えば)「特別な感じがしたら必ず水を求めて掘るというようにして得られたその感じと深さの【測定】との相関によって水の深さを見積ることを習ったのだ」と言ったとすれば、前述の困難を我々は感じなかったはずである。そこで【見積り方を習う】過程と[実際の]見積り行為との関係を検討しなければならない。―ウィトゲンシュタイン『青色本』

において、LWがメカニズムを検討すべきだと言っているのは、見積もり方の過程と見積もり行為との関係ですよね。ってことは、「電柱の痛み」の例においては「痛い」という訴えと、「痛みの振舞い」あるいは「その痛みに関するdispsition」の関係のメカニズムを検討すべきなのではないでしょうか。「水脈が感じられることそのもののメカニズム」や「電柱に痛みを感じることそのもののメカニズム」を検討するということではないですよね。
誤解があると思います。
やはり、「電柱に痛みを感じることそのもののメカニズム解明」は必要ぢゃ無いと思われます。


それから、
全く理解できない人がいるからと言ってそれがナンセンスであることになるとは限りません。たとえば「パースベクティブを持たない視覚情報」は僕自身はしっかりとイメージが持てていますからナンセンスではありません。多次元物理空間を勉強してイメージできるお知り合いはいませんか。おそらくその人ならわかってくれると思いますよ。

(最早お答え頂かなくても結構ですが・・・)の質問群には
>様々なパターンで僕の考えをお伝えしようと努力してきたつもりですし、これからもそうするつもりです。今回は「電柱の痛み」について語っていますが、テレパシーでも考え方は同じです。
>前にも申し上げた内容と一緒ですが僕の表現力では今はこれで精いっぱいです。

と言ってお答えしました。繰り返される理由が分かりません。

>LWがメカニズムを検討すべきだと言っているのは、見積もり方の過程と見積もり行為との関係ですよね。ってことは、「電柱の痛み」の例においては「痛い」という訴えと、「痛みの振舞い」あるいは「その痛みに関するdispsition」の関係のメカニズムを検討すべきなのではないでしょうか。「水脈が感じられることそのもののメカニズム」や「電柱に痛みを感じることそのもののメカニズム」を検討するということではないですよね。


また論点のスリカエですね。何故このような詭弁を弄されるのか、理解に苦しみます。既述の通り、横山さんの思考実験の場合、感覚器?を取り付けた電信柱状の人工物?と或る人体を繋ぐ?何らかの経路?の【メカニズムを解明することなしに】彼が電信柱状の人工物?に痛みを感じている―例えば、常軌を逸した思い込みが痛みとして感じられていたetcというのではなく―ことを確証することは出来ません。「痛い」という【訴え】と痛みの【振舞い】の関係のメカニズムを検討するだけでは駄目なのです。
何度でも繰り返しますが・・・我々は↓以下の事柄
①誰かが「痛い」と【言う】或は【痛そうな身振りをする】こと(嘘・擬装・オフザケの可能性)
②誰かの身体と地面や電信柱や天竜川を繋いで?その人物が地面や電信柱や天竜川に【痛みを感じる】―単に「痛い」と【言う】或は【痛そうな身振りをする】だけではなく―ようになること(これが横山さんの空想ですね)
を区別していますよね?

>全く理解できない人がいるからと言ってそれがナンセンスであることになるとは限りません。


当然でしょう。とはいえ、↓誰かが「私は<それ>をイメージ出来る!」と【言っている】

>「パースベクティブを持たない視覚情報」は僕自身はしっかりとイメージが持てていますからナンセンスではありません。

からといって<それ>がナンセンスでないことにはなりませんよね。

横山さんのゲーム?が単なるナンセンスに過ぎないのかどうか、僕以外の人―マトモな哲学者或は普段哲学に縁のない市井の方々―にも聞いてみては如何でしょう。

>想像していただきにくいかもしれませんが、世界の無数のあらゆる時空間的連続地点から無数のあらゆる方向に見られた視覚情報が得られる場合です。あるいはまったくパースベクティブを持たない視覚情報の場合です。その場合「世界中のすべてが私の目だ」とも言えますし「視点や視野を欠いた映像」とも言うことができるというのが僕の考えです。


http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-80001855
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-80002617
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-80031988
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-80032941
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-80033191
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-80033893
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-80382895
↓横山さんのご主張(抑も【目のない人の「見え」】とは何の謂でしょうか?)
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-80034023
に反して、或る一つの視点から捉えられた視覚印象を幾つも(アングルを変えたりして)組み合わせるキュビズムの映像は「視点や視野を欠いた映像」「パースベクティブを持たない視覚情報」ではありません。
横山さんのご主張が単なるナンセンスに過ぎないのかどうか、僕以外の人―マトモな哲学者或は普段哲学に縁のない市井の方々―にも聞いてみた方が良いのでは?

>(最早お答え頂かなくても結構ですが・・・)
の質問群には様々なパターンで僕の考えをお伝えしようと努力してきたつもりですし、これからもそうするつもりです。


時空的連続体の一部分から開けている【のではない】視点或は視野のようなもの、とは何か?
そのような視点或は視野のようなものすら欠いた映像の如きもの、とは何か?
まったくパースベクティブを持たない視覚情報、とは何か?
世界の無数のあらゆる時空間的連続地点から無数のあらゆる方向に見られた視覚情報が得られる、とは如何なる状況であるのか?

件の状況において、『"Y氏"からのテレパシーを【ホントに】受信していることを示すデータ』とは何か?

件の状況において、『Y氏が"フォン・ノイマンの霊"と【ホントに】交信していることを示す第三者が確証し得る根拠』とは何か?

抑も彼らは何故"それ"が【他ならぬ】"フォン・ノイマンの霊"からのテレパシー【である】ことを【知っている】のか?

抑も何を根拠に【他ならぬ】"フォン・ノイマンの霊"からのテレパシー【である】と判断したのか?

抑も如何にしてそれを【確証し得る】のか?

師匠殿

論点とずれるかもしれませんが、観察の理論負荷性が成り立つなら、観察の言語論負荷性というのもあるのではないでしょうか?

理論が観察に先行するなら、言語論も観察に先行しうると思うのです?

この観察の理論負荷性の立場に立てるかどうかが、ポイントではないでしょうか?

経験の還元主義、帰納の反証主義には、限界ありと思います。

それから、言語と言語ゲームは、違うレベルですし、言語の有意味性と言語ゲームの有意味性は違うレベルにあるように思うのですが?どうでしょうか。


こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


カントは分析判断と総合判断の区別を導入している箇所でこう述べている。「全ての分析判断は矛盾律に完全に依存しており、それに実質的内容を供給する概念が経験的であろうとなかろうと、本性上アプリオリな認識である。-略-全ての分析判断はアプリオリであり、たとえ『金は黄色い金属である』の例のように、概念が経験的である時でさえそうなのである。というのも、このことを知る為に、私は黄色い金属という金についての私の概念以上の如何なる経験も必要としないからである。実際それは当に金の概念であり、それ以上調べなくても、それを分析するだけで事は足りる」と。-略-
「実際それは当に金の概念であり」は、ここでカントが恰も[金]は単に「黄色い金属」を【意味する】だけだ、と言っているように聞こえる。仮に彼がそう言っているのなら、甚だ奇妙なことであり、それ故それは彼が言っていることではない、としておこう。少なくともカントは、金が黄色い金属だということが金の概念の【一部】である、とは考えている。我々はこのことをアプリオリに知っており、それが経験的に偽であるような【発見】は凡そ出来ない、と彼は考えるのである。-略-我々が金という言葉の【意味】を変えて、金を黄鉄鉱(金によく似た外観をした黄色い金属)から区別する【何か他の規準を付加したからではない】―そう言うのは正しくないと私には思われる。つまり、我々は我々が最初に金を同定した標識に加えて、一定の性質が金について真であることを【発見した】のである。とすれば、金に特徴的であって黄鉄鉱については真ではないこれらの性質によって、黄鉄鉱は実際には金でないことが示されるのである。―クリプキ


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%99%BA%E7%94%9F%E8%AA%AC
経験的探究を通して[事物]に即した概念を練り上げていくこと。
とはいえ、[事物]は汲み尽くし得ぬもの=概念ならざるもの、なのである。

taatooさん

素晴らしいアイデアですね!「観察の言語論負荷性」ベリーグッド!エクセレントだと思います。言語によって観察内容が違ってしまうものであるから、観察だけが独自で立てるものではないということですね。面白いですね。taatooさんの言うとおり、今回の論議の中で重要な視点になりそうだと思います。
でも、それってもしかすると理論負荷性と大して変わらないのかもしれないという気もします。分からない部分も多いので時間をかけて考えてみたいと思います。非常に興味深いアイデアありがとうございます。
ただ、「言語論負荷性」より「言語負荷性」の方がしっくりくるかも。

言語と言語ゲームが違うというのも、どういう面で違うのか、本質的に同じものではないのか、しっかり考えてみたいと思います。

>素晴らしいアイデアですね!「観察の言語論負荷性」ベリーグッド!エクセレントだと思います。言語によって観察内容が違ってしまうものであるから、観察だけが独自で立てるものではないということですね。面白いですね。taatooさんの言うとおり、今回の論議の中で重要な視点になりそうだと思います。
でも、それってもしかすると理論負荷性と大して変わらないのかもしれないという気もします。
>ただ、「言語論負荷性」より「言語負荷性」の方がしっくりくるかも。


観念論に対応するのは一種の言語的観念論、或は言語主義であって、これは全ての実在を言語的なものと見る説である。-略-言語主義の初期症状というべきものは広範に見受けられる。-略-哲学の途方もないパロディが、一人の狂人の舞台の上で演じ尽くされたのである。
―イアン・ハッキング『言語は何故哲学の問題になるのか』


グットマン、ハンソン、ポパー、クーンetc言語主義者の議論?は既に破綻していると思いますが・・・

「パースベクティブを持たない視覚情報」はなかなかうまい言語表現が見つからないので、とりあえず、「パースベクティブを持たない空間情報」の例を挙げる。

「すべての情報が数値化され数だけで表現されている建築図面」

おはようございます、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


>とりあえず、「パースベクティブを持たない空間情報」の例を挙げる。
「すべての情報が数値化され数だけで表現されている建築図面」


数だけで【表現されている】―ならば、何故それが【建築図面】と呼ばれるのか?
件のケースにおいて①数と図面の意味論的関係及び②図面それ自体はパースペクティブ無しに成立し得るか?

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