フォト
無料ブログはココログ

« サールの「中国語の部屋」と統語論と意味論<心は実在するか15> | トップページ | 「意識の生物学的自然主義」がダメなわけ<心は実在するか17> »

2013年11月 4日 (月)

中国語の部屋がダメなわけ<心は実在するか16>

「『統語論から意味論が生じない』ことが中国語の部屋から分かる」とは必ずしも言えないことを考える。

 

統語論から意味論は生じないか

サールは「中国語の部屋」の思考実験で統語論からは意味論が生じ得ないことを示した。このサールの主張に対して、本ブログコメント欄に、ある唯物論者(異邦人)さんから批判をいただいた。
「日本語の質問に答える場合、脳(心)の中では無数の工程に分かれて情報処理が行われます。無数の工程は機械的に質問を記憶と突き合わせて答えを作り出しています。各工程は日本語について全く知りません。各工程は機械的に質問を記憶と突き合わせているだけです。脳(心)の中のどの部分も日本語を知らないにも拘らず、脳(心)全体としては日本語を理解していることになります。」
真っ当な批判で僕も大賛成だ。しかし、サールはこの批判への反論も用意している。

或る人は、システムの全体としては中国語を理解していると述べようとします。この解答の着想は、部屋の中で記号を操作している人物である私だけをとれば確かに中国語を理解していないが、その私はいわばコンピュータシステムの中央処理装置に過ぎないのだという考え方です。しかし、システム全体が統語論から意味論に移行するということはそもそも不可能である。中央処理装置としての私はそのさまざまな記号が何を意味するかということを割り出す手段を持たない。それなら、システム全体もそのような手段を持たないのだ。(サール「心・脳・科学」邦訳p36)

システムの部分が意味論を持てないのなら、システム全体だって意味論が持てるわけがないというのがサールの主張である。
しかし、サールの言う意味論とはいったいどんなものをイメージしているのだろうか。クオリアとか機能性の無い現象的意識だとかそんなものじゃないだろうか。この意味論のイメージに対して、ウィゲンシュタインは言葉の意味をそのような私的なものに求めることを否定した。意味は言語ゲームの中での使用として考えるべきだと考えたのだ。
本節と次節では、サールの言う意味論とウィトゲンシュタインの言う意味の二つの視点を対立させて考える中で「中国語の部屋」や「意識の生物学的自然主義」を再検討してみる。

 

メアリーも意味論的理解ができない

コンピュータがどんなに的確な解答を出し得ても意味論的な理解はできないと考えるのは、サールの論展開では或る意味あたり前の話だと、僕は思う。
だって、たとえば、「メアリーの部屋」のメアリーみたいに、一切の彩色の無い室内で育ち空を見たことが無い人がいたとして、言葉の上では世界のあらゆることに精通しているとする。メアリーは「空が赤い」の意味を問われて完全に完璧な解答ができる。しかし、この解答は統語論的なものでしかない。実際に「空」も「赤」も経験したことがないのだから意味論的な理解は不可能である。だから、サールが、コンピュータが意味論を持てないとしているのは、意味論を理解するべき経験がないから意味論が持てないのだというレベルの話だと解釈することもできる。そして、こう解釈すると、意味論が持てないのはコンピュータだからではなく、人間でも経験がないと意味論が持てないという話にしかならないことになるからである。だから、人間とコンピュータの違いを考えるのであり、世界を意味論的に理解できるぐらいに経験を積んでいる人間と比較するのなら、コンピュータであっても世界を経験できるような状況を作って考える必要がある。

 

スワヒリ語の部屋

そこで、部屋自体が世界を経験できるような中国語の部屋を設定して考えてみよう。ただし僕は「日本語」に通じていて「スワヒリ語」の意味がまったく分からないので、「日本語ネイティブのいるスワヒリ語の部屋」で考えることにする。
私は部屋の中に閉じ込められている。この部屋はロボットの中にあってそのロボットの思考中枢として位置づいている。部屋の中には2つの差込口と2つのボタンがある。たとえば、右の差込口を通して「nyekundu」と書かれた紙などが入れられてくる。また、たとえば、左の差込口から「Wavelength ya mwanga ni 400bilioni kwa mita」と書かれた紙などが入れられてくる。部屋の中には次のような日本語のマニュアルが用意してある。「右口からの紙にnyekunduと書かれていた場合、左口の紙に書かれたWavelength ya mwanga ni (あ) bilioni kwa mitaの(あ)の値が580~700のときには上のボタンを押し、その値が580~700ではなかった場合は下のボタンを押せ」というマニュアルである。この場合私は、右から「nyekundu」で左の数値が「580~700」ではないので、下のボタンを押す。室内の私にはこの作業が一体何を意味しているのかまったく分からない。しかし、この部屋の中と外を俯瞰的に見られる人がいたとすれば次のような状況を見ることになる。
Photo
ロボットは様々な色の石板から識別して指定された色の石板を持ってくるという作業をしている。「nyekunduネクンドゥ」はスワヒリ語で「赤」。この「nyekundu」のカードがロボットの口から差し込まれるとカードは差込口を通って中の部屋にいる私に届く。ロボットの目の前にはいくつもの石板が並んでいるのを、ロボットの眼のカメラが見て、正面にある石板の色データを撮り入れる。色データは処理されてその光波長の数値が部屋の中にいる私に届けられる。それが部屋の左口から出てくる「Wavelength ya mwanga ni 400bilioni kwa mita」である。これは光波長が400nmだという意味である。マニュアルの通り、私は下のボタンを押す。この下のボタンは、ロボットに対して「その正面の石は取り上げず、別の石のところへ行け」と命ずるボタンである。だからロボットはその光波長400nm色の石を取らずに別の石のところへ行く。もし、上のボタンを押していたら、「その正面の石を取り上げて指定の場所へ持って行け」という命令になる。このようにして、この石板色分別ロボットは、「赤」という言語命令に対しては赤い石板を探し出し、別の色を指定する言語命令に対しては別の色の石板を探し出して、決められた場所に持って行くことになる。
さて、このロボットは、「nyekundu」という言語命令に対して「赤い石板を取ってくる」という対応ができる。出された言語命令を正しく解釈し、指定通りに行動できるのだから、このロボットはこの言語ゲームの中で完全に「nyekundu」という語の使用的意味を理解できている。

 

私も部屋も言語ゲーム上の意味論を理解している

では、部屋の中の私は語の意味を理解しているのだろうか。言語ゲームの中での使用として意味を捉えると、部屋の中の私も「nyekundu」の意味を理解していると言える。なぜなら、部屋の中の私は「nyekundu」という語に対して、左口から出てくる数値が400だったら下のボタンを押すという対応ができているからだ。ここでは、ゲームにきちんと対応していることが語の意味の理解そのものだ、とするからだ。また、「nyekundu」が差し込まれたときに、ロボットのカメラが撮影した映像からそこに映っている石板の色の波長を解析し「Wavelength ya mwanga ni 400bilioni kwa mita」などと印字して部屋の左口から出す…というのがロボットの入力ゲームだと言えるだろう。ロボットはこの入力ゲームができるという意味において「nyekundu」の意味を理解していると言える。そしてまた、部屋の中の私が上のボタンを押せばそこにある石板を指定の場所へ移動させ、私が下のボタンを押せば別の石板のところへ行くというのが、このロボットの出力ゲームだと言えるだろう。ロボットはこの出力ゲームができるというができるという意味において「nyekundu」の意味を理解していると言える。
「ロボットの入力ゲーム」「私のボタン押しゲーム」「ロボットの出力ゲーム」はそれぞれ別のゲームであって、それぞれがそれぞれの意味で「nyekundu」を理解し、それぞれの理解によって3つのゲームがなされ、その3つのゲームが全体として、ロボット全体の「nyekunduの指示に対して赤い石板を取ってくる」というゲームを形成することになる。言語ゲームの上で考えるのなら、ロボットも部屋の中の私も意味を持ち得るのだ。言語ゲーム上で考えるなら、システムの部分がシステム全体と同じ意味を捉える必要はないのだ。それぞれの部分が異なる意味理解をし、それが組み合わさって、全体としてまた新しい意味になることもあるのだ。だから、サールが「システムの部分が意味論を持てないのなら、システム全体だって意味論が持てるわけがない」と考えたとき、その意味論は言語ゲームの意味論を考えていたわけではないことが分かる。

サールは意味論を考えるときに、言語ゲームでの意味を考えるべきだったのだ。そうすれば、統語論から意味論が生ずると言えたのだ。しかし、彼はそうはしなかった。言語ゲームから外れた意味での「意味論」が存在するのだと考えてしまったのだ。言語ゲームの中での関わり合いのない「意味」とは結局、言語における機能性の無い「私的言語的」な「意味」でしかないのに、「クオリア」とか「非機能的な現象的意識」とか、そういった機能性の無い私的言語的な意味論を考えてしまったのだ。そして、そんなナンセンスなものを意味論の意味とすべきだと勘違いして「意識の生物学的自然主義」なんてものをでっちあげてしまうことになったのである。

いや今そんな話をするのは、まだ早計だ。ここまでの話は、言語ゲーム上で意味論を捉えれば統語論が意味論に転じることができるという、そこまでの話だけだ。意味論の意味を私的言語的なものに求めたり、そこから「意識の生物学的自然主義」なんてものを立ち上げたりしてはダメなわけを、次節で論じることにしたい。

つづく

<心は実在するか>

« サールの「中国語の部屋」と統語論と意味論<心は実在するか15> | トップページ | 「意識の生物学的自然主義」がダメなわけ<心は実在するか17> »

コメント

異邦人さん、

感想コメントありがとうございます。でも、僕の訴えたかったこととは違う読みをされているようで、自分の作文力の無さを痛感しています。
例えば、生存機械の話。
A.生存機械でない
B.意味論は生まれない。

(前提)1.AならばB
(前提)2.A
ゆえに(結論)3.B

妥当な推論です。しかし、僕は1が明らかではないとする次元の話をしているつもりだったので、1を前提に話をされても、反論になっているとは思えないのです。

横山信幸さん。

もちろん横山信幸さんが1に同意ではないであろうことを承知の上で私の見解として述べたものです。

横山信幸さん。意味論に関する補足です。

意味論に関して生存機械という語は直接関係はありませんので忘れていただいて構いません。
「環境と主体的に関わる存在」ということが意味論では重要です。
「環境と主体的に関わる存在」がこの世界に意味を与えます。
その結果意味論が生まれます。

唯物論では生存機械であることから「環境と主体的に関わる存在」に繋がります。
ですので唯物論で考える場合は生存機械から考えますが、唯物論を前提とせず考えるのであれば生存機械という部分は忘れてしまって問題ありません。
「環境と主体的に関わる存在」という部分が意味論を考える上では重要です。

横山さん


ご無沙汰しております。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。

先ず、忌憚なく言わせて頂ければ、↓以下の論述

>システムの部分が意味論を持てないのなら、システム全体だって意味論が持てるわけがないというのがサールの主張である。しかし、サールの言う意味論とはいったいどんなものをイメージしているのだろうか。クオリアとか機能性の無い現象的意識だとかそんなものじゃないだろうか。この意味論のイメージに対して、ウィゲンシュタインは言葉の意味をそのような私的なものに求めることを否定した。意味は言語ゲームの中での使用として考えるべきだと考えたのだ。
>サールが、コンピュータが意味論を持てないとしているのは、意味論を理解するべき経験がないから意味論が持てないのだというレベルの話だと解釈することもできる。
>サールは意味論を考えるときに、言語ゲームでの意味を考えるべきだったのだ。そうすれば、統語論から意味論が生ずると言えたのだ。しかし、彼はそうはしなかった。言語ゲームから外れた意味での「意味論」が存在するのだと考えてしまったのだ。言語ゲームの中での関わり合いのない「意味」とは結局、言語における機能性の無い「私的言語的」な「意味」でしかないのに、「クオリア」とか「非機能的な現象的意識」とか、そういった機能性の無い私的言語的な意味論を考えてしまったのだ。そして、そんなナンセンスなものを意味論の意味とすべきだと勘違いして「意識の生物学的自然主義」なんてものをでっちあげてしまうことになったのである。
>ウィゲンシュタインは言葉の意味をそのような私的なものに求めることを否定した。意味は言語ゲームの中での使用として考えるべきだと考えたのだ。

を読む限り、横山さんのサール及びウィトゲンシュタイン読解?は極めて粗雑かつ浅薄であると言わざるを得ません。

http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-88df.html#comment-81839076
【もし彼が感覚言語一般を習得したと見做し得る諸規準をクリアするならば】、そのとき我々は「或る新しいタイプの感覚(ex. しくさ)を同定した」という彼の【主張】を―件の感覚に【我々が観察可能なものが全く付随していなくとも】―【尊重する】という事は、感覚に関する【言語ゲームの原初的部分】なのである。従って、この場合、そのようなアバウアルに対する唯一の【公的な規準】は、彼の【真面目な】アバウアルそれ自身になるであろう。-略-共同体に受け入れられた話者にとっては―彼がそれをマスターしているという事が、彼以外の人々は誰もチェックする事が出来ず、唯単に彼が共同体の一員であるという事に基づいて【仮定される】だけの―【規則】が存在するに違いない、という事を承認するのである。これは全く【言語ゲームの基本的特徴】である。
何故ウィトゲンシュタインはこのような言語ゲームを承認しなかったのだろう。
―クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス』

>部屋自体が世界を経験できるような中国語の部屋を設定して考えてみよう。ただし僕は「日本語」に通じていて「スワヒリ語」の意味がまったく分からないので、「日本語ネイティブのいるスワヒリ語の部屋」で考えることにする。
私は部屋の中に閉じ込められている。この部屋はロボットの中にあってそのロボットの思考中枢として位置づいている。
>このロボットは、「nyekundu」という言語命令に対して「赤い石板を取ってくる」という対応ができる。出された言語命令を正しく解釈し、指定通りに行動できるのだから、このロボットはこの言語ゲームの中で完全に「nyekundu」という語の使用的意味を理解できている。
>部屋の中の私は語の意味を理解しているのだろうか。言語ゲームの中での使用として意味を捉えると、部屋の中の私も「nyekundu」の意味を理解していると言える。なぜなら、部屋の中の私は「nyekundu」という語に対して、左口から出てくる数値が400だったら下のボタンを押すという対応ができているからだ。ここでは、ゲームにきちんと対応していることが語の意味の理解そのものだ、とするからだ。また、「nyekundu」が差し込まれたときに、ロボットのカメラが撮影した映像からそこに映っている石板の色の波長を解析し「Wavelength ya mwanga ni 400bilioni kwa mita」などと印字して部屋の左口から出す…というのがロボットの入力ゲームだと言えるだろう。
>いや今そんな話をするのは、まだ早計だ。


当然ですが、横山さん或は他の誰かが「ここでは、ゲームにきちんと対応していることが語の意味の理解そのものだ、と【定義・約定しよう】!」と発語する―我々がそれを承認するかどうかは別にしても―ことは出来ますよね。しかし、何れにせよ、その類の事柄を持ち出すことによってサールの思考実験の意義―サール本人も把握しきれていない―が損なわれることはないと思います。
確認ですが、横山さんの想定における「部屋の中の私」は①有機体(ヒト)であり②言語ゲームの成員(日本語話者)として認められた人物ですよね。
横山さんの言葉を逆手にとって言えば、【既に】言語ゲームの成員として認められている―【意味論】を適用し得る―存在者ならば「右口からの紙にnyekunduと書かれていた場合、左口の紙に書かれたWavelength ya mwanga ni (あ) bilioni kwa mitaの(あ)の値が580~700のときには上のボタンを押し、その値が580~700ではなかった場合は下のボタンを押せ」という指示に従う(従わない)ことも出来る筈だetcというトリビアルな指摘で、サールの思考実験をナンセンスだと決め付けるのは早計でしょう。

付言しますと、事物や他者との因果的交流~間身体的交感~言葉を使った遣り取り(ex. 指示ゲーム。他人に指定された物を持ってくるetc)を全く欠いた存在者が【意味論】を持ち得ると考える理由は見当たらないと思います。
横山さんの想定における「部屋の中の私」が言語ゲームの成員(日本語話者)として認められた―【意味論】を適用し得る―存在者であるならば、当然そのようなプロセスを通して言語使用を習得していった筈なのですが。


犬猫や現存の人工物は「あの時自分は事実誤認をしていた」と思うことが出来るか?

事物や他者との因果的な相互交流や言葉を使った遣り取り(ex. 指示ゲーム。他人に指定された物を持ってくるetc)を一切持たなかった存在者が【突然】「右口からの紙にnyekunduと書かれていた場合、左口の紙に書かれたWavelength ya mwanga ni (あ) bilioni kwa mitaの(あ)の値が580~700のときには上のボタンを押し、その値が580~700ではなかった場合は下のボタンを押せ」という【指示】に【従ったり・従わなかったりすることが出来る】か?

―抑も「指示に従ったり従わなかったりする」とは如何なる事か考えてみてください。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/548679/58515004

この記事へのトラックバック一覧です: 中国語の部屋がダメなわけ<心は実在するか16>:

« サールの「中国語の部屋」と統語論と意味論<心は実在するか15> | トップページ | 「意識の生物学的自然主義」がダメなわけ<心は実在するか17> »