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2013年11月12日 (火)

「メアリーの部屋」がダメなわけ<心は実在するか18>

「メアリーの部屋」が唯物論の正当な反論になっていないことを考える。

 

メアリーの部屋

「メアリーの部屋」(或いは「知識論法」)はフランク・ジャクソン(1943~)がクオリアを検討する中で物理主義の批判のために出した思考実験である。

「メアリーは、何らかの理由で白黒のテレビモニターのみを通じて、白黒部屋から世界を調査することを余儀なくされた、輝かしい科学者である。彼女は視覚と神経生理学の専門家で、完熟トマトや空を見たときについて、また「赤」「青」などのような用語を用いるときに何が起きるのかについて、物理的に完全に理解し説明できる。彼女はたとえば、空からの光の波長が網膜を刺激し、前視覚、中枢神経系、肺、声帯での空気の収縮へと通じて、「空が青い」という文を発する過程を解明する。(これらすべての物理情報は白黒テレビのみから得られているということが原則である。)そして、メアリーが白黒の部屋から解放されたり、カラーテレビが与えられたりしたときに何が起きるだろうか。彼女は何かを学ばないだろうか。彼女が、われわれの視覚体験について何かを学ぶことは明らかだ。彼女の知識が不完全だったという結論は避けられない。しかし、彼女はすべての物理情報を持っていたとしていたはずだ。それゆえ、物理主義は偽である。」(フランク・ジャクソン「Epiphenomenal Qualia随伴現象性クオリア」1982より、かなり意訳)
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この思考実験において、
(1)メアリーは完全なる物理的知識を持っていたこと。
(2)メアリーは完全に色彩のない環境で生まれ育ち、色彩を目にする経験がなかったこと。自分の肌の色やシャツの色や鏡の中の瞳の色も色彩として経験しないように特殊ゴーグルをはめていたとするなどの工夫が必要かも知れないが、ともかく色彩の体験がなかったと考える。
(3)そして、メアリーが初めて色彩を体験したときに、彼女は新しい知識を得たと考えられること。
(4)したがって、物理的なことがら以外のことがらが存在する。ゆえに物理主義は偽である。
と考えるのである。
ここで、ジャクソンが主張しているのは、物理的知識として知り得るあらゆる知識をすべて揃えたとしてもそこに入らないような物理的知識以外の知識があるはずだということである。そして、この物理的知識以外の知識とはクオリアなどの私秘的な内容を想定したものと思われる。しかし、この「メアリーの部屋」の話の設定では、その主張をするには不十分であると、僕は思う。メアリーの部屋に対する批判のいくつかは、その不十分さを突いたものである。

 

非経験的な理論的概念と経験的な物的概念

「物理の様々な概念を区別する必要がある。物理の理論的概念(theory-conception of the physical)によって定義された特性は、物的概念(object-conception)と潜在的に区別される。ジャクソンの思考実験はその一つの解釈だけを前提としている。メアリーには物理的なすべての理論を教えることができる。しかし、物的概念はその知識から逃れてしまう可能性が開いたままである。」(ダニエル・ストルジャー「Physicalism物理主義」2009より)
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この批判はメアリーが全ての物理的知識を持っていたとする前提を否定するものである。物理的知識には理論的概念と物的概念の2つがあり、メアリーは理論的概念を持ってはいたが、物的概念を持っていたとは限らないとするのである。ここで2つ目の概念として挙げている「物的概念」なるものは、対象そのものを経験することによって得られる知識を意味していると考えられる。ジャクソンの主張では、メアリーが物理的な知識のすべてを持っていることが前提だった。しかし、上の批判によると、メアリーが部屋から出たときに新しく得る知識に、経験的な物的概念としての物理的知識までもが含まれることになってしまい、前提が覆されるのだ。そのために、たとえば、メアリーの無知は言語ゲーム的な経験の無さによっても説明できてしまう。

非機能的な経 験の知識と機能的な経験の知識

ここで問題になる経験的な物的概念には、(あ)「或る対象に対する、非機能的な現象的意識やクオリアなどをもつこと」という、「非機能的な経験の知識」を意味する場合と、(い)「或る対象に対する機能的なゲームへの参加ができること」という、「機能的な経験の知識」を意味する場合の2つの場合が考えられる。
(あ)の非機能的な経験は哲学ゾンビにはできないが、(い)の機能的な経験はゾンビにでもできる(ゾンビやクオリアの存在を否定している僕がなぜゾンビやクオリアを説明に用いるのかと問われれば、答えは単純。便利だからである。ゾンビやクオリアを否定しているからと言ってもゾンビやクオリアを否定するためにゾンビやクオリアの話をするのは許される。)
(あ)は機能を持たないのだから物理的知識ではないが、(い)は機能を持つのだから物理的知識だ。
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たとえば、「自転車に乗ること」の経験的知識でいうと、(あ)の非機能的な経験的知識は「自転車に乗ったときの非機能的な現象的意識やクオリアをもつこと」である。(い)の機能的な経験的意識は、たとえば「『自転車に乗れ』と言われたときに三輪車やバイクではなくて自転車を選んで、実際に乗ること」であり、たとえば「『自転車の乗り心地』を表現すること」であり、また、その他のさまざまな「自転車に乗る」に関するゲームができることである。
メアリーの場合は(あ)の意味でも、(い)の意味でも、経験的な知識を持ち合わせてはいなかった。一切の色彩を見たことが無かったのだから、非機能的な「赤」のクオリアを知らなかったとも言えるし、同時に、本物の彩色群を見てどれが「赤」かを選び、指し示すための知識も持っていなかったとも言える。だから、メアリーの知識が欠けていたからと言って、それがすぐに非物理的で非機能的な経験のことだけを指しているとは言えない。物理的で機能的な経験的知識の欠落の方が先に問題になってしまうからだ。だから、メアリーが白黒の部屋を出たときにはじめて得た知識がクオリアについてものだったと主張したいのなら、メアリーが色彩に対して機能的な知識も持っていたことにするように「メアリーの部屋」のお話を改良し、非機能的な経験だけを問題にできるようにする必要がある。

 

メアリーの部屋・改訂版

たとえば、こんな感じの話にすべきなのだ。
「メアリーは、生まれてこの方ずっと色彩のある世界で育ちながら、世界のすべてが彩度0の白黒にしか見えないゴーグル型スカウターを付けて暮らしてきた。スカウターとはドラゴンボールのあのスカウターだ。ドラゴンボールでは敵の戦闘力が示されていたけど、メアリーが付けているスカウターは視界内のあらゆる対象の色相と彩度が数値で表される。この装置から色に関するすべてのデータを得ることで、メアリーはどれが赤色の対象でどれが違うかを知り、「指定色の取出しゲーム」や「色おにごっこ」など色彩に関するさまざまな言語ゲームを経験できる。メアリーは天才科学者で色彩に関するすべての物理理論的知識を持っている。そして、メアリーはこのスカウターのおかげで機能的な経験の知識も持っている。だから、メアリーは完全な物理的な知識を持っていると言える。
さて、ここで、メアリーがゴーグルを外すと何が起こるか。今まで経験したことのないはずの色彩そのものの感じを経験するはずである。これは非機能的な知識、現象的意識やクオリアがあるという証拠になる。」
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整理して言い換えるとこういうことだ。
(1)メアリーはすべての物理理論的知識を持っていた。
(2)メアリーは色彩を実感できない環境で育ち、色彩を色彩として経験することがなかった。
(3)しかし、色彩に関するデータは数値化されて得ることができ、色彩に関するあらゆる機能的ゲームに参加できるような、あらゆる経験的な物的知識があった。それゆえ、彼女は完全な物理的知識を持っていた。
(4)そして、メアリーが始めてゴーグルを外して、色彩を色彩そのものとして体験したとき、彼女は新しい知識を得たと考えられる。
(5)したがって、機能的な経験の知識まで含めた意味での物理的知識の他にも、何らかの知識が存在する。ゆえに物理主義は間違いである。
と、本来はこんな話が設定されるべきだったのじゃないだろうか。このような話にすると反論がすこしは難しくなるだろう。でも、僕はそれでも、物理主義で捉えられない知識があるというこの論に反対である。

 

改訂版がダメなわけ

問題。「『メアリーの部屋・改訂版』によって、非機能的な知識の存在が立証される」とする推論は、実は妥当ではない。どこが間違っているかを指摘せよ。
;;;
答え。確かに改訂版でメアリーは、白黒の視界の中でも「色選びゲーム」ができ、その意味で色彩に関する経験的知識は持っていた。しかし、「色による興奮ゲーム」という物理的機能的ゲームに参加できない。だから、メアリーは改訂版でもすべての物理的で機能的な経験的知識を持っていたとは言えない。それゆえ、改訂版からも、物理的でない知識が存在することは導かれない。

メアリーはスカウターによって色彩に関する行動ができるようになったかも知れないが、赤を見て「ああ赤い」と実感しその感覚を話し合うというゲームには参加できない。また、赤い色を見ると興奮し、青い色を見ると落ち着くなど、色彩による人体の反応を他者の身体を使って研究することはできる。しかし、自分の体を使って自身のこととして研究することはできないのだ。これは、決して私秘的な対象について語ろうとしているのではない。はっきりと物理的研究対象となる事柄だ。だから、色に対して自分の体がどう反応するかについて、メアリーが経験的に知ることができる状況を作らないと、メアリーが経験的知識も含めてすべての物理的知識を持っているとすることはできない。

 

メアリーの部屋・再改訂版

そこで、メアリーが色彩に関するあらゆる物理的知識を持っているとするためには、メアリーの目から色彩の刺激を入力しないようにゴーグルを掛けたままにしておいて、色を見たときの感覚を脳に直接刺激として与え。彼女の身体が色彩に反応できるようにする必要があることになる。メアリーは、赤色を見ても目からその赤の情報は取り入れられない。しかし、その赤色を見たときの身体的反応は脳への直接刺激によって得られるというわけである。
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どうだろう。この新しい実験から、「メアリーはすべての物理的知識を与えられていたのに、ゴーグルを外すと新たな知識を得た」という唯物論批判の結果がうまく導き出せるだろうか。もちろんダメだ。

もし、脳への直接刺激によってメアリーがそこに赤のクオリアを感じてしまったとしたら、この実験は意味がなくなる。メアリーがゴーグルを外したところで何も変わらないからだ。そして、もし、脳への直接刺激をしてもメアリーがそこに赤のクオリアを感じていなかったとして、ゴーグルを外したときにメアリーがクオリアを感じたとすれば、彼女は物理的知識以外の新しい知識を得られると言える。「脳への物理的直接刺激によってクオリアが生じなく、目からの刺激によってクオリアが生じた場合には、彼女は物理的な知識ではないクオリアの知識を得る」と言っているのだから、それはトートロジーに過ぎない。「物理的知識以外の知識があるとすれば物理的知識以外の知識がある」と言っているだけの話なのだから、彼女が物理的知識以外の知識を得る可能性がある証拠にはならない。
そして、それだけでなく、もしゴーグルを外した時にメアリーが新しい感覚を得たのであれば、自分自身の身体的反応の知識まで含めて、彼女が物理的なすべての知識を持っていたという前提が不十分な前提だったと、逆に言えることになってしまうのである。
だから、いずれにしてもこの思考実験から物理的知識以外の知識が存在するという結論は導かれないのだ。

 

メアリーの部屋のダメなわけ

1982年にジャクソンによって「随伴現象性クオリア」のレポートが出されて以来、「メアリーの部屋」は賛否両論のさまざまな討論が為されてきた。ジャクソン自身もその中で物理主義派に転身するなどして、現在もまだ混乱は続いている。しかし、僕は本節で見た整理の仕方である程度、問題に見通しがつくと自負している。
「メアリーの部屋」の話は、物理的な知識を歪曲して小さく見積もったがために、物理的な知識以外の私秘的な知識があるとしてしまった誤解なのである。自分自身の身体的反応などの物的概念も物理的概念に含まれるとして、物理的知識の内容を細かに見直して正確に考えようとすれば、そこにそれ以外の知識があるなどと言うことはできないことが分かる。だから、「メアリーの部屋」は唯物論の正当な反論にはなっていないのだ。

つづく

<心は実在するか>

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コメント

#「メアリーの部屋」がダメなわけ<心は実在するか18>(私の見解)

この問題では、メアリーは外の世界に対する経験を持たないことが前提です。
ですから外の世界に出たとき新しい経験を得るのは当然でそのこと自体は問われていません。
メアリーは外の世界についての全ての物理的知識を持っていました。
メアリーは外の世界に出たとき経験以外に新しい知識を得るのか否か、それが問われているわけです。
新しい経験というのは当然クオリアのことです。

つまりメアリーが外の世界に出たとき「クオリアの知識を新たに得るのか否か」が問われている訳です。

その問いに対しジャクソン自身は「クオリアの知識を新たに得る」と答え「クオリアは非物理的なものである」から物理主義が誤りであると結論しています。

それに対しデネットは「何も新しいことは学ばないだろう」と主張しています。
デネットは全ての物理的知識の中にクオリアに関する知識も含まれていると考えているようです。

もしメアリーが天才科学者であるとは言え「人間レベルを超える認識能力を持たない」ものとすれば、クオリアの知識を予め得ることは出来ませんから、「クオリアの知識を新たに得る」というジャクソン自身の答えは妥当であると言えます。

もしメアリーが「ラプラスの悪魔レベルの認識能力を持つ」ものとすれば予めクオリアに関する知識を獲得しておくことが可能であり、「何も新しいことは学ばないだろう」というデネットの主張は妥当であるといえます。

結局の所、メアリーの認識能力をどの程度に見積もるかにより結論は異なってきます。

私の唯物論に沿って言えばジャクソンが「クオリアは非物理的なものである」としている点は誤りであるのでここでの軍配はデネットに上がります。

横山さん


ご無沙汰しております。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


>「メアリーの部屋」の話は、物理的な知識を歪曲して小さく見積もったがために、物理的な知識以外の私秘的な知識があるとしてしまった誤解なのである。自分自身の身体的反応などの物的概念も物理的概念に含まれるとして、物理的知識の内容を細かに見直して正確に考えようとすれば、そこにそれ以外の知識があるなどと言うことはできないことが分かる。


http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-8021.html#comment-82486020
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-8021.html#comment-82490603
例えば、タンスの角に頭をぶつけて泣いている赤ん坊が(それによって)何らかの「知識」を獲得したと考える人はいない?でしょうし、月に行ったことがない人がニール・アームストロングの伝記を読んでも月に行ったことにはなりませんよね。
しかしながら、横山さんの遣り方―物理的概念の拡張と再編成―では de dicto知識とde re知識(或る種の自己知de se知識も含める)の差異を無化することは出来ないと思います。
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-8ee3.html#comment-86316909
「汎ゆる知識は何らかの物理的な説明を与え得るような諸事物のネットワークと関わりを持たねばならない」とは言えるかもしれませんが。

そもそもこれはトートロジーのようなもので、どのような形でも物理主義に対する反論にはなり得ないと考えます。
なぜなら、ジャクソンのように元々「クオリアは非物理的」と信じている人は「メアリーは何かを学ぶ、」よって「非物理的なものが存在する」と結論するだろうし、デネットのように「クオリアも物理的」と考えている人は「メアリーは何も学ばない」と考えるだけだからです。

Aを信じてる人はAと結論するし、ノンAを信じている人はノンAと結論する。これでは何の意味もありません。

それでも何かおかしさを感じてしまうのは、「すべての物理学的知識」という言葉に曖昧性があるからというだけです。単なる言葉遊びと考えても差し支えないでしょう。

哲学的バンパイアさん、ようこそ。コメントありがとうございます。

非物理的なクオリアがあるか無いかは、その前提条件で非物理的クオリアを認めているか否かによって決まる、ということですね。
なるほどそうかも知れないと思う部分もありますが、僕はやはりそれだけじゃないように思います。
非物理的クオリアなるものは検証可能性が無いゆえに、<それを現実的存在として「有る」とする言語ゲーム>を成り立たせるための条件を満たし得ないのじゃないかと、僕は疑っています。

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