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2013年11月 1日 (金)

サールの「中国語の部屋」と統語論と意味論<心は実在するか15>

統語論(Syntaxシンタックス)と意味論(Semanticsセマンティクス)

ルドルフ・カルナップ(1891~1970)によると文の分析の仕方には統語論(構文論)と意味論がある。統語論は、指示対象(その言葉が指している対象の事物)そのものを分析対象とするのではなく、ただ表現と表現の間の関係のみについて分析をする。これに対して、意味論は指示対象そのものを分析する。統語論での語の意味は、語の対象が「どんなであるか」であり、意味論での語の意味は、語の対象が「何であるか」である。統語論での語の意味は、大量の語の関係性の中での語の位置づけであり、意味論での語の意味はそこにある世界そのものについての言明である。
たとえば、「空が赤い」という文について統語論的に分析するなら次のようになる。「『空』という語は言い換えると『地上から見上げた時に頭上に広がる空間』であり、『一般に晴れた昼なら青く、夜なら暗く見える広大な天上』であり、『英語でいうとsky』であり、あるいは『天体の大気の対流圏』などである。『赤い』という語は言い換えると『色のひとつで熟した苺の実の色』であり、『血の色』であり、『紅花から取れる色』であり、或いは『700nm程度の波長をもった光の色調』などである。これらの語で説明されるような性質を持っている『空』が、これらの語で説明されるような性質『赤い』を持っているということが、「空が赤い」の文の意味である。また、今説明に用いられた語群についても、例えば『苺とはバラ科の多年草で2~3cmほどの花托が食用になるもの』などと他の語によって説明されることができるので、語による語の説明の連鎖が巨大なネットワークになり得る。そのネットワークの中での語の位置が、統語論的な語の意味なのだといえる。
一方、意味論的に分析するなら、「そこに広がっている『空そのもの』を指す『空』が『赤色の感じそのもの』を指す『赤い』という性質を持っている」という、そこにある「世界そのもの」についての言明が、その意味なのである。

 

心脳問題と統語論・意味論

さて、この統語論と意味論の分類法を用いて、サールは心脳問題を次のようにまとめている。

1.脳が心の原因である。
2.統語論は意味論を生むには不十分である。
3.コンピュータプログラムは形式的構造すなわち統語論的構造のみによって完全に定義される。
4.心は、心的な内容、とりわけ、意味論的内容を持つ。
(サール「心・脳・科学」P46)

心は意味論的な内容を持つ。しかし、コンピュータプログラムは統語論的な内容しか持ちえず、統語論だけから意味論を生むことはできない。だから、コンピュータプログラムはそれのみでは心にはなり得ない、というのだ。
つまり、本物の心は、世界を見て世界を聞いて、「世界とは何か」という問いに対する答えを、意味論的に直接掴むことができる。しかし、コンピュータは世界を直接見ることも聞くこともできず、「世界とは何か」という問いに対する答えも、統語論的に文の形でしか持ち得ない。そして、文の形の統語論的な答えをいくらたくさん集めても、「世界が何であるか」という問いに直接答えられるようなものにはなり得ないのだ。だから、コンピュータでは心にはなり得ない、と言うのだ。

 

中国語の部屋

このことを、さらに積極的に示すために提出されたのが、「中国人の部屋」の思考実験である。

いかなるコンピュータプログラムも心になることはないということの理由は、プログラムが単なる統語論的なものにとどまるのに対して心が統語論以上を持つものであるからだということです。心は意味論的です。それは形式的構造以上のものであり、内容を持つのです。
一つの思考実験。プログラマが、コンピュータに中国語の理解をシミュレートすることを可能にさせるプログラムを書いたとする。この場合たとえば、コンピュータに中国語で質問が与えられたならば、その質問に対する適切な解答を中国語で作るだろう。その解答がちょうど中国語を母国語とする人のものと区別できないほど巧みなものであったとする。さてこの場合、以上のことを根拠として、このコンピュータが中国語を理解していると言うことができるか。この疑問に答えるために或る想像をしてみよう。あなたは部屋の中に閉じ込められている。部屋の中には中国語の記号の入ったバスケットがいくつかある。あなたは中国語を一言も理解できない。ところがその部屋に、その中国語の記号を操作するための規則を英語で記した本が用意されている。その規則には、中国語の記号の操作がまったく形式的に定めてある。つまり、中国語の記号の意味論ではなく、統語論にもとづいて操作が定めてある。さてここで、それまでの記号とは異なる中国語の記号が部屋の中に送り込まれてきて、しかも中国語の記号を送り返す別の規則が与えられたとする。さらに、送り込まれてきた記号は外の人によって「質問」と呼ばれており、送り出す記号は「質問に対する解答」と呼ばれる。さらに、プロブラマのプログラミングもあなたの記号操作もすばらしくて、すぐにあなたの解答が中国語を母国語とする人の解答と区別できなくなったとする。そこであなたは、部屋に閉じ込められ、送り込まれてくる中国語の記号に反応して別の中国語の記号を送り出しているというわけだ。さて、あなたは中国語の形式的な記号を操作することのみによって中国語をいささかも学んだとは言えない。
同p34・・・「中国語の部屋」の思考実験に関する記述の初出は「心・脳・プログラム」という小論文であるが、この「心・脳・科学」の記述の方が洗練されていて分かりやすいので、こちらを紹介した。)
Photo_3
この部屋自体が中国語の質問を受けて答えていると見ると、この受け答えは完璧である。「空とは何か」と問われれば、「地上から見上げた時に頭上に広がる空間だ」と答えたり、別の答えを出したりできる。だから、この部屋は統語論的には完全に中国語に通じていると言える。しかし、この部屋は意味論的には何も理解していない。「空とは何か」と問われても、「空そのもの」を思い浮かべることは、この部屋にはできないからだ。そして、部屋の中の私も意味論的に何かを理解しているとは言えない。私はミミズののたくったような線を見て、それを指示されたとおりに動かすだけで、それが何を問われ、何を答えているのか、分かりようがない。
これが、コンピュータは心を持たないというサールの主張につながる。
コンピュータは統語論を理解することはできるが、意味論を理解してはいない。しかし、心は、意味論をも理解できるような何らかの仕組みがないと決して生まれないのだ。デジタルコンピュータはどれほど工夫して作っても統語論的な答え方が上手になるだけで、意味論を持つことはできない。だから、コンピュータは心を持ち得ない、…とサールは言うのである。

 

中国語の部屋のロボット

このサールの主張に対して、この部屋全体がロボットになって、さまざまな経験をするのであれば、中国語を理解できると言えるのではないかとする批判がある。サールは、これに対しても反論を用意している。

中国語理解のプログラムをロボットの中に置く。そのロボットが動き回りこの世界と因果的に相互作用するなら、そのロボットが中国語を理解するということを保証するのに十分ではないか。しかし、このロボットがまったく中国語を理解するかのように振舞ったとしても、やはり統語論から意味論への移行手段が与えられたことにはならない。ロボットの頭の中にある小部屋で私は記号を操作しているが、或る記号はロボットに装着されたカメラを通じて自分のところに来て、或る記号はロボットの身体を動かすために送り出されていることを知らないとする。私が扱っているものが形式的なプログラムのみであるとすると、私にはその記号に対して如何なる意味を与えるいかなる手段も与えられていないことになる。しかも、ロボットが外部と因果的な相互関係を行っているという事実は、ロボットの中の私がその事実を見出す手段を持っていない限り、記号に意味を与える助けにはならない。ロボットと外の世界の相互作用は、その因果的な相互作用が心の中に表現されない限りまったく意味を持たないのだ。(同p38)

心の中に、何らかの「立ち現われ」がないと、ロボットのシステム全体が何かを経験しているように見えても、意味を理解していることにはならない。結局、統語論は経験によっても意味論にはなり得ないのである。

 

結論として

このことから、サールは、心と物との関係を次のように結論付ける。

結論1.いかなるプログラムもそれだけでは、一つのシステムに心を与えるには不十分である。つまり、プログラムは心ではないし、それだけで心を持つには十分でない。
結論2.脳の機能を原因として心が生ずる在り方は、プログラムを走らせることのみのよるものではあり得ない。
結論3.心の原因となるようなものは、脳が持つ因果的産出と少なくとも同等の因果的産出を持たなければならない。
結論4.われわれが作るいかなる人工物についても、それが人間の心の心的状態と同等の心的状態を持ち得るためには、プログラムを実現するということのみでは不十分である。むしろ、その人工物は人間の脳の産出力と同等の産出力を待たねばならない。
(同p48)

この結論と前節で紹介した内容と合わせて整理すると、サールの「意識の生物学的自然主義」は次のような主張になる。
主観的で一人称的な意識は、物理過程に因果的に完全に還元できる。つまり、意識はそれがどんな仕組みかという視点(因果的視点)で説明する限りにおいては、物理過程の言明で完全に言い換えることができる。だから、完全に同じ脳過程があれば、完全に同じ意識状態があることになり、おおよそ同じ脳過程があれば、おおよそ同じ意識状態があることになる。これはクオリアについても同様で、同一の脳過程であればクオリアも同一になる。
そして、私は現に主観的で一人称的な意識を持っている。それゆえ、私と同様な神経生物学的な過程があれば、そこには必ず主観的で一人称的な意識が生じる。だから、人間には主観的で一人称的な意識があり、人間と同様の脳過程があればそこには意識がある。
ただし、主観的で一人称的な意識は、物理過程に、存在論的には還元できない。つまり、意識を物理過程で言い換えようとしても、完全に言い換えられない内容(意味論的な世界認識)が残る。だから、心的状態を表現したい時には物理過程以外の表現が必要になる。(これは、別表現が必要になると言っているだけで、別の事柄であると言っているのではないことに注意が必要。やはり、同一の事柄であることに変わりはない。)
この考えによって、従来の心身問題は解決する。つまり、心と体が同一であると考えるとクオリアが消去されてしまうという問題は、クオリアも物理過程に仕組みの問題としては還元できるのだが、意味論的な表現の問題としては言い換えられないだけだと考えることで解決する。
一方、統語論が意味論に転換することはできないので、コンピュータプログラムが統語論的に完全な振舞いをしていたとしても、意味論的な意識を持つことはあり得ない。
以上の主張をまとめると次のように言える。

1.意識状態はクオリアも含めて、因果的に神経生物学的過程によって完全に還元される。ただし、存在論的には還元できないので、心を語るためにはそのための表現方法が必要になる。
2.およそ同様の神経生物学的過程をもつ人間は、およそ同様の主観的一人称的意識やクオリアをもつ。
3.神経生物学的過程を持たないコンピュータプログラムは意味論的意識やクオリアを持ち得ない。

どうだろう。結構、説得力のある仮説であるように僕は思った。この仮説を採用するとほとんどの心的な状況が説明できるように思われる。
でも、このすばらしいアイデアも、やはり基本的なところで間違っていると僕は考えている。僕の反論について、次節で取り扱いたい。

つづく

<心は実在するか>

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コメント

論考の写像理論において、命題は事態が何であるかを表す(写像する)と言えると思うのですが、写像理論が意味論的であると考えるのは変じゃないですかね?

もちおさん、
面白そうな論点ですね。
でも、問われていることがよく分かりません。もう少し問いの意味を解説してもらえませんか。

文の分析の仕方に意味論と統語論があるってことだったんですけど、これがまずよくわかんないんです。統語論と意味論では語の意味の説明の仕方が異なるってことなんでしょうか?例えば、統語論は語をパラフレーズすることで語の意味を説明するのに対して、意味論が説明する語の意味とは指示対象そのものである、というふうに。

そして、僕は単純に写像理論と意味論は、語の説明の仕方が同じなんじゃないかな?と思ったんです。少なくとも、写像理論は統語論的ではない気がします。いくらパラフレーズしても、そのやり方では現実そのものを写像できないので。

もちおさん、
具体的な質問をしていただければもしかするとお答えできるのかもしれないですが、意味論と統語論の説明については、僕には上の本文以上のことを語る力がありません。

そして僕には、逆に、「いくらパラフレーズしても、そのやり方では現実そのものを写像できないので、写像理論は統語論的ではない気がする」と言われる意味が分からないでいます。現実そのものを写像できずその形式のみをモデル化するだけなのだから、逆に、写像理論は統語論的でしかない、という話であれば、まだ少しわかるような気もするのですが。

どうなのでしょうか?

とりあえず写像理論によると、命題は実現していなかったり実現していたりする事態を写像(意味)するんだと思うんですが、これ自体は命題の意味を意味論的に説明しようとする理論ではないですか?

僕が「「多摩川の上流に雨が降った」という命題は多摩川の上流に雨が降ったという事態を意味する」と言って写像理論を説明してしまうと、僕の写像理論の説明は統語論的になってしまいますが、写像理論自体は意味論的であるんじゃないかなぁ、と思っちゃうんですけどね。

写像理論が意味論的であるというのは、分かる気がします。でも、統語論的ではありえないというのがどうもわかりません。

僕は「論考」のシステムは十分に意味論的にも統語論的にも有意義に働き得るものだと考えています。
「論考」の2.1511や2.17、2.18、2.182のあたりから、ウィトゲンシュタインもそう考えていただろうと言えるように思えてなりません。

もちおさんは、ウィトが自説を写像理論が意味論的でありかつ統語論的であるとしていることの両方に対して、

>写像理論が意味論的であると考えるのは変じゃないですかね?
>写像理論は統語論的ではない気がします

と疑問を投げかけている、というお考えなのですか?
それとも、

>写像理論自体は意味論的であるんじゃないかなぁ

と意味論的であることは肯定するというお考えなのですか?

僕は写像理論が意味論的であると積極的に肯定したいのですが、その場合統語論の立場は否定されるんじゃないかなと思っていました。もしかして、語や命題の意味を説明する際、意味論と統語論の両方を選択して説明するのは可能なんですかね?

もちおさん、

その問いに対する答えは答える人によって千差万別かもしれません。
ウィトゲンシュタインは、相関主義において世界は私の世界であり、私は私の世界であるとしてしまうことによって、世界記述の意味論的内容と統語論的内容を同時に扱えることにした、と言えると思います。
マクタガートにおいては、彼が時間の非実在を説いたのが意味論的意味と統語論的意味の連言が実在的な時間内ではなされないと考えたからだという言い方で捉えることもできると思います。
ヘーゲルや永井均なら、それを同時に語ることが矛盾になってしまうような世界に我々は住んでいながら、その矛盾が、ヘーゲルの弁証法や永井の累進構造によって乗り越えられねばならないとするでしょう。
メイヤスーの思弁論では、そこに単なる相関主義を越えたものを臨みながら矛盾がないような実在を展望すべきだと、言うように思います。
ドゥルーズならば、ニーチェの永遠回帰によってそれはすでに不定形の永遠の下に乗り越えられている、みたいなことを言うのかもしれません。

哲学者によって、意味論と統語論の齟齬をどう扱うかはずいぶん違うみたいです。
しかし、彼らが皆、その二者は連言で繋がれなければならないものだと考えているところは、共通しているように思います。

なるほど、なんとなくわかった気はします。が、やっぱり難しいですね。


むしろわかってない感じの質問かもしれませんが、横山さんは論考におけるウィトゲンシュタインが、複数の独我論世界が並在する世界観を認めていたと思いますか?思考し表象する主体が複数いて私の世界はこれ、として選択できる世界観は「相関主義において世界は私の世界である」とする世界観である気がします。


あと不思議なのは、ウィトゲンシュタインが、上記の世界観に反して「それは語り得ない」と言ったんだとしたら、語り得ないとする「それ(思考し表象する主体が世界の限界を為すという世界観?)」を語り得ないと言う事で語っちゃってるんじゃないかな、ということです。
うまい例じゃないと思いますが、「語り得ない」と言う時のウィトゲンシュタインは、りんごを指さして「このりんごは語り得ない」と言うのと同じことを言っている気がします。それじゃあ、りんごについて語っちゃってるだろうと…

>論考におけるウィトゲンシュタインが、複数の独我論世界が並在する世界観を認めていたと思いますか


僕の理解では、認めないと思います。私の世界と並列する別世界は言語の外部でしかなくて、「論考」にとっての他者とは、私の言語の世界の中で語られる以外に語られ得ることはあり得ない存在としての他者でしかなく、その意味では、論考に他者は居ないと言えるのかもしれません。


>語り得ないとする「それ(思考し表象する主体が世界の限界を為すという世界観?)」を語り得ないと言う事で語っちゃってるんじゃないかな


そのとおりだと思います。ウィトゲンシュタインは自ら規定した言語の枠組みを外れた物言いとしてると思います。それは、ウィトゲンシュタインの説く言語が実は「論考」で示されているような固定的なものではなく、もっと流動的なものであったり、ラッセルのいうようにクラスごとに別の世界記述の内容を語ることになるようなものになったりすることを示されてるんじゃないかなぁ、
みたいなことを感じています。でも、そこのところはよく分かりません。

ふむふむ、これまた、なんとなくわかった様な気がしますです。勉強になりました!記事とあんまり関係ない話題でして、どうもすみませんでしたm(__)m


本記事に関しては、僕は永井信者なので、永井だったらサールの議論に関して何て言うのかな?と思っちゃいます(笑)コンピューターが《私》であることに特に問題はないとかかな?だとしたら、けっこうすごい!

僕も永井均大好きですが信者ではなく、かなり批判的に読む方のファンです。

とくに私的言語の肯定や累進構造によって矛盾が乗り越えられるという話はどうしても理解することができません。

それでも「コンピュータが《私》であることに問題ない」というのが、「端的な《私》が実はコンピュータであったとしても問題ない」という話だとすれば肯定されるような気が、僕にはします。
ただ、「コンピュータが一般的な意識を持ち得るか」という話であればどうお答えになるかさっぱり分かりません。

僕個人はサールの「無機物には意識が生じるわけがない」という話が偏見にしか思えなくて、下らないと感じてしまいます。

累進構造っていうのもある意味「世界はこうなっています」と説明するための図なんだと思いますが、累進構造自体によって矛盾が乗り越えられるというのは無さそうですよね。むしろ、累進構造は世界や私という概念に内在する(?)矛盾を「説明しきれない」ことによって示してくれる図であるような、そんな気がします。

私的言語に関しては「哲学の密かな闘い」に収録されてる「語り得ぬものを示す」がかなり面白かったし、ふむふむと納得しながら読んだ記憶があります。なので、私的言語の肯定に関しても、僕は永井を支持しているんだと思います(私的言語の否定派がどういうことを言っているのかは知らないんですけど)。


サールの議論に関しては、僕はこういう哲学者が割りと好きですね。独断的って言うのかわかりませんが、何だかんだでこういう人が議論を提起してくれるんじゃないかな、と思います。あんまり関係ないかもしれませんが、ヒュームが観念のようなイメージを知覚のひとつにしちゃうのとかも好きですね。観念と印象の違いが「ガツンと来るか来ないか」とか、「そうだそうだ!」と思います(笑)

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