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2013年10月12日 (土)

チャーマーズの自然主義的二元論<心は実在するか12>

「意識する心」

機能主義と唯物論を批判する思考実験群に対して、哲学者たちがどう対処したかを考える。本節では、ゾンビ説に対するチャーマーズの考えを追う。

ここでいうゾンビとは、物理的には私と完全に同じ構造を持っているのに、クオリアや現象的意識を持たない存在である。ホラー映画で出てくる立ち歩く死者という意味でのゾンビと区別するために「哲学的ゾンビ」や「現象ゾンビ」などと呼ばれる。チャーマーズは「意識する心」という著作で、ゾンビが論理的に存在すると考えられるのだから、心的対象まで含めて世界のすべてを語るためには一般的な物理法則だけでは間に合わない、だから唯物論はダメだ、とする。そして、唯物論以外に或る精神物理法則を立ち上げるべきであることを考察している。

 

現象的意識と機能的意識

まず、チャーマーズは、心的概念を二つに分けて考えている。

「二つの心的概念。第一は現象的な心的概念。これは意識体験としての概念である。第二は心理学的な心的概念。これは、行動に因果関係をつけ、行動を説明付ける基盤としての心的概念である。或る状態が行動を生み出すのに申し分ない因果的役割を果たしていれば、それはこの心理学的な意味での心的状態ということになる。」(チャーマーズ「意識する心」邦訳p33)

この二つの違いは、因果的で機能的な働きがあるか否かである。心が原因になって外的に何らかの結果を生じたのであれば、その心は因果的で機能的だと言える。この機能的な働きを有する心の側面は、外的な機能面から分析する心理学の視点での心の捉え方でもあるので、チャーマーズは「心理学的」と表現している。しかし他の箇所では「機能的」と表現していてどちらも心の同じ側面を指しているようだ。この機能的側面を「心」や「アクセス意識」という哲学者もいて、色々な表現がされているようだが、本ブログでは「機能的意識」という表現を使うことにする。そして、この機能的側面に対して、チャーマーズは機能的ではない心の側面もあると言う。外的に何の変化もたらさないような心の働きがあると言うのだ。この心の側面を「現象的」側面と言う。永井均の「意識はなぜ実在しないか」ではこの現象的側面を特に「意識」と表現している。この心の現象的側面を本ブログでは、「現象的意識」と表現することにする。さて、その現象的な心の側面について、心が働いてもその働きが見えないのなら、どうしてその心が在ると分かるのだろうかという疑問が考えられる。そんな現象的な心の側面が存在するなんていうのは単なる勘違いではないのかという疑いが起こるのも当然だろう。

 

クオリアとゾンビ

「現象的な質のためのわれわれの言葉は、われわれの現象的でない言葉から導出したものである。現象的な概念がこのように因果的基準に依拠していることから、われわれの心的概念が意味するものはそれと結びつく因果的基準以外何もないのだと示唆する人(ウィトゲンシュタインやライルも)も出てきた。これはもっともらしいが、この誘惑には抵抗せねばならない。われわれが緑色の感覚を口にするとき「草木などによって引き起こされる状態」というのとそっくりそのまま同じことを言っているのではない。われわれは草木によって或る状態が引き起こされたときに通常現れる現象的な質について語っているのである。」(同p46)
「われわれはなぜ、もし意識体験が論理的に付随し損なったら自分自身の意識についてすら知ることができなくなるという結論を迫られないのか。その答え、それは意識体験はわれわれが認識する宇宙のまさに中心に位置するからである。」(同p106)

現象的な心的イメージの質をクオリアと言う。トマトの赤い色がまざまざと心的イメージとして浮かぶときのこの質感。傷の痛みのズキズキとしたこの質感。などなど。しかし、クオリアを語るにはそれを感じたときに心にどんな機能が働いたかを語る以外に無い。だから、行動主義や機能主義は、外的に表出される因果的基準によって意味づけられる心以外に心なんていうものはないとした。「トマトの赤い色がまざまざと心的イメージとして浮かぶときのこの質感。傷の痛みのズキズキとしたこの質感。などなど。」なんていう表現は、その質感の感じを自分がどう感じたかという「機能」で表現しているのだから、それは本来の非機能的なクオリアであるはずがない。なぜなら、それは結局、「意識の現象面を捉えようとした機能」の側面を表現したことに過ぎないのだから。クオリアが実在するなんてことは言えないのだ、と。
しかし、チャーマーズはこれを否定する。外的に表出されないでも自分の心の中に確かにクオリアが質として立ち上がるのだから、クオリアを表す言葉はそれだけで意味を持ちえるのだ、と言う。明らかに私的言語擁護論であるが、チャーマーズは自信満々である。意識体験があるということはまさに宇宙の中心に自分が位置しているということであり、今この瞬間に宇宙の中心に自分が存在しているというこの事実だけから見ても、「現象的意識」や「私に意識がある」という文は有意味なのだ。そして、だから、クオリアを欠いたゾンビという存在は想像可能であり、論理的にあり得る話なのである、とするのだ。

「ゾンビ、つまり、物理的に私と同一でありながら、まるっきり意識体験を欠いている何ものか。世界的レベルではゾンビ世界が論理的に可能であると考えることができる。われわれの世界と物理的に同一でありながら意識体験というものがまったく存在しない世界である。」(同p128)
「私の双子の一方のゾンビを考える。この生き物は分子の一粒まで私と同一でありながら、彼には意識体験が完全に欠けている。今ちょうど私は窓の外を眺めていて、木々を眼にすることで私的な緑体験を体験し、チョコバーをかじっておいしい体験をしている。このとき、私の双子のゾンビには何が起きているか。彼は物理的には私と同一だから、彼は間違いなく機能的には私と同一ということになるだろう。同じ情報を処理し、インプットに同じ反応の仕方をして、内部構成は同じように然るべき変更を加えられ、結果として見分けのつかない振舞いをするはずだ。彼は機能的な意味で外の木々を知覚し、心理学的な意味でチョコレートを味わう。こうしたすべてが心理学的概念の機能分析のおかげで、彼が私と物理的に同一であるという事実から論理的に導かれる。機能的な意味で彼には「意識がある」ことにさえなるだろう。――彼は目を覚まし、自分の内的状態がどうであるかを報告し、あちらこちらに注意の焦点を絞り、その他諸々のことができるはずだ。こうした機能のどれを見ても本物の意識体験は何一つ伴わないはずで、まさにそこにポイントがある。現象的な感じというものはまったく無い。ゾンビであるということだというものが何も無いのだ。」(同p129)

「〔意識が〕説明に絡まないことから出てくるいちばんの難問は、われわれ自身の意識体験をわれわれが知っていることである。明らかにわれわれは自分に意識体験があると判断しているだけでない。意識体験があると知っているのだ。」(同p244)

ゾンビは私とまったく同じ物理構造を持っている。体中も脳内も完璧に同じである。だから、ゾンビも夕日を見たときにその太陽光に対して、私と同様の物理的反応をする。脳内ニューロンの反応によって太陽光を赤いと解釈し「夕日が赤い」という文章を脳内回路で「思い」、「夕日が赤い」と発言する。ただ、そこが実際に宇宙の中心になってしまうような「現象的意識」や「クオリア」が無いだけなのである。しかし、ゾンビに聞いても、「いやいや、意識はあるし、クオリアもあるよ」と答える。その答え方を見ても行動を見ても、脳内のニューロン反応を詳細に見ても、彼がゾンビであることはどこにも表れないのである。しかし、それでもしかしと繰り返すしかないのだが、ただ、そこが実際に宇宙の中心になってしまうような「現象的意識」や「クオリア」が無いだけなのだが、それは想定できるのである。そして、ただただ、「物理的には完璧に同一だが、クオリアを欠いたゾンビが存在可能である」と言えて、この発言が有意味である以上、物理法則だけでは還元することができない「何か」が在ることになるのだと、チャーマーズは考えるのだ。
このように考えて、チャーマーズは、唯物論と物理主義を退けた。そして、物理理論以外に心の理論が必要になると言う。そして、ここで、「自然主義的二元論」というものを提案する。

 

自然主義的二元論

「自然主義的二元論:意識は物理的なものに論理的に、もしくは形而上的に付随することなしに、自然的に付随する。」(同p209 )

付随する[スーパーヴィーンする(動詞)]・付随[スーパーヴィーニエンス(名詞)]とは、起こりうるどんな状況でも特性Aが同じであれば必ず特性Bも同じになるときのことを言う。たとえば、起こりうるどんな場合でも、怪獣が出現しさえすればウルトラマンが現れるのであれば、「ウルトラマンの出現は怪獣の出現に付随している」と言う。付随関係は、物理的関係とはかなり違う。物理的関係では必ず双方向に影響を及ぼしあうので相互作用と言うが、付随は物理作用と違って一方向だけの関係性を言及するものである。BがAに付随しているのであればAの影響は必ずBへ及ぶが、Bの影響はAに及ぶとは限らないのだ。だから、「意識が物理的なものに付随する」と言うのであれば、適切な物理的状態があるときには必ず意識が生じるということである。
ここで、チャーマーズは「論理的付随」と「自然的付随」という概念を導入して、「意識は物理的なものに論理的には付随しないが、自然的に付随する」と言う。
論理的付随とは、論理的に可能な二つの状況をとっても特性Aが同じでありながら特性Bが異なるということがないということである。特性Bが特性Aに論理的に付随するとき、事実Aが事実Bを内含していると言う。事実Bが実際にそのようになるために必要なすべては、事実Aが現にそうなっているということだけに在ると言えるとき、BはAに論理的付随しているのである。
一方、自然的付随とは、同じ特性Aを持つ自然的に可能な二つの状況をとっても特性Bについて異なるということがないことである。自然的に可能な状況とは、いかなる自然法則にも反することなく自然界に実際に現れることができる状況である。たとえばボイルシャルルの法則で気体定数が異なるシナリオも論理的に可能だが、それは現実世界に起こりえないのだから自然的に可能ではない。
だから、「意識は物理的なものに論理的には付随しないが、自然的に付随する」というのは、「物理的なものによって意識が決定されないような世界を想定することも可能だが、意識が物理的なものによって決定されるという自然法則が実情として有る」という意味である。つまり、「物理的なものが同一でも意識があったりなかったりするという想定が可能であって、ゾンビの存在も論理的に想定することができるのだけれども、実際の世界には物理的な構造が適切であれば意識が生まれるという精神的自然法則が存在するのだ」と言う主張である。

 

意識と気づきのコヒーレンスと構成不変の原理

この自然主義的二元論を提案した上で、チャーマーズは、物理法則以外に精神物理法則として2つの仮説を立てるべきだとする。①意識と気づきのコヒーレンス②構成不変の原理である。

まず、①意識と気づきのコヒーレンスの原則とは、意識のあるところには気づきがあり、気づきのあるところには意識があるという原則である。ここで、気づきとは、意図的に行動をコントロールしたり報告したりするために或る情報に直にアクセスしそれを手に入れられる状態で、その内容はそのときに同時的に起こっている考えに限る。つまり、気づきは意識を自分で判断し行動につなげられるような意識の側面であるので、機能的意識の一部である。だから、この原則は、自然法則として現象的意識と機能的意識の両者が同時に起こるとするものである。因みにコヒーレンスとは可干渉とも言われる。波の干渉しやすさのこと。ここでは意識と気づきの関連しやすさのことを指していると思われる。
次に、②構成不変の原理とは、意識体験を生じる物理的システムはどれにもそのシステムによって具現される或る機能的構成Fがあって、Fを具現しているシステムも同様の意識体験をするのが、自然的に必然であるとする原理である。つまり、或る適切な機能構成が具現されれば、自然法則として特定の種類の意識体験が伴うと言うのである。
だから、その脳組織がシリコンでできていたとしてもそこに適切な機能構成があれば、機能的意識が生じて同時に現象的意識が生じるとするのである。
これが、チャーマーズの考えた意識の原理である。物理的世界とは別に現象的意識という心の側面があり、しかし、これは物質と別のものが実在として在るのではなく、性質として有るのだ。だから、性質二元論として分類されることもある。
Chalmers

 

自然主義的二元論は有効な理論か

「意識の理論には途方もない問題が立ちはだかっている。すなわちデータが無いということである。」(同p269)

しかし、この自然主義的二元論は意識の原理としてまだまだ根本理論と呼べるものにはなっていないとチャーマーズは言う。根本原理と呼べるほどには単純にはなっていないと言うのだ。そして、意識の原理には途方もない問題が立ちはだかると言う。人は人の心を覗き込むことができず、現象的意識はその非機能性ゆえに何ら有効なデータをわれわれにもたらさないからだ。それゆえ、唯我論から汎心論まで様々な理論がデータと両立可能になってしまい、排除することができない。でも、自然主義的二元論は他の原理に比べてもっともらしさがあると言う。そして、もっともらしく、単純で、美しいことが、その原理を基本原理だとするための条件だとする。この自然主義的二元論は根本原理とまではいかないけれども、もっともらしくあり、機能的意識と現象的意識に関するデータをうまく関係づけているので、有効な原理だと言えるとするのだ。

 

随伴現象説

どうだろう、このチャーマーズの自然主義的二元論の原理は説得力があるだろうか。この原理、他の哲学者の間からはあまり評判は良くない。その一つの理由は、これが随伴現象説ではないかと疑われていることである。
随伴現象説(エピフェノメナリズム)とは「意識は物質の物理的状態に付随しているだけの存在で、物質に対して何の因果的機能的作用ももたらさない」という考えである。物質に対して意識は何の影響も及ぼさないので、物理的な世界は意識とは無関係に勝手に存在し運動する、そして意識は、その勝手に存在する物理世界の影響を一方的に受けて影のようなものとして存在するだけだ、とする。
この考え方では、意識は物質世界に影響を及ぼすことができないので、意識は行動を生み出すことができない。そして、物質世界に提灯のようにぶら下がっているだけだという意味で「法則提灯」と揶揄されることもある。
チャーマーズは自然主義二元論が随伴現象説だとは積極的には認めていない。しかし、そうかもしれないと考えているようだ。そして、随伴現象説だったとしても別に困らないと考えている。僕も、この自然主義的二元論が随伴現象説であっても別に困難の理由にはならないと、そしてこの自然主義的二元論が随伴現象説だと考えている。
随伴現象説を批判する人が、意識が行動を生み出せないなら自由を持てないことになると考えてしまうのは、自由を選択可能性として捉え、行為者性自由として捉えていないための勘違いであるというのが僕の主張であった。
このことは、「運命からの自由を問うてはダメなわけ」のページで考えたので、そちらも参照してもらいたい。
だから、それが随伴現象説だということを理由に自然主義的二元論がダメだということにはならない。

 

サーモスタットの意識

評判の良くないもう一つの理由は、「適切な機能構成があれば意識が生じる」としたことの延長線上で、「サーモスタットにも意識がある」とすることだ。

「確かに、サーモスタットになるというのはあまり面白いことではないだろう。情報処置は単純だから現象的状態も同じくらい単純だと予想すべきところである。冷却・加熱・停止の三つの根本的に異なる現象的状況があってそれ以上何の構造もない。サーモスタットには経験があると言っても、それはサーモスタットの心的生活に多くのものがあると言っているのではない。サーモスタットに自意識はないだろうし、知的ではないだろう。サーモスタットが考えることができると主張するつもりもない。われわれはただ、何の概念も何の考えも持たずいかなる複雑な処理プロセスも持たないような、口に出し得ない経験の<閃き>のような何かを想像すれば、それで足りるのである。」(同p360)

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サーモスタットにも<閃き>があると言うのだ。僕はこのアイデアをすごく面白いと思うし、自然主義的二元論が正しいのであれば、サーモスタットが意識を持つとするのは当然であるように思う。サーモスタットでさえ微弱な閃きのようなものを持つチャンスを持っているとすべきだとし、あらゆる物理的存在が意識をもつチャンスを持っているとするからこそ、脳のような高等な処理プロセスをもつ構成があった時にそこに意識が生まれると言うことが自然な帰結にすることができるのだ。この点に関して、非常にもっともで順当な理論のように僕には思える。だから、サーモスタットに意識があるとしていることが自然主義的二元論がダメだという理由にはならないと思えるのだ。

しかし、僕は、自然主義的二元論が意識の原理として間違っていると考えている。もっともらしくないからという理由ではなく、もっと根本的な理由のためである。次節で、チャーマーズに反論したい。

つづく

<心は実在するか>

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