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2013年10月16日 (水)

クオリアとゾンビと現象判断のパラドクスがダメなわけ<心は実在するか13>

チャーマーズの唯物論批判を考える

チャーマーズの唯物論批判を考える。彼の唯物論批判は次の手順で導かれる。
①実世界には現象的意識がある。
②物理的に同一でありながら現象的意識のない世界が存在することも、論理的に可能である。
③したがって、現象的意識は物理的事実ではない。
④ゆえに、世界のすべての事実が物理的事実に内含されているわけではない。

このようにして、唯物論を否定し、物理法則以外に精神物理法則が必要だと考えていくわけである。結論から言うと僕は彼が間違っていると考えている。僕は彼のこのアイデアがかなり興味深く説得力さえ持っていると評価している。しかし、一方で全部ダメだと思っている。なぜなら、この思考の最初の一歩「世界には現象的意識がある」という発言の用法が混乱しているからであり、使えない語だからである。つまり、僕のチャーマーズ批判の第1は「現象的意識」という語の用法の混乱についてであり、第2は「現象的意識」という概念そのものがナンセンスだということである。

 

現象的意識という語を整理しよう

順に考えていこう。
まず、第一のチェックポイントは「現象的意識」という語の意味が混乱してしまっている点である。一般的に「現象的意識」という語は2つの意味で使われることが多い。1つは「質感がいきいきと立ち上がっているような意識」という意味であり、もう1つは「非因果的で非機能的な意識」という意味である。この2つの意味を取っ散らかしたままにしているため、「質感が有りながら機能的でないような意識が在る」として2つの意味をない交ぜにした用法が許されているような勘違いを生んでしまったのだ。チャーマーズも「意識する心」でこの2つの違いを混同しないようにかなり慎重に論を運ぼうとはしている。しかし、ゾンビ説において必ずチャーマーズは、ゾンビが「質感的な意識」を有しないことを考え、ゾンビが「物理的にわれわれと同一な存在」であると考えるため、ゾンビの有しないというその意識が「質感的、かつ、物理的に非機能的な意識」であると結論付けることになり、結局、2つの意味を混乱させてしまっているのだ。
本来なら、現象的意識(質感のある意識)と機能的意識とは図1のようにはっきりと区別されるべきもののはずであるが、実際には図2のように、現象的意識と機能的意識に重なり合う部分ができてしまう。だから、そのギャップを埋めるために、物理的法則以外の理論が必要だと、チャーマーズは説くわけだが、それに対して、それが単なる用語法の混乱だとするのが僕の批判である。
図1
1

図2
2
そこで、用語を整理して「現象的意識」の意味をはっきりさせるようにしたい。
図3
3
ここに「反省的意識」という語を取り入れる。内観において質感を持つような意識で、かつ、機能的な働きのある意識を「反省的意識」と呼ぶことにしたい。自分で自分の内観を振り返って確かめたり言語化したりして反省し得る意識のことで、確かめたり言語化したりしたときに機能が働くので機能的意識の一部に分類できる。また、チャーマーズが「内観において質感を持つような意識」という意味で「現象的意識」と呼んでいたものは、「質感の有るいわゆる現象的意識」と呼び、その中で、機能のまったく働かない意識を「非機能的な現象的意識」と呼んで分類分けすることにする。図に示したように「反省的意識」と「非機能的な現象的意識」を合わせると「質感の有るいわゆる現象的意識」になる。ゾンビ説について言うと、想定からゾンビはもともと我々と物理的に同一であるのだから、機能的には完全に同一だと言える。それゆえ、ここで我々に有ってゾンビに無いとしている本来の「現象的意識」は「非機能的な現象的意識」だということになる。

 

新しい用語でチャーマーズの唯物論批判を言い換えると

さて、これらの用語を用いて、チャーマーズの唯物論批判を考えるとどうなるか。
批判の①で「実世界には現象的意識がある」と言うときの「意識」は、自らの質感を有するいわゆる現象的意識を自ら捉え言語化して反省的に考えているのだから「反省的意識」に当たるだろう。つまり、①は「実世界には反省的意識がある」というものになる。
次に、②の「物理的に同一でありながら現象的意識の無い世界が存在することも、論理的に可能である」と言うときの「意識」は「非機能的な現象的意識」でなければならない。なぜなら、その無くなった意識が某かの機能を持つのであれば、その機能ゆえに物理的に同一ではなくなってしまうからである。だから、つまり②は「物理的に同一でありながら非機能的な現象的意識の無い世界が存在することも、論理的に可能である」と言っていることになる。
③はどうか。「したがって、現象的意識は物理的事実ではない」の「意識」は、文脈から考えて、②と同じ「意識」すなわち「非機能的な現象的意識」を差している。
したがって、この①~③をまとめると、
<①より、実世界には「反省的意識」がある。一方、②③より、物理的に同一でありながら「非機能的な現象的意識」の無い世界が存在することも、論理的に可能であるのだから、「非機能的な現象的意識」は物理的事実ではない。>
となる。この論の展開からは④の「ゆえに、世界のすべてが物理的事実に内含されているわけではない」は導出されない。物理的事実に内含されない「非機能的な現象的意識」は世界に存在するかどうかは言及されず、それとは別の「反省的意識」があると言われているだけだからだ。
そのため、チャーマーズの論は唯物論の否定には成功していなかったことになる。語の意味をぼやかすというトリックを使って、唯物論が否定されるかのように見せかけていただけで、勘違いでしかなかったのだ。

 

非機能的な現象的意識がダメなわけ

しかし、それでも、「非機能的な現象的意識」という「意識」の概念が考えられるのなら、その「非機能的な現象的意識」の無いゾンビを考えることは、チャーマーズの言うとおり、論理的に可能であるはずなのではないか。そして、もしゾンビが可能なのであれば、やはり唯物論は否定されるべきなのではないか、という疑問が残る。
でも、これに対しても僕はチャーマーズを否定したいと思う。これが僕のチャーマーズ批判の2つめのチェックポイント、「非機能的な現象的意識」という概念そのものがナンセンスだとする論である。批判の理屈はこうである。
(あ)前提:非機能的な現象的意識は因果的にも機能的にも物理世界と関与しあわない。
(い)それならば、個々の非機能的な現象的意識の同一性は担保され得ず、言語ゲームの駒にはなり得ない。
(う)したがって、非機能的な現象的意識はナンセンスであり、クオリアもゾンビもナンセンスである。
(え)だから、チャーマーズの唯物論批判は間違いである

たとえば、いま僕の手の中にあるボールペンのいきいきとした触感について考えてみよう。「手の中で感じる軽くてやや硬く少し冷たい、この触感」と表現してみる。この触感にはそうやって説明することができる言語的に表現可能な側面がある。この言語化可能な側面は自らの内面を反省して捉えているのだから反省的意識である。反省的意識はゾンビにも同様に有る。ゾンビも、私と同じ物理的構造を持っているのだからボールペンの手触りを感じて「手の中で感じる軽くてやや硬く少し冷たい、この触感がある」と表現することができるはずだ。それなら、チャーマーズが私に有ってゾンビに無いとした意識、物理的構造によって説明され得ない本来の現象的意識は、自らの意識全体から反省的意識を取り除いた後に残るのだろうか。いま感じている触感から、反省的意識の側面を剥ぎ取ってみよう。手の中にあるボールペンの触感から「手の中にあるボールペンとしての軽くやや硬く少し冷たい、このいきいきとした触感の感じ」というものを取り除き、そのボールペンについての言語化可能なあらゆる「感じ」を取り除いてしまう。そして、そのあとに残る「これ」としか言いようのない感覚(いや、厳密に言えば「これ」とさえ言えないような感覚、いやいや最早「感覚」とさえ言えないような「何か」)が、「非機能的な現象的意識」なのだ。その、もはや「これ」とも「感覚」とも言えないような何か、言語化されることを拒否する何かがあって、これを失うとゾンビになってしまうのである。この「非機能的な現象的意識」についてチャーマーズは、言語化されなくても明らかに存在すると言う。自分が世界の中心に現に居ることによって、明らかにされていると言うのだ
確かに、言葉にはできない奇跡としてこの「これ」が在るのは明らかなことだと、僕も言いたくなる。しかし、それは本当だろうか。ゾンビだって「自分が世界の中心に居る」と言うのではないだろうか。それなら、ゾンビがその「非機能的な現象的意識」を持っていなくて実際には本当の体験をしていなくて、僕がその「非機能的な現象的意識」を持ち実際に本当に体験をしていることが、なぜ分かるのだろうか。それが無ければ世界が開闢しないようなものすごい何かが、事実こうして在るのだから、それが存在するとすべきなのは明白だと言われるかもしれない。しかし、「非機能的な現象的意識が在る」なんてことが言えてしまえば、その「非機能的な現象的意識」だったはずのものはそれが言えたことによって、「反省的意識」に成り下がってしまうのだから、「非機能的な現象的意識」などという代物は掴まえることが原理的に不可能なナンセンスな対象なのではないだろうか。それでも、言語化できなくてもそれが無いというのなら、世界はもともと開闢しないじゃないかと言われるかもしれない。ああ、でもしかし、それでも、その「世界が開闢している」という発言さえゾンビでも言えるのである。「非機能的な現象的意識」は言語ゲームのフィールドを持ち得ず、ゲームの駒にはなり得ないのだから、原理的に語れないナンセンスでしかないなのだ。僕は「非機能的な現象的意識」が無いとは言わない。在るとも無いとも言えない言語の外側の対象なのだ。(いや正しくは、某かの対象でさえ無いのだ。)

自分で何を言おうとしているのか、僕は知っていると言いたい。しかし、それさえできないのだ。自分でさえそれが何か分かっていないのだ。言語ゲームに乗らないというのはそういうことなのだ。
「一つの世界が今ここに本当に開いている」という、他者に伝えることが不可能でありながら、絶対的に真であるような一つの記述があるように思える。この世界のこの開かれ方は伝達不可能でありながら、確かにはっきりと私の目の前にある。確かに、「ここに、本当に、世界が、一つ、ありありと、開いているのだ」と思える。しかし、やはり、ゾンビも「一つの世界が今ここに本当に開いている」と言い得るのだ。もしその発言の内容を自分で理解しているとすれば、理解しているその意識の内容とは自分なりに分析できているということなのだから言語化可能な「反省的意識」であって、そこに「本当に」問いたいと思っている問題は、分析できないまま、自分でも何を考えているのか分かっていないのだ。そこに本当に問いたい「非機能的な現象的意識」はやはり、ナンセンスでしかないのだ。(ただそれでも、この意味を持ち得ないナンセンスな「非機能的な現象的意識」のことを僕は秘かに「世界開闢の奇跡」と呼んでいる。「一つの世界がここに本当に開闢している奇跡」は、そう言語化し得たとたんに「反省的意識」でしかなくなってしまうため、僕が本当に掴みたいと思っているそれは、無限遠の一点に消失してしまう。原理的に語り得ず、自分でも何を言っているのかわからないような夢なのだ。それでも「開闢の奇跡」言いたくなってしまうというのは、もうどうしようもない勘違いなのであるが。)

クオリアがダメなわけ

だから、クオリアもナンセンスだ。クオリアとは一般に「内観によって体験する現象的意識の質」のこととされるが、このクオリアの意味を指定している「現象的意識」の意味が上に示したように曖昧なのだから、当然クオリアの意味も曖昧になっている。
脳科学者の茂木健一郎はクオリアの研究をしているが、彼が「ニューロン発火パターンに対応してクオリアが生起する」と言うときの「クオリア」は明らかに言語化可能で分析可能で機能を持っている。だから、彼の言うクオリアは言わば「反省的意識の質」という意味でのクオリアである。一方、哲学で使われるクオリアという語は物理作用に関与しない、いわゆる「非機能的な現象的意識の質」という意味だとされる。しかし、哲学の場においても「反省的意識の質」と「反省的意識の質」が混同してしまって混乱している場面が多いと僕は思っている。本ブログでは「反省的意識の質」という意味でのクオリアを「反省的クオリア」と呼び、「非機能的な現象的意識の質」という意味でのクオリアを「非機能的クオリア」と呼ぶことにしたい。
りんごの赤のいきいきとした赤の感じについて、その非機能的クオリアを考えよう。しかし、「りんごの赤のいきいきとした赤の感じ」と表現し理解できているということは、それがすでに「反省的クオリア」だとして理解してしまっている。だから、その反省的クオリアの部分を無理やり引き剥いで、そこに残る「非機能的クオリア」を掴まえれば良い。ところが、言語化可能な部分を限界まで引き剥いでいけば、残るものは言語化不可能なものでしかなくなってしまう。だから、「非機能的クオリア」は有るとも無いとも言うことのできない、ナンセンスでしかなくなってしまう。自分自身でさえその意味は掴み得ないような勘違いなのである。
足の傷のズキズキした痛みの感じについて、その非機能的クオリアを考えよう。しかし、「足の傷のズキズキした痛みの感じ」と表現し理解できているということは、それがすでに「反省的クオリア」だとして理解してしまっている。そこで、その反省的クオリアの部分を無理やり引き剥いでいくと、そこに残るものは言語化不可能なものでしかなくなってしまう。だから、「非機能的クオリア」はナンセンスなのである。

 

逆転スペクトル説がダメなわけ

たとえば、逆転スペクトルが論理的に想定可能だと反論されるかも知れない。僕の見ている赤色の「非機能的クオリア」と君の見ている赤色の「非機能的クオリア」が逆転している状況が起こり得る状況として想定できるのだから、「非機能的クオリア」は少なくとも無意味ではない、という反論である。これも勘違いである。起こり得る状況として想定できるのだったら、それは所詮「反省的クオリア」なのだ。確かに、二人の見ている赤色の「反省的クオリア」が逆転している状況というのは実際にあり得る。赤いリンゴを見ている二人の脳内反応が詳細に調べられたとして、その脳内反応の違いによって、僕には赤い心的イメージが浮かんでいて、君には緑の心的イメージが浮かんでいると判断するのなら、これは有意味な判断である。そしてこれは機能によって判断しているのだから「反省的クオリア」である。ところが、赤いリンゴを見ている二人の脳内反応が物理的に完全に同一でありながら、僕の心には赤いイメージが浮かんでいて、君には緑のイメージが浮かんでいるというのはどうだろう。何一つ根拠がなくても僕の心的イメージと君のとは本当は違っているかもしれない、という言い方をすることに何らかの意味がありそうに思える。しかし、それは変だろう。そこに何の根拠もないのであれは、「本当は」の意味が言語ゲームから外れてしまって、何を言っているのかわからなくなってしまうからだ。だから、「逆転スペクトルがある」という発言が有意味なのであれば、そこで問われているクオリアは「反省的クオリア」でしかないのだ。「非機能的クオリア」について言うなら、逆転スペクトルはナンセンスでしかないのだ。

 

「現象判断のパラドクス」をほどく。

さて、ついでに、もう一つ考察を付け加える。上のように意識の用語を整理すると、チャーマーズの現象判断のパラドクスの縺れはほどける。チャーマーズのパラドクスは以下のものであった。

(1)物理領域は因果関係に関して閉じている。
(2)意識に関する判断は物理的なものに論理的に付随している。
(3)意識は物理的なものに論理的に付随していない。
(4)われわれはわれわれに意識があることを知っている。」(「意識する心」p.233)

(2)の「意識」は判断可能なのだから「反省的意識」である。(3)の「意識」は物理的なものに付随しないのだから、物理的機能を持たない「非機能的な現象的意識」だ。そして(4)の「意識」はわれわれがあることを知っているのだから「反省的意識」でしかない。そう分類すると、どうだろう。
(1)物理領域は因果的に閉じている。
(2)反省的意識に関する判断は物理的なものに論理的に付随している。
(3)非機能的な現象的意識なものに論理的に付随していない。
(4)われわれはわれわれに反省的意識があることを知っている。
つまり、「自分で反省できる反省的意識は物理的なものに完全に付随していて、それがわれわれに有る。一方、物理的に還元できない現象的意識なんていうものが有るかどうかは知らないが、それがあるとすればそれは物理的なのものに付随していない」ということだ。どこにも、矛盾もパラドクスもない。
チャーマーズのパラドクスはこの分類分けをしているつもりで、全然できていなかったことによる混乱でしかなかったのだ。

つづく

<心は実在するか>

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コメント

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


>脳科学者の茂木健一郎はクオリアの研究をしているが、彼が「ニューロン発火パターンに対応してクオリアが生起する」と言うときの「クオリア」は明らかに言語化可能で分析可能で機能を持っている。だから、彼の言うクオリアは言わば「反省的意識の質」という意味でのクオリアである。一方、哲学で使われるクオリアという語は物理作用に関与しない、いわゆる「非機能的な現象的意識の質」という意味だとされる。しかし、哲学の場においても「反省的意識の質」と「反省的意識の質」が混同してしまって混乱している場面が多いと僕は思っている。本ブログでは「反省的意識の質」という意味でのクオリアを「反省的クオリア」と呼び、「非機能的な現象的意識の質」という意味でのクオリアを「非機能的クオリア」と呼ぶことにしたい。


過去の投稿で示唆しておいた論点
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/11-8d5c.html#comment-81902422
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79813863
を咀嚼して頂けたようで嬉しく思います。

"あなた"=[横山信幸なる身体から開けた生]は今現に[痛み]を感じていなくても①「私は痛みを感じている」という文と②その文を真にする[横山信幸なる身体において生起する痛み]の差異を【理解している】のではないか?
ここで思いっきり力を込めて頬っぺたを抓ってみてください。
"あなた"=[横山信幸なる身体から開けた生]は①と②の差異を理解していることと今現に[横山信幸なる身体において生起している痛み]との差異を【体感している】のではないか?

話を戻しますと、ポイントは「世界」という語の多義性―精確には【誤用】―だと思います。私見では、「私」とは【もともと】[事物世界]の内部に存在する有機体(人間)が自らを「世界内の一主体」として把握する―付言しますと、再帰的な自己了解と主体概念の成立は不可分かつ同時的だと思われます―ことによって【はじめて】成立した「言葉(概念)」です。従って、「私」という語が[事物世界]に内属する存在者―工藤庄平や横山信幸や菅直人etc―を【指す】のは(永井氏等の言説に誑かされていない限り)当然ですし、「私」の主体(一人称的)用法にしても、それが有意味たり得るのは【我々の言語ゲームに位置付けられる限りにおいて】なのですから(cf. 相互的な私秘性)。

言うまでもなく?①「私は痛みを感じている」という文と②その文を真にする[固有名を与えられた身体において生起する痛み]の差異を【理解し得る】 のは、再帰的な自己了解を為し得る主体―即ち反省的(自己)意識を持つ人格―のみでしょう。
(*この文を読む人が自得する他ありません)
従って、


>足の傷のズキズキした痛みの感じについて、その非機能的クオリアを考えよう。しかし、「足の傷のズキズキした痛みの感じ」と表現し理解できているということは、それがすでに「反省的クオリア」だとして理解してしまっている。そこで、その反省的クオリアの部分を無理やり引き剥いでいくと、そこに残るものは言語化不可能なものでしかなくなってしまう。だから、「非機能的クオリア」はナンセンスなのである。


何らかの要因―記憶喪失、発狂etc―によって我々が【言語習得以前の赤ん坊の如き状態】にならない限り、横山さんの仰る「非機能的な現象的意識」[である]ことは出来ないように思われます。
とはいえ、[固有名を与えられた身体から開けた生]は[現実=事物世界]ではありません。老婆心ながら、以下の如き【表現】


>「一つの世界が今ここに本当に開いている」という、他者に伝えることが不可能でありながら、絶対的に真であるような一つの記述があるように思える。この世界のこの開かれ方は伝達不可能でありながら、確かにはっきりと私の目の前にある。確かに、「ここに、本当に、世界が、一つ、ありありと、開いているのだ」と思える。しかし、やはり、ゾンビも「一つの世界が今ここに本当に開いている」と言い得るのだ。
>ただそれでも、この意味を持ち得ないナンセンスな「非機能的な現象的意識」のことを僕は秘かに「世界開闢の奇跡」と呼んでいる。「一つの世界がここに本当に開闢している奇跡」は、そう言語化し得たとたんに「反省的意識」でしかなくなってしまうため、僕が本当に掴みたいと思っているそれは、無限遠の一点に消失してしまう。原理的に語り得ず、自分でも何を言っているのかわからないような夢なのだ。それでも「開闢の奇跡」言いたくなってしまうというのは、もうどうしようもない勘違いなのであるが。


では[固有名を与えられた身体から開けた生]とそれを含み込んで在る[現実=事物世界]の差異が忘失されてしまうのではないか、と。

>赤いリンゴを見ている二人の脳内反応が物理的に完全に同一でありながら、僕の心には赤いイメージが浮かんでいて、君には緑のイメージが浮かんでいるというのはどうだろう。何一つ根拠がなくても僕の心的イメージと君のとは本当は違っているかもしれない、という言い方をすることに何らかの意味がありそうに思える。しかし、それは変だろう。そこに何の根拠もないのであれは、「本当は」の意味が言語ゲームから外れてしまって、何を言っているのかわからなくなってしまうからだ。だから、「逆転スペクトルがある」という発言が有意味なのであれば、そこで問われているクオリアは「反省的クオリア」でしかないのだ。「非機能的クオリア」について言うなら、逆転スペクトルはナンセンスでしかないのだ。


既に示唆した通り、逆転スペクトルと哲学的ゾンビ
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-81879454
は同根―他者概念における不可分で相補的な二つの内容的規定
①指示・伝達・並列不可能な一人称的視点を生きる主体としての他者
②認知可能なデータを提供する客体としての他者
と形而上学的様相の自立性が結び付くことによって生じた哲学的似非問題です。
例えば、「識別不可能とはいえ、僕の心的イメージと①君のそれが【本当は違うこともあり得る】!」とか「識別不可能とはいえ、他人は①指示・伝達・並列不可能な一人称的生を欠いた ②認知可能なデータを提供するだけの【ゾンビであり得る】!」といった想像的思考について考えてみてください(cf. 識別不可能→認識論的様相/本当は違うこともあり得る・ゾンビであり得る→形而上学的様相)。
畢竟、我々が存在論的に断絶している(詳細はhttp://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/22k721-7eae.htmlのコメント欄をご参照ください)という前言語的な[事実]が逆転スペクトルや哲学的ゾンビなる想定に或る種のもっともらしさ(の見かけ)を与えているのでしょうが。


>そこに何の根拠もないのであれは、「本当は」の意味が言語ゲームから外れてしまって、何を言っているのかわからなくなってしまうからだ。


https://twitter.com/nineteen_jacob/status/339908990764990464
形而上学的様相「あり得る」と述定「である」の文法的差異
及び
言明可能性を担保する論理的根拠(ex. 無矛盾性)と認識論的根拠(ex. 神経科学的なデータ)の差異
に注意してください。

>「非機能的な現象的意識」は言語ゲームのフィールドを持ち得ず、ゲームの駒にはなり得ないのだから、原理的に語れないナンセンスでしかないなのだ。僕は「非機能的な現象的意識」が無いとは言わない。在るとも無いとも言えない言語の外側の対象なのだ。(いや正しくは、某かの対象でさえ無いのだ。)
>自分で何を言おうとしているのか、僕は知っていると言いたい。しかし、それさえできないのだ。自分でさえそれが何か分かっていないのだ。言語ゲームに乗らないというのはそういうことなのだ。


過去の投稿で示唆しておいた論点
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/11-8d5c.html#comment-81902422
を咀嚼して頂けたようで嬉しく思います。

既に縷言したと思いますが・・・指示・伝達・並列不可能な[工藤庄平なる身体から開けた生]という【文字や発語】は伝達可能です。
翻って、"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]においては①[工藤庄平なる身体から開けた生]と②[工藤庄平なる身体から開けた生]の並列不可能性を【自得する=再帰的に(de se)把握する】ことはイコールではありません(②は①に含まれています)。
"あなた"=[横山信幸なる身体から開けた生]においては③[横山信幸なる身体から開けた生]と④[横山信幸なる身体から開けた生]の並列不可能性を【自得する=再帰的に(de se)把握する】ことはイコールではない(④は③に含まれている)のでは?―という【文字や発語】は問題なく伝達可能ですね。そして、この文章を読んだ横山さんが或る端的な事実を【再帰的に(de se)把握し得た】とするならば、(それについて)この一連の言語的交流を通して「何事か」が伝達され・理解されたのだと言うことも出来るでしょうし、僕が【その意味での】伝達可能性・理解可能性を否定したことは一度もありません。僕は「自得へ導く為の方便(の一つ)」と繰り返し言い続けてきたつもりです。


>もしその発言の内容を自分で理解しているとすれば、理解しているその意識の内容とは自分なりに分析できているということなのだから言語化可能な「反省的意識」であって、そこに「本当に」問いたいと思っている問題は、分析できないまま、自分でも何を考えているのか分かっていないのだ。そこに本当に問いたい「非機能的な現象的意識」はやはり、ナンセンスでしかないのだ。


既述の通り、ここで重要なのは、"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]においては①[工藤庄平なる身体から開けた生]と②[工藤庄平なる身体から開けた生]の並列不可能性を【自得する=再帰的に(de se)把握する】ことはイコールではない―②は①に含まれている―ということでしょう。
ところで、"あなた"=[横山信幸なる身体から開けた生]においても③[横山信幸なる身体から開けた生]と④[横山信幸なる身体から開けた生]の並列不可能性を【自得する=再帰的に(de se)把握する】ことは同一視出来ない―④は③に含まれている―のではないでしょうか?

工藤さん、ていねいなコメントありがとうございます
工藤さんの発言をどう咀嚼すれば僕の昨日のレポートに繋がるのか、よく理解できてないのですが、でも嬉しく思っていただいて僕も嬉しいです。

「「開闢の奇跡」と言いたくなってしまう」という僕の発言が、主体の[生]と現実の差を亡失しているというご指摘は、確かにその通りかもしれません。言語ゲームから外れた所で主客が同時に立ち上がってくるイメージですが、その正当性や真偽の考えられない事柄を承知しながら、無理を書いてしまいました。

横山さん


>工藤さんの発言をどう咀嚼すれば僕の昨日のレポートに繋がるのか、よく理解できてないのですが、でも嬉しく思っていただいて僕も嬉しいです。
>僕のチャーマーズ批判の第1は「現象的意識」という語の用法の混乱についてであり、第2は「現象的意識」という概念そのものがナンセンスだということである。


あれれ、オカシイですね。横山さんの第1の批判は(サールの表現を借りて言えば)一人称の存在論と三人称の存在論の文法的関係に対する誤った定式化へ向けられています。そして、チャーマーズは一人称の存在論と三人称の存在論の文法的差異を論拠にして(物理的なものに付随しない・非機能的な)現象的意識なる代物の実在性を主張するわけですが、実際に彼がしていることは予め規定しておいたトートロジーの確認作業―もし物理的なものに付随しない・非機能的な現象的意識が存在するならば、それは物理的なものに付随していない!―に過ぎない。これが第2の批判ですね。
忌憚なく言わせて頂ければ、件の論点は全て↓僕のデカルト批判
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-7a16.html#comment-81897816
に含まれていると思いますが。


>「開闢の奇跡」と言いたくなってしまう」という僕の発言が、主体の[生]と現実の差を亡失しているというご指摘は、確かにその通りかもしれません。言語ゲームから外れた所で主客が同時に立ち上がってくるイメージですが、その正当性や真偽の考えられない事柄を承知しながら、無理を書いてしまいました。


例えば、西田幾多郎や永井均氏、或る種の独我論者もしくは観念論者なんかもそうですね。既述の通り、何らかの要因―記憶喪失、発狂etc―によって【言語習得以前の赤ん坊の如き状態】にならない限り、我々が横山さんの仰る「非機能的な現象的意識」[である]ことは出来ないように思われます。

工藤さん
ありがとうございます。

デカルト批判と繋がるのですね。まだどう関連するのかよく分かりませんが、ゆっくり考えてみます。

いつもながら、もやもやしたものが、クリアになる感じが、凄いです。が、新たなもやもやがたちこめます。教えて下さ~い。

①公的言語ゲームに追い詰められた世界が、反転して公的言語ゲームそのものになるようなイメージはどうですか。「開闢」って、世界の一部であり、全てというような。

②横山さんの言う「言語ゲーム上の唯物論」の「物」は、図3の内と外の、どちらにあるのですか。

③意識やクオリアを公的言語で語れば語るほど、なじまなさが拡大するような気がするのです。公的意識とか、公的クオリアとか、言葉になってないような。でも、きっとOKなんですよね。

④「言語ゲーム上の唯物論」と「唯物論上の言語ゲーム」って、違うんですか。違うのであれば、どうちがうんですか?

横山さん


僕からの提案ですが、一度ご自分で↓ご自身の最近の(真っ当な)ご主張・ご見解

http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-740c.html
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-567e.html
>ところが、赤いリンゴを見ている二人の脳内反応が物理的に完全に同一でありながら、僕の心には赤いイメージが浮かんでいて、君には緑のイメージが浮かんでいるというのはどうだろう。何一つ根拠がなくても僕の心的イメージと君のとは本当は違っているかもしれない、という言い方をすることに何らかの意味がありそうに思える。しかし、それは変だろう。そこに何の根拠もないのであれは、「本当は」の意味が言語ゲームから外れてしまって、何を言っているのかわからなくなってしまうからだ。だから、「逆転スペクトルがある」という発言が有意味なのであれば、そこで問われているクオリアは「反省的クオリア」でしかないのだ。「非機能的クオリア」について言うなら、逆転スペクトルはナンセンスでしかないのだ。

と↓過去におけるそれ

http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/22k721-7eae.html#comment-79453301
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/22k721-7eae.html#comment-79473649
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/22k721-7eae.html#comment-79480900
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79944379
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79976016
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-80057151
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-80085480
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-80086277
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-80376257

を読み比べてみては如何でしょう。

(最早お答え頂かなくても結構ですが・・・)

時空的連続体の一部分から開けている【のではない】視点或は視野のようなもの、とは何か?
そのような視点或は視野のようなものすら欠いた映像の如きもの、とは何か?

件の状況において、『"Y氏"からのテレパシーを【ホントに】受信していることを示すデータ』とは何か?

件の状況において、『Y氏が"フォン・ノイマンの霊"と【ホントに】交信していることを示す第三者が確証し得る根拠』とは何か?

抑も彼らは何故"それ"が【他ならぬ】"フォン・ノイマンの霊"からのテレパシー【である】ことを【知っている】のか?

何を根拠に【他ならぬ】"フォン・ノイマンの霊"からのテレパシー【である】と判断したのか?

何がそのことを【確証し得る】のか?

http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/22k721-7eae.html#comment-79379489
【もし彼が感覚言語一般を習得したと見做し得る諸規準をクリアするならば】、そのとき我々は「或る新しいタイプの感覚(ex. しくさ)を同定した」という彼の【主張】を―件の感覚に【我々が観察可能なものが全く付随していなくとも】―【尊重する】ということは、感覚に関する【言語ゲームの原初的部分】なのである。
―クリプキ『ウィトゲンシュタインと他人の心』

僕の言う「可能な私的言語」
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/22k721-7eae.html#comment-79353208
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/22k721-7eae.html#comment-79357205
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/22k721-7eae.html#comment-79364281
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/22k721-7eae.html#comment-79365161
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/22k721-7eae.html#comment-79376060
及び永井均氏の言う「人格的私秘性(元ネタは上記のクリプキ)」及び「反省的クオリア」は字面が違うだけで・・・畢竟、同じ洞察を語っているに過ぎない。

言語ゲームに登場する「語り得ぬもの」「クオリア」は【既に常に】公的なものである。

「我々の言語ゲームもまた、この私が今理解する唯一の言語の内部に位置付けられる他ない」という永井均氏の主張が誤りであることは【三角測量】を巡るデイヴィッドソンの議論によって剔抉されている、と思う。その内部に言語ゲームや[現実=事物世界]を回収することは出来ない。

taatooさん、コメントありがとうございます。
taatooさんのコメントはいつもうまいこと持ち上げて下さるので元気が出ます。有難いです。

質問にお答えします。
〉1.公的言語ゲームに追い詰められた世界が、反転して公的言語ゲームそのものになるようなイメージはどうですか。「開闢」って、世界の一部であり、全てというような。


これは、分かりません。残念ながらtaatooさんのイメージが掴めず何を問われているのか分からないからです。でも、凄く面白そうなひらめきに感じます。ご自身でもう少しイメージの整理に挑戦してみませんか。興味深い考察になると思います。もし何か新しい表現や展開を発見されたら逆に教えてほしいです。


>2.横山さんの言う「言語ゲーム上の唯物論」の「物」は、図3の内と外の、どちらにあるのですか。

言語ゲームは検証可能な事柄しかその対象にできないと、僕は考えていますので、図3では機能的意識がその対象になり得ます。


>3.意識やクオリアを公的言語で語れば語るほど、なじまなさが拡大するような気がするのです。公的意識とか、公的クオリアとか、言葉になってないような。でも、きっとOKなんですよね。


仰る通りです。意識やクオリアはもともと私的な感覚(非機能的な現象的意識)を名指そうとして用いられることが多いですが、でも私的感覚を名指すなんて不可能なことです。だから、検証可能な反省的意識を相手にしてお茶を濁すしかありません。でも、それじゃ元の疑問には答えられていないのでもやもやが残ってしまいます。まあ、答えの無い問いに答えられなかったというだけのことですから仕方ないですけどね。

> 4.「言語ゲーム上の唯物論」と「唯物論上の言語ゲーム」って、違うんですか。違うのであれば、どうちがうんですか?

全く違うものだと理解しています。「言語ゲーム上の唯物論」は、言語ゲームが認識論において絶対的な基盤ですから、まずモノが在るとか無いとかいう以前に言語ゲームがあることを前提にして考えます。
一方、「唯物論上の言語ゲーム」なら、言語ゲームが成立しているか否かが問われる以前に、モノが在ることか前提にされます。
世界の基盤をどこに置くかのちがいだと思います。

おはようございます、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


>仰る通りです。意識やクオリアはもともと私的な感覚(非機能的な現象的意識)を名指そうとして用いられることが多いですが、でも私的感覚を名指すなんて不可能なことです。


とはいえ、もし我々が観察可能なもの―例えば、【言語習得以前の赤ん坊や或る種の動物の振る舞い】等々―に対して我々が「心」を認め得る(cf. 魂に対する態度)ならば、そのとき我々は彼らの振る舞いを―彼らが感覚【言語】一般を習得したと見做し得る諸規準をクリアしていなくとも―【尊重する】ということは、【私的感覚一般】に関する【言語ゲームの原初的部分】なのである。

既述の通り、↓僕の言う「可能な私的言語」
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/22k721-7eae.html#comment-79353208
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/22k721-7eae.html#comment-79357205
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/22k721-7eae.html#comment-79364281
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/22k721-7eae.html#comment-79365161
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/22k721-7eae.html#comment-79376060
及び永井均氏の言う「人格的私秘性(元ネタは上記のクリプキ)」及び「反省的クオリア」は字面が違うだけなのですが。

言語ゲームに登場する「語り得ぬもの」「クオリア」は既に常に【公的な】ものでしかあり得ない。付言しますと、ここで言う【公的な】とは、例えば↓横山さんの論述

>「言語ゲーム上の唯物論」は、言語ゲームが認識論において絶対的な基盤ですから、まずモノが在るとか無いとかいう以前に言語ゲームがあることを前提にして考えます。

に示されているような「世界の見方」からの必然的帰結に他なりません。
さて、しかし、この伝で行けば、先の論述と対比された↓以下のご主張

>一方、「唯物論上の言語ゲーム」なら、言語ゲームが成立しているか否かが問われる以前に、モノが在ることか前提にされます。

は端的に倒錯していると言わざるを得ないように思われます。
つまり、「"我々の"世界=言語ゲームが全てであって、その外など存在しないのだ!」という思想的立場から見れば、唯物論が当に唯物『論』として【語られる】ものである限り、それも又言語ゲームにおいてのみ成立し得る事柄の一つに過ぎないことになるわけですから。つまり、グローバル~言語ゲームの世界におけるローカル~唯物論。
まあ、件の思想的立場にコミットするかどうかは別にしても、『論』や『学知』の成立基盤が言語ゲームの側にあるというのは端的な事実だとは思いますが。


とはいえ、あなたがたは自分たちが言語ゲームの世界に回収不可能な[現実=諸事物のネットワークの総体]に開かれ・侵食され・含み込まれつつ在ることを【自得して】いるのではないか?
(*語り得ぬものについては【自得する】他ないのです・・・)

言語ゲームは[現実=諸事物のネットワークの総体]において生成する。

工藤さん、コメントありがとうございます。

コメント文に、以前の文のコピペをべた張りするのではなく、URLを載せてくださって、僕にもずいぶん読みやすいです。ご配慮ありがとうございます。

>ご自身の最近の(真っ当な)ご主張・ご見解

と、有難い評価を頂けてとてもうれしいです。
でも、たぶん、工藤さんに期待されている理解には至っていないと思います。なぜなら、僕の理解は7月の時点となんら変わらないからです。
今でも、7月と同様に、電信柱に痛みを感じるという言語ゲームも、僕と弟との視覚の赤緑が逆転しているという言語ゲームも可能だと思っています。言語ゲームに乗ることを前提にしているのですから、もちろんこれは語りえない内容について考えているのではなく、振り返って言語化することが可能な「反省的意識」のレベルの話を語っています。

語りえない言語化不可能なレベルの「非機能的な現象的意識」のレベルの話だとすると電信柱に痛みを感じるとか赤緑の色覚が逆転するなんてことは意味不明だと思います。

で、以前にうけた質問群への答えも考えたのですが、これも以前お答えした答えしか考えつきません。適当な状況が生まれることが想定できたとすれば、その言語ゲームは文法的にありえると、考えていますので、すでに、状況例を示したこと以上の答えはあまり考えられないと思っています。
何とか納得していただける答えがしたかったのですが、僕の今の理解では工藤さんの質問の真意が掴めませんので、これでご了解ください。

工藤さんの言葉づかいの中で様相論理についての言葉がよく分からなかった部分がありましたが、いくつかの本を読んで少し語彙が増えました。しかし、クリプキの「固定指示子」などには違和感を感じるところが多かったので、本ブログでも様相理論の功罪について考える機会を持ちたいと思っています。工藤さんとの7月頃の相互不理解についてもそこでまたコメントを頂ければ嬉しいと思っています。

横山さん


>でも、たぶん、工藤さんに期待されている理解には至っていないと思います。なぜなら、僕の理解は7月の時点となんら変わらないからです。


なんら変わらない?? ―オカシイですね。僕の記憶に間違いがなければ、7月の時点では「反省的意識」に類する論点は提出されていなかったと思いますが。
とはいえ、逆転スペクトルなる想定の何がナンセンスなのかを理解しているにも関わらず、↓以下の如き主張

>今でも、7月と同様に、電信柱に痛みを感じるという言語ゲームも、僕と弟との視覚の赤緑が逆転しているという言語ゲームも可能だと思っています。言語ゲームに乗ることを前提にしているのですから、もちろんこれは語りえない内容について考えているのではなく、振り返って言語化することが可能な「反省的意識」のレベルの話を語っています。語りえない言語化不可能なレベルの「非機能的な現象的意識」のレベルの話だとすると電信柱に痛みを感じるとか赤緑の色覚が逆転するなんてことは意味不明だと思います。
>以前にうけた質問群への答えも考えたのですが、これも以前お答えした答えしか考えつきません。適当な状況が生まれることが想定できたとすれば、その言語ゲームは文法的にありえると、考えていますので、すでに、状況例を示したこと以上の答えはあまり考えられないと思っています。

をされているというのは未だ「工藤さんに期待されている理解には至っていない」ことを示しているのかもしれませんね。何故ならば、先般の思考実験におけるポイントは「反省的意識」の有無だけではないからです。


>工藤さんとの7月頃の相互不理解についてもそこでまたコメントを頂ければ嬉しいと思っています。


【相互】不理解というのは事実誤認ではないか、と。↓以下の論述

>僕の今の理解では工藤さんの質問の真意が掴めません

が全てを物語っているのではないでしょうか。

横山さん


>言語ゲームに乗ることを前提にしているのですから、もちろんこれは語りえない内容について考えているのではなく、振り返って言語化することが可能な「反省的意識」のレベルの話を語っています。


「言語ゲームに乗ることを前提にしている」?? ―オカシイですね。部分的には理解可能だとしても全体としては意味不明(=理解不可能)な想像的思考の垂れ流しは、コウモリの鳴き声と同じです。当然ながら、コウモリの鳴き声は【我々の言語】ではありません。従って、そのような代物が「(我々の)言語ゲームに乗る」ことはあり得ないのです。


時空的連続体の一部分から開けている【のではない】視点或は視野のようなもの、とは何か?
そのような視点或は視野のようなものすら欠いた映像の如きもの、とは何か?

件の状況において、『"Y氏"からのテレパシーを【ホントに】受信していることを示すデータ』とは何か?

件の状況において、『Y氏が"フォン・ノイマンの霊"と【ホントに】交信していることを示す第三者が確証し得る根拠』とは何か?

抑も彼らは何故"それ"が【他ならぬ】"フォン・ノイマンの霊"からのテレパシー【である】ことを【知っている】のか?

何を根拠に【他ならぬ】"フォン・ノイマンの霊"からのテレパシー【である】と判断したのか?

何がそのことを【確証し得る】のか?

横山さん


>今でも、7月と同様に、電信柱に痛みを感じるという言語ゲームも、僕と弟との視覚の赤緑が逆転しているという言語ゲームも可能だと思っています。


既述の通り、先般の思考実験におけるポイントは「反省的意識」の有無だけではありません。過去の投稿で述べたことの繰り返しになりますが、

①「私は他人の痛みを感じることが出来ない」→「私」「痛みを感じる」「他人」という語の内容的規定に基づく文法的不可能性を示した文法的注釈。

②「今現に工藤庄平は電信柱や天竜川に痛みを感じない」→前言語的な[事実=事物の在り方]に基づく。


①と②を混同している人は(未だに)結構いますね。

工藤さん、

実際に相互不理解だと考えています。意見の相違を相手の不理解のせいだけにするのは、余り建設的でないと思うからだけでなく、僕と工藤さんの立脚点がはっきりと違うと思うからです。その辺りの話が「クリプキ」の功罪を考えるときにできたらいいなと、思っています。
取り敢えず、いまは次の「サール」についての文章を用意している最中ですから、しばらくお待ちください。

横山さん


>僕と工藤さんの立脚点がはっきりと違うと思うからです。


あれれ、オカシイですね。「立脚点が違うこと」は「相互不理解」を含意していないと思いますが。


>クリプキの「固定指示子」などには違和感を感じるところが多かったので、本ブログでも様相理論の功罪について考える機会を持ちたいと思っています。


https://twitter.com/nineteen_jacob
僕はもう何年も前から固定指示子と様相論理を巡るクリプキの議論を批判し続けてきたわけですが。

青山拓央氏(休火山)への誡言
http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120206/1328491168
僕はクリプキが<事物(言葉・概念)>と[事物(言葉・概念に回収不可能なもの)]を―おそらくは意図的に―混同したのだと考えています。
(* <事物(言葉・概念)>と[事物(言葉・概念に回収不可能なもの)]の差異について言えば・・・この文章を読む人が【自得する】しかありません)

工藤さん、

わかりました。工藤さんの思索を分析するのは、そんなに簡単なことじゃないと肝に銘じておきます。

毎度お世話になります。ご回答ありがとうございます。

前回の質問の①は、図3と次の箇所からの思い付きのイメージで、残念ながらそんなに深い話ではないように思うので恐縮です。

「ただそれでも、この意味を持ち得ないナンセンスな「非機能的な現象的意識」のことを僕は秘かに「世界開闢の奇跡」と呼んでいる。「一つの世界がここに本当に開闢している奇跡」は、そう言語化し得たとたんに「反省的意識」でしかなくなってしまうため、僕が本当に掴みたいと思っているそれは、無限遠の一点に消失してしまう。」

図3の左下の一番赤い部分の「世界開闢の奇跡」が消失した時、¬型の世界が起ち現れ、その「¬型の世界」や「¬型の世界の起ち現れ」を「世界開闢の奇跡」と呼べないか、あるいはそれを循環(反転)と捉えて、その循環(反転)自体を「世界開闢の奇跡」と呼べないかな、という単純なイメージです。横山さんがどこかで使われていた「カードの反転」という表現がここでも使えないかなと思ったのです。

「夢」を捕まえようとして、一瞬捕まえたと思ったら、手から滑り落ちるように、「現実」にひき戻される。が、また、「夢」を追いかけたくなる。「夢」と「現実」という表裏のカードがくるくる回転する。そんな循環(反転)自体が、「世界」であり、「開闢」であり、「奇跡」であるという妄想は、どうかなと思ったのです。

taatooさん、こんばんは。

「¬型の世界の起ち現れ」という発想はかなり面白いアイデアをイメージされているんだろうなという雰囲気は、ビンビン伝わってきます。でも、僕の図の解釈の仕方ではtaatooさんのアイデアを理解することはできませんでした。雰囲気だけ味わわせてもらいます。

[雨]は誰かの視野とか妄想の中に降るのではない。[雨]は[空]から降ってくる。
誰かが「雨が降っている」と発語しようが、「この世界では雨が降っている」と発語しようが、[現実=諸事物のネットワークの総体]には何の変化も生じない。
彼は発語した。ただそれだけのことだ。

永井均氏の言う 身体や自己意識との関係が偶然的な<私>~《私一般》なる概念的構成物と[固有名を与えられた身体から開けた生]を混同している人は少なくない。

[固有名を与えられた身体から開けた生]と[現実=事物世界]の差異を理解していない人もいる。

異邦人さん、

丁寧な回答ありがとうございます。

先程お話しした通り、僕は、あらゆる物理的存在が物理的存在であるということの意味はそれ自身以外の物理的事実との相互作用のなかでの関係性のみによって決まると、考えています。力学などの相互作用の関係性の中でどんな働きを持ち得るかということだけがその存在の内容になる。「色」だって「音声」だって、あらゆる「物理的事実」はけっきょく物理的事実の相互作用の関係性のなかでの働きに還元できますし、或る意味、相互作用のなかでの働きだけが物理的意味だと思います。だから、現象的意識が物理的状態だと言われるのであれば、そればどういう意味で「物理的」なのかを考えるためには、作用の働き方を見る以外にそれをはっきりさせる方法はないのではないかと考えます。

>現象的意識や機能的意識は心的現象の一部であり純粋な物理的現象です。現象的意識や機能的意識は物理的現象であるので、ある物理的現象の結果として生まれ、別のある物理的現象の原因となります。

ということですので、現象的意識は僕のイメージしていたものよりずっとはっきりとした物理的実体のようですね。

次の質問です。

1.上のことから、「現象的意識は原理的に物理的機能を持っている」ということは当然言えますよね。では、「現象的意識は現実的に物理的機能を持っている」と考えていいでしょうか。(ここで、機能を持っているというのは自身以外の事象に影響を及ぼし得るという意味です)

2.また、もし回答が、現実的には物理的機能を持っていないという場合、
「原理的にあるけど現実的にない」というときには一般的に2つの意味があると思います。
(1)沼に雷が落ちた拍子に化学反応が起きて偶然人間の身体が出来ることは確率的に有り得ないが、原理的には可能です。大量のサンプルがあればそうなる可能性がある。一つはこのパターンです。
(2)気体定数が別の数値だったという想定も原理的には可能だけれども、現実には違う数値である。大量のサンプルがあってもそうなる可能性はない。もう1つのパターンがこれです。
現象的意識の物理的機能が、原理的にあるけど現実的にないとされるのは、どちらの意味でしょうか。

今回は単純に物理的視点での相互作用に関する視点での質問ですから、「対象が複雑すぎて現在の人間技では解析や検証が不可能という意味です」ということは理由にはならないはずです。上のどちらかの意味になるのではないかと思います

異邦人さま


>あらゆる心的現象は全て純粋な物理的現象です。
現象的意識や機能的意識は心的現象の一部であり純粋な物理的現象です。
現象的意識や機能的意識は物理的現象であるので、ある物理的現象の結果として生まれ、別のある物理的現象の原因となります。


http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82366381
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82367449
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82376086

現象的意識や機能的意識は心的現象の一部であり?? ―あれれ、【心的現象の一部】ですか。ということは(異邦人さまの仰る)現象的意識や機能的意識なる代物以外の心的現象が存在するわけですね?
ところで、(異邦人さまの仰る)想起処理とかイメージ生成処理は純粋な物理的現象ですよね?

とりあえず、(異邦人さまの仰る)現象的意識や機能的意識なる代物以外の心的現象とは何かご説明して頂けますか。

異邦人さま


>その八名の方々は皆チャーマーズの現象的意識に関する議論をご存知の方々でしょうか?


四名は知っていますね。

ところで、↓まだお答えを頂いていませんが?
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82638265
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82639584
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82641535

何度でも繰り返しますが・・・論拠無き個人的信念・空想の並べ売りや自説の破綻を包み隠す為に黙りを続けるのは知的誠実に悖る行為と言わざるを得ません。

異邦人さま


>(客観的個物の場合)
実在のリンゴ>光>視覚>視覚データ>イメージ生成処理>現象のリンゴ
イメージ生成処理を対象として現象的意識が生じます。
(記憶内容が対象の場合)
記憶のリンゴ>想起処理>現象のリンゴ
想起処理を対象として現象的意識が生じます。
>現象的意識は(機能的意識も)認識結果であり原因ではありません。
>脳(心)の中では常時情報処理が行われています。
様々な工程を通して情報処理が行われています。
各工程では「入力-処理-出力」という形で処理が進行しています。
ここで「入力を処理している状態」を(入力を)「認識」していると表現しました。
>あらゆる心的現象は全て純粋な物理的現象です。
現象的意識や機能的意識は心的現象の一部であり純粋な物理的現象です。
現象的意識や機能的意識は物理的現象であるので、ある物理的現象の結果として生まれ、別のある物理的現象の原因となります。


もし異邦人さまの仰るイメージ生成処理・想起処理なる代物が脳内の(各々異なる)物理的プロセスを指しているのであれば、我々は何らかの手段・方法によってそれら=脳内の(各々異なる)物理的プロセスを「見る」「知覚する」ことが出来る筈です。
念の為に言っておきますと、①脳内の(各々異なる)物理的プロセスを「見る」「知覚する」ことは②脳内の(各々異なる)物理的プロセスのメカニズムを「知る」「解明する」ことを含意しておりません。当然ながら、①と②は別の事柄です。
もう一つ言っておきたいことがあります。例えば、僕(工藤)がリンゴを「見ている」「知覚している」とき、僕は【自分がリンゴを見ていることを見る】ことは出来ません(ナンセンス。痛覚や想起についても然り)。まあ、哲学に頭をやられていない人にとっては当然の話、というか、態々言表するまでもないことでしょうが。

さて、問題はここからです。
もし異邦人さまの仰るイメージ生成処理・想起処理なる代物が脳内の(各々異なる)物理的プロセスを指しているのであれば、それら=脳内の(各々異なる)物理的プロセスを【認識対象として】現象的意識なる代物が【生じる】というご主張は単なる事実誤認でしかありません。何故ならば、僕(工藤)が昨日の午前中に遭遇した出来事について思いを巡らせているとき、
a. [工藤庄平の脳内で生起している物理的プロセス]=工藤本人も第三者も「知覚する」ことが出来る事象

b. [工藤庄平の想起]=工藤庄平が直接「生きて」いる並列不可能な事象
の関係―認識論的には区別されるが、存在論的には一つの出来事である―は(異邦人さまの仰る)一方が他方を【認識対象として生じる】というものではないからです。
事柄に即して考える限り、異邦人さまのご主張はa. と b. の関係―認識論的な差異・区別―を「入力-処理-出力」なる工程―或る種の因果関係―と誤認した結果として生じた謬説と言わざるを得ないのです。

異邦人さま


>(客観的個物の場合)
実在のリンゴ>光>視覚>視覚データ>イメージ生成処理>現象のリンゴ
イメージ生成処理を対象として現象的意識が生じます。
(記憶内容が対象の場合)
記憶のリンゴ>想起処理>現象のリンゴ
想起処理を対象として現象的意識が生じます。


あれれ、オカシイですね。異邦人さまは①我々が事物を「知覚する」ケースと②我々が「思い出す」「想起する」ケースをパラレルに扱っておられるようですが、
①リンゴ(客観的個物)~リンゴの知覚印象(各自にとって私秘的なものだが、客観的個物と不可分な関係を有する)

②リンゴの記憶表象(各自にとって私秘的なもの)
を【対象】として扱うのは不適切だと思いませんか? リンゴ(客観的個物)が知覚の「対象」であると言うならともかく、リンゴの知覚印象とか記憶表象或は異邦人さまの仰るイメージ生成処理とか想起処理なる代物が「対象」であるというのは意味が解りません。


>(記憶内容が対象の場合)
記憶のリンゴ>想起処理>現象のリンゴ
想起処理を対象として現象的意識が生じます。


↑異邦人さまの表記法―記憶のリンゴ?から想起処理?そして現象のリンゴ(記憶表象のことでしょうか?)に至るプロセス―から判断する限り、先ず【記憶のリンゴなる対象?】が存在するわけですね?
では、お伺いしますが、抑も【記憶のリンゴ】とは何でしょうか? (想起処理?とは異なる)脳内の特定の神経パルスを指しているのでしょうか。それとも別の何かでしょうか。何れにせよ、これは哲学ではなく脳科学が判定を下すべき事柄だと思われます。
もう一つ、記憶のリンゴと現象のリンゴの違いを説明して頂けますか。

横山信幸さん。(>2013年10月25日 (金) 23時04分)

>ということですので、現象的意識は僕のイメージしていたものよりずっとはっきりとした物理的実体のようですね。

(用語法だけの問題ですが少々違和感があります)
私は実体という語は物質のみに対して使い現象に対しては使いません。
現象に対して物理的実体という表現を使われるのは違和感があります。
「物理的実体」の語を「物理的現象」に直して頂けるとスッキリするのですが。
用語法だけの問題であり実質的問題ではありません。

>1.上のことから、「現象的意識は原理的に物理的機能を持っている」ということは当然言えますよね。では、「現象的意識は現実的に物理的機能を持っている」と考えていいでしょうか。

その通り考えています。
(ですので以下は省略いたします)

異邦人さま


↓まだお答えを頂いていませんが?
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82638265
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82639584
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82641535

自説の破綻を包み隠す為に黙りを決め込むのは知的誠実に悖る行為と言わざるを得ません。

異邦人さん、

ずいぶんすっきりしました。

「現象的意識が原因ではない」と仰っていたのを「現象的意識が物理的原因にはならない」を意味しているものだと解釈していたのでエピフェノメナリズムではないかと考えていたのですが、物理的原因になるのでしたらエピフェノメナリズムではないですね。物理的機能もあるということですから、なんらかの機能があれば機能的意識とよぶ僕の言葉遣いでの「機能的意識」と現象的意識が重なると認めてくださいますよね。僕の言葉遣いでの「機能的意識」で見るなら図1にはならないことも認めてもらえますよね。

ここまでの混乱がかなり整理できた感じです。
では、次の段階の質問に進ませてもらってもいいでしょうか。

質問.現象的意識はその存在を語ることができても、現象的意識そのものがどんなものであるかを語ることはできないということでしたが、現象意識が物理的機能があるのであればその機能を語ることによってその現象的意識が如何なるものかを語ることができるのではないでしょうか。少なくとも原理的には可能だと考えていいでしょうか。

横山信幸さん。(>2013年10月26日 (土) 10時07分)

>物理的機能もあるということですから、なんらかの機能があれば機能的意識とよぶ僕の言葉遣いでの「機能的意識」と現象的意識が重なると認めてくださいますよね。僕の言葉遣いでの「機能的意識」で見るなら図1にはならないことも認めてもらえますよね。

残念ながら違います。
私の唯物論では機能的意識も現象的意識も物理的現象ですから物理的機能を持つという点では同一です。
ですので物理的機能を持つか否かは機能的意識と現象的意識を分ける基準にはなりません。
機能的意識と現象的意識を分けるのはその対象が認識可能か否かの違いです。
認識可能な対象を対象として生じるのが機能的意識であり、認識不可能な対象を対象として生じるのが現象的意識です。
ですので機能的意識と現象的意識が重なることは決してありません。
機能的意識は言語化可能な意識であり、現象的意識は言語化不可能な意識です。
このように機能的意識と現象的意識ははっきり別物であり重なることは決してありません。
私の唯物論では図1以外にはなりようがありません。

仮に横山信幸さんの用語法に従うとして、物理的機能を持つのは全て機能的意識であるとしてみましょう。
その場合は機能的意識はもちろん現象的意識も全て機能的意識であることになってしまいます。
図2や図3で非機能的な現象的意識の部分がなくなった図になります。
緑で示された機能的意識の部分が下端一杯に広がった図になります。
このような図で横山信幸さんの論述が有効に機能し得るか否か、私には判断できません。

>質問.現象的意識はその存在を語ることができても、現象的意識そのものがどんなものであるかを語ることはできないということでしたが、現象意識が物理的機能があるのであればその機能を語ることによってその現象的意識が如何なるものかを語ることができるのではないでしょうか。少なくとも原理的には可能だと考えていいでしょうか。

現実的には不可能ですが原理的には可能です。
遥か遠い将来高度に自然科学が発達し脳(心)の働きを詳細に分析可能になった暁には現象的意識が如何なることかを明白に語ることができるようになります。
しかし現在それを語ることは出来ません。
それを語れるようになるためには遥か遠い将来まで待たなければなりません。
現在のところは現象的意識が何であるのかを語ることは不可能であると考えなければなりません。

工藤庄平さん。(投稿ミスのため再投稿します)
>>その八名の方々は皆チャーマーズの現象的意識に関する議論をご存知の方々でしょうか?
>四名は知っていますね。

八名の方々はクオリアや現象的意識を全く感じないと仰っているのでしょうか?

異邦人さん、回答ありがとうございます。

>>僕の言葉遣いでの「機能的意識」と現象的意識が重なると

という僕の質問に対するものですから、当然、

>仮に横山信幸さんの用語法に従うとして、

をまず前提してもらわなくては話になりません。そして、

>図2や図3で非機能的な現象的意識の部分がなくなった図になります。緑で示された機能的意識の部分が下端一杯に広がった図になります。

僕はもちろんそれを主張していまして。

>このような図で横山信幸さんの論述が有効に機能し得るか否か、私には判断できません。

いいえ、僕がこのページの本文で言っていることは、その図でないと機能しないのです。僕が言いたかった「ナンセンス」という語の意味を理解してもらえると、この図が正しいと言っている意味も理解してもらえると思います。ナンセンスな非機能的な現象的意識など本来、図3に入る余地などないのです。ですから図3から非機能的な現象的意識の赤い範囲が消失しなければならないことを、上の本文で訴えていたつもりだったのですが、そうは読めなかったですか。かなり頑張って分かりやすく書こうとしたのですが、作文というのはむずかしいですね。

そういうことですので、

なんらかの機能があれば機能的意識とよぶ僕の言葉遣いでの「機能的意識」と現象的意識が重なると認めてくださいますよね。僕の言葉遣いでの「機能的意識」で見るなら図1にはならないことも認めてもらえますよね。

では次の質問を、またさせてもらいます。

質問1.異邦人さんの唯物論では、同一のタイプの脳状態はすなわち同一のタイプの現象的意識なのでしょうか。まったく同じ物理状態を持っているコピー人間を想定すると全く同じ現象的意識を持っていると言っていいのでしょうか。

質問2.異邦人さんの唯物論では、脳内がシリコンゼリーでできている宇宙人でも現象的意識を持つことはできますか。

横山信幸さん。(>2013年10月26日 (土) 21時56分)

>いいえ、僕がこのページの本文で言っていることは、その図でないと機能しないのです。僕が言いたかった「ナンセンス」という語の意味を理解してもらえると、この図が正しいと言っている意味も理解してもらえると思います。ナンセンスな非機能的な現象的意識など本来、図3に入る余地などないのです。ですから図3から非機能的な現象的意識の赤い範囲が消失しなければならないことを、上の本文で訴えていたつもりだったのですが、そうは読めなかったですか。かなり頑張って分かりやすく書こうとしたのですが、作文というのはむずかしいですね。

私が前回判断できないと述べたのは、文章が分かり易いか否かというような問題とは無関係です。
私の唯物論では図1以外あり得ないので機能的意識と現象的意識が重なることを前提とした議論には参加できないという意味です。

>質問1.異邦人さんの唯物論では、同一のタイプの脳状態はすなわち同一のタイプの現象的意識なのでしょうか。まったく同じ物理状態を持っているコピー人間を想定すると全く同じ現象的意識を持っていると言っていいのでしょうか。

私の唯物論ではそうなります。

>質問2.異邦人さんの唯物論では、脳内がシリコンゼリーでできている宇宙人でも現象的意識を持つことはできますか。

もしそのシリコンゼリーが情報処理システムを構成しており、その宇宙人の生存機能を支える役目を果たしているのであれば、それはその宇宙人の心を成しており現象的意識を持つことが可能です。
現象的意識を持つことが可能であるのか否かは脳の素材が何で出来ているのかとは無関係です。
脳の素材が何で出来ていようと心が存在することが確かであればその心は現象的意識を持つことが可能です。
心が存在するか否か、は情報処理システムを構成できているおり、それがその個体の生存機能を支える役目を果たしているか否かにより判定します。
人間の脳の情報処理システムはニューロンネットワークにより構成されていますが、必ずしもニューロンネットワークである必要性は全くありません。
通常のコンピュータのようにシリコンチップであってもかまいませんし、シリコンゼリーであっても全くかまいません。
情報処理システムを構成する方法は幾らでもあります。さまざまな素材で情報処理システムを構成できます。

異邦人さん、

図1ではないというのは単なる確認のつもりでしたが、

>私の唯物論では図1以外あり得ないので機能的意識と現象的意識が重なることを前提とした議論には参加できないという意味です。

と言われるのですから、まだ共通理解が足りないようですね。
すでに異邦人さんは、現象的意識が物理的機能を有していることを認めておられます。このことから、僕の「何らかの機能を有している意識を機能的意識と呼ぶ」という言葉づかいでもって表現すると、すでに異邦人さんは「異邦人さんの唯物論」において「現象的意識と現象的意識が重なっている」ことを認めておられる、と言えることを確認したかったのです。「機能的意識と現象的意識が重なることを前提とした議論」をあたらしく提案しているのではなないのです。

そこで、これについても質問内容に差し戻します。よろしくお願いします。

質問1. 下の推論のどこが間違っていますか。
(前提1)異邦人さんの唯物論において現象的意識は物理的機能を有する。
(前提2)異邦人さんの唯物論において現象的意識が物理的機能を有するのであれば、その現象的意識は何らかの機能を持つと言える。
(前提3)何らかの機能を持つ意識のことを、横山の言葉づかいで「機能的意識」という。
(前提4)或る対象が性質Aと性質Bの両方を有している場合、性質Aを有する対象群の要素と性質Bを有する対象群の要素はすくなくとも一部は重なっている。
(前提5)或る対象が何らかの機能を持つことは、或る対象が持つ一つの性質である。
(前提1・2・3・4・5より)
(結論)異邦人さんの唯物論におけて、異邦人さんの言葉づかいでの現象的意識と、横山の言葉づかいでの機能的意識は、少なくとも一部は重なっている。

(図1についての言及ですから、本来なら、現象的意識と機能的意識の両方を「横山の言葉づかいにおけるもの」を問うべきだと思いますが、そこまで問おうと思うとまたかなり議論を引き戻す必要が出てきますから、異邦人さんの「現象的意識」と横山の「機能的意識」についての問いにしました。それでも、主旨は大きく変わらないので問題ないと思います。)

それともう一つ、議論を先に進ませる方の質問にもお答えください。

質問2.異邦人さんの唯物論では、脳内がシリコンゼリーでできている宇宙人が現象的意識を持つことを三人称的に確認できますか。

横山信幸さん。(>2013年10月27日 (日) 08時38分)

>(前提3)何らかの機能を持つ意識のことを、横山の言葉づかいで「機能的意識」という。

私はこの前提3を横山信幸さんと共有できません。
ですのでこの前提で行われる議論には参加できません。
この前提を共有できる方との間で議論を行われるのが妥当です。

>質問2.異邦人さんの唯物論では、脳内がシリコンゼリーでできている宇宙人が現象的意識を持つことを三人称的に確認できますか。

現実的には不可能ですが原理的には可能です。

(確認1)その宇宙人が心を持つことの確認。
先ず最初にそのシリコンゼリーが情報処理システムを構成しているか否かを確認します。
次にその情報処理システムがその宇宙人の生存機能を支える働きを果たしているのか否かを確認します。
この2点が確認できればその宇宙人は心を持っていることが確認できたことになります。
心を持っていることが確認できれば現象的意識を持っている可能性が高くなります。
その確認は現実上でも可能と思われます。
自然科学的方法で可能であればそれで確認します。
コミュニケーション(言語や身振り等)によっても心を持っていそうなことは確認できるでしょう。
そのシリコンゼリーが人類の知らない超科学で出来ていれば人類の現在の自然科学では解明できないかもしれません。
その場合は原理レベルでの確認が出来るようになる時代まで待たなければならないかもしれません。

(確認2)現象的意識を持っていることの確認。
その宇宙人が心を持っていることが確認できれば次はいよいよ現象的意識を持っているか否かの確認に移ります。
現実上その確認は不可能です。
遥か遠い将来高度に自然科学が発達し脳(心)の働きを詳細に分析可能になった暁には現象的意識を持っているか否かを明白に判定できるようになります。
しかし現在それを判定することは出来ません。
それを判定できるようになるためには遥か遠い将来まで待たなければなりません。
現在のところは現象的意識を持っているか否かを判定することは不可能であると考えなければなりません。

異邦人さん、


> 私はこの前提3を横山信幸さんと共有できません。ですのでこの前提で行われる議論には参加できません。この前提を共有できる方との間で議論を行われるのが妥当です。

了解しました。

ただし、図1・2・3は、横山の定義による機能的意識を図示したものですから、本ブログ上では、異邦人さんの定義による機能的意識を図示したものとして表現するのに使わないでもらえますか。
ここで図1が正しいと言われると、違う意味になってしまうので反論せざるを得ませんから。
異邦人さんの機能的意識は現象的意識と重ならず、僕の機能的意識は現象的意識に重なると、まとめさせてもらうことにしたいと思います。

よろしいでしょうか。


宇宙人の意識について、質問を続けます。

宇宙人の身体の一部が情報処理機能をもつことは、その身体の組織を調べるだけで分かりますか。それとも、宇宙人の行動と身体組織の両方を調べる必要がありますか。
もし、宇宙人の脳の仕組みが人間と全く異なっていて人間の脳の構造が比較対象にさえならないのなら、脳組織を見るだけではそれが情報処理システムであることを知る方法は無いと思えるのですが、いかがでしょう。

横山信幸さん。(>2013年10月27日 (日) 13時45分)

> 異邦人さんの機能的意識は現象的意識と重ならず、僕の機能的意識は現象的意識に重なると、まとめさせてもらうことにしたいと思います。
よろしいでしょうか。

図1の件と併せて了解しました。

>宇宙人の身体の一部が情報処理機能をもつことは、その身体の組織を調べるだけで分かりますか。

分かる場合もあれば分からない場合もあるでしょうね。
人類の知っている技術で出来ていれば分かるでしょうし、親類の知らない技術で出来ていれば分からないでしょうね。

>それとも、宇宙人の行動と身体組織の両方を調べる必要がありますか。

行動と身体組織の両方を調べるのがベストであろうと思います。
特にコミュニケーション(言葉や身振り手振りや可能であればテレパシー等)が取れるか否かが大事だと思います。
コミュニケーションが取れるのであれば情報処理機能を持つことはほぼ確実だと思います。
コミュニケーションが取れ無い場合は判定は困難でしょうね。

>もし、宇宙人の脳の仕組みが人間と全く異なっていて人間の脳の構造が比較対象にさえならないのなら、脳組織を見るだけではそれが情報処理システムであることを知る方法は無いと思えるのですが、いかがでしょう。

全くその通りです。

異邦人さん、


もし、宇宙人の脳の仕組みが人間と全く異なっていて人間の脳の構造が比較対象にさえならないのなら、脳組織を見るだけではそれが情報処理システムであることを知る方法は無い。

同意します。それって、
その理由は法則化のための判断材料が無いためですよね。

この宇宙人に対して、その目であろうものの前に赤い物体を見せると、その体内組織の或る位置のゼリーに電圧がかかったとする。そうすると、そのゼリーに電圧がかかることが、赤いものを見たという情報に対する体内の物理的過程だとする仮説が立てられる。

このように宇宙人の脳過程の意味を意味づけようとするには必ず、外的なそぶりや外的な行動によってその宇宙人が得ただろう情報と、体内の変化をつなぐデータが複数必要ですよね。(一つでは法則化を図るデータとしては少なすぎる。)

さて、このように考えたとき、この宇宙人が現象的意識を持っていることを知ることは現実的に不可能なだけでではなく、原理的に不可能なのではないでしょうか。だって、現象的意識は原理的に外的なそぶりや行動では測れず、脳状態のデータしか無いわけですから、法則化するデータがそろわないと考えられるからです。

いかがでしょう。それでも、原理的に可能な方法があるでしょうか。

異邦人さん、

サールの説明を一部アップしました。サール自身は一元論でも二元論でもないと言っていますが、心を説明できるように工夫した唯物論の一種と考えていいのじゃないかと僕は思っています。

異邦人さんの唯物論と相性が良さそうな気がするのですが、いかがでしょうか。

横山信幸さん。(>2013年10月27日 (日) 18時42分)

>同意します。それって、
その理由は法則化のための判断材料が無いためですよね。

仰るとおりですね。
SFには様々な宇宙人が登場しますが、人類の知識では心を持っているか否か、現象的意識を持っているか否か、判定不可能な場合も多そうですね。

>この宇宙人に対して、その目であろうものの前に赤い物体を見せると、その体内組織の或る位置のゼリーに電圧がかかったとする。そうすると、そのゼリーに電圧がかかることが、赤いものを見たという情報に対する体内の物理的過程だとする仮説が立てられる。

そのような具体的な兆候があればある程度判定は可能であるのかもしれません。
具体的な兆候がある場合はまだ良いほうではあります。

>このように宇宙人の脳過程の意味を意味づけようとするには必ず、外的なそぶりや外的な行動によってその宇宙人が得ただろう情報と、体内の変化をつなぐデータが複数必要ですよね。(一つでは法則化を図るデータとしては少なすぎる。)

そのようなデータが得られる場合であれば判定に役立つかもしれませんね。
ただ心は恐ろしく複雑な仕組みであるのでちょっとやそっとのデータでは判定に不足するのが難点ではあるのですが。

>さて、このように考えたとき、この宇宙人が現象的意識を持っていることを知ることは現実的に不可能なだけでではなく、原理的に不可能なのではないでしょうか。だって、現象的意識は原理的に外的なそぶりや行動では測れず、脳状態のデータしか無いわけですから、法則化するデータがそろわないと考えられるからです。
>いかがでしょう。それでも、原理的に可能な方法があるでしょうか。

唯物論の原理から言えばあらゆる物理的現象は客観的に記述可能です。
この世界は物質のみより成る、という唯物論の前提を認めるのであれば、原理的には、宇宙人が如何なる宇宙人であれ、心を持っているか否か、現象的意識を持っているか否か、は自然科学的方法により客観的に判定可能です。

SFに登場する宇宙人の中には身体が非物質的なもので出来ていたり、非物理的法則に従って行動するような宇宙人も存在します。
そのような宇宙人の場合は自然科学的方法であれ客観的方法であれ判定することは不可能になります。

そうではなく、その宇宙人が物質のみで出来ており物理法則に従っているのであれば原理的には判定可能です。

異邦人さん、

現象的意識は原理的に外的なそぶりや行動では測れず、脳状態のデータしか無いわけですから、法則化するデータがそろわないと考えられるから、原理的に可能な方法がないのではないかと思ったわけですが、

>唯物論の原理から言えばあらゆる物理的現象は客観的に記述可能です。

どうやったら分かるのでしょうか。原理的にわかるという話でも、その宇宙人が現象的意識を持っていると知るための原理的な方法、どうやったらわかるかという「原理」はあるはずです。それは如何なるものなのでしょうか。

>この世界は物質のみより成る、という唯物論の前提を認めるのであれば、原理的には、宇宙人が如何なる宇宙人であれ、心を持っているか否か、現象的意識を持っているか否か、は自然科学的方法により客観的に判定可能です。
そうではなく、その宇宙人が物質のみで出来ており物理法則に従っているのであれば原理的には判定可能です。

その方法が知りたいです。その宇宙人が現象的意識を持っていたとして、どうやったら分かるのかという方法が(現実的には無理でも原理的にはできるという方法が)ないのなら、それは原理的にでも判定可能とは言えないと思います。

横山信幸さん。(>2013年10月27日 (日) 19時04分)

>サールの説明を一部アップしました。サール自身は一元論でも二元論でもないと言っていますが、心を説明できるように工夫した唯物論の一種と考えていいのじゃないかと僕は思っています。

唯物論にかなり近いのはその通りなのですが、横山信幸さんが述べられている通り唯物論と二元論の中間の「1.5元論」というのが妥当な評価であるものと思います。

>異邦人さんの唯物論と相性が良さそうな気がするのですが、いかがでしょうか。

確かに「生物学的自然主義」は唯物論にかなり近くそれほど大きくは離れていないと思います。
その意味で私の唯物論と相性が良いということは言えそうです。
私の唯物論との大きな違いはサールが「存在論的還元」が出来ないとしているのに対し私が「因果論的還元」のみならず「存在論的還元」も可能であるとしている点です。

異邦人さん、

>私の唯物論との大きな違いはサールが「存在論的還元」が出来ないとしているのに対し私が「因果論的還元」のみならず「存在論的還元」も可能であるとしている点です。

それって、やっぱり普通の標準的唯物論ですね。で、現象的意識もすべての意識が物理的実体に還元できるとするタイプの同一説ですね。

横山信幸さん。
>>横山信幸 | 2013年10月27日 (日) 20時13分
>どうやったら分かるのでしょうか。原理的にわかるという話でも、その宇宙人が現象的意識を持っていると知るための原理的な方法、どうやったらわかるかという「原理」はあるはずです。それは如何なるものなのでしょうか。
>その方法が知りたいです。その宇宙人が現象的意識を持っていたとして、どうやったら分かるのかという方法が(現実的には無理でも原理的にはできるという方法が)ないのなら、それは原理的にでも判定可能とは言えないと思います。

それを実際に説明するとなると恐らく膨大な量の説明が必要になります。
説明することは可能であるといえば可能であるのですがちょっとやそっとの量では済まないと思います。

例えば、ある物理学者が「人間の体は素粒子より出来ている」と述べたとしましょう。
それに対して「人間の体がどのように素粒子から出来ているのか具体的に説明してほしい」と説明を求められたとしましょう。
その求めに対して物理学者はどう答えるべきなのでしょうか?
多分どう答えていいのか困ってしまうでしょうね。
確かに説明しようと思えば出来ないことはないでしょうが恐らく膨大な説明が必要になります。
物理学者の役目は原理を示すことであって、そのような具体的な説明をすることにはありません。

存在論(唯物論)の役目も原理を示すことであって、具体的な詳細の説明をすることにはありません。
説明しようと思えば出来ないことはないと思いますが、簡単ではありません。

もし説明するとした場合の大雑把な粗筋のみを示してみます。
先ずこの世界は物質のみより成り全て物理的現象として客観的に記述可能である、ことを前提とします。(唯物論の基本前提)
1.その宇宙人の脳が情報処理システムを構成していることを確認する。
2.その情報処理システムがその宇宙人の生存機能の一部をなしていることを
 確認する。
3.ある対象(例えばリンゴ)を認識している場面で脳内のイメージ生成処理
 について完全にイメージ化されていない部分があることを確認する。
4.そのイメージ生成処理の完全にイメージ化されていない部分を概念化する
 処理が行われていることを確認する。(これが現象的意識です)
以上

>>横山信幸 | 2013年10月27日 (日) 21時10分
>それって、やっぱり普通の標準的唯物論ですね。で、現象的意識もすべての意識が物理的実体に還元できるとするタイプの同一説ですね。

同一説といわれるのには違和感があります。
私の唯物論では「全ての心的現象は物理的現象に還元可能である」というのが最も中心的な主張です。
もし仮に「還元可能」という語と「同一」という語が全く同じ意味だということであれば私の唯物論を同一説であると評価することは可能ではあるでしょう。
しかし私は「還元可能」という語と「同一」という語が全く同じ意味であるとは思えません。
ですので私としては同一説には当たらないものと考えています。
「還元可能」=「同一」であるか、または「還元可能」≠「同一」であるか、どちらかそれが問題です。

異邦人さん、


言葉の上の問題でしかないですから、同一説でも違っていても大きな問題ではないですが、ふつう、同一とは存在論的に還元可能を差します(サールは違うかも知れませんが)から、異邦人さんは同一説論者に分類されると思いますよ。さらに言うとタイプ-タイプ同一説です。

タイプ同一説ですから、タイプ分析から外れた未知の脳過程については言及できないという弱点を持っています。未知の宇宙人の脳過程を言及できず、ひいては人間の現象的意識について言及することができません。

異邦人さんの唯物論も同様の弱点を持つのではないかと考えて宇宙人の質問をしています。

で、宇宙人の脳についての話です。
物理的法則の仮説を立てるためには、異なる2つの事柄についての観測データからその関連性を考えなければなりません。データが1つの事柄についてのものしか無いのであれば関連づけて考える根拠がないので科学的推論にはなりません。
宇宙人の現象的意識についてはこのデータが原理的に脳に関するものしか得られません。異邦人さんが仰っていたように現象的意識そのもののデータが得られませんから、脳と現象的意識との関連を法則立てることは、少なくとも科学的には不可能です。法則立てられないのですからいくら膨大で緻密な脳のデータがあったとしても、そこから現象的意識があると判断することは物理学的に不可能ではないでしょうか。

僕は法則の原理を問うているのではありません。現象的意識のデータを如何に得るかという測定の原理を問うているのです。具体的で詳細な話を求めているわけでもありません。測定の原理を知りたいのです。

質問、宇宙人の現象的意識は如何にすれば検証できますか。その原理を教えてください。

横山信幸さん。(>2013年10月28日 (月) 07時02分)

>言葉の上の問題でしかないですから、同一説でも違っていても大きな問題ではないですが、ふつう、同一とは存在論的に還元可能を差します(サールは違うかも知れませんが)から、異邦人さんは同一説論者に分類されると思いますよ。さらに言うとタイプ-タイプ同一説です。

私にはタイプ同一説にしろトークン同一説にしろ同一説と評価されることには大きな違和感があります。
単なる言葉上の問題などではなく意味内容の大きな違いがあると思うからです。
「還元可能」ということと「同一」ということでは意味内容に違いがあるものと考えます。

>タイプ同一説ですから、タイプ分析から外れた未知の脳過程については言及できないという弱点を持っています。未知の宇宙人の脳過程を言及できず、ひいては人間の現象的意識について言及することができません。

タイプ同一説ではそれに言及できないということでしたら私の唯物論ははっきりタイプ同一説でないことになります。
何故なら私の唯物論でははっきり言及できるからです。

>異邦人さんの唯物論も同様の弱点を持つのではないかと考えて宇宙人の質問をしています。

私の唯物論はタイプ同一説と同様の弱点を持っていません。

>で、宇宙人の脳についての話です。
物理的法則の仮説を立てるためには、異なる2つの事柄についての観測データからその関連性を考えなければなりません。データが1つの事柄についてのものしか無いのであれば関連づけて考える根拠がないので科学的推論にはなりません。
宇宙人の現象的意識についてはこのデータが原理的に脳に関するものしか得られません。

私は観測データを下に現象的意識の存在を導き出している訳ではありません。
観測データから科学的推論により現象的意識の存在を導き出している訳ではありません。

私はもともと唯物論でこの世界を説明可能であろう、という直感から出発しています。
ですから先ず「物質のみが実在である(唯物論)」という前提(仮定)から出発してそれによってこの世界が「整合的に過不足なく説明可能であるのか」を検証することを目指しました。
その検証の結果唯物論の前提(仮説)は間違いないと判断しました。
ですので私は最初の唯物論の前提(仮説)を真実として受け入れています。
真実と呼んでいるとは言えあくまで仮説に過ぎません。
絶対的意味の真実ではありません。

現象的意識の存在は科学的推論により導き出すのではなく、我々が現に現象的意識を感じているという事実によって示されます。
(当然この導き出し方は人間の場合のみ可能です。)
この事実から逆算してでは何を対象として現象的意識が生じているのかを推定することになります。
例によってリンゴを認識している場面で考えます。
機能的意識が実在のリンゴを対象として生じていることは明白ですが、逆に現象的意識が実在のリンゴを対象として生じている訳でないことはこれまた明白です。
リンゴ認識図式を辿ればそれは「イメージ生成処理」以外にあり得ないことが分かります。
「イメージ生成処理」の結果明確にイメージ化された部分は機能的意識になりますから、現象的意識は明確にイメージ化されなかった部分が対象になっていると推定できます。

このように現象的意識の対象や生まれる過程は、科学的推論によって下から積み上げる方法により導き出しているわけではなく、我々が現に現象的意識を感じているという事実から逆算により導き出したものです。

宇宙人の場合はこのような逆算による方法で導き出すことが出来ません。
宇宙人の場合は自然科学的方法により下から積み上げる方法により導き出すより他に方法がありません。
その為には先ず人間の場合について現象的意識が生じる過程を自然科学的方法で詳細に分析する必要があります。
その後に宇宙人の身体(特に脳の働き)を詳細に分析し人間の場合との比較から類推することになります。
このような分析は現在の自然科学技術では全く不可能です。
遥か遠い将来高度に自然科学が発達し脳(心)の詳細な分析が可能になるまで待つしかありません。
現実上はそのような分析は不可能と考えなければなりません。

>異邦人さんが仰っていたように現象的意識そのもののデータが得られませんから、脳と現象的意識との関連を法則立てることは、少なくとも科学的には不可能です。
>法則立てられないのですからいくら膨大で緻密な脳のデータがあったとしても、そこから現象的意識があると判断することは物理学的に不可能ではないでしょうか。

現実上はもちろん不可能ですが原理上は可能です。

>僕は法則の原理を問うているのではありません。現象的意識のデータを如何に得るかという測定の原理を問うているのです。具体的で詳細な話を求めているわけでもありません。測定の原理を知りたいのです。
>質問、宇宙人の現象的意識は如何にすれば検証できますか。その原理を教えてください。

冒頭で述べた通りです。

異邦人さん、

僕はこのページ本文で書いたとおり、自分自身の現象的意識やクオリアでさえ、語り得ないナンセンスなものだと捉えています。この点については工藤さんと同意見です。
だから、もちろん宇宙人の現象的意識も語り得るはずがないと考えています。
ですので、その方向で議論を進めたいと目論んでいます。

では、また質問を受けてくださいますか。

質問1.僕は、この世界のあらゆる物質との相互作用をまったく持たないニューニュートリノという物質があって、100万粒の粒子のうちの100万粒すべてが地球を通り抜け、どんなものとも触れ合うことも影響を与えることもない、そういう粒子が宇宙全体に満ちているという仮説を自分の直感によって信じています。この仮説は検証はできませんが、反証されることも原理的にありません。完全にこの世界を語るための世界像として不具合はありません。
さてこのニューニュートリノは存在していると言えるでしょうか。またそう言うべきでしょうか。

質問2.人間の脳を元にして宇宙人の現象的意識を類推するということですから、人間と宇宙人の脳構造がまったく異なっていて比較対象にならない場合は宇宙人の現象的意識については語り得ない、という理解でいいでしょうか。

横山信幸さん。(>2013年10月28日 (月) 13時15分)

>僕はこのページ本文で書いたとおり、自分自身の現象的意識やクオリアでさえ、語り得ないナンセンスなものだと捉えています。

横山信幸さんは現象的意識やクオリアというものなど存在しない、とお考えなのでしょうか?
それとも現象的意識やクオリアの存在は認めるが語りえることは認めない、ということなのでしょうか。
私は現象的意識やクオリアが存在するのは事実だと考えていますし、現実上語ることは不可能でも原理上は語ることの可能な事象である、と考えています。
それはこれまで度々述べてきたとおりです。

>さてこのニューニュートリノは存在していると言えるでしょうか。またそう言うべきでしょうか。

原理上検出不可能なものを私は存在と呼びません。
直接的にであれ間接的にであれ何らかの方法で検出できる可能性のあるもののみを私は存在と呼びます。
原理上検出不可能なものは単に「無」です。

>質問2.人間の脳を元にして宇宙人の現象的意識を類推するということですから、人間と宇宙人の脳構造がまったく異なっていて比較対象にならない場合は宇宙人の現象的意識については語り得ない、という理解でいいでしょうか。

宇宙人の脳構造が人間と如何に違っていようとも、唯物論の前提から言って、同じ物質で出来ており同じ物理法則に従っていることから、原理的には語り得るものと考えます。

異邦人さん、

現象的意識やクオリアがナンセンスだと言ったのは現象的意識やクオリアが「無い」という意味ではありません。
もちろん「在る」という意味でもありません。
だから、「在るけど語り得ない」という意味でもありません。
現象的意識やクオリアなどと言おうとしても所詮語り得るのは機能性を有している「似非的ないわゆる言語化できる現象的意識」でしかありません。機能性を有しない「本来言いたかったはずの現象的意識」はどんどん逃げていってしまって捉えることができません。なぜなら機能がないとは言語化できないというこでもあるからです。だから、その「非機能的な現象的意識」や「クオリア」などと言って語ろうとしても自分でも何を言っているのか分かっていないような状況が生じてしまい、「現象的意識」や「クオリア」といってもそれは何を指しているのか分からないような代物になってしまうのです。
それゆえ、そのような意味を持たない対象が「ある」とも「ない」とも言えるはずがないと考えているのです。詳しくは、上記本文で記しましたのでそちらを見てください。

では、質問です。
宇宙人の脳構造がまったく異なっているため人間の脳に対するときの通常の検証方法が全くあてはめられないような場合でも、宇宙人の現象的意識は語り得るのでしょうか。
また、それは検証可能なのでしょうか。

横山信幸さん。(>2013年10月28日 (月) 17時14分)

>だから、その「非機能的な現象的意識」や「クオリア」などと言って語ろうとしても自分でも何を言っているのか分かっていないような状況が生じてしまい、「現象的意識」や「クオリア」といってもそれは何を指しているのか分からないような代物になってしまうのです。
それゆえ、そのような意味を持たない対象が「ある」とも「ない」とも言えるはずがないと考えているのです。詳しくは、上記本文で記しましたのでそちらを見てください。

「現象的意識」や「クオリア」の捉え方(意味付け)が私とは異なるため、横山信幸さんの表現ではそのような表現になるのであろうと理解しました。
その意味では了解です。

>宇宙人の脳構造がまったく異なっているため人間の脳に対するときの通常の検証方法が全くあてはめられないような場合でも、宇宙人の現象的意識は語り得るのでしょうか。

人間と同じ物質から出来ており人間と同じ物理法則にしたがっていると考えられるため、脳構造が人間と如何に異なっていようが、原理的には語りえるものと考えます。

>また、それは検証可能なのでしょうか。

現実的には不可能ですが原理上は可能と考えます。

異邦人さん、

> >宇宙人の脳構造がまったく異なっているため人間の脳に対するときの通常の検証方法が全くあてはめられないような場合

なのに

〉(検証が)現実的には不可能ですが原理上は可能と考えます。

と言われる根拠が分かりません。

通常の検証方法が全くあてはまらないのに、検証可能だと言うのは単純に矛盾だと思えるのですが、何かに方法があるのでしょうか。
何の根拠もなしに検証可能だと言っているのであれば、ニューニュートリノが在るとしても矛盾はないとしてニューニュートリノ理論を採用するのと変わらないように思います。

横山信幸さん。(>2013年10月28日 (月) 18時38分)

>通常の検証方法が全くあてはまらないのに、検証可能だと言うのは単純に矛盾だと思えるのですが、何か方法があるのでしょうか。

現実上検証不可能ですが原理的には自然科学的方法により客観的に検証可能です。
唯物論の前提によりこの世界は物質のみより出来ています。
ですので、あらゆる現象は全て物理的現象です。
心や心的現象も全て純粋な物理的現象です。

このように現象的意識も含め全て物理的現象なのですから原理的に自然科学的方法により解析可能であるのは必然です。

横山信幸さん。(>2013年10月28日 (月) 18時38分)補足

全ての現象は物理的現象であるという前提から、原理上自然科学的方法により客観的にあらゆる現象を解析可能であること、が必然的に導かれます。

異邦人さん

異邦人さんがおっしゃっているのは、分析的に世界が解析可能だと前提すれば世界は解析可能だということにすぎません。分析的なお話です。
僕が聞きたいのは分析的な話ではなく、いかにすれば検証できるかです。「経験的」な検証方法を知りたいのです。

異邦人さん

僕が知っている科学的方法は仮説を立て、仮説を経験的データと照らし合わせて検証するというものです。単に仮説を立て、分析的に考えるだけでは、科学ではありません。ニューニュートリノと同じです。経験的なデータと照らし合わせて、初めてその仮説の正当性が根拠づけられます。
しかし、宇宙人の現象的意識に関しては、原理的に経験的データが得られない、と僕には思えます。だから、異邦人さんのいうように「原理的に、宇宙人の脳を調べるだけで現象的意識があると言える」とは考えられません。そのため、どうやって、経験的データを得てその仮説を根拠づけるのかを聞いているのですが、異邦人さんの回答は経験的な根拠ではなく、仮説を立てられるという分析的な根拠だけしか提出されていません。

脳がゼリーでできている宇宙人に現象的意識があると検証できるような経験的なデータを得られる可能性があるのか。あるとすればどうやって得るのか。それが僕の質問の意味です。それがなければ、科学的に根拠がある説とは言えないと思います

横山信幸さん。

唯物論を前提とすれば必然的に全ては客観的に解析可能になります。
現象的意識の有り無しも必然的に解析可能になります。
原理的にはこのように単純です。

横山信幸さんはこのような原理的な話では納得なさらないようですから、もう少し具体的な話が必要になるわけですが、それは私の以前のコメント(注1)で既に述べた通りです。

我々人間が事実として現象的意識の存在を知っていることから出発して、人間の脳で現象的意識の生まれる過程を詳細に分析し、それから類推して宇宙人の現象的意識の有無を判定する、というような手順になります。
宇宙人も人間と同じ物質から出来ており、同じ物理法則にしたがっている、ことからこのような類推が可能になります。

どちらにしましても、脳は恐ろしく複雑な構造物ですから現実上詳細な話をすることは不可能です。

(注1)参照コメント
>>投稿: ある唯物論者(異邦人) | 2013年10月28日 (月) 00時00分
1~4の手順参照。

>>投稿: ある唯物論者(異邦人) | 2013年10月28日 (月) 10時54分
宇宙人の場合はこのような逆算による方法で導き出すことが出来ません。
・・・省略・・・
現実上はそのような分析は不可能と考えなければなりません。

異邦人さん、

質問の意味を共通理解してもらえてないようです。

> 私は観測データを下に現象的意識の存在を導き出している訳ではありません。
> 観測データから科学的推論により現象的意識の存在を導き出している訳ではありません。

と異邦人さんが仰っているのは、自分自身の現象的意識の存在は、端的に直感によって分かるのであってそれ以外の経験的データから類推してるわけじゃないってことですよね。しかし、いま問題にしているのは、宇宙人という未知の第三者ですから、この「端的に直感によって」という方法は使えません。そのため、自分の脳と宇宙人の脳を比較してその類似から宇宙人の現象的意識の存在を類推すべきなのかもしれませんが、比較対象にならないほどに異なった構造の脳であることが前提になっているので、この方法も使えません。
そこで宇宙人の現象的意識を語るためには科学的仮説を立てて検証し、「宇宙人の脳のA部位の電位がBになれば宇宙人に現象的意識があると分かる」などという新しい法則を作る必要が出てきます。ところで、宇宙人の現象的意識は宇宙人の脳の状態を測ることによって分かるという仮説の実証するために、宇宙人の脳の状態を調べるだけではデータ比較ができず、実証の意味がありません。脳状態とは別に現象的意識の存在そのものを示すデータが必要なのです。それがないとその仮説は単なる実体のない言葉遊びにすぎません。
異邦人さん自身も

〉 原理上検出不可能なものを私は存在と呼びません。> 直接的にであれ間接的にであれ何らかの方法で検出できる可能性のあるもののみを私は存在と呼びます。> 原理上検出不可能なものは単に「無」です。

と仰っていたじゃないですか。
「ニューニュートリノ理論からニューニュートリノの存在が分かる」と言っても意味がないでしょう。実証のない仮説を持ち出して「私の理論では宇宙人の現象的意識の存在が分かります」と言うのも同じく意味がありません。

それゆえ、脳状態とは別に現象的意識の存在そのものを確かめられるようなデータが必要なのです。
そのデータが入手できる可能性があると思われるか。あるとすれば如何なるものか。が、僕の問いなのです。

横山信幸さん。(>2013年10月29日 (火) 06時38分)

>それゆえ、脳状態とは別に現象的意識の存在そのものを確かめられるようなデータが必要なのです。
>そのデータが入手できる可能性があると思われるか。あるとすれば如何なるものか。が、僕の問いなのです。

唯物論では現象的意識も純粋な物理的現象であり、脳状態の一部です。
ですので脳状態と別に現象的意識が存在するわけではありません。
脳状態を詳細に分析できれば、それはすなわち、現象的意識の存在を明らかに出来ることを意味します。

今回の問題を考える上で最も大事な点は現実上ではなく原理上で考える必要があることです。
原理上で考えるとは、遥か遠い将来高度に自然科学が発達し脳(心)の詳細な分析が可能になった時代を念頭に置いて考えるという意味です。
現実上の自然科学技術を念頭に置いて考えてはいけない、ということです。
それが「現実上は不可能であるが原理上は可能である」ということの意味ですから。

異邦人さん、

遥か遠い未来の脳科学者と助手の会話

大発見だ。ゼリー星人の脳を分析することによって彼に現象的意識があるか否かを判別する方法が分かった。
(どうすれば判別できるのですか)
脳のA部にB値の電位がCHzのパルスで生じているかどうかで判別できるのだよ。
(なぜその方法で判別できると分かったのですか)
それが発見なのだ。非常に微細な神経構造において実は「●●●●●」であることが発見されたのだよ。それでその法則によって判別できることが分かったのだよ。

どうでしょう。「●●●●●」に入る言葉はどんな内容が適切でしょうか。
僕には「非常に微細な神経構造において実は『人間の神経構造との共通点があること』が発見されたのだよ」か、それに類するような内容である必要があると思います。
研究対象それ自体に何らかの性質があるかないかについて直接知る方法がないとき、そして参照になるような既知のサンプルもないときに、そこに問題の性質があるかないかを図ることは不可能だからです。
科学者は直接知る方法を見つけるか、法則化できている既知のサンプルとの共通点を見つけるかのどちらかをしないと研究対象に問題の性質があるとは言えないのです。

異邦人さんが仰っるように、遥か遠い未来自然科学が発達し詳細な分析が可能になった時代を念頭に置いたとしても、かならずどこかでそのハードルはクリアしなくちゃならないのです。

でも、宇宙人の現象的意識そのものを第三者が直接確かめることができないことは前提でしたよね。
法則化できている既知のサンプルとの共通点がないというのも、この話の前提でしたよね。

だから、異邦人さんが科学が発達した未来にはいま分からないことでも分かるかも知れないと考えるとき、自分でも気付かないうちに、既知のサンプルとの共通点が見つかっているという設定を密輸入してしまっているのです。

異邦人さんがこの話に反論される場合、対象に何かの性質があるかないかを知る方法を発見するためには、対象から直接確かめることを可能にするか、すでに法則化できている既知のサンプルとの共通点を見つけるか、以外の方法があることを示す必要があると思います。

その方法も未来には分かるかも知れないと考えるのなら、まさに、ニューニュートリノ理論が正しいことが未来には分かるかも知れないと言ってその正しさを主張するようなものになってしまうと思います。

横山信幸さん。(>2013年10月29日 (火) 15時50分)

唯物論を前提とすれば必然的に全ては客観的に解析可能になります。
現象的意識の有り無しも必然的に解析可能になります。
原理的にはこのように単純です。
話は単純にこれだけで全て済んでいるのですが、ご納得いかないようですね。

脳において現象的意識の生じる過程というのはとても複雑です。
何らかの神経パルスや何らかの神経構造と簡単に対応のつくような単純なことではありません。
横山信幸さんのSF物語にはその辺りの事情が全く語られていません。
ですので例え話としては全く不十分です。
もしその辺りの事情を十分に反映して物語を創られたならば真に現象的意識の生じる物理的過程を正確に表現できる物語になるハズです。
単なる笑い話でない真の科学物語になるハズです。
「脳において現象的意識の生じる過程はとても複雑である」という事情を横山信幸さんがご理解されていないため今回のSF物語は単なる笑い話にしかなっていません。
この辺りの事情を良くご理解されて物語を創られるならばその物語は真の科学物語になることは間違いありません。

(以下再掲開始)
>>投稿: ある唯物論者(異邦人) | 2013年9月28日 (土) 23時06分(前の部屋)

<「クオリア」の生まれる条件>
(内観の場面で)下記の3つの条件がそろった場合「クオリア」は生まれます。

1.認識できない対象がある。(正体不明の対象)
2.その対象の存在は明らかである。
3.我々は正体不明の対象を正体不明のまま概念化する能力がある。

このような条件で生まれますので、脳内のニューロンの発火現象を調べるというような自然科学的方法で「クオリア」を捉えることは不可能です。
何故なら、条件3の概念化能力は心の高度な働きであり自然科学的方法で単純に解析できるような対象などではないからです。
(以上再掲終わり)

この最後の「条件3の概念化能力は心の高度な働きであり自然科学的方法で単純に解析できるような対象などではない」の部分が重要です。

>科学者は直接知る方法を見つけるか、法則化できている既知のサンプルとの共通点を見つけるかのどちらかをしないと研究対象に問題の性質があるとは言えないのです。

我々は現在物質に対する十分な自然科学的知識を持っています。
我々は現象的意識の有無を解析するのに必要十分な物理法則に関する知識を持っています。
直接知る方法は既にあるわけです。
ただ対象が複雑すぎるため現在の技術力では解析不可能というだけです。

>異邦人さんが仰っるように、遥か遠い未来自然科学が発達し詳細な分析が可能になった時代を念頭に置いたとしても、かならずどこかでそのハードルはクリアしなくちゃならないのです。

もともとハードルはクリアされています。
遥か遠い未来には複雑な対象も解析可能な技術力が想定されています。
遥か遠い未来には実際に解析可能になることが想定できます。

>でも、宇宙人の現象的意識そのものを第三者が直接確かめることができないことは前提でしたよね。
>法則化できている既知のサンプルとの共通点がないというのも、この話の前提でしたよね。

現実上は不可能であるが原理上は可能であることが前提でした。

>ある唯物論者さまへ

突然の横やりで、失礼します。

「クオリアが実在する」と言えるための言明可能条件は何か?
それを未来の科学にゆだねる・・・とするならせいぜい「まあ、分からないけどいつか解明できるんじゃないかなあ?」と言えるくらいです。つまり、直感的にそう思うだけで何の根拠もないということになります。
唯物論の立場に立つなら、科学が未発達な現在であろうとも「何が明らかになればクオリアの実在を証明できるのか?」ということは分かっていなければなりません。
そうでなければ、未来永劫クオリアの実在を証明できません。
現実的に不可能であろうとも原理的に可能だと言えるための条件・・・それは何か?
何が分かればクオリアの実在を証明したことになるのか?
それが分からないにも関わらず未来の科学に全てをゆだねるなら、ただの予想に過ぎません。

がみさん、こんばんは。

ナイス横やり、ありがとうございます。僕と異邦人さんと二人だけでやりあっていると思っていたのですが、見ていてくださったのですね。すごくうれしいです。

>原理的に可能だと言えるための条件・・・それは何か?

適切な問いだと思います。

異邦人さん、

質問1.

>現実上は不可能であるが原理上は可能であることが前提でした。

と仰るのは、

宇宙人の現象的意識そのものを第三者が直接確かめることが「原理的に」できないことを前提とし、法則化できている既知のサンプルとの共通点が「原理的に」ないことを前提とするなら、ゼリー星人の脳を分析することによって彼に現象的意識があるか否かを判別することは不可能だということでしょうか。
それとも、
宇宙人の現象的意識そのものを第三者が直接確かめることが「原理的に」できないことを前提とし、法則化できている既知のサンプルとの共通点が「原理的に」ないことを前提としたとしても、ゼリー星人の脳を分析することによって彼に現象的意識があるか否かを判別することは原理的に可能だということなのでしょうか。

質問2.

「唯物論を前提とすれば必然的に全ては客観的に解析可能になります。現象的意識の有り無しも必然的に解析可能になります。」

これは、分析命題だと捉えていいですか。それとも、総合命題として仰っているのでしょうか。

>横山さん

毎日見ています。
横山さんの哲学はとても緻密で、丁寧に考えられているなといつも感心しています。
難しく、咀嚼できないところもありますが、色々と参考にさせて頂いています。

がみさん。(>2013年10月29日 (火) 20時20分)

がみさんコメント有り難うございます。
議論への参加は大歓迎です。

今回の横山信幸さんとの議論は9月22日から始めましたのでもう一月以上になります。
どの辺りからお読み頂いていますでしょうか。
かなりの量になりますので全体を再度説明するというわけにもいきません。
疑問のある点についてはその都度ご質問頂ければと思います。
出来るだけ答えさせて頂だきます。

>「クオリアが実在する」と言えるための言明可能条件は何か?

これまで繰り返しクオリアの生じる条件について述べてきました。
がみさんの直前の私のコメントでもその条件について述べました。
これが言明可能条件にあたるかと思いますが如何でしょうか?

>唯物論の立場に立つなら、科学が未発達な現在であろうとも「何が明らかになればクオリアの実在を証明できるのか?」ということは分かっていなければなりません。
>そうでなければ、未来永劫クオリアの実在を証明できません。
現実的に不可能であろうとも原理的に可能だと言えるための条件・・・それは何か?
>何が分かればクオリアの実在を証明したことになるのか?

クオリアの生じる条件を明らかにしたことが、
証明条件を明らかにしたことになる、原理的に可能だと言えるための条件になる、
ものと考えますが、如何でしょうか?不足でしょうか?

今回は極簡単に概略的な解答をさせていただきました。
もし不足であれば再度コメントをお願いします。
先ずはこれで挨拶とさせて頂だきます。

>ある唯物論者さん

クオリアの生じる条件の説明と、クオリアの実在の証明とは違います。

〇ある条件がそろえばクオリアが発生する。
そのような仮説を立てることは可能でしょう。
しかし問題なのはそのような仮説以前にクオリアが実在しているかどうかです。
実在してもいないものの発生条件などいくら考えても徒労です。
まずはその実在の証明がなされてから、その後に発生条件について語ることも可能になります。
幽霊がいるかどうかも分からないのに、幽霊の発生条件について語っても意味がないのと同じです。
まず「どのようなことが検証されればクオリアの実在を確かめたことになるのか?」そこが問題です。

横山信幸さん。(>2013年10月29日 (火) 21時53分)

>質問1.

ゼリー星人も人間と同じように物質からできており同じ物理法則に従うことを前提とするなら自然科学的方法により現象的意識の有り無しを判定することが可能です。
それは現象的意識の生じる機序が分かっているからです。
機序が分かれば自然科学的方法により判定することが可能です。

宇宙人の現象的意識の有無を確かめることは自然科学的方法に依るのであれば原理的には可能です。
人間が直接確かめるのは現実上も原理上も不可能です。

>質問2.

分析命題なのか総合命題なのかは分かりませんが、
唯物論を前提とし現象的意識が物理的現象であることを前提とすれば、現象的意識の有無は必然的に自然科学的方法で解析可能になります。
尤も唯物論を前提とすればあらゆる現象は物理的現象ということになり必然的に自然科学的方法で解析可能になります。
唯物論を前提とすれば現象的意識も物理的現象ということになり、改めて現象的意識が物理的現象であること前提とする必要はありません。

がみさん。(>2013年10月29日 (火) 23時42分)

>まず「どのようなことが検証されればクオリアの実在を確かめたことになるのか?」そこが問題です。

我々はクオリアの存在を直接的に知っていますから「存在する」こと自体は自明であり証明を必要としません。
例えば誰でも「痛み」を感じたことがあるハズです。
「痛み」はクオリアです。ですのでクオリアの存在は明らかです。
私の唯物論ではあらゆる心的現象が物理的現象であると考えています。
ですのでクオリアは如何なる物理的現象であるのかが問題になります。
クオリアの生じる条件を明らかにしたことがその答えになっているものと考えています。

がみさん。(>2013年10月29日 (火) 23時42分)追伸

直前の返答はどうやら的を外したようです。
人間のクオリアについて書いてしまいました。
がみさんのお尋ねは宇宙人のクオリアについてであることに今気付きました。
宇宙人のクオリアについては改めて別途返答させていただきます。

異邦人さん、

質問1.

> 宇宙人の現象的意識の有無を確かめることは自然科学的方法に依るのであれば原理的には可能で> 人間が直接確かめるのは現実上も原理上も不可能。

ということですから、僕の質問

> 「宇宙人の現象的意識そのものを第三者が直接確かめることが「原理的に」できないことを前提とし、法則化できている既知のサンプルとの共通点が「原理的に」ないことを前提とするなら、ゼリー星人の脳を分析することによって彼に現象的意識があるか否かを判別することは不可能だということでしょうか。」

「法則化できている既知のサンプルとの共通点が「原理的に」無いことを前提としても、ゼリー星人の脳を分析することによって彼に現象的意識があるか否かを判別することは原理的に可能か。」

というものに整理できるとおもいます。
この点に絞って再度回答していただけますか。

質問2.
> 現象的意識の有無は必然的に自然科学的方法で解析可能になります。
という回答ですが、僕の質問は「検証が可能か」でしたので、

「現象的意識の有無は必然的に自然科学的方法で「検証可能」になる」
と読み替えても良いのでしょうか。意味はあってますか。

横山信幸さん。

実は「宇宙人の現象的意識/クオリア」について議論することに疑問を感じています。
何の為に「宇宙人の現象的意識/クオリア」なんかについて議論なんかしているんだろう、とふと疑問を感じてしまいました。
このような議論をすることに何の意義があるのか。
無意味過ぎる議論なのではないのか。
もともと議論すべき本論から逸脱してしまっているのではないか。
脱線のし過ぎではないのか。
このように感じて現在の方向で考え続けることを停止している状態です。

議論を本論に戻すべきであると考えますが如何でしょうか?

がみさん。

横山信幸さんへの返答で述べましたとおり「宇宙人のクオリア」について議論することに疑問を感じています。
この点についてがみさんは如何お考えでしょうか?

〉ある唯物論者さん

ゼリー星人の話でも人間の話でもどちらでも構いません。「原理」と言う以上、人間にはあてはまるがゼリー星人にはあてはまらないなどということはあってはなりませんから。

異邦人さん、

> Date: Mon, 28 Oct 2013 13:15:34> 僕はこのページ本文で書いたとおり、自分自身の現象的意識やクオリアでさえ、語り得ないナンセンスなものだと捉えています。この点については工藤さんと同意見です。> だから、もちろん宇宙人の現象的意識も語り得るはずがないと考えています。> ですので、その方向で議論を進めたいと目論んでいます。
> Date: Mon, 28 Oct 2013 07:02:51〉異邦人さんは同一説論者に分類されると思いますよ。タイプ-タイプ同一説です。> タイプ同一説はタイプ分析から外れた未知の脳過程については言及できないという弱点を持っています。未知の宇宙人の脳過程を言及できず、ひいては人間の現象的意識について言及することができません。> 異邦人さんの唯物論も同様の弱点を持つのではないかと考えて宇宙人の質問をしています。

と、一昨日述べたとおりの意図で、異邦人さんの唯物論が語り得る現象的意識が有意味にならないことを示すための一段階として宇宙人の話をしています。
僕が示そうとしている「異邦人さんの唯物論においての現象的意識の無意味性」には興味がないということでしたら、この話は打ち切りますが、その方がいいですか。

横山信幸さん。(>2013年10月30日 (水) 10時33分)

>異邦人さんは同一説論者に分類されると思いますよ。タイプ-タイプ同一説です。> タイプ同一説はタイプ分析から外れた未知の脳過程については言及できないという弱点を持っています。未知の宇宙人の脳過程を言及できず、ひいては人間の現象的意識について言及することができません。> 異邦人さんの唯物論も同様の弱点を持つのではないかと考えて宇宙人の質問をしています。

もともと同一説というのは心的現象が如何なる物理的現象であるか分からないという前提から出発しています。
その前提で心的現象と物理的現象との対応関係を考えるというのが同一説の考え方です。
私の唯物論は心的現象が如何なる物理的現象であるか分かる、心的現象が如何なる物理的現象であるか示し得る、という前提で考えています。
このように私の唯物論は同一説とは根本的に異なっています。
私の唯物論は同一説と同様な弱点は持っていません。

>一昨日述べたとおりの意図で、異邦人さんの唯物論が語り得る現象的意識が有意味にならないことを示すための一段階として宇宙人の話をしています。

宇宙人の話で私の唯物論の語る現象的意識が有意味か否かを判定することは出来ないと考えます。

>僕が示そうとしている「異邦人さんの唯物論においての現象的意識の無意味性」には興味がないということでしたら、この話は打ち切りますが、その方がいいですか。

もし宇宙人の話によってしか「私の唯物論においての現象的意識の無意味性」について語りえないということでしたら、この話題については打ち切るのが妥当であろうと思います。
宇宙人を持ち出さず人間の範囲で語るのであれば議論を続行することは可能です。

がみさん。(>2013年10月30日 (水) 08時58分)

>ゼリー星人の話でも人間の話でもどちらでも構いません。「原理」と言う以上、人間にはあてはまるがゼリー星人にはあてはまらないなどということはあってはなりませんから。

唯物論の前提「あらゆる現象は物理的現象であり客観的に記述可能である」から言ってゼリー星人についてもクオリアの有無を自然科学的方法により判定可能であるとは考えています。
ただ人間と脳の構造が全く異なるという前提で考えることになりますので、かなり煩雑な説明が必要になります。
このような煩雑な説明を尽くしてゼリー星人のクオリアについて語ることに如何ほどの意義があるのかと考えますと甚だ疑問です。
クオリアについて議論するのであれば人間のみを対象として行うのが妥当であろうと考えています。

がみさんの問題意識がどの辺りにあるのか、どのような答えを求めておられるのか、分かりませんのでどのように答えるのが妥当であるのか判断できずにいます。
がみさんはクオリアをどのように捉えておられるのかお伺いできませんでしょうか?

例えば横山信幸さんは「有るとも無いとも言えない語り得ないものである」とお考えのようですが、がみさんも同じようにお考えでしょうか?それとも別のお考えをお持ちでしょうか?

異邦人さん

宇宙人のはなしから現象的意識の無意味性の主張へと展開する討論を楽しんでもらえるかと思っていたのですが、興味がないということでしたら止めることにします。
僕は異邦人さんの唯物論が現象的意識を語り得ないと考えていますので、ここでの討論に関して僕の興味は現象的意識の否定です。
ですから、宇宙人の話を止めて人間の話をしても、論旨は基本的に同じです。
同じ話だったら興味がないということでしたら、人間の話も止めますが、止めた方がいいですか。

横山信幸さん。(>2013年10月30日 (水) 14時46分)

宇宙人ではなく人間についての話でしたら議論の続行は可能です。
;
<唯物論の分類について>

<心は実在するか9と10>心の哲学地図の唯物論の項目に私の唯物論は含まれていません。
私は唯物論を大きく「還元主義唯物論」と「非還元主義唯物論」に分類します。
「還元主義唯物論」は心的現象を物理的現象に還元する方法を明示的に示す唯物論です。
「非還元主義唯物論」は「対応主義唯物論」とも呼びます。
「非還元主義唯物論」は心的現象を物理的現象に還元しない唯物論です。
還元を最初から諦めて対応関係のみにより心の哲学を語る唯物論です。

私の唯物論は「還元主義唯物論」です。
心の哲学地図の唯物論の項目に含まれているのは全て「非還元主義唯物論」です。
心の哲学地図には「還元主義唯物論」は含まれていません。

異邦人さん、

確認させてください。
話の対象を人間にしても、論旨は一緒ですよ。それでもいいですか。

「受けてたつ」と言って論戦を楽しんで下さるのなら僕も喜んでお話しさせていただきます。僕は異邦人さんの話を興味深く思っていますので、異邦人さんが本ブログに来てくださって嬉しく思っています。しかし、異邦人さんが余り興味をお持ちでないのなら残念ですが、無理してもらわなくてもいいですよ。

横山信幸さん。(>2013年10月30日 (水) 21時46分)

>話の対象を人間にしても、論旨は一緒ですよ。それでもいいですか。

もちろんそれで構いません。
お互いに背景が異なりますから議論の前提を共有できなかったり、問題意識を共有できなかったり、議論の意義を共有できなかったりする場合があります。
議論において、どこまで共有可能できてどこから共有できないのか、を確認するのも議論の大事な目的の一つですので、それが確認できれば議論の目的の一つは達成できたことになります。
議論をしながらそれを確認していければ十分です。
最初から、この話題は共有できそうに無いから止めておこう、なんてことを考える必要は全くありません。
自由に議論して議論の中でその辺りを確認していければ、それがベストであるものと思います。

異邦人さん、

> Date: Wed, 30 Oct 2013 07:25:41 > 質問2.> > 現象的意識の有無は必然的に自然科学的方法で解析可能になります。> という回答ですが、僕の質問は「検証が可能か」でしたので、> > 「現象的意識の有無は必然的に自然科学的方法で「検証可能」になる」> と読み替えても良いのでしょうか。意味はあってますか。

上の質問はそのままで生きていることにさせてください。
よろしくお願いします。

横山信幸さん。(>2013年10月31日 (木) 09時42分)

>「現象的意識の有無は必然的に自然科学的方法で「検証可能」になる」> と読み替えても良いのでしょうか。意味はあってますか。

その通り考えています。
現実上は不可能であるが原理上は検証可能である、と考えています。

<現象的意識/クオリアの存在に関する質問>
私にも一つ質問させて下さい。
私は現象的意識/クオリアについて存在は明白であるが内容は語りえぬものであると考えています。
横山信幸さんはその存在についても語りえぬものであるとお考えなのでしょうか?
例えば「痛み」は現象的意識/クオリアです。
「痛み」は誰でも感じるものでありその存在は明白であると私は考えるのですが、横山信幸さんは「痛み」が存在しているか否かも語りえぬものであるとお考えなのでしょうか?
「痛み」の内容が語りえぬものであると同時に「痛み」の存在自体も語りえぬものであるとお考えなのでしょうか?

異邦人さん、

>「痛み」が存在しているか否かも語りえぬものであるとお考えなのでしょうか?

痛そうな振舞いをしていたり傷を受けていたり「痛い」と言っていたりするような機能面に現れたり言語化できたりする対象としての「痛み」はその存在を認めます。しかし、言語化できない「痛みそのもの」については語りえないと思っています。そしてそれが存在しないかどうかという質問には答えられません。この前お答えしたように、それはナンセンスでしかないものなので、「無い」とも「有る」とも言えないのです。

ご質問に関する内容を本ブログで去年7月に書いていますので、よろしければそちらもご覧ください。<独我論を論駁する3>
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/311-a503.html

異邦人さん、

「異邦人さんの唯物論では、第三者の現象的意識やクオリアが脳状態によって完全に決定される」という文は分析文だとする推論を立てました。正しい推論ですか。間違っていたらどこが間違いかを教えてください。
ちなみに、分析文とは、経験的に世界を振り返らなくてもその真偽を決定できる文です。「妻は独身だ」は必然的に偽であり、真偽を測るのに実世界のあり方を振り返る必要がないので、分析文です。
総合文とは、経験的に世界を振り返らないとその真偽が決定できない文です。「息子は独身だ」は文の構成だけからはその真偽を測ることができず、実世界を振り返って確かめる必要があるので総合文です。


1.異邦人さんの唯物論では、心的状態は因果的にも存在論的にも脳状態に還元できることが前提である。

2.それゆえ、現象的意識やクオリアも脳状態によって完全に決定されることも必然である。

3.だから、「現象的意識やクオリアが脳状態によって完全に決定される」は、経験的に世界を振り返らなくてもそれが真なであることが分かるような言明である。

4.一方、現象的意識やクオリアは第三者の経験によって直接確認されることはできない。

5.それゆえ、「現象的意識やクオリアが脳状態によって完全に決定される」は、第三者が経験的に世界を振り返って確かめることはできない。

6.よって、「異邦人さんの唯物論では、第三者の現象的意識やクオリアが脳状態によって完全に決定される」は分析文である。

横山信幸さん。(>2013年11月 1日 (金) 07時23分)

<分析文について>

分析文が仰るとおりの意味だとしますと、
私の主張は分析文であることは間違いありません。
「物質のみが実在である」(唯物論)という前提から、
「全ての現象は物理的現象である」という命題が必然的に導かれ、
「全ての心的現象も物理的現象である」という命題が必然的に導かれ、
「現象的意識やクオリアも物理的現象である」という命題が必然的に導かれます。
この命題を導くのに経験は不要です。

>1.異邦人さんの唯物論では、心的状態は因果的にも存在論的にも脳状態に還元できることが前提である。

その通りです。

>2.それゆえ、現象的意識やクオリアも脳状態によって完全に決定されることも必然である。

その通りです。

>3.だから、「現象的意識やクオリアが脳状態によって完全に決定される」は、経験的に世界を振り返らなくてもそれが真であることが分かるような言明である。

その通りです。

>4.一方、現象的意識やクオリアは第三者の経験によって直接確認されることはできない。

現実上は不可能ですが、原理上は自然科学的方法によって客観的に可能です。
自然科学的方法を用いず、人間によって直接確認することは現実上も原理上も不可能です。

>5.それゆえ、「現象的意識やクオリアが脳状態によって完全に決定される」は、第三者が経験的に世界を振り返って確かめることはできない。

同上です。

>6.よって、「異邦人さんの唯物論では、第三者の現象的意識やクオリアが脳状態によって完全に決定される」は分析文である。

その通りです。

横山信幸さん。(>2013年10月31日 (木) 19時13分)

『「痛みそのもの」については語りえない』というのはもともとからのお互いの共通認識であると思いますのでその点については特に問題はありません。
「痛みの存在」というのが今回の問題であるわけですが、それについては横山信幸さんの仰ることが今ひとつ腑に落ちません。
<独我論を論駁する3>を再読致しましたが言語論を用いていることもあって私には納得できないところです。
これはお互いの考え方の相違、立場の違いということであろうと理解しています。
ですのでこの点についてこれ以上お返事は求めません。

異邦人さん、

言語の領域内で「痛みの存在」を問うことができるのなら、言語論を問題にせずにすますことも可能でしょうが、「クオリア・現象的意識」など言語の限界を越えて語り得ない範囲の内容を考えるには言語論は必須だと思います。どんなことでも言語の領域内で語り得る、という考えは迷信でしょう。でも、この点はこれ以上突き詰めないということですから、僕もこのくらいにしておきます。

サールの第2段書きました。前回のではサールの説の、存在論的に還元しないというところで、異邦人さんから反発されてしまいましたから、今回は存在論的に還元できないと言っても結構使えるかなり正当な一元論であることを強調して書いてみました。
異邦人さんの唯物論とはかなり相性が良いと思います。
よかったら、見てください。

異邦人さん、

やはり僕は、心的状態が脳状態に存在論的にも還元できるということを疑っています。
以下、その論拠です。

AがBに存在論的に還元できるならば、AとBはあらゆる表現場面で交換可能なはずです。
だから、「クオリアは第三者の経験によって直接的に確認できない」という言明の「クオリア」を「脳状態」で言い替えても意味は変わらないはずです。ところが、「脳状態は第三者の経験によって直接的に確認できない」と言ってしまうと明らかに意味が変わってしまいます。
それゆえ、心的状態が脳状態に還元できるのは、因果的な還元に限ってのことで、存在論的には還元できるとは限らないとしなければならないのじゃないでしょうか。

いかがでしょうか。

独我論は一人称が全てを包摂する。唯物論は三人称が全てを包摂する。同型に見えるんですけど。そういうのもあるよね~って、他の主義主張に寛容だったりするのも似てる。それから、独我論も唯物論も一人称が語っているところ、一緒じゃないですか。きっと裏でつながってると思う。

taatooさん、こんばんは。

僕もtaatooさんと似た考えをしています。独我論も実在論も唯物論もいずれも、結局は私的言語での解釈によって世界を理解しようとしているので、その点で同じ穴のムジナだと。
去年、<独我論を論駁する1>でそのことを論じました。
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/19-cbfa.html

taatooさんが言っていることとはちょっと違いますかね。違う視点の新しいアイデアであったら、すごく興味があります。思索の実が実ってからでもいいですので、ぜひ教えてください。

横山信幸さん。(>2013年11月 1日 (金) 23時28分)

>AがBに存在論的に還元できるならば、AとBはあらゆる表現場面で交換可能なはずです。
だから、「クオリアは第三者の経験によって直接的に確認できない」という言明の「クオリア」を「脳状態」で言い替えても意味は変わらないはずです。ところが、「脳状態は第三者の経験によって直接的に確認できない」と言ってしまうと明らかに意味が変わってしまいます。

「クオリア」は「脳状態」の一部でありイコールではありません。
ですから当然入れ替えによって意味は変化します。
もし仮に「クオリア」と「脳状態」が完全に同一であれば、入れ替えによって意味が変化することはありません。
人間がクオリアを直接確認するのは現実上も原理上も不可能です。
自然科学的方法によるのであれば原理上は客観的に確認可能です。

>それゆえ、心的状態が脳状態に還元できるのは、因果的な還元に限ってのことで、存在論的には還元できるとは限らないとしなければならないのじゃないでしょうか。

上で述べたとおり存在論的に還元可能であることの反例にはなっていません。

『サールの「中国語の部屋」と統語論と意味論』を読ませて頂きました。
<統語論と意味論について>

ロボットを考えます。
このロボットは純機械的仕組みでありコンピュータ仕掛けの脳を持ちます。
このロボットは生存機能が組み込まれており自立的に行動します。
このロボットは志向性を持ちます。
このロボットは生存のために常に環境(自分自身を含む)に注意を向けています。
この常に環境に注意を向けるという働きが志向性です。
意味論は志向性から生まれます。
生存機械(生存を目指して自立的に行動する系)からは必然的に志向性が生まれ意味論が生まれます。
サールがコンピュータ(プログラム)は「心にならない」「意味論的内容を持たない」としたのは誤っています。

<中国語の部屋>

我々日本人は日本語を理解しています。
日本語の質問に答える場合、脳(心)の中では無数の工程に分かれて情報処理が行われます。
無数の工程は機械的に質問を記憶と突き合わせて答えを作り出しています。
各工程は日本語について全く知りません。
各工程は機械的に質問を記憶と突き合わせているだけです。
このように脳(心)の中の各工程は全く日本語を知らないにも拘らず、結果として適切な答えが生み出されます。
脳(心)の中のどの部分も日本語を知らないにも拘らず、脳(心)全体としては日本語を理解していることになります。
これが理解するということの本質です。
中国語の部屋の中にいる人は中国語を全く理解していなくても、中国語の部屋自体は中国語を理解していることになります。
それが中国語を理解するということの本質です。
サールの結論は誤っています。

異邦人さん、

>「クオリア」は「脳状態」の一部でありイコールではありません。ですから当然入れ替えによって意味は変化します。もし仮に「クオリア」と「脳状態」が完全に同一であれば、入れ替えによって意味が変化することはありません。

分かりました。訂正します。

問い1.「クオリア」は「脳状態の或る一部分」でなら存在論的に還元できますか。

問い2.「クオリア」が「脳状態の或る一部分」に存在論的に還元できるとするなら、「クオリアを直接確認するのは不可能です」と「脳状態の或る一部分を直接確認するのは不可能です」は同じ意味になりますか。

.「クオリア」が「脳状態の或る一部分」に存在論的に還元できないのなら、「クオリア」と存在論的に還元できるようにして、脳状態を指示するにはどう言いかえればいいですか。

異邦人さん、

も一つ質問をつけたします。よろしくお願いします。

問い3.分析命題は科学的仮説や科学的法則になり得ますか。

横山信幸さん。

>問い1.「クオリア」は「脳状態の或る一部分」でなら存在論的に還元できますか。

存在論的に還元可能です。
ただクオリアを還元する場合は正体不明の対象を概念化するという脳(心)の高度な働きが関係していることを十分に考慮する必要があります。
単純な対応関係によっては還元できません。

>問い2.「クオリア」が「脳状態の或る一部分」に存在論的に還元できるとするなら、

この前提と下記の結論がどう繋がっているのか、把握できません。

>「クオリアを直接確認するのは不可能です」と「脳状態の或る一部分を直接確認するのは不可能です」は同じ意味になりますか。

先ず「クオリアを直接確認するのは不可能です」という前半命題の真偽を確認する必要が有ります。
「直接確認する」というのが「人間が」ということであれば不可能であり前半命題は真になります。
「直接確認する」というのが「自然科学的方法で原理的に」ということであれば可能であり前半命題は偽になります。

この前半命題が偽である場合は上記質問は無意味になります。
ですので以下はこの前半命題が真である場合を考えます。

後半命題「脳状態の或る一部分を直接確認するのは不可能です」について考えます。
「脳状態の或る一部分」というのが「クオリア」に対応する部分であるならば前半命題と後半命題は同じ意味になり、そうでなければ違う意味になります。

>問い3.分析命題は科学的仮説や科学的法則になり得ますか。

「分析命題」「総合命題」という語の意味が横山信幸さんの定義する意味であるものとしますと答えは「NO」です。科学的仮説や科学的法則は「総合命題」です。

横山信幸さんの定義による「分析命題」「総合命題」という用語法には違和感があります。
それはカントの用語法と大きく異なっているからです。
カントの場合は命題を「純粋命題(アプリオリな命題)」と「経験命題(アポステリオリな命題)」に分けます。
それぞれをさらに「分析命題」と「総合命題」に分けます。
つまり「分析命題」には「純粋命題」も「経験命題」もありますし、同様に「総合命題」にも「純粋命題」と「経験命題」があります。

横山信幸さんの定義による「分析命題」はカントの「分析命題」と異なり、横山信幸さんの定義による「総合命題」はカントの「総合命題」と異なります。
横山信幸さんの定義による「分析命題」はカントの「純粋命題」に当たり、横山信幸さんの定義による「総合命題」はカントの「経験命題」に当たります。

もちろんカントの定義が絶対ということではなく、横山信幸さんの定義も有効であろうと思います。
ですが「分析命題」「総合命題」という用語をカントの意味で捉える人も多いと思いますので、もしカントと異なる用語法で使うのであれば、そのことを明示的に断ったほうが議論の混乱を避ける意味でベストであるものと考えます。

異邦人さん、こんばんは。

1・
>この前提と下記の結論がどう繋がっているのか、把握できません。

存在論的に還元できることの条件の一つが、還元できる対象が相互交換可能なことだからです。「クオリア」と「脳状態の或る一部分」が存在論的に根源可能ということは、「クオリアを直接確認するのは不可能です」の「クオリア」を「脳状態の或る一部分」と交換できるということだからです。…ということを意図しています。


2・
>「脳状態の或る一部分」というのが「クオリア」に対応する部分であるならば前半命題と後半命題は同じ意味になり、そうでなければ違う意味になります。

「脳状態の或る一部分」というのが「クオリア」に対応する部分であると考えても、「クオリアを直接確認するのは不可能です」と「脳状態の或る一部分を直接確認するのは不可能です」は異なる意味になると認めてもらえると考えていたのですが、…そうですか。同じ意味ですか。分かりました。
ということは、「クオリアに対応する脳状態の或る一部分」を人間が直接確認するのは不可能だと考えるということですね。

3・
異邦人さんが「自然科学的方法」という言葉で意図されている内容が分かりません。「仮説を立てて実験観察によって検証する」という意味ではなさそうですね。


4・
>横山信幸さんの定義による「分析命題」「総合命題」という用語法には違和感があります。それはカントの用語法と大きく異なっているからです。

たしかにおっしゃる通りですね。「分析的」か「総合的」かの視点ではなく、「アプリオリ」か否かの視点で考えなくてはならない問題でした。

「アプリオリ」とは「それが正しいかどうかを決めるのに経験を必要としない」ことをといい、「アポステリオリ」とは「それが正しいかどうかを決めるのに経験を必要とする」ことをいう。

この意味付けで再度質問させてください。

4・1.「「異邦人さんの唯物論では、第三者の現象的意識やクオリアが脳状態によって完全に決定される」はアプリオリに真である。」…これは正しいですか。

4・2.「アプリオリに真な命題は科学的仮説や科学的法則になり得ない。科学的仮説や科学的法則の正しさを測るには経験が必要である。」…これは正しいですか。


異邦人さん、

すいません。
質問をつけ加えさせてください。

1.「クオリア」は一人称的な表現で根源的に私秘性をもち、「脳状態のある一部」は三人称的な表現で私秘性をもたないと、思いますが、異邦人さんはこの二つの表現がまったく同じ内容であると、本当に考えていらっしゃるのでしょうか。

2.
異邦人さんが「自然科学的方法」という言葉で意図されている内容が分かりません。「仮説を立てて実験観察によって検証する」という意味ですか。

3.
「アプリオリ」とは「それが正しいかどうかを決めるのに経験を必要としない」ことをといい、「アポステリオリ」とは「それが正しいかどうかを決めるのに経験を必要とする」ことをいう。
この意味付けで、
3・1.「「異邦人さんの唯物論では、第三者の現象的意識やクオリアが脳状態によって完全に決定される」はアプリオリに真である。」…これは正しいですか。

3・2.「アプリオリに真な命題は科学的仮説や科学的法則になり得ない。科学的仮説や科学的法則の正しさを測るには経験が必要である。」…これは正しいですか。

4.
やはり、分析文かどうかも知りたいです。

分析文とは、主語に述語の意味が含まれているので、文の構成だけからその真偽を測り得る文のこと。
この意味付けにおいて、

4・1.「「異邦人さんの唯物論では、第三者の現象的意識やクオリアが脳状態によって完全に決定される」は分析文ですか。

4・2.「アプリオリに真な命題は科学的仮説や科学的法則になり得ない。科学的仮説や科学的法則の正しさを測るには経験が必要である。」は分析文ですか。
以上です。煩雑になって来たかもしれませんが、よろしくお願いします。

異邦人さん、

たいへん失礼しました。質問を間違えていました。

4・2の質問は、分析文は科学的仮説や科学的法則になり得ますか。

でした。差し替えさせてください。ごめんなさい。どうぞよろしくお願いします。

横山信幸さん。

>存在論的に還元できることの条件の一つが、還元できる対象が相互交換可能なことだからです。「クオリア」と「脳状態の或る一部分」が存在論的に根源可能ということは、「クオリアを直接確認するのは不可能です」の「クオリア」を「脳状態の或る一部分」と交換できるということだからです。…ということを意図しています。

もし「相互交換可能」ということが問題なのであれば後半の質問のみで十分であり前半の前提が必要であるとは思われません。
また前半は「還元可能である」という肯定命題になっているのに後半は「不可能です」という否定命題になっており、前半との繋がりが不明です。
ある命題を前提として別の命題を導く場合、その二つの命題の間には一定の繋がりが必要です。
今回の前半と後半はどう繋がっているのかがはっきりしません。

>「脳状態の或る一部分」というのが「クオリア」に対応する部分であると考えても、「クオリアを直接確認するのは不可能です」と「脳状態の或る一部分を直接確認するのは不可能です」は異なる意味になると認めてもらえると考えていたのですが、…そうですか。同じ意味ですか。分かりました。
ということは、「クオリアに対応する脳状態の或る一部分」を人間が直接確認するのは不可能だと考えるということですね。

繰り返し述べていますとおり、
人間が直接確認するのは現実上も原理上も不可能です。
自然科学的方法を用いるのであれば原理上は確認可能です。

>異邦人さんが「自然科学的方法」という言葉で意図されている内容が分かりません。「仮説を立てて実験観察によって検証する」という意味ではなさそうですね。

「自然科学的方法」ということは必然的に「仮説を立てて実験観察によって検証する」という意味になります。

現実上は不可能ですが、遥か遠い将来高度に自然科学が発達し脳(心)の詳細な分析が可能になった暁には、実際に「仮説を立てて実験観察によって検証する」ことが出来るようになるハズだと考えます。

「この世界が物質のみより成る」という唯物論の前提が正しいのであれば、
必然的にあらゆる現象は物理的現象であることになり、
必然的に自然科学的方法で原理的には全て客観的に記述可能であることになり、
全て客観的に解析可能であることになり、
全て客観的に検証可能であることになります。

>4・1.「「異邦人さんの唯物論では、第三者の現象的意識やクオリアが脳状態によって完全に決定される」はアプリオリに真である。」…これは正しいですか。

唯物論の前提「この世界は物質のみより成る」「あらゆる現象は物理的現象である」から質問の命題は必然的に導かれます。質問の命題を導くのに経験を必要としません。
その意味では質問は正しいといえます。

>4・2.「アプリオリに真な命題は科学的仮説や科学的法則になり得ない。科学的仮説や科学的法則の正しさを測るには経験が必要である。」…これは正しいですか。

先ず前半命題「アプリオリに真な命題は科学的仮説や科学的法則になり得ない」について考えます。
「科学的仮説や科学的法則」がアプリオリな命題ではなくアポステリオリな命題であることは確かです。
私は「アプリオリな命題が科学的仮説や科学的法則になり得るか否か」を問うのは無意味であると考えております。
「アプリオリに真な命題」であれ「アプリオリに偽な命題」であれ、そのようなことを問うことは無意味であるものと考えます。
ましてや「アプリオリに偽な命題」を除いて「アプリオリに真な命題」の場合のみ問うというのはもっと無意味であるものと考えます。

後半命題「科学的仮説や科学的法則の正しさを測るには経験が必要である」についてはその通りであるものと考えます。

>1.「クオリア」は一人称的な表現で根源的に私秘性をもち、「脳状態のある一部」は三人称的な表現で私秘性をもたないと、思いますが、異邦人さんはこの二つの表現がまったく同じ内容であると、本当に考えていらっしゃるのでしょうか。

唯物論では原理的に私秘性は一切存在しません。
唯物論では原理的に私秘的現象は一切存在しません。
唯物論ではあらゆる現象は全て原理的には客観的に記述可能であり、客観的に解析可能であり、客観的に検証可能です。
ですので当然二つの表現は全く同じ内容です。

>2.
異邦人さんが「自然科学的方法」という言葉で意図されている内容が分かりません。「仮説を立てて実験観察によって検証する」という意味ですか。

現実上は不可能ですが、遥か遠い将来高度に自然科学が発達し脳(心)の詳細な分析が可能になった暁には、実際に「仮説を立てて実験観察によって検証する」ことが出来るようになるハズだと考えます。

「この世界が物質のみより成る」という唯物論の前提が正しいのであれば、
必然的にあらゆる現象は物理的現象であることになり、
必然的に自然科学的方法で原理的には全て客観的に記述可能であることになり、
全て客観的に解析可能であることになり、
全て客観的に検証可能であることになります。

> 3・1.「「異邦人さんの唯物論では、第三者の現象的意識やクオリアが脳状態によって完全に決定される」はアプリオリに真である。」…これは正しいですか。

唯物論の前提「この世界は物質のみより成る」「あらゆる現象は物理的現象である」という前提から質問の命題は必然的に導かれます。質問の命題を導くのに経験を必要としません。
その意味では質問は正しいといえます。

>3・2.「アプリオリに真な命題は科学的仮説や科学的法則になり得ない。科学的仮説や科学的法則の正しさを測るには経験が必要である。」…これは正しいですか。

先ず前半命題「アプリオリに真な命題は科学的仮説や科学的法則になり得ない」について考えます。
「科学的仮説や科学的法則」がアプリオリな命題ではなくアポステリオリな命題であることは確かです。
私は「アプリオリな命題が科学的仮説や科学的法則になり得るか否か」を問うのは無意味であると考えております。
「アプリオリに真な命題」であれ「アプリオリに偽な命題」であれ、そのようなことを問うことは無意味であるものと考えます。
ましてや「アプリオリに偽な命題」を除いて「アプリオリに真な命題」の場合のみ問うというのはもっと無意味であるものと考えます。

後半命題「科学的仮説や科学的法則の正しさを測るには経験が必要である」についてはその通りであるものと考えます。

>分析文とは、主語に述語の意味が含まれているので、文の構成だけからその真偽を測り得る文のこと。この意味付けにおいて、
>4・1.「「異邦人さんの唯物論では、第三者の現象的意識やクオリアが脳状態によって完全に決定される」は分析文ですか。

唯物論の前提「この世界は物質のみより成る」「あらゆる現象は物理的現象である」を認めたうえで質問の命題を考えるのであれば仰るとおり分析文になるものと考えます。

>4・2の質問は、分析文は科学的仮説や科学的法則になり得ますか。

科学的仮説や科学的法則には分析文も総合文も含まれるでしょうから、科学的仮説や科学的法則に分析文が含まれるのは確かであるものと考えます。

異邦人さん、

1、
>「自然科学的方法」ということは必然的に「仮説を立てて実験観察によって検証する」という意味になります。

その意味において、「クオリアが脳状態である」という仮説は脳状態を調べるだけで検証できますか。

2、
>科学的仮説や科学的法則には分析文も総合文も含まれるでしょうから、科学的仮説や科学的法則に分析文が含まれるのは確かであるものと考えます。

と仰るのに反して、僕は分析文は科学的仮説や科学的法則にはなりえないと考えています。たとえば、「速度=距離÷時間」は分析的な発言だから、法則や仮説ではありません。科学的法則や仮説で分析文であるようなものにはどんなものが考えられますか。例が有れば挙げてください。

横山信幸さん。

>その意味において、「クオリアが脳状態である」という仮説は脳状態を調べるだけで検証できますか。

原理的には検証可能であると考えます。
クオリアも脳状態もどちらも物理的現象ですから原理的には自然科学的方法で検証可能と考えます。

>と仰るのに反して、僕は分析文は科学的仮説や科学的法則にはなりえないと考えています。たとえば、「速度=距離÷時間」は分析的な発言だから、法則や仮説ではありません。科学的法則や仮説で分析文であるようなものにはどんなものが考えられますか。例が有れば挙げてください。

「速度=距離÷時間」やそれに類するものも含めて考えていましたので分析文であるとお答えしたのですが、それらを除くということであれば仰るとおり分析文ではないということになるものと思います。

横山信幸さん。

以下「中国語の部屋がダメなわけ<心は実在するか16>」への私の見解

<中国語の部屋と意味論>

意味論は我々が「環境と主体的に関わりあう存在であること」から生まれます。
我々は生存機械であるので「環境と主体的に関わりあい」ます。
そこから意味論が生まれます。
「環境と主体的に関わりあう存在であること」が意味論が生まれるための必須条件です。
意味論は言語論から生まれるのではありません。言語論とは無関係です。

中国語の部屋は生存機械(生存システム)であることは想定されていません。
ですので中国語の部屋からは意味論は生まれません。
そのことは生存機械である人間には適用できません。
中国語の部屋で得た結論を生存機械である人間に拡張し適用したのがサールの誤りです。

言語論で考えたのではこの問題の本質を捉えることはできません。

<「メアリーの部屋」について>

メアリーは生存機械ですから当然意味論的認識を行います。
ですから「メアリーの部屋」の問題は意味論とは無関係です。
;
メアリーは外の世界に対する知識は十分に持っているが、外の世界の経験を持っていない、というのがこの物語の想定です。
ですので経験の有無を問題にするのは間違っています。

メアリーは確かに外の世界に対する知識を十分に持っていたのか否か、それが問題であり、それが問われているわけです。

メアリーが外の世界(カラー環境)に接したとき新しい知識を得るのはメアリーが予め獲得できない知識があったからです。
クオリアに関する知識は予め獲得することが出来ません。
それがこの問題の本質です。
メアリーはカラーに関するクオリアを新たに獲得します。
クオリアは言語化できないため予め知識として獲得することが出来ません。
これがこの問題の本質です。
機能的意識に関するものであれば予め知識として獲得できます。
経験の無いものでも機能的意識に関するものであれば新しい環境で新たに獲得する必要はありません。
ですので経験の有無はこの問題の本質ではありません。

異邦人さん、

1.「クオリアが脳状態てある」という文の真偽を検証するのに脳状態を調べるだけでいいのなら、今日の読売の朝刊の記事の真偽を検証するのに、今日の読売の朝刊の記事で確かめることも可能になってしまいませんか。

2.確認です。「速度=距離÷時間」が単なる定義であって、科学的法則や科学的仮説ではないことと、分析文が科学的法則や科学的仮説ではないこと、の2点認めてもらえたと思っていいですか。

横山信幸さん。

>1.「クオリアが脳状態てある」という文の真偽を検証するのに脳状態を調べるだけでいいのなら、今日の読売の朝刊の記事の真偽を検証するのに、今日の読売の朝刊の記事で確かめることも可能になってしまいませんか。

新聞記事を検証するには現場と突き合わせる必要があります。
脳状態の場合はそれとは事情が異なります。
脳状態には元になる入力データ(感覚データ、例えば視覚に関する神経パルスの束等)が含まれていますので、それのみで検証可能です。
それ以外に脳状態には
処理内容(入力データから認識結果が生成される全工程)、
出力データ(機能的意識や現象的意識として認識される内容)、
それらの処理を可能にする高度な概念生成処理、
等が全て含まれています。
ですのでそれのみで検証可能です。

>2.確認です。「速度=距離÷時間」が単なる定義であって、科学的法則や科学的仮説ではないことと、分析文が科学的法則や科学的仮説ではないこと、の2点認めてもらえたと思っていいですか。

仰る通りでよいと思います。

異邦人さん、

1.「クオリアが脳状態である」という文の真偽を検証するのに脳状態それのみで検証可能とされるのに納得がいきません。
「A=B]という文を検証するには、Aだけを調べても、Bだけを調べても検証することはできない、主語Aと述語Bの両方を検証することが必要だと、僕は思うのですが。異邦人さんはAを調べるだけで検証できるとお考えだということですか。

2.
(あ)投稿: ある唯物論者(異邦人) | 2013年11月 4日 (月) 20時55分
>>分析文とは、主語に述語の意味が含まれているので、文の構成だけからその真偽を測り得る文のこと。この意味付けにおいて>>4・1.「「異邦人さんの唯物論では、第三者の現象的意識やクオリアが脳状態によって完全に決定される」は分析文ですか。
>唯物論の前提「この世界は物質のみより成る」「あらゆる現象は物理的現象である」を認めたうえで質問の命題を考えるのであれば仰るとおり分析文になるものと考えます。

(い)投稿: ある唯物論者(異邦人) | 2013年11月 6日 (水) 20時20分
>>2.確認です。「速度=距離÷時間」が単なる定義であって、科学的法則や科学的仮説ではないことと、分析文が科学的法則や科学的仮説ではないこと、の2点認めてもらえたと思っていいですか。>仰る通りでよいと思います。

(あ)(い)より、
「異邦人さんの唯物論では、第三者の現象的意識やクオリアが脳状態によって完全に決定される」は科学的法則や科学的仮説ではない。

合っていますか。

横山信幸さん。

>1.「クオリアが脳状態である」という文の真偽を検証するのに脳状態それのみで検証可能とされるのに納得がいきません。
「A=B]という文を検証するには、Aだけを調べても、Bだけを調べても検証することはできない、主語Aと述語Bの両方を検証することが必要だと、僕は思うのですが。異邦人さんはAを調べるだけで検証できるとお考えだということですか。

もともと「クオリアが脳状態である」というのは「この世界は物質のみより成る(唯物論)」という前提から必然的に出てくる結論であり別に脳状態の検証を必要としません。
つまりAやBを調べなくとも必然的に結論できます。
検証が必要であるのはクオリアが具体的にどのような脳状態であるのか、を知りたい場合のみです。

>(あ)(い)より、
「異邦人さんの唯物論では、第三者の現象的意識やクオリアが脳状態によって完全に決定される」は科学的法則や科学的仮説ではない。
合っていますか。

「現象的意識やクオリアが脳状態によって完全に決定される」というのは「この世界は物質のみより成る(唯物論)」という前提から必然的に出てくる結論です。
ですので「科学的法則や科学的仮説ではない」と言えるかもしれません。
経験的に検証されるものが「科学的法則や科学的仮説」であるとしますと、上記命題は経験を必要とせず導かれるという意味で「科学的法則や科学的仮説」でないと言えるかもしれません。

横山信幸さん。「科学的法則や科学的仮説」に関する補足

存在論の説に対して「科学的法則や科学的仮説であるか否か」を問うのは的外れであると思います。
存在論の説は存在論の説であり自然科学の説などではないのですから。
私の唯物論も存在論の説であり事情は同様です。

コメントすごい…汗
本文へ質問させてください。m(__)m

横山さんとチャ―マーズの意見の食い違い(現象的意識と反省的意識の見解の違い)って、「定義のチカラ」をどう前提に据えるか?という違いでしょうか?

横山さんは、『定義とは、「反省的な経過」をたどったら、その定義には「反省的な性質」が宿る』とお考えですよね。
だから、『「反省的な経過」をたどってるんだから、そりゃもう「当時のクオリア」じゃなくて、「当時のクオリアを、今反省しながら指しているだけ」で、それは「反省的意識」だ』と仰ってるんですよね?

チャ―マーズは、『定義とは、「反省的な経過」をたどってもその経過を無視して、対象を指すことができる』と考えてるのではないでしょうか。
だから、『「反省的な経過」をたどっても、定義に「反省的な性質」は宿らず、「当時のクオリア」を指すことができる』と言っているのでは?

この、「経過を無視できるかどうか?」が、冒頭の「定義のチカラ」です。
横山さんは「定義のチカラ反省という内観」を前提にしている。
そんな違いなのかな?と思いまして、冒頭の質問をさせて頂きました。

ついでに、SHIROくんは、「定義のチカラ>反省という内観」で、「現象的意識」とい言葉は、そのまま「当時のクオリア」を指すことができるような気がします。
なんでかというと、、

の前に、↑の質問ってあっていますでしょうか??

スミマセン!!上の文章の後半、下記に訂正です。(。-人-。)
HTMLが有効なせいか、「<>」が効きませんね。汗

・・・
この、「経過を無視できるかどうか?」が、冒頭の「定義のチカラ」です。
横山さんは「定義のチカラは、反省という内観より弱い」を前提にしていて、チャ―マーズは「定義のチカラは、反省という内観より強い」を前提にしている。
そんな違いなのかな?と思いまして、冒頭の質問をさせて頂きました。

ついでに、SHIROくんは、「定義のチカラは、反省という内観より強い」派で、「現象的意識」とい言葉は、そのまま「当時のクオリア」を指すことができるような気がします。
なんでかというと、、

の前に、↑の質問ってあっていますでしょうか??

SHIROさん、こんにちは。
僕はどうしてもウィトゲンシュタインへの傾倒から離れられず、文の意味というものも、その真偽そのものとその真偽をどう測るかという点にしか求められないように考えています。そのため、過去のクオリアや他者のクオリアというものもあるいは自分自身のクオリアについても、その真偽の根拠に到達するための機能的な何かがないものとして設定されているのなら、それを語る文には根拠のある真偽付けができるわけがないことを理由に、クオリアはナンセンスにしかならないとしています。
SHIROさんが言われている「反省的な経過」というものがそのように文の根拠を問うものとして考えられているなら、ご指摘の内容でよいと思います。
ただし、ですから、「定義」なるものを用語使いの設定方法だとして捉えるとしたら、定義の問題は必ずしもここで問題にしていることと同一の問題ではないのではないかという気がしています。
つまり、僕とチャーマーズでは用語使いの設定が違っているのではなく、文の真偽付けの根拠の有無を問題とするかどうかがズレているように思っています。

>「定義」なるものを用語使いの設定方法だとして捉えるとしたら、定義の問題は必ずしもここで問題にしていることと同一の問題ではないのではないかという気がしています。

なるほど。すごい。ほんと、すさまじい洞察力。ダヴィンチみたい。笑
どうもありがとうございます。

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