フォト
無料ブログはココログ

« クオリアとゾンビと現象判断のパラドクスがダメなわけ<心は実在するか13> | トップページ | サールの「中国語の部屋」と統語論と意味論<心は実在するか15> »

2013年10月27日 (日)

サールの因果的還元と存在論的還元<心は実在するか14>

ジョン・R・サール(1932~)は自らの心の哲学論を「意識の生物学的自然主義」と呼び、この考え方を使うことによってこれまでの心身問題を解決することができると豪語する。本節では、サールがどのようなアイデアで心身問題の解決を図ろうとしたのかを考える。

心は物理的法則に依存している

物理的な宇宙が原子一つに至るまで現にそうであるようにあり、それでいながら意識が存在しないということは論理的に可能である。だが、実際には物理的な宇宙が原子一つに至るまで現にあるようにあり、それでいてそのすべての物理的な性質が現にあるのとは違う、ということは論理的に不可能である。(サール「マインド心の哲学」邦訳p171)
或る事態が論理的にみて可能であるか否かは、それが記述される方法に依存している。宇宙で意識がまったく存在しないとしても物理的な粒子はあるはずだということは論理的に可能だろうか。答えはイエスである。しかし、さまざまな物事のなかで、意識を引き起こし現実化するような物理的な粒子の軌道を決定するような、自然法則を伴いつつ生じながらも、しかし意識が存在しないような、物理的な粒子の軌跡があるはずだということは論理的に可能だろうか。答えはノーである。意識が不在であるように記述することは論理的に可能である。しかし、意識が現実化する法則を伴いながら意識が不在であるように記述することは論理的に不可能である。(同p172)

このように言ってサールは、心が因果的に物理法則によって完全に決定されなければならないとする。哲学ゾンビは論理的に存在可能であるが、意識を生む物理法則が現にあるのであれば、同様の脳過程と持つ人間は誰でも意識が存在するとしなければならない。だから、心は物理的でなければならないと考える。しかし、単純に心を物理的存在として還元してしまえば良いかと言うとそんなことはないと説く。心と身体の関係を正しく見るためには「意識の生物学的自然主義」が必要なのだと言う。
Photo_3

                                                                                   サールの説はタイプ同一説の一種として位置付けるべきか

意識の生物学的自然主義

意識の生物学的自然主義4つのテーゼ
1.意識状態――主観的、一人称的存在論をともなった意識状態――は、現実世界における現実の現象である。意識が錯覚であることを示すだけではそれを消去的に還元することはできない。また、意識は神経生物学的な基盤にも還元できない。なぜなら、三人称的な還元は、意識の一人称的な存在論を切り捨ててしまうからだ。
2.意識状態は、もっぱら脳内における低レベルの神経生物学的な過程によって引き起こされている。従って意識状態は、神経生物学的過程に因果的に還元できる。意識状態には、神経生物学的な基盤から独立したそれ自体の活動というものはまったくない。因果的に言えば、意識状態は神経生物学的な過程「とは別の」何かではない。
3.意識状態は、脳内において脳組織の性質として現実化されている。従って、意識状態はニューロンやシナプスよりも高レベルで存在している。個々のニューロンは意識を備えていない。だが、ニューロンから成る脳組織の諸部分は意識を備えている。
4.意識状態は、現実世界の中の現実の性質であるから因果的に機能する。たとえば私の意識にあらわれる喉の渇きは、私が水を飲む原因となる。
(同p153)

この考え方の基本的なポイントは2つである。
1つめは、意識状態は脳の物理的過程に因果的に還元できるが、消去的には還元できない、とする点で、
2つめは、意識状態は神経生科学的な過程によって生じるものであり、デジタルコンピュータでは生じない、とする点である。

 

心身問題

まず、1つめのポイントについて考えよう。
心身問題とは、心と身体を一元的に考えても二元的に考えても齟齬が出てしまうという、心身解釈に関する問題である。一元的に考えてみて、心がすべて物理的な身体に還元でき、心と身体は同一のものだと考えることにしてみよう。そうすると、心とは脳の状態や過程であることになり、せいぜい人間の行動や機能から判断できるような第三者的な内容しかないものになってしまうので、心の本来もっている一人称的な「痛み」の感じや赤い物を「赤い」と感じる感じが無いことになったり、無意味になったりしてしまう。また、二元的に考えてみて、心と身体がそれぞれ還元できない二つの別々のものだと捉えるなら、心と身体が因果的関係を持つことができなくなってしまう。目から得た視覚情報を心で感じたり、心で思った通りに身体を動かすことが不可能になったり説明できなくなったりしてしまう。

 

因果的還元と存在論的還元

この問題に対して、サールは「還元」という分析方法に対する認識を正しく改めることで解決できるという。
還元には二つの種類があり、因果的な還元と存在論的な還元(消去的な還元とも言う)を区別して捉えなければならないとするのだ。
因果的還元とは、ものの因果性によって還元をするというものである。たとえば、ハンマーは硬い。この硬さは鉄分子の振舞いから因果的に説明できる。或る分子構造が別の分子構造との間に斥力を持つというミクロレベルの物理的性質が、ハンマーの硬さというマクロレベルの原因になっているので、「ハンマーの硬さは分子の振舞いで説明できる」と言うことができる。このように、「Aであることの原因のすべてがBによって説明できる」と言えたり「Aであることの仕組みがBによって説明できる」と言えたりするとき、「AはBに因果的に還元できる」と言う。
一方、存在論的還元は、その存在そのものを完全に入れ替えてしまえることが可能だとするような還元である。たとえば、「落日」は「観察者が地球上で太陽の見える位置から見えない位置へ動くような地球の自転」であると言い換えることができる。「観察者が地球上で太陽の見える位置から見えない位置へ動くような地球の自転」が原因となって「落日」があるわけではなく、「観察者が地球上で太陽の見える位置から見えない位置へ動くような地球の自転」そのものが「落日」なのである。因果的な説明ではなく、そのものの存在論的な意味によって言い換えるという還元である。このように「AはBそのものである」と言えるとき、「AはBに存在論的に還元できる」と言う。また、AはBに言い換えられることによって完全に消去されることが可能になるので、「消去的還元」とも言う。

このように還元を分類整理して考えてみると、因果的還元が存在論的還元である場合ももちろんあるが、因果的還元であっても存在論的還元ではないという場合もあることが分かる。因果的還元は必ずしも存在論的還元に一致しないのだ。
たとえば、ベートーベンの交響曲のすべてを空気の振動の仕方の組合せとして因果的に還元することは可能である。しかし、「第9番は空気の振動に他ならない」と言ってしまったとき、そこには表現されずに取りこぼされてしまう何らかの内容がある。

「私が耳にしたのは波の運動だけだ」と書く音楽評論家はその演奏の聴きどころを取り逃がしている。(マインドp162)

ベートーベンを聴くということは単に空気振動を受け取るということ以上の意味があるだろう。ベートーベンの音楽が音楽として聞こえるということの「仕組み」は空気振動の組合せによって説明することはできる。しかし、「ベートーベンの交響曲は空気振動そのものである」と言ってしまえば、そこに込められている「魂」や、演奏によって感じる「感じ」は漏れてしまうのだ。だから、ベートーベンの交響曲は因果的に空気振動に還元できるが、存在論的には還元できないと言える。

 

心は因果的に還元し存在論的に還元しない

心についても同じなのだ。存在論的には還元できないものなのだ。それを一概に、因果的な還元も存在論的な還元も一緒にして、「還元できる」としてしまったところに一元論の失敗があり、「還元できない」としてしまったところに二元論の失敗があるのだ、とサールは言う。
心は因果的に脳過程に還元できる。つまり、心が心として成立している仕組みは脳過程によって完全に説明することができる。しかし、そこで説明されるは心の三人称的性質でしかない。自分の心を自分で受け止めるというような意味で心の説明ができるわけではなく、他人の心が説明できるというようなレベルの意味でだけ、心が完全に脳過程として説明できるのである。だから、心は存在論的には脳過程には還元できない。脳過程によってすべてを説明しようとしても、一人称的な心の性質はすっぽり抜け落ちてしまうのである。心が赤色を赤色として見るとき、痛みを痛みとして感じるときの、その感じが起こる「仕組み」は脳過程によって説明され得るのだが、その「感じ」そのものは脳過程の説明によっては、これっぽっちも表されないのである。

 

1.5元論

だから、心を分析するときには、この二つの還元があることを受け入れ、心という対象は因果的還元ができるが存在論的還元のできないような存在であることを、正しく理解することによって心身問題は解決することができる。心身問題は一元論でもなく二元論でもないその狭間での分析があることを理解することによってやすやすと解けるのだ。・・・・とサールは言う。

この一元論でも二元論でもない言わば1.5元論というアイデアがとても面白いと、僕はサールを初めて読んだとき素直に思った。でもよくよく考えてみると、これで本当に心身問題を解決したといって良いのだろうかという点で、僕は疑問に思っている。

まだ、サールの「意識の生物学的自然主義」には、有名な思考実験「中国人の部屋」から導かれる「AI意識不可能論」という重要な論点があるので、次節ではこれについてサールの考えを追って、「意識の生物学的自然主義」の全体像を見ることにする。全体像を見た後で僕の反論をしたい。今の僕はいわゆる「1.5元論」にも「AI意識不可能論」にも反対で、サール全否定の立場である。

つづく

<心は実在するか>

« クオリアとゾンビと現象判断のパラドクスがダメなわけ<心は実在するか13> | トップページ | サールの「中国語の部屋」と統語論と意味論<心は実在するか15> »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/548679/58464049

この記事へのトラックバック一覧です: サールの因果的還元と存在論的還元<心は実在するか14>:

« クオリアとゾンビと現象判断のパラドクスがダメなわけ<心は実在するか13> | トップページ | サールの「中国語の部屋」と統語論と意味論<心は実在するか15> »