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2013年10月 7日 (月)

機能主義と唯物論がダメだとされるわけ<心は実在するか11>

機能主義は行動主義や同一説の不備を改修し、唯物論の集大成的な理論となった。しかし、この機能主義に対しても、いくつもの反論が提起されている。本節ではそれらのいくつかを紹介し、機能主義と唯物論がダメだとされるわけを考えたい。僕は実は下に紹介する反機能主義論はどれも反論としてはかならずしも十分に練られているわけではないと考えている。それゆえ、反機能主義論に対するさらなる反・反機能主義論を提起したいと思うのだが、本節ではまず、その元の反機能主義の考え方に沿って紹介し、今回は反論の反論は交えずに考察することにする。ここで紹介する反機能主義論のアイデアや思考実験は、1クオリアの存在、2逆転スペクトル、3哲学ゾンビ、4現象判断のパラドクス、5メアリーの部屋、6コウモリであるとはいかなることか、7中国語の部屋、8中国人民の8つだ。それぞれ、賛同できるか否かを考えながら見てもらいたい。

 

1.クオリアの存在 デイヴィッド・チャーマーズ(1966~)その他多数

心には二つの側面があり、一つの側面は機能的であるが、もう一つの側面は機能的ではないとする。そしてだから、機能主義では心のすべてを語ることができず、機能主義は心の理論として不十分だとして批判するのだ。

「二つのはっきり区別できる心的概念がある。第一は現象的な心的概念。これは意識体験としての心や心の状態に関する概念である。第二は心理学的な心的概念。これは行動に因果関係をつける基盤としての心的概念である。」(チャーマーズ「意識する心」邦訳p.33)
「(意識が)説明に絡まないことから出てくる一番の難問はわれわれ自身の意識体験をわれわれが知っているということである。われわれは自分に意識体験があると判断しているだけではない。明らかに意識体験があると知っているのだ。」(同p.244)
「意識体験には質的な側面がある。ビールを飲むときの質的な感覚がある。これはベートーベンを聴くときの質的な感覚とは全く異なる。意識に備わったこの質的な側面は「クオリア」qualiaと名付けられた。反機能主義の立場からすると、機能主義はクオリアを無視している点で問題である。機能主義は私たちの意識体験の質的な側面をおろそかにしていて、クオリアは機能主義の説明から抜け落ちる。しかし、クオリアは現実に存在する。だから、機能主義の理論は偽だというわけだ。」(サール「マインド」邦訳p.115)

Chalmers_2

機能主義が問題とする心の側面は機能的側面だけある。しかし、機能的でない意識体験としての心の側面が実際にある。この意識体験の現象的な質をクオリアという。ビールを飲んだときの感覚から、機能的な側面をすべてはぎ取ってみる。「のどが潤う」という機能的働きとか「炭酸でシュワシュワする」という機能的働きとか「芳醇な苦みがある」という機能的働きとか、「アルコールで神経がやや緩みかつ同時に神経が昂る」という機能的働きとか、ビールを飲んだことによって起こる因果的な効果の機能的働きをすべて書き上げることができたとする。さらに、「のどが潤った感じがする」という機能的働きとか「炭酸でシュワシュワする感じがする」という機能的働きとか「芳醇な苦みがある感じがする」という機能的働きとか、「アルコールで神経がやや緩みかつ同時に神経が昂っている感じがする」という機能的働きとか、「感じ」に関する機能も含めて、ビールを飲んだことによって起こる因果的な効果の機能的働きをすべて書き上げることまでができたとする。ここで問題となるのは、「感じ」に関する機能まで含めてすべての関連機能を書き出したとしても、そこには書き出されないような、機能的ではない「感じ」そのものが残るのではないかという問いである。そして、どれほど頑張って因果的機能的に捉えようとしても、どれほど言葉で書き連ねようとしても、決して捉えたり書き記したりすることが適わない「感じの質」そのものがあることを、われわれはすでに知っていると言うのだ。
機能的に物理的に還元されない「感じの質」クオリアなるものがあるのだから、機能主義と唯物論は間違いだと言うのである。
これが、クオリアがあること(或いは体験的現象的意識があること)に関しての機能主義批判である。以下、様々な形で機能主義批判のアイデアが出されているが、どれも基本的にはこのクオリアがあることに関しての疑問の変形問題だとも言える。

 

2.逆転スペクトル デイヴィッド・チャーマーズその他多数

私と君は同じように色を識別する。様々な色の板があるなかで赤色を指せと言われれば、二人とも同じ赤板を指す。しかしここで、同じ赤を指している私と君が、まったく違う内的な体験をもっていると考えてみる。つまり、君にとっての「緑が見えている」という体験が私のとっての「赤を見ている」という体験だとするのだ。私と君は色を体験する際にクオリアが反転していると考えるのである。この違いがあることを実際にテストして検出することは不可能である。私と君の内的体験としては違っていたとしても、「社会的に赤い物」を見れば私も君も「赤い」と言うしかなく、僕らができるのは外的機能による弁別でしかない。しかし、テスト検出が不可能だとしても、内的にクオリアが反転していることは「想像可能」であり「論理的に可能」だと、チャーマーズは言う。確かに、僕と他者の赤のクオリアがまったく同じだというのはあまりありそうな話には思えない。色覚が反転するところまでには行かなくても、色覚クオリアが違っているのはあながち無茶なイメージではないように思える。実際にあり得ることなのに、このように色覚クオリアに違いのあることを説明できないから機能主義と唯物論はダメだと言うのだ。(ここではかなり混乱した言い方になってしまっている。次節以降でもう少し整理して考えていくが、この段階では混乱させたまま留めておきたい。)

 

3.哲学ゾンビ デイヴィッド・チャーマーズその他多数

「私の双子の弟のゾンビを考える。この生き物は分子の一粒まで私と同一であり、物理的事実に関して同一でありながら、彼には意識体験が完全に欠けている。今、私は窓の外を眺めて木々に素敵な緑感覚を体験し、チョコバーをかじっておいしい体験をし、右肩に痛みを感じている。このとき、ゾンビの双子には何が起きているか。彼は物理的に私と同一だから、同じように同一の環境に埋め込まれている。彼は間違いなく機能的には私と同一ということになる。同じ情報を処理し、インプットに同じ反応の仕方をして、内部構成はしかるべく変更され、結果として、弟は私と見分けのつかない振舞いをするはずだ。彼は機能的な意味で外の木々を知覚し、心理学的な意味でチョコレートを味わう。彼が私と物理的に同一であるという事実から、機能的な意味で彼に「意識がある」ことにさえなるだろう。彼は眼を覚まし、自分に内的状態がどうであるか報告し、諸々のことができる。こうした機能のどれを見ても本物の意識体験は何一つ伴わないはずで、まさにそこがポイントである。」(チャーマーズ「意識する心」p.129)

クオリアを持たない人間、意識体験を持たない人間がいたとする。このときクオリアや意識体験は機能面から完全に外れた側面での心の質や状態だとしているのだから、外面から機能的にその人がゾンビだということを判断することはできない。ゾンビは物理的自身の内面を振り返って「自分には意識がある」と言い「まざまざとクオリアがある」と言う。物理的現象として完全に自分はゾンビではないと信じている。しかし、彼は実際にはクオリアに欠けているのだ。外的機能によってそれがゾンビであることは弁別できないが、内的体験に欠けていることは「想像可能」であり「論理的に可能」である。機能主義はゾンビの可能性を説明することができない。だから、機能主義と唯物論はダメだと言うのだ。

 

4.現象判断のパラドクス デイヴィッド・チャーマーズ

直接、機能主義を否定する議論ではないのだが、上の二つのアイデアと関連して、クオリアの考察に関しての困難性の例としてチャーマーズの「現象判断のパラドクス」を挙げたい。
現象判断というのは、自分が自分の現象的な体験について某かの判断をするということ。たとえば、「暖かい感じがする」「痛み体験が実際にある」「僕の体験は曰く言い難い」などというような現象体験に関する判断の総称である。この現象判断についてパラドクスがある。とチャーマーズは言う。

「パラドクスは以下の事実によってもたらされる。
(1)物理領域は因果関係に関して閉じている。
(2)意識に関する判断は物理的なものに論理的に付随している。
(3)意識は物理的なものに論理的に付随していない。
(4)われわれはわれわれに意識があることを知っている。」(「意識する心」p.233)

(1)物理領域は因果関係に関して閉じている。機能面から外れた心の側面たとえば現象的意識やクオリアは、機能的因果から外れているがゆえに物理領域と因果的に絡むことができない。飲みたいと思って「その結果」、飲んだとすれば、その時の物理的因果性は心の物理的側面で説明できる。「飲みたい」という脳状態の物理的出来事が物理的原因となって、物理的に「飲む」という物理的変化に表れたのである。その時に同時に物理的側面以外の現象的側面はあるかもしれないが、現象的側面は物理的側面の説明に絡むことはなく、物理的側面は物理的側面だけで説明できる。両者が絡み合うことはなく、「因果関係に関して閉じている」のである。
(2)意識に関する判断は物理的なものに論理的に付随している。自分の意識に関する判断をしてみよう。「夕日が赤い」これは夕日に関する判断で、意識に関する判断ではない。「夕日が赤く見える」や「赤いというのはこんな感じだ」という判断。これなら意識に関する判断である。この「夕日が赤く見える」「赤いというのはこんな感じだ」という判断は上で述べたように、ゾンビでも言えるのだ。物理的に私と同一である双子の弟がいたとすれば、原理的にその弟は、私と同様に「赤いというのはこんな感じだ」と言って感じに関する判断ができるはずだ。そして、その判断は「物理的なものに論理的に付随している」のである。
(3)意識は物理的なものに論理的に付随していない。私の弟のゾンビは私と同様に「赤いというのはこんな感じだ」と言って感じに関する判断ができる。しかし、判断できるだけでその実はクオリアが無いということが「想像可能」であり、「論理的に可能」であるはずだ。だとすると、ゾンビであるか否かという意味での、本来的な意識があるかの問題は、機能面の問題や物理面の問題ではない。現象的で非物理的な側面の問題なのである。だから、「意識は物理的なものに論理的に付随していない。」
(4)われわれはわれわれに意識があることを知っている。で、この四つの命題が反発しあってパラドクスを生む。
僕のパラドクス解消法は、「意識」という用語の意味をしっかりと分析しようとすることだ。でも、それはまた次節以降で紹介したい。みなさんも自分なりの解消方法を考えてみてほしい。

 

5.メアリーの部屋 フランク・ジャクソン(1943~)

メアリーの部屋(或いは「知識論法」)はフランク・ジャクソンがクオリアを検討する中で物理主義・機能主義の批判のために出した思考実験である。

「メアリーは、何らかの理由で白黒のテレビモニターのみを通じて、白黒部屋から世界を調査することを余儀なくされた、輝かしい科学者である。彼女は視覚と神経生理学の専門家で、完熟トマトや空を見たときについて、また「赤」「青」などのような用語を用いるときに何が起きるのかについて、物理的に完全に理解し説明できる。彼女はたとえば、空からの光の波長が網膜を刺激し、前視覚、中枢神経系、肺、声帯での空気の収縮へと通じて、「空が青い」という文を発する過程を解明する。(これらすべての物理情報は白黒テレビのみから得られているということが原則である。)そして、メアリーが白黒の部屋から解放されたり、カラーテレビが与えられたりしたときに何が起きるだろうか。彼女は何かを学ばないだろうか。彼女が、われわれの視覚体験について何かを学ぶことは明らかだ。彼女の知識が不完全だったという結論は避けられない。しかし、彼女はすべての物理情報を持っていたとしていたはずだ。それゆえ、物理主義は偽である。」(フランク・ジャクソン「随伴現象性クオリア」より)

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この思考実験において、
(1)メアリーは完全なる物理的知識を持っていたこと。
(2)メアリーは完全に色彩のない環境で生まれ育ち、色彩を目にする経験がなかったこと。自分の肌の色やシャツの色や鏡の中の瞳の色も色彩として経験しないように特殊ゴーグルをはめていたとするなどの工夫が必要かも知れないが、ともかく色彩の体験がなかったと考える。
(3)そして、メアリーが初めて色彩を体験したときに、彼女は新しい知識を得たと考えられること。
(4)したがって、物理的なことがら以外のことがらが存在する。ゆえに物理主義は偽である。
と考えるのである。
物理的な知識以外の体験的な知識を説明でいないので、機能主義と唯物論はダメだというのである。

 

6.コウモリであるとはいかなることか トマス・ネーゲル(1937~)

「コウモリのソナーが知覚の一形態であることは間違いないとしても、その働き方はわれわれのいかなる感覚器官とも類似していない。ソナーによってコウモリが知覚しているものが、われわれが体験したり想像したりできる何かと似ていると想定する根拠はないのである。」(トマス・ネーゲル「コウモリであるとはいかなることか」より)

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痛み体験についても赤さ体験についても、申し分のない機能的な説明や神経性学的説明や物理的な説明があるとしよう。それでも、その説明は体験的な意識を説明できない。「もしコウモリだったらどんなだろうか」という問題は想像することができ、言葉に表すこともできる。しかし、「コウモリで『ある』とはいかなることか」という問題は想像したり、言葉で答えたりすることが適う可能性はない。客観的な説明は意識の主観的な特徴を説明することができないのだ。客観的な物理的説明だけでは説明しつくせない「主観性」という事柄が存在する。だから、機能主義はダメだというのである。

 

7.中国語の部屋 ジョン・サール(1932~)

一方、サールはコンピュータ機能主義に対して次の思考実験を挙げる。

「ロジャー・シャンク(1946~)はAIの研究で次の主張をしている。人間がストーリーを理解する能力をコンピュータでシミュレートさせる。もし人間が、或るストーリーに対しての質問がストーリーの中ではっきり述べられていないものであっても適切に答えることができるなら、そのストーリーを理解したと言える。シャンクはこの応答をコンピュータが為し得たとき、コンピュータは単に人間の能力をシミュレートするだけでなく、次の2点が主張できるとする。(1)ストーリーを理解した上で質問に答えたと言える。(2)人間がストーリーを理解し質問に答える能力が、コンピュータとそのプログラムによって説明され得る。」

このシャンクの主張に対してサールは中国語の部屋を考える。

「私が一人部屋に閉じ込められて、中国語で書かれた三つの山の本を与えられる。私は中国語を全く知らない。そしてそれら中国語の本を関係づける一組の規則と一組の指示が与えられる。規則と指示は英語で書かれているので私にも理解できる。外の人たちは私の知らないところで1つめの山を「スクリプト」、2つめを「ストーリー」、3つめを「質問」と、そして規則を「プログラム」と呼ぶ。さらに私が3つめの山に対して返答するときに使い記号を「回答」と呼ぶ。私が中国語の記号を指示通りに処理するのがうまくなり、外側から見ると私の回答が中国人と見分けがつかないほどになったとする。外側の視点からは、中国語の質問に対する私の回答は満足のいくものであるが、実際には私は内容を理解することなしに単に記号形式を処理することによって回答を作り出したのである。私が中国語のストーリーを一言も理解していないのは明白である。同様にシャンクのコンピュータもいかなるストーリーもまったく理解してはいない。そして、コンピュータとプログラムは機能しているのであって理解はしていないから、プログラムが人間の理解を説明しているという主張について、コンピュータとプログラムは理解にとっての十分条件にはなっていない。」(サール「心・脳・プログラム」より)

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コンピュータは機能として適切な答えを出すことはできるだろうが、それは理解をしているのではないと言う。
だから、コンピュータ機能主義はダメなのだという。さらにサールは、志向性の無さが理解の無さにつながっているという解説をしている。コンピュータは志向性を持つことはできないのだろうか。また、コンピュータが志向性を持つとは一体いかなる意味なのだろうか。これについても次節以降で考えていきたい。

 

8.中国人民 ネド・ブロック(1942~)

もし中国の人民一人ひとりにニューロンを一つずつシミュレートさせ、彼らに無線によるリンクを装備させてシナプス結合を再現させれば、それで脳の機能構成が出来上がる。しかし、まちがいなくこの奇怪なシステムに意識はないだろうと、ブロックは言う。

Block

もちろん10億のニューロンという数はまるで少なく実際にはその10倍100倍が必要になるがそれは大した問題ではない。脳が機能主義の言うステップを実行するのに対応させて、中国人民にそのステップを実行させる。中国人民が確実にその全ステップを実行して、中国全体として脳の機能を果たせるようになったとしても、そこに意識はあり得ないという。脳機能が働くだけでは意識は説明できないとブロックは主張する。それゆえ、機能主義がダメだというのだ。

 

以上、様々な段階での機能主義批判・唯物論批判を見てきた。次節ではこれらの問題にどう対処するべきかを考えたい。
8つの反論を超える、正しい心の捉え方があるのだろうか。

つづく

<心は実在するか>

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コメント

記事と全く関係のない内容で恐縮なのですが、ブログのレイアウトが崩れているように見えます。
参考として、ブラウザーはIEとchromeでの確認をしました。自分だけでしたらすみません。

haihunさん、ご指摘ありがとうございます。

僕のパソコンからは異常が分からなかったのですが、調整を試みました。まだ、画面レイアウトがおかしかったら教えてください。

今まで通り表示されるようになりました。調整していただいたことが要因かはわかりませんが、ありがとうございました。

横山さんへ

永井さんは、心身問題はなく、在るのは私秘性と公共性の区別であると。永井さんらしいですね。メルロ・ポンティも、孤独と共同性ということを言っているらしいです。私の孤独と言語の共同。心身二元論でもなく、観念論でもない、もちろん唯物論でもない、そんな二元論だと思うんですけど。横山さんは、どう思われますか?

指示・伝達・並列不可能な[固有名を与えられた身体から開けた生]が存在することに対する驚きは、永井均氏の言う 身体や自己意識との関係が偶然的な<この私>~《私一般》なる概念的構成物とは無関係でしょう。
*この文を読む人が自得する他ないのですが・・・

taatooさん、こんばんは。
コメントありがとうございます。

僕はまだ、自分の考えが固まっているわけではないのですが、心の哲学についての今の僕なりの理解はブログ本文に書いていきたいと思っています。まあ、簡単に言うとすれば、「言語ゲーム上での唯物論」です。心身問題は厳密に追究していくと、言語の限界から零れ落ちてしまうのでナンセンスな問題でしかないものになってしまう。って感じです。

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