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2013年9月 4日 (水)

現象的意識と機能的意識<「哲学探究」をまとめました上7>

問題は振出しに戻る

語の意味について、私的クオリアを基準にして語の同一性を捉えることができないと考えて、人の振舞いを同一性の基準にしようとしたのが、同一性に関する考察の第1段だった。
次に、第2段で考えたのが、私的クオリアにおいて根源的な規則性の崩壊によって基準を失うのであれば、振舞いについても根源的な規則性は崩壊してしまい、基準を失ってしまうだろうというものであった。
そして、第3段で、語の同一性を作るのは社会的な訓練と人間の偏見によって、規則を捉えてしまう生来的な性質の因るものだとすることで、規則性の崩壊があっても語の同一性を有意味にすることができると考えた。
…と、前節までで、ここまで考えたのだが、この次に続いて、当然、第4段の考察として、人間の生来的な偏見によって規則を捉えることを認めるのなら、私的クオリアの側だけでも語の同一性を作ることができるのではないか、ということが考えられる。
語の問題は、振出しに戻るのだ。
そこで、本節では、「私的言語擁護論」について再度、検討していきたい。

 

ゾンタークさんの想定

ゾンタークさんからちょうど面白いコメントをいただいたので、これを考える。
「例えば、ある人物が「内的感覚Eを感じた」と主張するとする。確かにそれはただの独断、思い込み、根拠のない言明とも考えられる。しかし、仮に、脳状態の精査によって専門家がその感覚の可能性を認めたとしたらどうか」
この人物は、何ら外的振舞いを見せず、感覚Eについて社会的に語の意味を共有するような訓練ももちろんなく、それゆえ、外的振舞いから規則性を作ることはできない。それでも、内的感覚のみによって、それが「E」であるとして、同一性基準を持ち得るのではないか。以前は私的感覚のみによって同一性は担保できないと結論付けたが、生来的な偏見による同一性の担保が認められるのなら、内的感覚のみによっても、それは可能なはずである。そして、もし外的にその確証を得たいというのなら、脳の物理的状態を調べることによって確認することもできる。脳の物理的状態によって、そこで使われている語の意味の確認をするなら、それはその時点で私的言語ではないとする考え方もあるだろうが、脳によって確認するというのは、副次的な確証作業でしかなく、本来の意味はその内観にあるのだから、「E」は内的感覚のみで意味を持つ私的言語だと言えるのではないか。
(という問題としてゾンタークさんの指摘を読みました。指摘の内容から少しはみ出しているかもしれませんがご了承ください。)

僕はこの疑問について、それは、どういう意味での「私的感覚」であり、どういう意味での「私的言語」なのかをはっきりさせて考え、私的言語はやはり意味を持ちえないことを示したいと思う。

 

現象的意識と機能的意識

ここで、内的感覚に対する意識を、チャーマーズに倣って、「現象的意識」と「機能的意識」に分けて考える。
「現象的意識」とは、世界の立ち現われを感覚的に捉え受け止める意識であり、「機能的意識」とは、世界に対して働き掛け得る機能としての意識である。
たとえば、クオリアは、現象的意識の側において世界の立ち現われが持つ質感である。この区分によると、クオリアは機能を持たない。
たとえば、哲学的ゾンビは、機能的意識は持つが、現象的意識を持たない存在である。
たとえば、赤さに関して「燃えるような色合い」と言ってクオリアの質感を語ろうとしてもうまくいかない。なぜなら、そのような言い方は哲学的ゾンビにもできるからだ。「燃えるような色合い」と言って表現できるのは十分に機能的な内容なのだから、そのような表現を選ばせる意識はクオリアや現象的意識ではなく、機能的意識なのである。

 

スーパー盲

ブロックの思考実験で「スーパー盲」というものがある。現実の一般的な盲人は、呈示された視覚的刺激が何であるか言い当てることはできないが、このスーパー盲人は見えないにもかかわらず正しく言い当てることができる。「水平線が見えない視野にあるのが分かります。ただ実際には見えないんですけどね」と言って、視覚刺激を見ないままに視覚刺激を正しく判断し得る。…というスーパーな盲人の想定である。
このスーパー盲人は、赤い物を呈示されれば「赤」と判断でき、四角い物を呈示されれば「四角」と判断できる。機能的には完全に「見えて」いるのである。しかし現象的にクオリアがない。
ブロックの想定では、この盲人は「実際には見えていない」と言っているが、この語の捉え方は言語ゲーム的な考え方ではおかしい。
すべての視覚的刺激に対する機能で正しい判断ができるのなら、「見える」という言語ゲームにおいてこの人は「実際に正しく見えている」以外の何物でもないはずなのだ。そして、「クオリア」というものを、機能のない、立ち現われの質感のみの現象的なるものと捉えるとすれば、それは言語化できないのだ。だって、機能がないのだから言語ゲームに乗りようがないからだ。

 

再びゾンタークさんの想定

さて、話を戻して、ゾンタークさんの指摘の状況で、この「現象的意識」と「機能的意識」というアイデアを考えるとどうなるか。
ある人物が「内的感覚Eを感じた」と言う。このとき「内的感覚Eを感じた」と判断し得ている意識は、判断と言う機能が有効である限り、機能的判断である。この人物が哲学的ゾンビであって、クオリアを持っていなかったとしても、「内的感覚Eを感じた」という発言はできるのである。
ならば、専門家によってこの人物の脳状態を調べてもらえばいいじゃないか。ダメなのである。なぜなら、脳状態によって調べ得る意識は、断じて、現象的意識ではないからだ。調べられるのは、脳波など、検査によって測り得るものでしかない。機能を測る以外に脳状態を調べることはできないのだ。逆に言うと、調べ得るということは、その意識は機能意識だということなのである。
だから、いくら脳状態を調べても、そいつが哲学的ゾンビでないことは証明できないのだ。いくらいきいきした目つきで表情豊かに内観の存在を訴えていても、そいつが現象的意識を持っていることは、原理的に表現できないのだ。
つまり、この人物が「内的感覚Eを感じた」と言っていても、それはクオリアのことではあり得ないのだ。
しかし、私的言語によって表現したかったのはここで隠れてしまった私的クオリアではなかったのか。それゆえ、ゾンタークさんの想定によっては、私的クオリアを語ることも、私的言語を語ることもできないのである。

 

次節、このアイデアを永井の私的言語擁護論に当てはめて、その誤解の中身を考察する。

つづく

「哲学探究」をまとめました

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コメント

わざわざ取り上げてもらいましてありがとうございます。

実はこの議論を始めるにあたって、科学的な外的基準の問題になることは予感しておりました。 ここでの議論での最大の問題は哲学的ゾンビの扱いだと思います。

哲学的ゾンビと言うのは存在論的にクオリアの欠如を前提としております。
つまりないものはないと言う論理です。一方、認識論的に完全な肉体、神経回路を有しているわけです。
しかし、そのような人間が思考実験という以外に実際に存在し得るでしょうか。
チャーマーズはただ意識のハードプロブレムを強調するために作り上げただけだと思います。
その人間がゾンビであるか否かは認識論的に語るべきではないでしょうか。
横山さんはこの点でダブルスタンダートを取っているように見えます。
言語や身振りと言った外的基準を重視しながら哲学的ゾンビというような超越的な概念を自論のために使用しているからです。
私が最初に持ち出した人間をごく普通の人間とお考えください。意識不明で重態の人間でもありませんし、重症のアルツハイマー病の患者でもありません。
それを哲学的ゾンビの名の元に切り捨てるのは痛い、と訴える患者を、医者がこいつは痛いといってるだけだと考えるのとなんら変わりないのではないでしょうか。
例えば科学理論は完全ではあり得ないとか、外的基準はあくまで外的なものに留まるやはりこいつはそんな能力はあるまいという指摘ならば充分考えうるのです。
しかし、哲学的ゾンビの例は同定能力はおろかクオリアまで否定してしまいます。これは彫刻をする為に斧を用いてすべてをぶち壊すに等しい論法です。

ここでの論点は、外的基準がどこまで有効かという点だと思います。
科学は完全ではありませんし、自分もそこまで専門的なことは知りません。
つまり内観と科学的な外的基準がある程度一致した場合、そこにクオリアの保有やその『可能性』を認めるべきではないかと言いたいわけです。それは新しい種類の言語ゲーム(ルール)と言いえるでしょう。
ヴィトゲンシュタインは議論をわかり易くする為に確信犯的に話を極端化したのではないでしょうか。我々はヴィトゲンシュタインから100年後の世界を生きているわけですから幾らか改訂されてもおかしくないと思います。そこでは内観の同定能力に関しては妥協しますが『言語ゲーム』という枠からはそれ程外れていないのです。
哲学的議論はその時代背景に依存しているのだと自分は考えています。
カントはニュートン的世界観に基づいた哲学を作り上げました、脳科学が発展すればそれに応じた哲学が生まれます。90年代からクオリアが流行したのもそのイージープロブレムに偏りすぎた反動からでしょう。
勿論ヴィトゲンシュタインを根城にして頑張っても面白いとは思いますが結局ヴィトゲンシュタインも当時の科学知識や常識に基づいた時代の産物に過ぎないでしょう。
忘れ去られる所は忘れ去られると思います。言葉とは何を語っているのかをヴィトゲンシュタインの仕事は教えてくれました。適切な『言語ゲーム』によって彼の主張も取捨選択されるではないかと思います。私的感覚の同定能力なんかは枝葉ではないかと自分は思っております。

ゾンタークさん、お名前を読み間違えておりました。たいへん失礼しました。
最近、とみに老眼が激しくなってきまして、細かい文書などを勘に頼って読んでしまうことがあります。申し訳ありませんでした。

また、早速のコメントありがとうございます。とても嬉しく思っています。
謙遜されていますが、科学に造詣があるだけじゃなくて、僕なんかよりずっと哲学にも詳しいのじゃないでしょうか。

さて、ゾンタークさんと僕の主張にずれがあるとすれば、それは私的言語と私的クオリアに対する捉え方の違いに原因があるような気がします。
ゾンタークさんが「内的感覚があると訴える人」の話で主張されているのは、「その人が嘘を言ってるのでも、誤った思い込みをしているのではないという状況は可能であり、内的感覚の存在を正当に主張することはできる」ということではないですか。
実は、僕はその事には全く賛同するのです。
ただし、僕が主張しているのは、「その人が仮に哲学ゾンビであったとしても、内的感覚があると訴えるときには、それは嘘を言ってるのでも、誤った思い込みをしているのではないという状況は可能であり、内的感覚の存在を正当に主張することはできる」ということです。(哲学ゾンビであるか否かはというのは実は言語によって語り得ることではないので、本来はこの言い方は正確ではないと思うのですが僕にはうまく表現できません。ご容赦ください。)
この点で、ゾンタークさんとずれがあるように思います。
この違いによって、例えば僕は永井均の「たとえば私は、外部からそれとわかる脈絡や表出(転んで顔をしかめるとか)といっさい無関係に、自分に向かって断言できる「私がいま感じているのは、私がずっと『痛み』と呼んできたものである」と。「痛み」というだれもが知っている語が使われていてもこれは私的言語である。なぜなら、他の誰がどう言おうとこれは私が「痛み」と呼んできたものだと言っているのだから」(「私・今・そして神」p.197)「私的言語がなければ言語は不可能です。私的言語の可能性が言語にとって不可欠なものに転じることによって言語は完成するのです」(「なぜ意識は実在しないのか」p.36)
という発言が、ゾンタークさんと僕の言ってることのずれを混同していることによる誤解だと考えています。次節でそのあたりを、考察して述べたいと思っています。うまくそのあたりのことを了解してもらえるような説明ができるように努力します。

こんばんは、工藤です。コメントをいくつか。

>しかし、そのような人間が思考実験という以外に実際に存在し得るでしょうか。
チャーマーズはただ意識のハードプロブレムを強調するために作り上げただけだと思います。

哲学的ゾンビなる代物は、他者概念における不可分で相補的な二つの内容的規定
①指示・伝達・並列不可能な一人称的視点を生きる主体としての他者
②認知可能なデータを提供する客体としての他者
と形而上学的様相の自立性(詳細はhttp://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/2013721-a380.htmlのコメント欄をご参照ください)が結び付くことによって生じた概念的構成物に過ぎません。
例えば、「識別不可能とはいえ、他人は①指示・伝達・並列不可能な一人称的生を欠いた ②認知可能なデータを提供するだけのゾンビであり得る!」という想像的思考について考えてみてください。言うまでもないと思いますが、識別不可能→認識論的様相、ゾンビであり得る→形而上学的様相ですね。
付言しますと、我々が存在論的に断絶している(詳細はhttp://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/22k721-7eae.htmlのコメント欄をご参照ください)という前言語的な[事実]が哲学的ゾンビなる想定に或る種のもっともらしさ(の見かけ)を与えているのでしょうが。

>僕が主張しているのは、「その人が仮に哲学ゾンビであったとしても、内的感覚があると訴えるときには、それは嘘を言ってるのでも、誤った思い込みをしているのではないという状況は可能であり、内的感覚の存在を正当に主張することはできる」ということです。(哲学ゾンビであるか否かはというのは実は言語によって語り得ることではないので、本来はこの言い方は正確ではないと思うのですが僕にはうまく表現できません。ご容赦ください。)


二ヶ月前の僕のコメント
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/22k721-7eae.html
を理解して頂けたようで嬉しく思います。


【もし彼が感覚言語一般を習得したと見做し得る諸規準をクリアするならば】、そのとき我々は「或る新しいタイプの感覚(ex. しくさ)を同定した」という彼の【主張】を―件の感覚に【我々が観察可能なものが全く付随していなくとも】―【尊重する】ということは、感覚に関する【言語ゲームの原初的部分】なのである。
―クリプキ『ウィトゲンシュタインと他人の心』

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